桜霞
2023-08-21 01:50:37
70875文字
Public 【twst夢】フライパンは無敵
 

監督生も、俺が守る(フライパンを担ぎながら)

お久しぶりです、こんばちは。どうも、桜霞です。

久しぶりのフライパンシリーズメイン更新です。年単位で滞ってしまったぶん頑張るぞと意気込んだら、なんと6万字を越えてしまいました。Oh……

まあ何がやりたかったかってーと、ツイステでアンブリッジ撃退がやりたかったんです。
相変わらずキャメロットなフライパンが活躍しております。随所に小ネタも仕込んでおりますので、気付いたものがあったらコメントやマシュマロなどで是非教えてください。

頑張ってラストまで書き切りたいです。これからもどうぞ暖かい目で見守ってやってください。









 意識が急浮上する。同時に、ゆさゆさと体を揺さぶられる不快な感覚が眉間に皺を寄せる。
「リンさん、リンさん……!」
 まだ眠っている脳が、それでも聞き覚えのある声だと判断した。ユウの声だ。いつもよりどこか様子がおかしい。
 なかなかくっついて離れない瞼をどうにかこうにか押し上げて、声のした方へ体を向ける。
「なあに……
 なんとか絞り出した声は寝起きで掠れていて、少し高かった。気力で瞬きを繰り返し、暗い部屋に視界を慣れさせる。
「どしたの」
「あの、グリムが、グリムがどこにもいないんです……!」
……
 グリムが。いない。どこにも。
 脳内でユウの言葉を反芻し、それがどういう意味かを考える。
「どっか出かけたんじゃないの……
「夜中ですよ、いつもならぐっすり寝てるはずです! おかしい、今までこんなことなかった……
 ユウが眉を寄せる。丸い瞳がいつも以上に見開かれていて、不安と困惑で揺れている。顔色も、夜闇だからというだけでは理由にならないくらい青い。
 傍で寝ている筈のグリムがちょっといなくなったくらいで、こんなにも狼狽える子だっただろうかと、リンの頭がだんだん動き始めた。
「探しに行かなきゃ、」
「えっ」
 リンが待って、と手を伸ばしたにも関わらず、ユウは身を翻して部屋を飛び出した。ばたばたと足音が遠ざかる。
「ユウ!!」
 リンが慌てて追いかける。階下を覗き込んだ直後、がちゃん、と玄関扉が閉まった。
……
 思わず嘆息する。ベッドから飛び出してちょっと駆け足したせいで、体は少しずつ覚醒しはじめている。睡魔の気怠さは、玄関扉の閉まる音に霧散させられたようだった。
……へい、ゴースト。いま何時」
 嘆息しながらのリンの言葉に、壁からにゅっと生えてきた半透明の体が「1時くらいかな」と告げる。
「グリ坊のやつ、どこ行ったんだか」
「あんた達、誰もグリムが出て行くとこ見てないの」
 ゴーストたちが揃って肩を竦める。リンは再び嘆息した。
「ユウを追いかける。あんた達は森の方を探して」
「あいよ」
 何人かのゴーストがさっと壁を通り抜けて行った。階段を下りていくリンに、ゴーストたちが魔法で浮かせたローブやランタンが着いて行く。さっとローブに袖を通し、リンがランタンを掲げると、ゴーストがぱちんと指を鳴らした。瞬き一つでランタンに火が灯る。
「ありがと」
「気を付けろよ」
 リンは軽く手を振って、急ぎ足で校舎の方へ向かった。途中、ミステリーショップに寄ってサムを叩き起こそうかと思ったが、最後でいいかと後回しにする。今は取る物も取り合えず見切り発車で飛び出してしまったユウが先だ。
 ユウの姿は近くに見えない。学生の足で走ったのなら、そろそろ校舎に辿り着いていてもおかしくはなかった。広いカレッジを効率よく探すために、リンはコロシアムへ向かいながら、鏡舎やグレートセブンの銅像が並んだストリートに「ユウ、どこ」と声を張り上げた。
 夜闇から返事はない。グリムどころかユウまで見失った。木乃伊取りが木乃伊になる前になんとかしなければ。
 ひとまず端から可能性を潰していくことにして、リンはコロシアムまで急いだ。リンの吐く息が闇に白く線を引く。
 コロシアムは常夜灯が着いていて、ランタンがなくとも明るかった。切れた息を整えながら、注意深く辺りを探る。ランタンをかざして遠くを照らした瞬間、不意にリンの視界を横切るものがあった。
「!」
 一瞬で消えた姿に、けれどもおそらくはユウだと確信する。
「ユウ!」
 走って追いかけて、コロシアムの中へ入る。声が届いたのか、通路の先で、ユウが困惑した表情でこちらを振り返っていた。
「リンさん、」
「馬鹿。上着ぐらい着なさい、こんなに冷えて」
 ランタンを持たせ、自分が着ていたローブを着せる。晩冬の空気の冷たさがリンの肌を這ったが、リンは瞬き一つでそれを切り捨てた。
「ほら、帰るよ」
「で、でも、」
 腕を取って引いても、ユウが抵抗する。
「まだ、グリムが……お願いです、ここだけでも探させてください、」
「そうは言ってもね、」
「おねがい、リンさん……
……
 ユウの目は真剣で、彼女の纏う雰囲気は必死だった。彼女の手を引いていたのはリンだったが、今ではユウがリンを引き留めていた。
……しょうがないわね」
 結局、折れたのはリンだった。
「ここを見たら、いったん戻るわよ。寮で少し休んで、状況を整理して、あったかい恰好をして出直す。いいわね」
「───はい。……ありがとうございます」
 ひと呼吸置いて、ユウが息を吐きだした。震えている。強張る程だった手からも余計な力が抜けた。リンがそっと握り直してやると、顔を上げて、ぐ、と口を引き結ぶ。
 ランタンを掲げて、ユウはステージの方へ進んだ。一番開けた場所なので、ここにいてくれたらいいのに、と祈りながら通路を進む。
…………?」
 すると、がり、ごり、と何やら固いものを削るような音が微かに響いてきた。一度立ち止まり、自分たちの足音を消しても、確かにがりごりという音が響いてくる。
 ステージの方に、何かがいる。グリムかもしれない。
 ユウは逸る気持ちを押さえて慎重に歩を進めた。常夜灯があるステージはぼんやりと明るかった。ランタンの光で照らさずとも、その小さな丸い影は、はっきりとステージに浮かび上がっていた。
……グリム……?」
 丸い影が、ごそごそと何かをあさっているようだった。ステージに穴をあけ、中を探っている。がりごりという音に紛れて、羽音のような、雷のような、蹴要しがたい響きが混じっている。ユウは思わず、足を止めた。
……ユウ、ちょっと下がってな。様子がおかしい」
 入れ替わるようにして、リンが前に出る。ユウからランタンを手繰って、リンは獣の唸り声をものともせずに、ゆっくりとステージに近付いた。
 足音か、気配か。リンに気が付いたグリムが、のろりとこちらを顧みる。青い炎が勢いを増し、ばちりと爆ぜた。
……グリム、おまえ」
 光を失った燐色の瞳が眼光鋭くユウ達を捉えた。威嚇のためか、唸り声は大きくなるばかりで、グリムから発せられる殺気が肌を裂くようだった。

