さもゆ
2024-12-10 01:39:35
39244文字
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【スティレオ】レオナルドと冷たい恋人

※人間ではないモブが出てくる
※そのモブがレくんとちょっとイチャイチャする
※スティレオは既にお付き合いをしているが、キス止まり
※スティレオハピエン

2021.8.17 たまごのお粥pixiv投稿作品



 そういうわけじゃ、と何やら口ごもったスティーブンさんの背を押し出し、職場へと促してから、ひとり暗い部屋に帰って来る。笑えていたと思う。糸目だから、わりと誤魔化せていた……らいいなあ。

 電気もつけずにベッドに倒れ込んだ。
 視界の端で、もぞ、と闇が蠢いている。

「明日、暇になっちゃった」

 その闇に話しかけると、二つ目がぱっちり、姿を現す。
 ベッドからだらりと垂らしていた腕を持ち上げ、指先を伸ばすと、暗がりはそろそろとテーブルを下りて床を這い、指先まで音もなく擦り寄ってきた。しんしんと見えない雪が降り始める。

「しょうがないよ、スティーブンさん、お疲れなんだから」

 指先がかじかむ。からだが、寒い。
 
「しょうがないんだ。我がままばっかり、言ってられない。秘密結社の副官さまだぞ、休めるときに休んで、しっかり仕事して、そーやってしないと、世界が滅びる。俺もその結社で働いてんだから、ちゃんと分かってる」

 こころが、さむい。

「スティーブンさん、あんまり俺と、いたくないのかな」

 そうだよなあ、ベッドの上で吹雪に耐えるように体を丸めた。そりゃ、そうだ。そんなの俺がいちばん分かってるし、いちばん、どうしてスティーブンさんが俺と恋人でいてくれてるのか、分かってないよ。

「さみしいな」

 部屋のなかの影と物の輪郭が交互に切り替わり始めた。
 ぱち、ばち、天井の明かりが明滅を繰り返し、それを覆い隠すように影が伸びた。ぴかぴかの革靴、グレースーツに、黄色のネクタイ、首筋の刺青に、頬の傷、影と同じ色の瞳。
 佇むそいつへもう一度手を伸ばし、おいで、と言った。

「ふて寝してやる。俺のこと、寂しそうって思うなら、頼むから付き合って」

 ばちり。
 明滅していた明かりが、息絶えるように闇を落とした。






 朝か、と思った。
 からだがひどく怠い。
 視界が霞んで、義眼の不調かと焦らなくちゃいけないはずなのに、その一等大事なことですら雪に埋もれて消えていく。
 星を見なきゃ、とぼんやり思った。雪山と、澄んだ星空を映す、あの行き慣れて新鮮味もない湖のようなものを、何か、思い出さないと。
 でも雪が。
 雪は、全ての音を吸いつくす。何も聞こえないし、厚着をして寝転がってしまえば、そのまま眠ってしまえそう。いつだったか、それで、親にも、ミシェーラにも、すごく怒られた気がする。わたしの助けに行けない道で、タイヤも声も届かないところで、勝手にくたばらないで、小さな女の子のわりには、そうやって、強烈な言葉を吐かれて……
 けどミシェーラはここにはいないし。
 それにひとりじゃないんだよ。

 霞んだ視界でも、隣で、星明りすら届かない暗闇のひとが、一緒に寝てくれているのが分かる。

 ぼくはそれにすっごく安堵して、朝だけど、もう一度寝てしまおうとまぶたを瞑った。













 は、と吐き出す息が白く濁るのを視認した途端、降り積もっていた雪が凍り、砕け、深く潜り込んでいた意識が段階を得て覚醒した。

 がばりと勢いよく身を起こす。寸の間、眩暈がしたが、飛び込んできた光景に眩暈どころか頭も、肺も、ずきずきと痛み出した。

 部屋中に霜が下りている。

 自分が寝ている間に氷窟と変わり果ててしまった部屋の入口、氷で覆われたドアの前、影になっているところで、ぴかぴかの革靴が、こつり、と音を立てた。

 それは凍える反響となって天井の氷柱を煌めかせた。

「おはよう。ザップを来させるべきだったかな。寒いだろ」
 
 あんまり、透明度の高い、なんの感情もない声色だった。
 がち、と歯の音が合わなくなる。状況をよく、理解できていなかった。ただ、とんでもない敵意を向けられていることだけは、分かった。どうしてだ? おれ、何かしたのか? 何を?

