望月 鏡翠
2025-01-22 00:26:06
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そして、彼の地に骨を埋めた。

首飾り/箪笥/幸い/花


 風のない静かな夜、 池の表面は鏡のように静かだ。
 時折水面がぬらぬらと揺れるのは、鯉が鰭を緩やかに動かすからなのだろう。世闇の中では、錦鯉の鮮やかさも関係がない。冬が近づき、魚たちの動きもまた鈍くなっていた。
 巡回の兵に、鯉の彩りや庭の造りを愛でる風雅の心はない。毎日のように同じ場所を歩いて、季節とともに移ろっていく景色に心は動かない。
 広い庭の見回りに出る度に、故郷の畑の大きさと比べてしまった。
 水を引くことができる平らな土地。日差しを遮る山はなく、周囲に兵が居るから獣害もなく、さぞいい畑になるだろう。しかし、王とその客人を楽しませるために作られた庭で作物を育てたいなど、口にすれば刎頚ものだ。
 兵の故郷は、山間にあった。
 税が変わったり統治者が入れ替わったりしたときだけ、存在を思い出されて使者がやってくるような僻地の貧しい村だ。
 彼らの長旅にうんざりした顔を、よく覚えている。
 高い山に囲まれているせいで、陽が出るのは遅く沈むのは早い土地だった。今の時期は、もう池に氷が張っていることだろう。都は、朝晩にぐっと冷え込むが、まだ水が凍るほどではない。
 長年暮らすうちにすっかりと体がこの土地に馴染んだようで、来たばかりの頃はこの程度と感じていたはずの寒さが骨身に染みるようになっていた。
 寒空の下では、携えた灯りの火すら貴重なぬくもりだ。
 交代までの時間、懐に入れた温石懐炉だけでは心許なく、芯まで冷えていく。
 寒空の下、一人でいると無性に故郷のことが思い出される。
 貧しく寒い家だったはずなのに、暖かい場所だったような気がしてくるのだ。冬になると雪が音を吸い込むが、静かではなかった。冬の辛い作業のとき、故郷の人はよく歌っていたからだ。
 黙っていると唇から凍っていくと言って、互いの無事を確かめ鼓舞するように声を上げるのだ。
 冬になると幾度となく聞いていた歌が、今は無性に懐かしい。
 今、うろ覚えの旋律を口遊んだとして、誰も応えないだろう。知る限り、同郷のものはいない。このあたりには、そもそも労働歌の文化はないのだ。
 良いことだ。歌わねばやっていられないほどの辛い仕事は、都にはないのだろう。
 記憶を辿ってみるが、やはり歌詞は覚えていなかった。
 気がつけば池に白々と月が映じている。空高くに、真上に来たことがわかった。
「それ、聞いたことがあるわ」
 女の声。だが、兵が知るような市井の女の、どれとも違っていた。
 酒に焼けておらず、乾いてもいない。聞き分けのない子に怒鳴ることも、市場でがなることもない滑らかな喉。
 上官だけが使う高価な酒器に酒を注ぎいれたような、澄んでいるのにとろりとした声だった。
 自分たちが決して輪に入ることのない乾杯の明かりを、遠くから見ているときの心持ちが胸の内側に萌した。
「もうおしまい?」
 声は頭上から降ってくる。
 露台の上から聞こえていた。庭を一望できる高さにあるそこは、貴人が座すためにある。足元にある兵の姿は見えないし、兵も自分たちの上に侍る人の姿は見えない。
 土を踏む人と、一生涯を足の裏を汚さずに生きる人はその視界すらも交わることがないのだ。
 見てはならないし、視界に入ってもいけない。身分差とはそういうものだ。その視界に入ってしまったことに、兵は内心で慌てていた。
 全身がカッと熱くなったあと、みるみる冷えていった。
 平身低頭、見逃してくれることを祈るしかなかった。
 慌てて投げ出した提灯は地面に落ちたあと火がつき、あっという間に燃え尽きた。一瞬だけ周囲が明るくなり、月と星の光しかない夜の闇が訪れる。
 まあ、と火の色に驚いたような声が上がった。
 謝罪の言葉が咄嗟に出てこない。貴人に向けるべき言葉が、頭の中で絡まって口から出てこない。
 頭の中は真っ白だ。
 地面に擦り付けた額に、汗で砂が張り付いている。
 貴人が侍っているにしては、露台はあまりに静かだった。だから人がいるなど、思いもよらなかったのだ。
「ねえ、つまらないわ」
 ため息が聞こえた。
「はっ」
 返事ばかりは威勢よく出てくる。ようやく呼吸と言葉の出し方を思い出した。
 きっとこれは、戯れだ。表に来た野良犬に、飯の残りを投げてやるようなもの。小鳥が地面を啄むのを、眺めるようなもの。
 きっとすぐに取るに足らぬ、ありふれた存在に飽きて、次からは視界にも入れなくなる。それまで少しの間、相手をして満足させてやればいいのだ。