「正気じゃ、ないね?」

 ───瞬間、ぞ、と肌の下が粟立った。

「グリム!!」
 咄嗟に叫ぶ。しかし獣は腹の底からがなりながらリンにとびかかった。がしゃん、と音が遅れてユウに届く。リンがランタンを振りかざして爪の攻撃をかわしたのだ。
「リンさん!! やめて、グリムやめて!!」
「ギャッ!!」
「───!!」
 ユウは咄嗟に口を手で覆った。グリムがリンのランタンに吹き飛ばされたのだ。駆け寄ろうとしたユウを、リンの腕が止める。
「グリムが、グリム!!」
「だめだ、私達の手に負えない」
「グリムが、リンさん!!」
 どうして、と縋ろうとしたユウを一喝しようとしたリンはしかし、口を閉じて反射的に視線を走らせた。
 どん、と衝撃がユウを襲う。
「ぐっ……!」
 体を強か地面に打ち付けたユウは、しかし、何かが裂かれた音を聞き逃した。痛む体をなんとか起こそうとして、先に腕を引かれるがままに体が走り出す。
 くそ、とリンが吐き捨てた。流れる景色はあっという間にコロシアムを過ぎて、深い夜の闇に戻っていた。掴まれている腕が痛い。足がもつれて上手く走れないせいで、呼吸が上手くいかない。息が上がって、耳の奥がぎんぎんと痛む。ユウはもう、何も考えられなかった。気が付けばオンボロ寮に辿り着いていて、凄まじい力に部屋へ戻されていた。
「ここにいなさい。いいね」
 ユウが応える前に、リンは部屋を出て行った。扉が閉まった直後、耳鳴りがするほどの静寂が、ユウを襲う。
「───どうして……

 きぃん、

 ……うるさい耳鳴りが、ユウの意識を混濁させた。





 素人がてきとうにまっすぐ縫い合わせただけの袖は、乱暴に引っ張ればあっさりとただの布地に戻った。歯で細く割き、リンはグリムに着けられた傷を手早く縛って止血した。
「リン、戻ってたのか」
 ゴーストが二人ほど戻ってくる。リンはフライパンを取り出し、脇目も振らずに玄関へと戻った。
「ユウは? 見つかったのか」
「部屋にいる。お前は残れ、お前は校長に連絡しろ」
「あ、あぁ……グリム、見つからなかったのか?」
「見つかった」
「、」
 ゴーストたちが顔を見合わせる。リンはさっさと寮を出て、森の方へ向かった。
「待て、リン、」
「正気を失って狂暴化している。人間様に噛みつきやがった。いいか」
 リンが立ち止まる。ゴーストたちは思わず後ずさった。
「クソ烏をなんとしてでも叩き起こしてこう言え───軽傷とは言え怪我人が出ている。明日の総合文化祭を恙なく終えたいのなら、すぐさま応援を寄越せ」
「わ、……わかった……
 普段のリンからは想像もできないほどの険しい顔に、ゴーストたちはたじろぎながらも行動した。ひとりは狂暴化したグリムが寮に戻ってきてしまった時のためのユウの護衛として残り、ひとりはスマホを持っているゴーストのところへ行って、クロウリーに緊急連絡を入れた。





 薄暗い部屋の中、イデアは椅子の上で膝を抱えてオルトから送られてくる映像を確認していた。モニタには赤外線探知が映像化されたものと、昼間のようにはっきりとした映像が二種類、ほぼ同時に再生されていた。オルトの目で撮影した映像を加工して再生しているので、後者の方が弱冠遅れている。
 イデアはグリム捜索よりも動画再生遅延の方が気になったが、たかだか十数分で終えられるクエストにそこまでコストをかけるのもいかがなものかと、怠惰にスナックを齧っていた。ただでさえ真夜中というゴールデンタイムにあんまり面白みのないクエストに駆り出されているので、モチベーションは限りなく低い。
『兄さん、グリムさんと思わしき反応を発見したよ』
「りょ。状態はどんな感じ?」
『恒常値が不明だから何とも言えないけど、バイタルは同程度の大きさの陸生生物、特に哺乳類の平均とそう変わらないように見える。ただ、常に唸り声を上げているみたいだ。警戒態勢に入っている可能性が高いから、即時戦闘になるかも』
「おけ。……大丈夫だと思うけど、気を付けてね」
『うん! まっかせて! ……あ』
「?」
 不意にオルトの視界が少しずれる。同時に、グリム以外の反応を赤外線探知がキャッチした。半瞬遅れて、明瞭に加工された映像の方に、ゴーストを数体引き攣れた女性が映る。
……このひとは……
『氏名:リン 職業:ナイトレイブンカレッジ事務員 年齢:24歳 身長:推定168㎝ 体重……
「オルト!! それ以上はいいから!!」
 オルトが素直に『はーい』と返事をする。イデアはどっと疲れたような気がして、肺が空になるまで溜息をついた。
 二次元の嫁御達でさえ年齢、身長、体重といったパーソナルデータは触れてはならない禁忌とされている。それがリアルなら禁忌どころではすまないかもしれない。イデアは勿論のこと一般的な成人女性とまともに会話をしたことがほとんどないので、どう扱えばいいのか分からないニトロ爆弾的情報には一切触れたくなかった。
「僕みたいなのが女性の個人的なデータを知ったとなれば殺されてもおかしくないよ……危なかった」
『もー、兄さんはまたそんな大げさな』
 ところで、とオルトがイデアのモニタにマップを表示させた。マップには丸いポインタがいくつか転々と配されており、それぞれ「グリム」「オルト」「リン」「ゴースト」と記載されている。
『リンさん、グリムさんを見つけたみたいだ』
「あー……スタッフも捜索してるって言ってたっけ」
『リンさんはオンボロ寮に住んでいるみたいだし、グリムさんのことよく知ってるかも。合流して、情報共有してから捕獲作戦に移る?』
「そうだね……
 その方がいいかな、これ以上赤の他人と関わるの面倒くさすぎるし嫌すぎるけど、しょうがないかな、とイデアがオルトの提案に賛成を返そうとした、その瞬間だった。

