さもゆ
2024-12-10 02:53:32
30710文字
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【悟チチ】誰にも渡さねえ

時系列はふわっと力の大会後しばらくくらい。能力とか捏造とかご都合とか。ゆるして。

2023.1.21 たべものpixiv投稿作品



 あいつはどこまでもオラを探しに来ちまうだろうから。
 だから家で待っててくれなきゃ困るんだ。
 どこまでも追いかけて、追いかけて、追いかけてきて、何年も何年も、たとえば口約束のために。
 ケッコンして一番良かったとこは、そこかもな。
 安全な場所で、待っていてくれる。何年も何年も。









 一頻り泣いたあと、チチは新たな決意を胸にした。

 子どもたちがいると思って悟空が来るまでは死に物狂いで二人を守ろう、寝室に飛び込んでこうやって泣く前はその決意だった。
 しかしここに子どもたちはいない。
 しかも、ベッドでわんわん泣いているチチに扉の向こうから飄々と語りかけてきた男の話によると、ここには悟空もいないらしい。チチの頭の中のようなもの、らしいのだ。ここは。
 最初ここはあなたの頭の中なんだよ、と言ってきた男だったが、チチが泣きながら「うるせえ! そったらなしてここに悟天や悟飯がいないだ! 悟空さがいないだ! おらの頭ン中ならいるはずだ!」と怒鳴ったので訂正したのだった。頭の中の、ようなもの。それなら早い話、自分でどうにかすれば良い。

 自分の頭の中だけで起こっているのなら、自分がどうにかするしかない。
 子どもの一大事でも、世界の一大事でも、宇宙の一大事でもない。悟空は来ない。
 
 男はこうも言っていた。現実のあなたの体はいま石みたいに眠っている。
 なら、異変に気付いた悟天が悟飯に知らせ、そこからあの恐ろしく何でもできるピッコロ辺りがどうにかしてくれるかもしれないが、変に希望は持たないことだとチチは心持ちを強くした。自分でできることは、自分でやる。助けは来ない。だから自分でどうにかする。
 チチはそう決意した。

 決意してしまうと早かった。泣き濡れた目元をぐいと拭い、ベッドから降り、乱れた髪や服を直す。
 それから自室の扉を開け、扉のそばで佇む悟空そっくりの男が眉を上げてこちらを見下ろすのを一瞥し、男が何かを言う前にチチは堂々と自分の家から出て行った。
 外は時間など流れていないかのような快晴だった。
 チチはその空を見上げて叫ぶ。
「筋斗雲よーーーい! 来てけれーーー!」
 沈黙だけが返事だった。
 くるり、もう一度試すことなく踵を返す。玄関にはやはり男がいて、チチを興味深そうに見つめていた。
「もういいのか?」
「いい。筋斗雲が来ねえってことは、おめえが言った通りここは現実じゃねえってことだ。それに、やまびこも聞こえなかった」
「冷静だな」
「ここのどこを探しても悟空さはいないだか」
「ああ。俺とあなたしかいない」
「困ったな」
 じゃあ、どこを探しに行っても無駄だろう。何となく、自分の頭の中のようなものだからか、この世界はこの家とその周辺だけで完結している予感がひしひしと襲ってくる。たぶん、そうなんだろう。ここには、自分と、この悟空そっくりの別人しか存在していない。
 この男は倒せない。胸に包丁が刺さったままでも、けろりとしている。血も流れていないし、現実に戻るには何かほかの方法を探さなければならない。この男は悟空とはまた違う飄々とした態度で、のらりくらりとしていて悪意は感じないがたちの悪さを感じる。チチをここに閉じ込めたからには、絶対に解放する気はないだろう。
 そうと決まれば、無駄だと思ってもやれることをやるしかない。