「さっきの、なんという歌?」
……わかりません。ありふれた、名も知らぬ歌でございます。故郷を思い出す気がしたのです」
 兵は頭上の声と会話をしながら、地面ばかりを見つめていた。暗闇に目が慣れてくると、自分の指先が震えているのが見えるようになった。
 長い沈黙があった。
 もう立ち去ったか。あるいは音もなく現れ出て消えたそれは、幽霊ではないかと考えはじめるほどに時間が経ったあと、頭上で布ずれの音がする。
「そう。遠くで聞いたきりだから、私もよくは知らないの」
 美しい庭を眺める立場にいる高みの人と、労働歌は結び付かなかった。少なくとも、都では故郷の歌を聞いたことがない。
「あなたの故郷は遠いの?」
「遠いです。近くとも、きっと帰ることはありませんが。私がここにいると、家族に金が届きますから」
「そうなのね」
 顔を上げる勇気が出ないまま、兵はこの一瞬交わった道が何事にも影響を及ぼさないまま、再び離れていくのを待った。
「ねえ、あなた」
 再び呼びかけられて、兵士は緩みかけていた体に再び緊張を取り戻す。
「これ、差し上げるわ」
 それがなんなのか、叩頭している兵は知る吉もしなかったが、受け取るわけにはいかないことは確かだった。
 きし、と露台がわずかに軋む。
「早く手に取って。これ以上身を乗り出したら、私落ちてしまうかも」
 そんなことがあってよいはずがない。兵はいよいよ観念して、顔を上げた。
 女の白いかんばせが、こちらを覗いていた。寒々とした光を落とす月と同じくらい白く見えた。淡く光を放っているようにすら思われた。
 夜でも意匠がわかる着物は、銀糸か玉で刺繍をほどこしてあるのだろう。そのほとんどを毛皮の上着で覆い、人ほどの大きさの獣が如き輪郭を作っていたが、そのような高貴な獣がこの世にあるとしたならば、きっと瑞祥に違いない。
 全ては、夏の日差しを見上げてしまったときよりも強く、瞼の奥に焼き付いて、眩んでしまいそうだった。
 手すりから身を乗り出し、しなやかに、届く限りめいいっぱいに腕を伸ばし、不安定に揺れている。
 風のない夜のことである。髪は、雪解けのように光に透ける細い流れになって、彼女の動きに合わせて揺れている。
 目を奪われている暇などなく、彼女が露台から転落する前に、兵士は手の届かぬ場所にあるその身を押し戻す方法を見つけねばならなかった。
「いただけません」
「いいえ、取って。きっと必ずよ。こんなに暗い夜に落としたら、きっと見失ってしまうものね」
 そう言って、手すりに体重をかけ身を乗り出す。
「ああ!」
 落ちる、と思った。
 両手を伸ばす。
 その人の体が何でできているのか、理解できなかった。同じ血と肉と皮ではないはずだ。指先とその輪郭が、光を放つようにはっきりと見えるのは、肌があまりに白いからだ。
 指先から離れて手の中に滑り込んできたのは、見事な細工が施された玉だった。雪の六花の如く繊細なそれは、握れば溶けて消えてしまうような気がして、両の手の上に乗せたまま動くことができなかった。
「これは」
「あなたに。あなたの故郷に、幸いがありますように」
 胸がいっぱいになり、言葉が出てこなくなった。
 故郷の名など、誰も知らないだろう。
 ただ偶然行き合っただけの相手に、尊きお方が心を砕いてくれる。人に誇る武功を得られなくとも、この人の心に留まった。そのことが、どれほど喜ばしく誇らしいことか。
「もういくわ。炭が燃え尽きるまでと言われているの」
 兵が顔を上げたとき、もう露台の縁に人の姿はなかった。
 礼をいうことすら、できないままであった。
 言葉を交わす機会は、二度と来ないであろうという予感はあった。
 如何に王宮といえど、あれほど美しい人がこの世に二人といないだろう。
 あの人は、我らが王が迎え入れた玉国の昕后に違いない。
 美しい首飾りに、一つ二つ涙が落ちた。
 手ずから賜った首飾りは、きっと故郷に錦を飾ることだろう。
 ああ、これでやっと郷に帰ることができる。
 父と母に楽をさせてやることができる。
 兵は、高貴な人への恭順を示すためではなく、心の底からの感謝の念で后の居た方に頭を下げた。
 程なくして、兵士は都から姿を消した。
 故郷に戻ってはいなかった。
 脱走と疑われたが、井戸の底から発見された。
 冷える季節だったため、体はほとんど腐っていなかった。
 許しを乞うように組み合わされた指先は硬く強張り、その手には割れた玉の欠片が握られていた。
 罪人として死んだ兵の遺体を、彼の家族は引き取らなかったという。