『───グリム!! てめぇ、誰に手ェ上げたと思ってやがる!!』

 落雷が、轟いた。
 突如部屋に響いた大音声に、イデアは声なき悲鳴を上げてもんどりうって椅子から転り落ちた。オルトも驚いているのか、送られてくる映像が止まっている。周囲の樹々どころかその空間にいるものすべてが、リンの怒気にあてられて委縮し、身を竦めていた。
『仕置きだ、覚悟しな!! てめぇには城をくれてやる!!』
 リンが何かを振り上げる。モニタの一部が、びかりと光った。かと思えば『ギャン!!』と甚振られた獣の悲鳴が小さく響いて、小さな影が遠くへ飛んで行ってしまう。
「グリム氏ーッ!!」
 映像が加速した。オルトが動いたのだ。数拍もせずに視界が安定し、どうやら気絶しているらしいグリムが映される。
『ターゲット、沈黙を確認。バイタルスキャンを行います。……脈拍、呼吸ともに異常なし。生命活動の維持に支障は見られません』
「エ まじか」
 グリムをあれだけ吹っ飛ばしたのだから、何かしら魔法を使ったものだと思ったのに。怪我がないということは、あの光はなんだったのだろうか。
 オルトの淡々とした事実報告は、イデアを落ち着かせるにはじゅうぶんだった。イデアは机の影からそろりと這い出して、そっと椅子に体育座りをした。
『グリムの捕獲任務を達成しました。管理者へ報告を行います』
「お……おつ、オルト……
『おう、ナイスキャッチだったな』
 フライパンを肩に担いだリンがゴーストと共に映像に映る。
『リンさん! こんばんは』
『はいこんばんは。悪いね、夜中に叩き起こして』
『ううん! 僕は平気だよ。兄さんも夜型人間だし』
 兄さん、とおうむ返しに繰り返したリンがタブレットを見やる。はて、とリンは首を傾げた。
……タブレットの生徒なんていたっけ?』
「タブレットが本体ではござらんが!?」
『あ、そなの? いやあこの世界なんでもありだからさ』
 すまんね、と軽く謝られてしまう。イデアは咄嗟になんと答えたものか、言葉に窮してしまった。その隙に、リンはオルトから「じゃ、これ預かるね」とグリムを取り上げた。
『あ……リンさん、待って! 今は気絶してるけど、目が覚めた時に暴れないとは限らないから、僕が学園長に届けた方が安全じゃ……
『平気だよ、ありがとね。あとは私達に任せて、さっさと寮に戻って寝なさいね。おやすみ』
 この会話はこれでおしまい、とばかりにリンが踵を返す。ゴーストを連れて、リンはあっさりとオンボロ寮の方へ戻ってしまった。
 夜の森に、おやすみなさい、と二つの声が戸惑いがちに響いた。
……戻っておいで、オルト。何はともあれ、任務達成ってことで」
『そう……だね。すぐ戻るよ』
 オルトからの映像が途切れる。嘆息し、イデアはぐったりと椅子にもたれかかった。
「クソ怖すぎでワロエナイが…………あんなのが事務室にいるとか、もう事務室行けないんでつけど……
 未だにリンの怒声が鼓膜を揺らしているような気さえする。イデアはさっさと寝ようとベッドに倒れ込んで、しかし弟が帰ってくるまでは起きていたいな、と、スマホのゲームアプリを立ち上げた。