「今度は何するんだ?」

 ずんずんと家の中を進み、見たところ身支度を始めだしたチチに、男は素直に疑問を発した。
「旅の用意だ」
 チチも素直に答える。
「旅?」 
「んだ。おらは悟空さたちみてえに気が分かるわけでもねえし、生身で空も飛べねえ。なら、地面が続く限り探しに行かなきゃなんねえだ」
「ここから出る方法を?」
「んだ。それに、おめえと二人っきりも我慢ならねえしな」
「へえ。ほんとにいい女だな、あなたってひとは」
「ふん。おめえに褒められても、ちっとも嬉しくねえだよ」 
 数枚の衣服と下着、防寒着と雨具に、薬と携帯食料、ナイフとライター、ついでに予備のマッチ棒をリュックに詰め、小さなフライパンを括りつけると、チチはそれを気軽に背負って「そいじゃあな」と男に背を向けた。「どうやら、おめえはおらを縛り付けるような真似はしねえらしいな。手足を斬っちまうような酷いこともしねえし。子どもらに手を出すことも、世界を征服しようっていう悪巧みもねえ。ほんとにただおらだけに会いに来たみてえだ」それなのに悪かったな、出会い頭に刺しちまって。チチはぽつりと、一応の気持ちで謝ってから、後は返事も待たずに家を出た。

 猪突猛進、猪より早く走れるチチは野を越え、山を越え、川も飛び越え、そしてあっという間に自分の家へ戻って来てしまった。
 戻ろうと思って走っていたわけではない。
 さすがに息を切らしながら、首を傾げ、もう一度野を走り抜ける。山を越え、川を飛び越え、そして見えてくるのは自分の家だ。
 はあ、はあ、肩で息をしながら、さすがにもう一回試すのは馬鹿らしいだか、と諦念を持ちつつも、あと一回だけ今度は反対側から崖を飛び降り山を下り川下を目指した。見えてくるのは舗装された道路ではなく、集落でもなく、やはり見晴らしのいい我が家だった。

 額から伝ってくる汗を拭う。
 心臓は速いし、体は熱く汗も出る。喉も乾く。
 けど鳥の声は聞こえないし動物の気配もなく風も吹いていない。そういえば、川の水はちゃんと流れていたっけ?
 自分だけが生きているみたいだ。

「おかえり」
「おめえが言っていい台詞じゃねえ」
 諦めて帰ってきたチチに、悟空そっくりの、生きているだか死んでいるだか分からない男が出迎える。それを不貞腐れた態度であしらい、先ほど詰めたばかりの荷を下ろしてから、キッチンに向かい水道の蛇口を捻る。水は出た。
「この水、飲めるのけ?」
「あなたの家の水なら、飲めるんだろう」
……じゃあやっぱり、この世界はこの家だけってことだ」
 チチはコップに水を注ぎ、潔く飲み干した。いつもの、このパオズ山の冷たく美味しい水が喉を通る。さて、次はどうするか。
 ふと床に目をやると、切りかけていた菜っ葉が無残に散っている。玄関付近には男に投げつけたまな板が転がったままだろう。掃除でもするか、と思った。仮にも自宅と同じ形をした――いつ帰ってくるかも分からない旦那がいつかは絶対帰ってくる――家がこのまま散らかりっぱなしなのも気分が良くない。チチは黙って掃除を始めた。始めたついでに、途中だった昼餉の支度も再開した。腹が減っては何とやらだ。

 チチの行動を逐一興味深そうに見てくる男の視線に嫌気がさし、ほとんど冗談で「見てるくれえなら、手伝ってけろ」と言うと、男は頷いてそばに寄ってきた。ぎょっとしたが、何をすればいい、と訊いてきたので湯を沸かして食材を煮てくれと指示を出した。男は素直に従った。

 不気味なやつだ。
 チチの感想はそれだった。悟空の姿をしているだけで、中身はまるきり別人。
 チチに会いに来たくてチチをこの世界に閉じ込めた張本人。
 なのに何かをしてくる気配はない。
 