 なんで目覚めてすぐ、スティーブンさんに部屋を凍らされている?
 
 恐怖と混乱と身を切るような冷たさに震える体が、ふと雪のぬくもりに包まれる。縋るように見上げると、部屋を凍らせているひとと、おんなじ顔したひとが、俺のことを抱きしめてくれていた。じっと、暗闇の瞳が部屋奥へと向けられている。
 氷の切っ先が伸びて俺の鼻先を通り過ぎ、彼の喉元へと迫った。
「ス――
 一音、発するたびに凍えた空気が気管を刺して喉を喘がせる。「やめて、くださいッスティーブンさん!」叫びきる間、ぴたり、床から伸びてきたその切っ先は、彼の喉を貫く前に、止まった。スティーブンさんの姿をしたあの生き物は、怯えるでもなく、驚くでもなく、ただ黙って俺を抱きしめ、じっと氷の主を見定めている。俺はそれを、守られている、と感じた。

 ちがう。

 助けてくれているのは、いま、敵意を向けている方の、スティーブンさんだ。

 じゃなけりゃ、あのひとが、理不尽にその力を発揮し、こんな酷いことするはずがない。

 でも、この腕から、抜け出せない。

……お前の誘いを断って、一日ぐっすり眠ったことを、これほど英断だと思ったことはないよ」

 一日、ぐっすり?
 窓の外を見る。霧は明るく、騒々しい。朝だ。……いつの?
 ひとりごとのような静けさで、スティーブンさんが言葉を続けていく。

「じゃなけりゃ、俺にはこうやって言葉をかける余裕もなくなる。ひょっとするとお前ごと、制御不能で凍らせていたかもしれないし……そんなの、ゾッとするだろ」

 ぎゅう、抱き締める腕に力がこもり、部屋の温度がまた下がって、氷が軋みを上げた。

「連絡があったんだ。俺の代わりに見張りを頼んでおいたんだよ、あいつはボーナス分はきちんと仕事をする。いつもの時間になっても、きみがスクーター飛ばしてこないから、はは、寝坊だと思ってもおかしくないのに、あいつときたら鼻が利くから。今日は一番に顔を見ようとも思っていたし、それで部屋に来たんだ。合鍵を使って」

 ちゃり、長い指が、俺があげた合鍵を弄んで見せる。

「そしたらどうだ、俺そっくりなやつが、俺の恋人を抱きしめて寝てやがる。ああ本当に、睡眠て大事だよな」

 レオナルド、暗がりから凍える足音とともに姿を現したスティーブンさんが、にっこり、笑って言う。「そいつ殺させてくれないか。もしそいつが大事な存在だと言うのなら、別れの時間をやる優しさくらいなら、今なら残ってるから」寝ていて良かっただろ、スティーブンさんはそう言葉を締め括った。