 オンボロ寮へ戻ったリンは、困った風情のゴーストたちに迎えられた。
「ただいま」
「おぉ、グリ坊、リンもおかえり」
「どうしたのよ、何かあったの」
「いや……それがな」
 ゴーストたちはおろおろしながら顔を見合わせるなり口ごもるなりしていたが、リンが方眉をく、と上げた瞬間に「ユウが出て行っちまったんだ」と吐き出した。
「出て行った? なんで」
「リンとグリムを探しにだよ! ハーツラビュルの、エースとデュースも一緒だったが……
……
 リンは嘆息した。糞餓鬼どもが、低くおどろおどろしい声が地を這う。目の据わったリンに、ゴーストたちは一様に身を竦ませた。
「スマホで呼び戻せ。これは私の部屋に」
「わ、わかった……
 ゴーストの魔法で意識を失ったグリムが浮いて運ばれて行く。リンは腕に巻いていた布を取り払った。傷は赤黒く、血は止まっているように見えたが、今すぐに適切な処置をしなければ悪化するのは間違いないだろう有様だった。うう、とゴーストたちが眉を寄せて身を引く。
 リンは気にも留めずに風呂場へ向かった。冷たい水で傷口を洗い流すと、薄まった赤い血が排水口へと糸を引いていった。
……リン、平気なのかい」
「女がこれくらいの出血と痛みでぎゃあぎゃあ騒ぐかよ」
 吐き捨てるように返された言葉がぴしゃりと水を打つ。気まずそうに視線を逸らしたゴーストたちを鏡越しに見遣って、リンは数度瞬いた。
……すまん、気が立ってる。……談話室で寝るから、毛布出しといてくれ」
「わかった。……無理はするなよ」
「ありがとう」
 ゴーストたちがふよふよと姿を消す。それを見送って、リンはひとつ、溜息をついた。
 腕の痛みに気を取られている場合ではない。未だに血が滲んでいようが、そんなことはどうでもいい。それよりも、グリムだ。ヒポグリフのバックビーグの二の舞にするわけにはいかない。
 リンは風呂に流れた自分の血を洗い流し、ティッシュで傷口を拭いた。オンボロ寮に清潔なタオルやガーゼなんてものは存在しない。保健室に行くべきだと分かっていたが、リンは絶対に保健室へ行きたくなかった。今は正確な診断結果が何よりの敵だ。
 まだ汚れの目立たないタオルを数枚拝借する。鍋に湯を入れて沸かしている間に細く裂き、できるだけ長い包帯を作る。
 湯が湧いたら、裂いた布を鍋の中に沈める。一分ほど煮沸消毒をしたら湯から取り出し、しっかりと絞る。
 本来であれば日光で乾燥させた方が良いが、そうも言っていられない。リンは、ぱくりと割れている肌をできるだけ密着させて傷口を閉じると、即席の包帯できつく縛った。
「リン、」
「ん」
 不意に、ゴーストのうちの一人が姿を見せた。包帯の端を口で咥えているため、まともに喋ることができない。視線だけで促すと、「スマホが鳴っているよ」と差し出される。着信をかけてきているのはクルーウェルのようだった。
 出て、と仕草で指示を出す。ゴーストは慣れた仕草で通話ボタンを押した。
「リンです」
『お前、今どこにいる』
「どこって、それ聞いてどうするつもりですか。夜這いですか?」
『ふざけている場合か』
 クルーウェルの押さえた怒声は、リンをちょっと黙らせるのにはじゅうぶんな効力を発揮した。
……寮に戻ってますよ」
『怪我をしているんだろう。何故保健室に来ない』
「大した事ありません。ちょっと不注意で、暗かったもんですから。木の枝かなんかにひっかけちゃってね。保健室に行って治療してもらうまでのものじゃありませんよ」
 電話口の向こう、クルーウェルが少し息を吐いた。クルーウェルが言葉を選ぶときの癖だ。
 しかし、リンとて折れるつもりはなかった。
『リン。グリムはモンスターだ。人間ではない。獣に類されるものだ』
「部屋で大人しくさせてあります。ゴーストにも見張らせてますから」
『必要なワクチンなどを摂取しているかも分からない。傷口が、お前にどんな影響を与えるかも分からないんだぞ』
「犬に嚙まれたわけじゃあるまいし」
『リン、』
「ねえ、ミスター・クルーウェル」
 リンは、語気を強くした。
「私の、不注意で、私が、勝手に、怪我をしたの。グリムに傷つけられたわけじゃない」
…………
 クルーウェルが押し黙る。リンも沈黙を貫いた。
 やがて先に折れたのは、クルーウェルの方だった。
……そういうことにしておいてやる』唸りながら、クルーウェルは言葉を続けた。『ただし、あとでサムに治療キットを届けさせる。怪我をしているには違いないらしいからな。きちんと治すように』
「イエス・サー」
 通話を終えて、リンはやれやれと溜息を着いた。ちょうどそこで、がちゃがちゃと玄関辺りで音が響く。よっこらせと立ち上がって様子を見に行くと、エースとデュースがユウを送ってきてくれたところだった。
「三人とも」
「あ、リンさん」
「悪いね、夜分遅く」
「や、全然! えっと、グリムは……
「寝てるよ。大して暴れなかったからね。シュラウド兄弟っていう、イグニハイドのメンバーが上手く魔法で眠らせてくれてさ」
 リンの言葉に、学生たちは揃って安堵の息をつき、ゴーストたちは思わず顔を見合わせた。
「よかった……
 目を潤ませるユウの肩をデュースが軽く叩き、エースが頭をくしゃくしゃにした。リンも優しく微笑みながら、話を続けた。
「ただ、しばらくは様子見だ。目が覚めた時に冷静じゃない可能性もあるからね。気を失っている間にいろいろ調べてもらうために先生たちに預けるかもしれないが……ま、今日はひと段落だ。さっさと部屋に戻って寝ちまいな」
 はあい、三者三様の返事が揃う。それじゃあおやすみ、と言いかけたところで、はた、とデュースが瞬いた。
「リンさん、その腕……
「あぁ、これ? グリムを探してたときに森でね、ちょっとうっかり、ぱっくりやっちまって」
「、え」
「うっわぁ、いたそー……
 エースがまるで我が事のように顔を歪めた。デュースは心配そうに眉を寄せて、「僕、必要なら縫いますけど」と申し出た。
「いいよいいよ、見た目が派手なだけでね、大した怪我じゃないから。あとでクルーウェル先生が治療キット持ってきてくれるし」
 本当に大したことじゃないからね、とリンがふざけて腕拳を作って見せる。エースとデュースは尚も心配そうだったが、最後には「まぁ、リンさんだしな」と歩先を外へ向けた。
「じゃ、俺ら戻るわ。おやすみ。リンさんはお大事にね」
「おやすみなさい。何か困った事あったら、いつでも手伝うんで! ユウも、しっかり休めよ」
「ありがとね。おやすみ」
「おやすみ、ふたりとも。今日はありがとう」
 手を振った二人がこちらに背を向ける。玄関扉が音を立てながらも静かに閉まり、ユウはリンに促されて、部屋への階段を上がった。
……あの、リンさん。その、腕……
「グリムのためを思うなら、私に合わせなさい」
「、」
 先程までとは別人のような静かな声に、思わずユウの肩が強張る。
「いいね」
 ユウは、思わず生唾を呑み込んだ。なんとか絞り出した、はい、という返事は、どこか頼りなさげに震えていた。





 明くる日、総合文化祭は予定通り執り行われた。ステージに空いていた穴も、おそらくは床を汚していただろうリンの血も、何事も無かったかのように消え去っていた。ユウは、後からゴーストたちがリンに言われて魔法でどうにかしたのだと、何とはなしに察した。
 グリムは目を醒まさなかったので、未だリンの部屋にいて、ゴーストが見張りについている。クロウリーが学園側に引き渡すようにリンに言ったが、「目が覚めてからでも良いでしょう」と頑として譲らなかった。
 生徒たちにもグリムの様子がおかしかったらしいという話は伝わったらしく、NRCトライブのメンバーがわざわざ見舞いに訪れてくれた。
「すまないね、あなたへの挨拶がてら、ヴィルも来たがっていたんだが、昨日の今日だから休ませたんだ」
 副寮長のルークは、帽子を胸に当てて謝意を示すほどだった。
「そりゃ、ステージの後だからというのは分かるが……胃もたれか? お粥でも作ってってやろうか」
「Oh La La! Merci、 Mademoiselle.だが今回はその心遣いだけいただいておこう。今のヴィルに必要な優しさは、彼の精神……心に向けられるべきだからね」
……ふむ?」
 一ステージでの敗北を、そこまで引きずるタチには見えなかったが。
 リンの無言の疑問を感じ取ったのか、ルークはさりげなくリンに身を寄せ、「お耳を拝借」と帽子で口元を隠した。
 実はね、とルークがコソコソ明かした、ヴィルのオーバーブロットという新事実に、リンは目を眇めて口をへの字に曲げ、「その状態で一票差に持っていくとか、実質勝ちだろ」と呻くのを堪えられなかった。ルークはちょっと瞠目したが、やがて嬉しそうに微笑んだ。