「おめえ、ずっとここで暮らすつもりだか」
「ああ、そうだな。安全なうちはな」
「安全?」
「あなたのパートナーは、一番強い。安全だろ?」
「ははあ、なるほど」ようやく、男の真意を理解する。「さてはおめえ、相当な悪なんだべ。それでおらのこと隠れ蓑にしに来たってわけだな」
「まあ、そうかな」
「せっかくいい隠れ場所見つけたとこ悪いけんど、おらの旦那様は決して悪を見逃さねえだ。おめえなんか今にコテンパンに……されるだかな」
「されないのか?」
「悟空さがこの異変に気付いているかも怪しいべ。おめえさ、残念だったな。目論見外れちまってるだよ。悟空さにおらごと守ってほしけりゃ、まずはもっと悪どいことに手を染めなきゃあ。あ、子どもらに手出すのはおらが許さねえぞ、だども世界征服とか、そういうのしねえと悟空さは素っ飛んで来ないだよ」
「あなただけの危機には助けに来ないって?」
「たぶんな。それに、こんくれえのことは、おらだけでどうにかしねえと」
「あなたはきっと、待ちくたびれてるんだな」
「ん?」
 ぐつぐつと鍋が煮えている。
 話が読めず、隣の男を見上げると、野菜やきのこを入れた鍋を掻き混ぜながら男は言った。
「いい加減、待ちくたびれているんだ。会いに行きたいしその足もあるけど、枷が重すぎる。悟天とか、悟飯とか」
「おらの息子を枷呼ばわりするな」
「言葉の綾さ。でもその通りだろう。今回はその枷もなく自由なのに、会いたいやつはどこにもいない。待ちくたびれて、このままでもいいかという気がしてくる」
「洗脳する気け? そんなわけねえ。おらは今こうしてる間にもどうにかここを出らんないか考えてるだよ」
「はは、逞しいな。それに純粋だ」
「おめえさこそ、待ちすぎて、くたびれてる顔してるだ」
「なに?」
 きょとん、男はチチを見る。そうしていると、本当に悟空そのものに見えてくる。だが、違う。悟空は決してそんな誰かを待って諦めたような顔はしないのだ。いつだって待たせる側なんだから。

 本当は待ちたくなんかない。
 どこにも行かないでほしい。
 それが無理なら、どこまでもついていく。どこまでもどこまでも、ずっと一緒についていくのに。

 悟空はそうさせなかった。

「安全な場所で、何かを待ってるんだべ。何かか、誰かか、分かんねえけども。その道連れにおらを選んだんだろ。寂しがりは、集まりやすいからな」
……へえ」
 男は眉を上げたあと、破願した。「本当にいい女だな、あなたってひとは。さすが宇宙最強の嫁さんだ」
 別におらが宇宙最強ってわけじゃねえ、チチはそれでも胸を張って訂正した。





 悟空は瞬間移動で自分たちの気の残滓が根強く残る我が家に戻ってきた。
 正確には、ブルマの小言を聞きながらもチチを攫って二人だけで瞬間移動しようとしたのをジレンの気とヒットの時飛ばしと悟飯の力づくと悟天の泣き落としで阻まれ最終的にはピッコロの伸びた腕で全員悟空の体に引っ付けられた状態で瞬間移動してしまい、もみくちゃな状態で陥没した地面に戻ってきた。

「勘弁してくれよ」
 
 たとえもみくちゃで硬い地面にぶつかっても、チチだけはしっかりと抱き留めた格好で悟空は呻いた。
「なんでみんな来ちまうんだ」
「ブルマとトランクスは置いて来てやっただろ」長躯と伸びた腕故にほぼ全員を潰しそうになっていたピッコロが、その腕を元に戻し皆の上から退きながら言った。「何を渋っているのか知らんが、チチを解放する間際に何が起こるとも知れんのだぞ。なぜ二人だけになろうとした」
「なぜってもなあ、ピッコロ。困っちまうだろ、そんなん」
「お前たち夫婦のプライバシーを侵害するつもりは毛頭ない」とガタイの良さゆえに一番小さな悟天を潰しそうになっていたジレンが、その背に手を当て起き上がらせてやりながら口にする。「だが、そいつの言う通りだ。気まずいだろうが俺は見届けさせてもらう。それが俺の仕事だ」
「そうは言ってもよお。あ、わかった。そんじゃオラが悪者捕まえっからさ。そんでどうだ?」
「それだと俺が仕事にならん」と言ったのはヒットだ。横目に、先ほど一瞬とは言え悟空を力づくで止めていた悟飯がよろよろと立ち上がるのを認め、手を貸してやりつつ続ける。「お前はまだ若い。伴侶とのことを衆目に晒すのは耐え難いだろう。耐えろとしか言えん」
「今のは同情してくれる流れじゃねーんか。ったく、どいつもこいつも仕事ばっかしだな」
 年がら年中修行ばかりなのとどっちがいいんだろうな、殺し屋に半ば肩まで貸してもらいようやっと立ち上がることのできた研究ばかりの悟飯が思った。
 