 ――怖い。

 正直なところ何を言われたのかまだ理解しておらず、震え続けるしか体が動いてくれない。そうやって黙っていると、しびれを切らしたのか、革靴が床を打った。硬質な音がさっさと答えろと促している。何を? お、俺のこと抱きしめてくれている、このひとを、殺していいかどうか?
 そんなのは駄目だ。駄目に決まってる。
「ころさないでください」
 相変わらず著しく理解能力の低下している頭脳で、それだけ答えると、彼は微笑みを強張らせて俯いた。形の良い鷲鼻の下にある口は、笑っている、ように見える。部屋がまた軋みを上げる。
「なぜ」
 問われている。
「だ、だって、ころしてほしく、ない、です」
「だからなぜ」
「と、ともだち、だから」
「友だち?」
 次に顔を上げたときには、ほとんど、表情が抜け落ちていた。「きみは俺と同じ顔をしたやつを、友だちだと言うのか。一緒に眠っておいて」
「ち、ちが、この姿には、わけが、」
 とにかく黙ったらだめだ、と思った。言葉をなくしたら、自分には、何もできなくなる。助けを呼ぶことも、説得することも、気持ちを伝えることだって、この口は、時に、目よりも雄弁な手段だった。「スティーブンさん、違うんです、こいつ、いまはこんなだけど、もとは全然違う姿で、ね、怒らないでください」しかし何を怒っているかもよく分かっていないのに、これじゃまるで叱られたくないだけの子どもの言い訳だ。そう思うのに、口が止まらない。「見ててください。……アランさん、大丈夫です、戻って……」とにかくもとの姿に戻ってもらえば、なぜか殺されることもないだろうと愚直にも信じていた。

 ぴく、と感情のなかったスティーブンさんの眉が俺の言葉にひそめられたのにも気づかず、抱きしめてくれている彼の腕を離させ、目と目を合わせて頷く。ぱち、瞬く間に、俺の腕の中に二つ目の暗い生き物が収まった。

「ね? こういう、生き物なんです。害はないんです、知らないおばーちゃんから預かって……知らないおばーちゃんから預かったけど、ほんとに、敵じゃないんです。ずっと大人しくしてました、悪いことなんてしてないです、ほんとなんです、」テーブル上、白く凍りついた牛乳パックの横にあるクッキー缶が凍っていないことに気づき、ベッドから飛び降りて取りに行く。こちらを見つめ続けているスティーブンさんの前で、一日雪のなかで眠っていたかのような重怠い脚が震え、よろめき、床にへたり込んだ。何とか手にした冷えきったそれを床の上に置き、抱きしめていた二つ目の彼をその中にそっと下ろす。ぱち、広がる闇が緩慢に瞬きして、俺たちを見上げている。
「こうやって、ずっと、大人しくしてたんです。スティーブンさんが凍らすようなことなんて、何もないんです。怪しいかもだけど、ほんとに、なにも、おれのそばにいてくれただけで」
 
 この世で最も冷たい十字架が煌めいた。

 これには理解する前に体が動く。振り上げられたスティーブンさんの足と、クッキー缶の間に、手を広げて割り入る。靴底は俺の手のひらに微塵も触れることなく、息を呑む間もなしに、矛先を変えてクッキー缶を蹴り飛ばした。鈍く、重く、砕けた音が玄関の方で鳴った。義眼で追った先では、あの紺と金の星模様のきれいな蓋が、無惨にひしゃげ、しかし凍ることなく諸共吹っ飛ばされた二つ目に悲しそうに寄り添われていた。よかった、無事だ、撫で下ろしかけた胸を、ぐっと掴まれ、ベッドに投げ飛ばされる。悲鳴も出なかった。

 硬いマットに、打撲していた背中を打ちつけ、数秒、息ができなくなる。ようやく白い息を長く吐き出せたと思ったら、その息も食われて消えた。

「ふぅ……! ~~……ッ!」

 顎を掴んだ指で口を開けさせられる、性急なキスだった。頭がついていかない。逃げを打った体を、覆い被さったスティーブンさんの重い体が、ベッドに縫いとめてくる。ばたつかせた両手は、たったの片手で一纏めに握りつぶされた。舌が、冷たい。咥内を無遠慮に掻きまわしてくるその舌に、とうとう、ぐすっと鼻が鳴る。