 ◆     ◆     ◆





 グリムが目覚めないまま、日常が戻ってきた。
 文化祭の後片付けをしながら通常授業が少しずつ始まり、祭りが終わった清々しい達成感と少しの疲労が、繰り返される日々の倦怠感に変わりつつある、そんな日だった。
「では、その腕は本当に木の枝にひっかけただけだと」
「はい、そうです」
 学園長室に呼び出されたにも関わらず、堂々しらっと言い切ったリンに、クロウリーは遠慮子爵なしに特大の溜息をついた。
「まったく、あなたの頑固さには頭が上がりませんね!! 養護担当の診断がなければ労災もおりませんよ、いいんですね!?」
「構いません」
「はぁ〜っ……
 リンの腕は未だ包帯で巻かれていた。血は止まり、化膿もしなかったが、リンが頑なに公的な治療を拒み続けているので、回復は遅々としたもので、稀に熱を持つこともあった。
「痕が残る可能性もあるぞ。本当にいいんだな」
「安いものね」
 飄々と言うリンに、クルーウェルもこめかみを抑えて嘆息した。事実上の敗北宣言である。
……これ以上、怪我が悪化するようなことがないように気をつけなさい。生徒の命は大事だが、だからと言って君がその腕を対価に差し出す必要はない。分かっているね」
 トレインが厳かに諭す。リンは大人しく「はあい」と良い子の返事をした。
 グリムはモンスターである。人間ではない。人語を操り、人間との意思疎通が可能であり、生活を共にしているが、人間ではないのだ。
 そして人間社会は、人間に対して牙を剥く生き物に対して情け容赦がない。その獣が特定の誰かにとってのかけがえのない家族でも、一度人間に対して牙を剥けば、殺処分の可能性は免れない。
 知性があると言うだけで、人間社会にのみ用意された罪を赦すためのシステムが、グリムに適用されるとは考えにくかった。
 だからリンは「木の枝で引っかけた」と主張した。養護担当が公的に「これは動物か何かの爪で付けられた傷です」と判断するのが一番まずいから保健室にも行かなかった。教員たちは味方になってくれるだろうが、学園という生徒の安全がまず第一に保証されなければならない場所で、生徒たちに危険が及ぶ可能性のあるモンスターを庇っていたということが明るみになった時のことを考えると、リスクが大きすぎる。
 普段からヤンチャをやらかす生徒のせいでスタッフが捜索に駆り出され、本人の不注意で怪我をしてしまった。それ以上のことは何もなかったわ、というのが、関係者全員にとっての真実でなければならないのだ。
「では、リンさんはもう戻ってもらって結構ですよ。仕事中、呼び出してしまって申し訳ありませんでしたね」
「とんでもありません。それじゃ、失礼します」
「はい、お大事に」
 一礼したリンが、学園長室の扉に手をかける。直後、リンがドアノブを回すより早く、───衝撃が、学園を襲った。
「おわっ!?」
「えっ、地震!? いや違う!?」
 違うな、地面からの揺れじゃない、とリンは咄嗟に判断した。窓の外から、分厚いガラスを何枚もまとめて割ったような、バリン、という音が何度も衝撃を生んでいる。
 間を置かず、勢いよく学園長室の扉が開け放たれた。近くにいたリンは驚いてたたらを踏みながら後ずさった。学園長室のざわめきを気にせず堂々部屋へ入って来たのは、全身を揃いのボディスーツで固めた男たちだった。
「貴様ら、何者だ! 誰の許可を経て学園内へ?」
 トレインの誰何に、男たちは機械を通したような声で淡々と答えた。
「我々は『S.T.Y.X.』所属、特別魔道警備班・『カローン』」
「───!!」
 部屋が息を呑む。唯一話についていけていないリンは、とりあえず神妙な顔を取り繕った。どうやら警察系の組織であるらしい。『S.T.Y.X.』の、『カローン』が一体何故ここに、というざわめきをものともせず、オールのようなものを構え、班員の一人が前に出た。
「ナイトレイブンカレッジの総責任者、ディア・クロウリー氏だな。ご同行願おう」
……わかりました。従います。ですから、生徒たちに手荒な真似はしないで頂けますか?」
「同行に抵抗を見せた場合、強硬手段も許可されている」
…………誰も怪我をしていないと良いのですが」
 いやあ誰も彼も怪我をしているだろうなあ今頃、と教員及びスタッフは思った。
 血の気の多い生徒たちのことである。突然こんなのが学園に襲撃してきて抵抗しない生徒たちなど数えるほどしかいないだろう。
「トレイン先生。後を頼みましたよ」
「!! 学園長……!?」
 お待ちください、と追いかけるトレインを、他の班員が制す。かと思いきや、また別の班員が一歩前に進み出た。
「異世界人のリンとは、貴様のことだな」
「───えっ」
 リンは思わず、自分で自分を指さした。
「わ、わたし?」
「ご同行願おう」
「えっ、いや私、なんで、」
「待て。彼女は一介の事務員だ。何故同行の必要がある」
「学園長で足らないのなら、私が」
 魔道具らしいオールの先がリンと教員たちに向けられ、バチリと爆ぜた。
……
 張り詰めた糸のような緊張が走った。何かのきっかけでそれらが弾けて、今にも魔法が銃弾のように飛び交いそうだった。
 唾を呑む。カローンたちは問答無用と示していた。
 リンはそろそろと両手を上げて、ホールドアップの姿勢を取った。
「リン、」
「生徒たちをお願いします」
 短く素早い言葉たちは、カローンのボディスーツが立てるガシャガシャという音にところどころ掻き消された。竦む手足になんとか言うことを聞かせ、リンはカローンに促されるまま、小さな船で学園を後にすることになった。