「お父さん」

 ひとり事情を飲み込めていない――母親の様子を見ていたら突如父親に母親を奪われ些か不満げな――悟天がジレンの大きな手に遠慮なく支えられながら声を上げる。
「どうなるの? お母さんは。目は開けたけど、それじゃほんとに……お人形みたいだよ……
 みるみるうちに涙の幕が張っていく。悟天は見てしまったのだ。瞼を開けていても、その瞳に少しも自分を映していない母親の姿を。心臓も動いていない。息もしていなかった。あんなのは生きてるって言わない。悟天と呼んでもくれない。こんなに寂しいことってない。

「悟天、言ったろ。大丈夫だって」
 ぎゅ、悟空は腕の中のチチを強く抱きしめ、言った。
「母さんがおめえを一人にしとくと思うか? 悟飯のこと気にせずにいられっと思うか? ンなことは世界が滅びそうになったってあり得ねえことだ」
 いつもそうだった。
 子どものことを一番に守ろうとする母親。母親という存在が皆そうなのか、悟空には分からない。けど、チチはそうだった。今こうしている間にも悟天は泣きそうになっているし、悟飯も本当は泣きたいだろうに、いつも真っ先にそれを心配して気にかけてくれるチチはどうしているのだろう。あいつの方がよっぽど泣き虫なくせして、いつもそうなんだ。でも、泣いているだけの弱虫ではない。
「今に見てろよ、きっと自力でどうにかするぞ」
「え? お、お父さんがどうにかするんじゃないの?」
「オラが? まあちょっとは、発破かけるけど。さっきの神龍だって他に手立てがねえ神頼みさ、待つのは性に合わねえからな。けど、ハハ、チチはすげえよな。毎度毎度、オラのこと待っててくれるんだぜ。だから安心して好きに戦えるんだ……
 ほとんどひとり言のような温度を持っていたが、次には明確な意思を宿して言った。
「あいつはオラを探し出して必ず見つける。待ちくたびれちまったらな。何年かけてでも、絶対に」
……何年も待たなきゃいけないの」
「いんや、悟天。オラはもうチチを覚えてる。ならこっちから言うんだ、ヨメに来てくれ ・・・・・・・って。きっとすぐだぞ」
「何言ってるか分かんないよ」
「ま。オラとチチだけの思い出っつーやつだ」
 手を伸ばし、自分とよく似た髪をわしわしと撫でる。それから、言いづらそうに言った。「オラとチチだけのなんだ。だからさ、ちょっとばかし、二人にしてくれ」おめえらも頼むよ、周りの全員と目を合わす。いつになく真摯で、けれどどこか弱気にも見える父親に悟天はこっくり頷き、「行こう兄ちゃん」と悟飯の手を引っ張り傍を離れた。弟に手を引かれている間、こういうことに関して子どものころの僕より敏いのかもな、と兄は思った。弟は父親によく似ている。他から見たら違いなどないだろうが、悟飯は時々ふとそう思うのだった。

「いつでも手出しできる距離でいい」
 ヒットとジレンに向かってそう付け加えると、二人はそれぞれ頷き、空へと飛んだ。
 そのまま、好きな距離で陣取る。勝負は一瞬だろう、とお互い思っていた。そしてこれはおそらく信頼だ。上手くいくとも限らないのに、あの孫悟空は必ず自分の大切な者から害ある者を追い出すだろうという確信。その際に何が起こるかは分からない、だが敵との勝負は一瞬でつく、二人はその予感に一分の隙もなく身構える。