「ひゃら」

 拒む言葉も、言わせてもらえなかった。彼はいま、血を凍らせるほど怒っていて、そしてその怒りをおれにぶつけている。涙が溢れてこめかみを伝い、冷え切った耳の穴に落ちる。

 これはたぶん、キスなんだろう。
 スティーブンさんにキスされてるって言うのに、ちっとも、からだが温まらない。
 ぜんぜん、幸せな気持ちにならない。
 それがとてもかなしくて、つらくて、なんで怒られているのかも分かっていない自分に、心底嫌気がさす。

 こんなんじゃ。

 こんなんじゃ、すてられてしまう。

「やらぁ……
 やだ、やだ、と泣きながら口のなかでぐずついていると、涙でぼやけた視界の先で、濃紺が細められた。少しだけ、舌の動きがやさしくなる。ちゅう、と吸われ、んっと声が出た。その甘えたような声を聞いてなぜだか気を良くしたのか、益々、口のなかをやわらかく舐っていった。

「んぅ……ンンっ、ぅ」

 上唇を噛まれると、うなじがぞくぞくとした。
 
「はぅ……っ」

 顎を掴まれていなくても、口が開いてしまう。
 寝ているせいでうまく唾液が飲み込めず、口端から垂れていく。

「~~……っ、ぅ、あ、……ッ?」

 顔から離れた手が、胸を辿り、服の内側の身を撫でるように下りて、裾から中に入り込んだ。直接的な冷たい皮膚の感触にびくりと怯える。「や……っ」首を振って唇から逃れると、首筋に軽く噛みつかれた。
「ひっ」
 剝き出しの腰を掴んだ手が、背中を浮かせ、先ほど打ちつけた打撲のあるあたりを撫でてくれる。湿布は、買うのを忘れていた。
「あ……
 まるで労わるような手つきに安心したら、今度は諫めるようにそこを押されて、悲鳴が漏れる。いたい。
「やだ……っ、すてぃーぶんさん、」
 
「限界の、ギリギリまで」

 首元に顔を埋めて、彼が言う。

「優しくしよう、やさしくしたいって、思ってたんだ。だってそうだろ、きみが」

 そこで言葉を切ると、何かを飲み込み、顔を上げて俺を見下ろした。

……いつもは“もっと”って言ってくるのに。今は駄目なんだ?」 

 ぱち、瞬きで涙を落とした。
 明瞭な視界で確かめる前に、スティーブンさんの顔が遠ざかっていく。俺の上から退くと、「戻るよ」と言った。ベッドからも下りる。「部屋は、悪かった。弁償する。仮住まいもすぐに用意するから、そこに住め。今日は結社に来なくていい」それから、と続ける。「しばらく会わない」

 どうして。
 せっかく落とした涙が、とめどなく溢れて止まらなくなる。

 どうしてそんなこと言うんですか。
 だっていつだって、まともに会って過ごせる時間の方が少ないのに。
 スティーブンさんは寂しくないんですか。

 なんで、そんな、傷ついたみたいな顔で、おれから離れていっちゃうんですか。

 ひぐっ、喉が痙攣した。

 自信は、本当だった。
 つまり振られると思って、しゃにむに、泣き喚いた。

「やだあああああ!!!!!!」  

 キイィィイイイン、絶叫が四方八方の氷を弾いてこだまする。

「すてぃーぶんさんと別れたくない! やだ!! おれなんでも我慢するッ! 手も繋ぎたいなんて思わないし、ハグももうやめるっキスは、きすも、もうもっとって言わないから、がまんする、から、だから、もう、いちゃいちゃしたいって、おもわない、から、」