「あら、ついてきちゃったんですか」
……正確にはついてこさせられた、ですけど……
 小さな船から大きな船に乗り移り、知らぬ空港らしき場所に着陸し、カローンに囲まれたまま関係者用らしい通路を促されるまま歩き、車に乗せられて、辿り着いた建物の一室で、リンはようやくクロウリーと再会した。
 部屋は広く、足元は絨毯が敷き詰められていた。ともすればどこぞの美術館の一室と紹介されても納得できてしまいそうなほど、壁や柱に細かな装飾が施されており、天井にまで絵画が描かれている。カローンから引き継がれたのか、この建物のスタッフらしき人物に勧められた椅子は豪奢なソファで、座る前からふわふわのクッションであろうことが見てとれた。
 クロウリーはたじろぐでもなく優雅にソファに座り、魔法のティーポットが給仕する茶を余裕綽々としばいている。リンはそろりと腰掛けて、目の前にするりと滑り込んできたティーカップとソーサーをひとまず手に取ることにした。すぐさまティーポットが飛んできて、湯気の立つ紅茶を注いでくれる。
「どうも……
 礼を言うと、ティーポットは自分の蓋を器用に外して会釈までして見せた。気のいいティーポットだな、とリンは一瞬現実から逃避した。
「それで、あの、先生」
「はい、なんでしょう」
「聞きたいことが色々あるんですが、まずここはどこですか」
「黎明の国の教育省ですね」
「はあ、教育省」
 そりゃまたとんでもないところに連れてこられたな、とリンは先ほどのカローンを思い出した。
「素人目にもめちゃくちゃ武装してる一個団体を抱えてるんですか、この国の教育省は」
「カローンのことですか? あれはどこの国にも属さない団体の、武力集団のようなものですよ」
 そういえば、スティークスだのなんだと名乗っていたのを思い出す。リンは素直に「スティークスってなんですか?」と聞いた。
「ステュークスですね。どの国にも属さない非政府組織です」
「へーかっけえ」
「本音のところは?」
「胡散くせー」
「立派な研究機関ですよ」
 リンは、クロウリーが自身を立派な学園長だと宣うところを想像してみた。全くもって、胡散臭さは晴れなかった。
「古からブロットの研究を続けている研究所です。昔はオーバーブロットあるところ『S.T.Y.X.』の『渡し守』ありと言われるほどでしたからね」
「わたしもり?」
「カローンのことです。オーバーブロットした魔法士を連行する様が、まるであの世とこの世の堺の川を渡す船守のようだと誰かが揶揄したことからこのような俗称がついたと言われていますが、真偽は定かではありません」
 へえ、と相槌を打ちながら、世界が違っても現世と幽世の境界を引くのは川なのだな、とリンは妙な感慨を覚えた。
「研究のためにオーバーブロットした魔法士を回収してたんですか?」
「それ以上に、オーバーブロットした魔法士は災害と変わりませんからね。周囲への被害を最小限に留める目的もあります」
……それじゃあ、どうして今になって学園に来たんです」
「さて」
 ティーポットにもう結構ですよと手で示して、クロウリーは長い足を組み替えた。
「どうしてでしょうねエ」
 嘆息しながらの言葉は、後に続かない。リンもそれ以上の言葉を持たなかった。
 ナイトレイブンカレッジでのオーバーブロットは、リドルを契機とするなら半年ほど前から断続的に発生している。
 リドルの時は結界に閉ざされた学園内の、しかも位相が違うという寮内で発生したものだから、カローン、或いはS.T.Y.X.の探査網に引っ掛からなかったのも頷ける。レオナ、アズール、そしてジャミルの場合も、これと同様のことが言える。
 しかし、ヴィルの場合は野外のステージで、学外関係者でない人間も学園内に大勢が来園していた。いくら結界があるとはいえ、これだけ魔法の発展した世界なら各国主要都市や重要拠点に魔法の結界が施されていないとは考えにくい。その拠点内でオーバーブロットが発生しない格率がゼロではない以上、ある程度はS.T.Y.X.の探査網に引っ掛かるようになっているはず。ヴィルのオーバーブロットの際に、カローンが襲撃、ではなかった出動をしてこなかったのはおかしい。タイムラグがありすぎる。ヴィルは既に学園内に常駐している養護担当員とカウンセラーにより全快の判断をされているはずで、それは学園長以上の上層部にも報告されているはずだった。

 ───……よほど取り返しの付かなくなった……生徒たちの魔法如きでは抑えられなくなった場合にのみ出動するとか……

 リンの推測が正しいならば、今回の襲撃、ないし出動は、さらに疑問点を増やすことになる。
 何故、今になって。
 そして、何故、ここまで暴力的に?
 リドルの件からヴィルの件まで、オーバーブロットは既に解決した事象として報告されている。予後調査を実施したいのであれば事前に通達し、調査員を派遣すればいい。何も結界をぶち破って学園に侵入し、抵抗すれば暴力も已むなし、とする必要はない。
 そこまで考えて、リンは目の前のクロウリーを見た。

 ───なるほど、何事か隠しそうだ。

 クロウリーはキョトンとしている。それでも漂うそこはかとない胡散臭さ。これでは上層部の信用などまともに得られまい。リンは内心何度も頷いた。
 こういうところには予想外のところから斜め上の衝撃を与えて狼狽させている隙に、カウンター攻撃を用意させる暇を与えず脇腹をちょいちょい突いて踊らせるのが一番手っ取り早いのだ。そううればあらぬところからポロッと色々出てくるものである。

 ───まあ今回は私も脇腹を突かれるらしいが……

 痛い腹と言えばグリムに負わされた怪我くらいのものである。これは気が重いな、とリンは椅子の背にもたれて一息ついた。一口も口をつけられていない紅茶は、すっかり冷めてしまっていた。