 悟空は残ったピッコロを見上げ、「おめえとの思い出でもあるかもな」とふざけて言った。
 ピッコロは地べたに座り込む悟空とチチを腕を組んで見下ろし、「その思い出通り、ここら一帯を更地にしてやろうか」とやはりふざけて大魔王時代さながらの尖った犬歯を覗かせ、にやりと笑った。
 かつて闘技場の屋根の上、天下一武道会で悟空を下に見ていたように。あのときから、何も変わらない。地上で最強の男から、宇宙の、全宇宙で最強の男となったが、その男にずっとくっついている女。恋愛の分からぬピッコロにはその認識だが、でもさすがに、多くと同化し関わるうちに分かってきたことはある。つまり、この男にとっては、それが一等大切であるということだ。悟空はよくチチに「くっつくな」と言っていたが、あれは人間の照れ隠しに加え闘う者の本能のようなものだろうとピッコロなりに推測する。くっつかれては、戦えない。だから家を構え、そこに住まわす。何度死んでもそこに帰っていくのだ、一等大切に想っていなければそうはならないだろう。守るためだ。
 チチの頭に巣くう輩はやはり適した環境を見つけたんだろうが、何者も悟空とその嫁の絆に勝てるわけがない。だって死闘を繰り広げる闘技場の上、しかも神と大魔王が混在していたあの舞台の上で、あっけなく一生を共に暮らすことを宣言した夫婦なのだから。
「勘弁してくれよ。この辺荒らしちまったらチチにどやされるだろ」
「もう荒れているがな」
「そーなんだよなあ。家ン中もぐちゃぐちゃでさあ……どうすっかなあ」
「もしチチが目覚めなければ、」
 ぴり、飄々としていた悟空の気が乱れる。ああそうだ。こんな言葉ひとつで制御の仕方を誤るのだから、やはりこの男にとってこの女はそれだけ心の内側にいる者なのだ。
 ピッコロは愉快な気持ちになりながら、言った。
「俺がお前を今度こそぶっ殺してやろう。そうすれば、チチは泣きながら目を覚ますだろうよ」
「ピッコロおめえ、まだそんな悪い顔できたんか」
「ドラゴンボールでお前のことは生き返らせてやる」
「お、おう。頼むぞ」
「微塵も考えていないことを頼むな、阿呆が」
「や、でも万が一があるからな。そん時はほんとに、頼んだ」
「ハッ」
 ピッコロはとうとう声を上げて笑った。呵々大笑し、マントを翻して孫家の屋根に飛び移る。
「両手両足を折り、体に穴を開けた次は何だ、頭を吹き飛ばせば殺せるか? 俺にそんな手間をかけさせるなよ、孫。さっさとチチを目覚めさせやがれ」
 腕を組み、見下ろす。悟空は困った顔をして、そしてチチに向き合った。チチに見せている顔がどんな表情なのかは、瞼を開けているチチにしか分からない。



 ああ、腹が立つな。

 チチの瞳を覗き込んだ悟空は思った。
 チチの体は相変わらず冷たく、生気を感じない。気の一本も自分と繋がっていない。
 薄い瞼は開いているが、開いているだけだ。大きな黒々とした瞳に活力はなく、光も通さない。
 けれどもそこに、何者かの思慮を感じる。
 不躾で、ふてぶてしく、憎たらしい。何かがチチの瞳の奥にいる。神経よりも複雑に、深くチチに絡みついている。

 腹が立つ。

 悟空はチチの体を膝の上で横抱きしたまま額を突き合わせて、彼女の中にいる者の気の一端でも捕まえられやしないかと暫し観察していたが、募るのは焦燥ばかりだったので渋々諦めた。溜め息をこぼす。ブルマが言っていた通りのことをしなければ、願いは叶わない。

 向いていない、と思う。ひとには向き不向きがあって、色事に関しては自分は圧倒的に後者だった。
 誰かにくっつくのも、くっつかれるのも苦手だ。ベジータから言わせれば、その感覚は戦闘民族サイヤ人の習性に近いらしいが。
 でもそれよりも、そんな無防備な姿を他人に見せるのが、どうにも許せない。未来で会ったマイやトランクスは、命の危機と言えど仙豆を口移しで食べさせていた。お互いが信頼し、預け合っている姿など、お互いにしか見せなくていいのではないか? 悟空は言葉で説明できなくとも、薄っすらそう思っているらしかった。
 よく人前で口と口くっつけられんな、しかも何かを食べさせるために。
 あのときそう思った自分が、まさか息子や仲間のいる前で似たようなことをしなければならなくなるなんて、思いもよらなかった。散々、こういうことに対してとぼけていた分のお鉢が回ってきたのかもしれない。
 
 もう一度深々と溜め息を吐き出し、肺いっぱい酸素を取り込む。
 チチを抱きしめ、本来なら星が煌めきそうなほど綺麗な夜色の目のはずが、今はゾッとするほど暗く何も映していないその瞳を見つめて、悟空は言った。
「チチ、オラを見てくれ」
 そうして、口づけた。
 悲しくなるくらい、冷たい唇だった。
 すぐに口を離した代わりに、益々腕の力を強め、悟空はチチの目を見続ける。
「チチ、チチ。聞こえてるか。オラ一度しか言わねえ。よく聞いてくれ」
 瞳の奥できらりと光るものがあった。聞こえている。この声は届いている。
「オラ、おめえのことヨメにもらいに行けなくなった」
 瞳の輝きが大きくなる。
「おめえのとこに、行けねえんだ。けど、なあチチ、待ちくたびれてないか? だから、」
 悟空は明朗に告げた。
「ヨメに来てくれ、おめえが。会いに来てくれ。オラ今度はちゃんと、待ってっからさ」

 するときつく抱きしめた腕のなか、弱々しく心臓の鼓動の音が聞こえた。
 血潮の流れが指先を痙攣させ、頬を赤くさせている。
 瞼は緩慢に瞬きし、瞳に星が散る。

 ほんのり色づき、温かそうな唇が、「ご、くう、さ」と途切れ途切れに名前を呼んだ。

「チ――
 けれどこちらが呼ぶ名前はそれよりも途切れた。
 頭突きを食らったからだ。
 凄い音が鳴った。
 悟空は痛みを感じたし驚いたが、それよりもチチが心配だった。彼女の方がダメージを食っているに違いない。
 チチはやはり顔を歪めていたが、頭を押さえる手は痛みによるものではないように見えた。まだ頭の中にいるのだ、チチ以外のやつが。一瞬にして戦意を膨らました悟空に、チチは「待て」と苦し気に、それでもハッキリと言った。「……待つだ、悟空さ。おらがどうにかする。これはおらの勝負だ」そう言う顔には汗が滲み、せっかく悟空を見た瞳はきつく閉じられている。
「チチ」
「待ってけろ。おめえさがせっかく言ってくれたんだ、待ってくれるって。言ったべな。おらにヨメに来いって……
「ああ、言った」
「だからおら、自分を刺したんだ。あいつに、刺しっぱなしにしてた包丁使って、そったら恐ろしいこと……。悟空さが死んじまった時だってそうしようとは思わなかったのに、でも、そうしねえとと思って、そうしねえと会いに行けねえと思って、だっておめえさがヨメに来いって言うから……悟飯と悟天も、いなかったから、おら」
「言った。おめえは来てくれた。チチ、チチ、大丈夫か」
「悟天と悟飯は、無事だか」
「無事だ。無事じゃねえのは、おめえだ。まだいるんだな? 勝てるか?」
「勝てる」
 チチは構えを低く取り、涙の粒が乗るまつ毛を震わせながら、再び悟空を映した。
 切れていた気の繋がりが戻ってくる。
 でも、まだだ。
 チチは自分の中で必死に戦っているのか、疲弊した様子でも凛として悟空と対峙している。ただでさえ気を扱えないチチに、自分の中にいる別の存在との戦い方など、分かるはずがない。それを分かっている悟空は、けれどもチチにとことん付き合おうと自分も構えを取った。
 ここはあの天下一武道会の闘技場と同じだ。
 違うのは、今度は悟空が嫁を貰いに来たという点だけ。
「悟空さ、おらがこの男 ・・・に勝ったら、おらのことお嫁にしてけろな」
「約束だ」
「約束だぞ。今度破ったら、ぜったい、リコンだべ」
「そしたらまた結婚する」

 試合開始の合図はなかった。
 チチは悟空に突進し、足払いをかけた。
 悟空はそれを跳んで避け、避けた先に振り上げられた拳も躱し、肘も受け流した。クレーターは広く、闘技場として充分機能していた。チチはどこまでも悟空を追いかけ攻撃を繰り出す。悟空は武空術を使わなかったが、端から端まで追いかけられ、驚異的な跳躍力で空中に避難した。チチも跳躍だけでそれを追い、地面に着くまでの間に五回は蹴りを繰り出した。