 先にスタッフに連れて行かれたのはクロウリーだった。
 豪奢な部屋に一人残されたリンは、突然目の前に車椅子に座った小綺麗なお婆さんが現れませんようにと祈った。気を抜けばマンダラケ人間や星の子に取り囲まれそうで怖かった。こんな異質な空間で「ほっといて、ほっといて、死にたいのに」なんて歌われたら気が狂う。
 どうやら精神的に参り始めているらしいリンの様子を察したのか、ティーポットが仕切りに紅茶を勧めてきたが、リンは「悪いわね」と取り合わなかった。紅茶よりも愛飲している煙草の方が恋しかった。
 やがてリンを訪ったのは、たっぷりとした紺色の長髪を腰まで揺蕩わせている妖艶な女性だった。リンを見とめてニコ! と笑った表情はあどけなく、少女らしさもあったが、口を開けばどこかしっとりとした柔らかな声音が「ごきげんよう」と艶ややかな音を紡いだ。

 ───……この女……

 リンも微笑んでご機嫌よう、と返した。
「お待たせして申し訳ありません、異郷の方。どうぞこちらへ」
 ゆったりとした服をしとやかに纏い、彼女は数歩リンの先を歩いた。
「わたくし、ヴィオレッタと申します。お名前をお伺いしても?」
「リンと申します」
「リンさま。可愛らしいお名前」
 静かにはしゃぐ様は、どこか庇護欲をくすぐるものがある。リンは微笑を崩さなかった。
「異郷の方とおっしゃるから、わたくし、もっと変わった方がいらっしゃるのかと。こんな言い方失礼かもしれませんが、どこにでもいそうな普通の方で安心しました」
「そうですか」
 リンは短く、それだけを返した。
「さ、どうぞ、お入りになって」
 通された部屋には机が二つ、一つは窓側に、一つは部屋の中央に置かれていた。中央の椅子を挟むようにして椅子が一つずつ置いてある。
「ありがとう、ミス・ヴィオレッタ。ご苦労様、休んでいてくれて構わないよ」
「はい、ミスタ・ガリブル。ありがとうございます」
 ガリブルと呼ばれた男は満足そうに笑みを深めてヴィオレッタを見送り、「座りたまえ」しかめつらしい声で言った。これで威厳を保たせようとしているなら、先ほどのヴィオレッタに向けた猫撫で声だけでマイナス大赤字である。リンは半眼になるのを堪えきれなかった。
「さて、名前の確認をさせてもらおう」
「リンです」
「歳は」
「24です。もうすぐ25」
「それはおめでとう。性別は?」
「女性です」
 書類を確認していたガリブルが視線だけをこちらに向ける。言いようのない気持ち悪さを感じながら、「シスジェンダーです」リンは短く付け加えた。ガブリルはすぐに視線を書類に戻した。
「ガリブルだ。指導部管理課の課長を勤めている。好きなように呼んでくれ」
「ありがとうございます」
「早速だが、君は異世界から来たとか」
「はい」
「精神鑑定は受けたかね?」
 リンは一瞬押し黙った。
「学園指定のカウンセラーに精神疾患の予兆は無し、と認めていただきました」
「そのようだ。それにしても、随分と小綺麗だね。生活に余裕はあるのかい?」
 舐め回すような視線を隠す気ねえのか、このおっさん。リンは微笑を絶やさずに淡々と答えた。
……いいえ。服や化粧品に関しては学園に寄付していただきました」
「なるほど」
 ガリブルはサラサラと何事か書類に書きつけた。
「その腕は?」
「少し不注意で。森を歩いているときに切ってしまって。見た目こそ大仰ですが大したことございません」
「労災の申請はしたかね」
「業務時間外でしたから」
「ふむ」
 ガリブルは書類を横に置き、テーブルに肘をついて手を組んだ。ほんの少しだけ、リンの方に身を乗り出す。
「学園内でオーバーブロットという現象が多発していることは、勿論知っているね」
「はい」
「君自身に関わりはあったかね?」
……と、申しますと?」
 瞬いたリンが、小首を傾げる。ガリブルは一つ鼻を鳴らし、「リドル・ローズハートとはオーバーブロット発生時、どの程度の関りが?」わざとらしく、ゆっくりと言い直した。

 ───なるほど、私が疑われているのか

 痛む腹はとうに過ぎた。リンは何かを思い出そうとする仕草をしながら、ゆったりと足を組み替えた。ガリブルの視線が足に落ち、またリンの顔に戻る。
「リドルのオーバーブロットは九月頃でしたね。その頃は学園に……この世界に来たばかりで、右も左も覚束ない有様で……本人と直接話したのは状況が終了してからです」
……なるほど」
「レオナのときは……たぶん、事務連絡を何度か。でも、そのくらいですね。アズールは……彼が経営する店には足を運んだことがあったと思いますけど……あぁ、キッチンスタッフとしてスカウトされましたが、私の方で飲食業にあまりいい思い出はなくて。お断りして……ジャミルのときも、冬に寮生が大勢帰宅しないと言うので、事務連絡のやり取りをしたような気がしますが……その程度のものですね」
…………そうか」
 実際はその程度のものでは収まらないくらいの交流があるが、オーバーブロットが発生した当時、または発生する前の関りなんぞこんなもんであるには違いないので、嘘は言っていない。ガリブルはどこか不満そうだったが、リンはこの質問になんの意図が含まれているのか分かっていない馬鹿な女のフリをし続けた。
「個人的な付き合いも無いと」
「ありませんよ」
 嘘である。めちゃくちゃ飯と寝る部屋を提供しているし、なんならそのうちのひとりとは酒を酌み交わす仲である。しかしリンはしらを切り続けた。
「ああ、ヴィルは違いましたね」
「!」
 ガリブルの目の色が変わる。
「ちょっと前に、文化祭があったでしょう。VDCに出場するための合宿がしたいと言うので、今は使われていない寮で寮母のようなことをしました」
…………そうか」
 がっかり、とでも言いたげに肩が落ちる。あからさますぎるなあ、とリンはいっそガリブルのことが心配になった。
「では、オーバーブロットの原因に心当たりは無いということでいいかな」
「ええ、魔法に関しては門外漢ですし。当時の詳細な状況や魔法士達の精神状態のことについても、噂をまた聞きした程度のものしか知りませんから。お役に立てず、申し訳ありません」
「いやいや、きみが気にすることではないとも」
 ちょっと眉を寄せてしおらしく頭を下げるなどすると、ガリブルはすぐに声色を変えた。
「しかし、こうも立て続けに起こるとね。我々としても調査をせざるを得ない」
「はぁ……初回のオーバーブロットが発生してもうすぐ半年経過するのに、ですか」
「半年しか経っていないのに五回も発生しているから、だよ」
 君は知らないかもしれないが、これは非常に稀で珍しい事なんだ、歴史上類を見ない、などとガリブルが大仰に説明する。
 脈絡もなく、筋も通っていない。まったく論理的ではない説明の仕方は、誰かの受け売りのようだった。はぁ、とリンは生返事をして、心底不思議そうに首を傾げた。
「お言葉を返すようですが、二度目か三度目あたりで、調査は必要ないと判断した旨の通達をそちらから頂いている筈ですが」
「、……
「流石の四度目は冬期休暇を利用して調査団を派遣する運びになりかけたときが一度ありましたよね? でもそれも確か、ネットの炎上ですぐに立ち消えになってしまって……そうこうしている間に総合文化祭の季節になったので、それどころではない、NRCほどの学園ならば問題なかろう、というお話でしたが……何故急に調査を?」
…………
「百歩譲って、ヴィル・シェーンハイトの経過観察書類が提出されていないのならば、分からない話ではありませんが……とっくに受理されていますよね? 彼の周囲の授業環境についてもまとめたものをお渡ししているはずです。何か不備がありましたか?」
 ガリブルは黙りこくった。しかし何も言わないのは都合が悪いと思ってはいるのか、先程からしきりに何かを口にしようとして閉じるのを繰り返している。
 攻め手を間違えた敵にかけてやる情けなど、リンには持ち合わせがない。容赦無くカウンターを食らわせるのみである。
「結界をぶち破ってまで、今更、カローンなんぞを差し向ける必要性を合理的に説明頂きたい。こちらには警告さえ発されなかった。混乱の中抵抗しなかった生徒達がいないとは限りません。守るべき生徒に武器を向けて、何が教育省ですか。それともこれが指導部のやり方だとでも?」
「ッ…………!!」
「───いったい誰から、どういう指示が出ていたんです?」