「おらの中から出て行くだッ」

 悟空に対する攻撃は、全て精神統一に近いものだった。しかし渾身の力とスピードを出し、全身全霊、全力で戦いを挑む。チチとて武道家の端くれ、そして牛魔王の娘だ。己の中の敵を追い出すのに、これが一番自分に合っていると判断した。
 あの寂しがりはまだチチの中にいる。そこから、チチのことを見ている。引きずり込もうとしている。

 勝てないと思った。
 悟空そっくりのあの男が、チチがいつも愛しいひとの帰りを待つ家の戸を潜り抜けてやってきたとき、確かに本能から強く感じた。
 どれだけ待ちくたびれても、どこまで探しに行っても、あれは“尊い者”に会えない。
 そうなんだろう、きっとそうだ。自分の頭の中だからか、よく分かる。どうしようもない寂しさを抱えている。
 だが悟空は、チチに来てくれと言った。世界の危機でも、宇宙の危機でもない、チチが目覚めなくなることを己自身の危機として、ほかでもない、チチを呼んでくれたのだ。

「おらはおめえと一緒に待ってやれねえ……!」

 叫び、拳を突き上げた。あの男が自分のなかで仕方なさそうに笑っている。

 対してチチの華麗な武踏を受けながら、悟空は本当なら心底ワクワクするはずのこの戦いに、腹が立って仕方がなかった。チチが自分のために戦ってくれている、本当に久しぶりにチチと戦っている、こいつの戦い方はやっぱり綺麗だ、そう思って嬉しくなるのに、とんだ邪魔者がいる。
 いつまでもチチの意識にいるそいつに、いい加減我慢ができなくなりそうだ。
 
「悟空さ、もうちょっと待ってな、おらこんなやつに負けねえから、必ずおらを嫁に――

「もう待てねえ」

 え? チチは肩で息をしながら、悟空の言葉を確かめようと動きを止めた。悟空はチチから距離を取り、拳を構えた。

「すまねえがルール変更だ。やっぱりオラが勝ったら、おめえを嫁にもらう」

 え、チチが身構える暇もなく、問答無用でチチの体が吹っ飛ばされる。
 突き出した悟空の拳から放たれたのは、制御されきった気だ。昔のように吹っ飛ばされた体は土の壁にぶつかりはしたものの、痛みで頭を押さえるほど荒々しいものではなかった。

 それでも様子が気になって見にきていた息子二人は「お母さん!」と悲鳴を上げて飛び出して行こうとした。特に悟飯は、また母親が大怪我を負ってしまうのではないかと肝を冷やした。ところが二人とも体が上手く動かない。ピッコロの念力だ。家の屋根を見れば、四本指のうち一本をこちらに向けて、手出しは無用とばかりに首を振っている。それで二人は堪えて、両親を見守った。

 チチは頭こそ打ちはしなかったものの、痛いものは痛いので呻きながら身を起こそうとした。怪我をさせないくらいの力が出せるなら、こちらに受け身を取らせるくらいの力でやってほしい。甘ったれたことを考えている間に、目の前に悟空がやって来る。受け身を取らせないのはこのためだったのか、悟空はチチにほぼ覆いかぶさる格好で腕を取り、抱き寄せた。
「ごく、」
「こいつは、オラのだ!!」
 悟空は吠えた。もう我慢の限界だった。試合に横槍はご法度だが、それ以上に我慢ならないことだった。
 急に吠えられたチチはびっくりして口を噤んだ。黙って見つめ合う形になり、悟空の瞳に敵意のようなものが燃えているのを見せつけられ、萎縮すらしてしまう。
 悟空は更に、チチの瞳の奥で邪魔をしている存在に怒鳴った。
「オラが嫁にもらったんだ! あの天下一武道会で、勝って、もうずっと前に牛魔王のおっちゃんからこいつをもらったんだッ、オラの嫁だ……誰にも渡さねえ!」
 凄まじい怒りだった。
 ジレンから事態を知らされたときより、ずっと溜め込んできた感情だった。
 それがとうとう爆発した。
 怒りは悟空をスーパーサイヤ人へと変え、チチに小さく悲鳴を上げさせた。
「オラのチチを分捕りたいってんなら、正々堂々、オラと勝負しろ! 勝った時だけ、その時だけは貴様にくれてやるぞ!!」

 そんなのは無理だ、とこの場にいる誰もが思った。誰が全宇宙最強の男に勝てると言うのだろう。
 そしてチチの頭の中にいる存在も負けを認めるしかなかった。チチの意識が無理やりに現実に戻されただけでも男にとってイレギュラーな事態だったのに、決して侮っていたわけではないがさすが宇宙で噂になるだけはある、悟空の気は男の領域内にも影響を及ぼそうとしていた。それだけ、チチと悟空の繋がりが深いのだ。
 失敗したなあ、男は素直に思った。こんなに安全でいい隠れ家だったのに、少しも隠れていられなかった。まあ、いい。男はチチと繋がっていた神経から手を離す。また別の誰かを探すさ――そうして完全にチチの意識から退いた。

 ふ、とチチの強張っていた体が軽くなる。
 
「悟空さ、」
「チチ」

 大きな瞳の奥には、星だけが輝いている。
 悟空はチチが自分のもとにきちんと戻ってきたのを感じ、チチの瞳に引力でもあるかのように、自然に引き寄せられるままに顔を近づけた。
 瞬間、悟空とチチの頭上で爆発が起こった。
 一度だけだった。
 爆発は一度だけでも嫌なものだが二度三度と続かないことにチチは多少なりともほっとして、「何が起こってるだか」と唇が触れ合いそうな距離で悟空に聞いた。悟空は何だかちょっと残念そうな顔をして、眉を下げた。「あー、仕事だ。仕事しに来た、ええと、オラの友達が二人いる。で、たぶんその仕事の音だ」「花火師だか」「あー、そんな感じだ」「見え透いた嘘つくでねえ」チチは悟空の耳たぶを引っ張った。引っ張ったついでに、せめて頬にキスをおくる。泣きたくなるくらい温かかった。

 あっ! クレーターの上で悟天が声を上げる。兄ちゃん見たっ? いまお母さんお父さんにちゅー、最後まで言い切る前に悟飯から口を片手で塞がれ、既に遅いが目も手で覆われる。藻掻く弟を、兄は気まずさから引きずって行こうとしたが、それも遅かった。バッチリ、両親と目が合ってしまう。

 悟飯は真っ赤になり、「あ、ええと、そのう、お邪魔してます……」としどろもどろに口にした。
 チチも真っ赤になり、自分がいまどういう状況だか詳しくは分からないもののどういう状態かを思い出し、思い切り、悟空を突き飛ばした。「これは違うだよ! おら悟空さに修行つけてもらってたんだべ、あー汗かいただなー! 悟空さおらを突き飛ばすんだもん! それで……」と取り繕ったが、「むだだぞ、チチ」と突き飛ばされた悟空に制されてしまう。「ぜんぶ、見られてる。し、ピッコロあたりなら全部聞こえてる」
「ぜ、ぜんぶ」
「全部だ。諦めろ」
「そ、そったら恥ずかしいこと。お、おら、もうお嫁に行けねえ」
「もう来てるだろ、オラのとこに」誰に聞かれようと、見られようと、今だけはヤケクソだった。「それに、何度でもオラが嫁にもらってやる。何度でもだ。ぜってー誰にもやらねえからな」
「ご、ご、悟空さ」
 チチは感極まって悟空に抱きついた。
 黒髪黒目に戻った悟空は、やはりちょっと困った顔で「くっつくなよ……」と言ったが、その手を外したりはせず、むしろ、やんわりと握り返していた。

 孫家の屋根の上から、悟空とチチの一部始終も、ヒットとジレンの決着の行方も全て見届けていたピッコロは、さてこれから大変なことになるぞと辟易する気持ちだった。
 それでもここから飛び去らないあたり、自分は随分甘くなったものだと思う。悟空とチチは何も変わらないくせに、周りをいとも簡単に変えてしまうのだから、よっぽどたちが悪い。けれど、嫌な気はしない。不思議な夫婦だ。

 家の周りと家の中の惨状に気づいたチチが我に返り、ピッコロの予想通り、男たちに掃除や補修を言いつけるまで、あと幾ばくもなかった。
 そうして、遅くなった昼餉は六人分、パオズ山の美味しい水と共に、宇宙で一番の安全を取り戻した孫家の食卓へと用意されるのである。