 がちゃり。

 失礼いたします、とたおやかな声が、固い空気を柔らかく撫でていく。
「お茶をお持ち致しました。お客様がいらしているのに、気が利かなくって……
 ごめんなさいね。形の良い眉が、はんなりと下げられる。
……どうぞお構いなく」
「いや! いや、いや、ありがとう、ヴィオレッタ。いい香りだね。君の紅茶が一番美味しそうな香りがする」
「ま! お上手、ミスタ」
…………
 リンはニコ! と微笑んだ。一体何を見せられているんだとは、おくびにも顔に出さなかった。





 リンがクロウリーと再会できたのは、翌々日になってからのことだった。
 黎明の国に連れて来られたその日に介抱されると思いきや、指定のホテルに半ば軟禁されてしまった。しかも国会指定のホテルである。教育省どころの騒ぎではない。国指定故設備もサービスも行き届いているが、常々監視の目も行き届いているのには辟易した。
 一夜明けて、スタッフたちの会話から、どうやらクロウリーは国のお偉いさんたちに捕まっているらしいことが判明した。どうも同じホテルに滞在しているらしく、リンはクロウリーに対して聴取をしに来たらしい識者に上野動物園のパンダ宜しく何度か突撃されることもあった。やはり異世界人と言うのは珍しい生き物らしく、しかし皆リンがただの一般人であることを悟ると、早々に興味を失って本来の仕事であるクロウリーの元へと去って行った。
「いやあ、散々な目に遭いましたよ、まったく」
 賢者の島への船に乗って早々、クロウリーは愚痴を吐いた。
「リンさんも何事か取り調べを受けたでしょう。特に生活環境について、何かひどいことを吹き込んではいないでしょうね」
「学園からの寄付で日々何とか生きておりますとお伝えしましたよ」
 口をへの字にして言ったリンに、クロウリーは満足そうに「よろしい」と頷いた。
 一応の部下であるリンに対して、再会していの一番にかける言葉が迷惑をかけてすまないだの、大丈夫だったかだの、謝罪や心配といったものではなく、クロウリーが不利になるような証言をしていないかどうかとの確認とは、まったく恐れ入る。リンは呆れた表情を隠さなかった。
「私の世界に魔法がなかったことに感謝してくださいよ。もし私に何らかの力があったら、全部私達のせいにする勢いだったじゃありませんか」
「マ、それならそれで、我々にとって損はないんですけどね」
「あ゛?」
「やだなあ、冗談ですよ、ジョーダン!」
 それはそれとして、とクロウリーは無理やり話を入れ替えた。
「確かに、リンさんの言う通り、オーバーブロットの発生を何かのせいにしたがっている、という空気感はありましたね。今までの書類や対処内容に不備はなかったはずですが……
 そもそも、オーバーブロットについて公開されている内容なぞたかが知れてますしねえ、とクロウリーがぼやく。
 確かに、クロウリーの言葉は正しかった。
 オーバーブロットが発生した場合は速やかにこれを無力化。手段は問わない。ただし、生命の危機にさらされない程度に抑制する必要はある。
 魔法士を無力化した後は適切な治療が受けられる医療機関へ救急搬送。以降は資格のある医者、またはそれらに準ずるものが必要な治療を施し、経過観察を行い、魔法士の身辺や最近の動向を調査した上で、カウンセリングを実施。身体的、精神的に健康であると認められれば、晴れて復帰が認められる。
 根本的な原因と対処法などについては、S.T.Y.X.にて研究中───と、されている。
……最近、黎明の国周りで、魔法士が関わることで、何か政治的なことがありましたか?」
「? さて。新聞やネットニュースなどを確認すればわかるかもしれませんが……何故そんなことが気になるんです」
 水平線と空を眺めながら、リンは淡々と言った。
「国会が動くってことは、オーバーブロットの発生原因が必要になる何かが政治経済にあるんでしょ」
「なるほど……
 にやり、クロウリーが嗤う。
「あなた一体、何を聞きだしたんです?」
「あともうちょっとのところで邪魔が入ったんで、なーんにも」
「あら残念」
「ま、誰かの指示ではあるんでしょうよ」
「それが誰か、が問題ですねェ」
「どうせ心当たりがあるんでしょ、たくさん」
「はてさて、一体なんのことやら」
 飄々と嘯くクロウリーを、リンが鼻で笑う。波間に響く船の汽笛が、リンの半眼を波間の向こうへ追いやって行った。