 ひっく、ひっく、酸素の足りないふらつくからだを起こし、スーツに手を伸ばさない代わりに、シーツをきつく握り締め懇願した。

「だからすてないで」

 ず、鼻を啜る音がした。

 おれじゃない。おれの鼻水は垂れまくっていて啜る気力がない。
 
 見上げた先で、背中を向けていたはずのスティーブンさんが、心底戸惑った顔つきで、鼻に手をやって俺を見下ろしていた。びっくり、している。このひとはびっくりしたり、体温があがると、鼻がよく緩む様子がある。今日はじめての、氷の上司の純粋な感情が垣間見えて、そんな場合じゃないのにほっとしてしまった。そんな場合じゃない。振られるかもしれない。

「すてぃーぶんさん」

 どうしたら、振られずに、済むんだろう。

「す、すきっていうのも、めーわくなら、もうやめる。お家にもいきたいなんてわがままいわないし、きゅ、きゅーけーじかんに、ひっ、となりにすわるのも、っく、も、も゛うや゛め゛」

「待て待て待てそれ以上言うな、どうした? 情緒不安定か?」

 すてぃーぶんさんにいわれたくない、俺の口はそんな簡単な突っ込みもできず、ただスティーブンさんが目の前で跪いてくれて、先ほど踏みそこなった、俺の痛いほど握り締めた拳のうえに慎重に手を重ねてくれたのがとんでもなく嬉しくなって、安心して、更に泣き続けた。

「だ、だって、すてぃーぶ、さん、わかれるって」

「言ってないだろ、そんなこと。しばらく会わないって言っただけだ」

「わ゛かん゛な゛いっ!」

「俺も分からん。待て。あー、……分からんな。待ってくれ。理解したい」

 スティーブンさんは眉根を寄せ、めそめそ泣いているおれの顔を手を撫でながら見つめていると、やがてもっと眉間の皺を深めた。「おい待て、誰が何を迷惑だって?」

 ぐすり、こんなかなしいこと、もう一度言わせるのか。

「すてぃーぶんさんが、おれといちゃつくこと」

「誰が抜かしたんだ、そんなこと」

「すてぃーぶんさん」

「言ってないだろ」

「言ってな゛い゛けど言ったん゛ですう゛」

「言ってないだろそれは……

 溜息を吐かれた。
 なんでそんなに呆れてるのかわかんない。
 なんでそんなに、さっきまで、あんなに、怒ってたくせに。
 段々、こっちも腹が立ってきて、握ってくれている手に爪を立てた。深爪気味だった。ただ持て得る握力で握り返しただけとなる。
「だってすてぃーぶんさん、すてぃーぶんさんが、いっつも、おれがもっとって言ってもしてくれないからっ。ハグしても返してくれないし、泊まりにいっても別々の部屋で寝るし、きすも、そんなに、好きそうじゃないし、いちゃつくの、きらいだって、全身でひょうげんするから! だから、おれ……がまん、する。きめました。だからわかれない!」

「勝手に決めつけるな。別れないな? うん。でもそいつは間違ってるぞ」

「まちがってない!」

「分かってないくせに、駄々をこねるな。黙れ」

「やだ!!」

 また、溜息を吐かれた。びくっと体が震える。どうしよう、別れたくないけど、こうやってクソガキじみた抵抗ばかりしていたら、それこそ別離の要因にされるかもしれない。じゃあもう、駄目じゃないか。俺みたいなのが何をやったって、スティーブンさんはその足で、どこへでも行ってしまう。
 とうとう声もなく泣きだした様を見兼ねたのか、彼は涙と鼻水でべたべたの頬に手をやって俯けていた顔を上げさせた。ねちょ、スティーブンさんの手がおれの鼻水で湿った音を立てる。ぐちょぐちょと撫で繰り回された。
「んぶ、うぐ、むぅ」
「ハハ、ぶさいく」
「~~っ! ぶさいくだから、キスしてくんねーんですか、やっぱり!」

「違うよ」

 あっさり、否定された。

 捏ねられている頬が、徐々に熱を宿してくる。唇を突き出させるように頬を挟むと、汚い顔にも関わらず、ちょんとキスをされた。二度、三度。四度目は、ぺろりと口を舐められた。
……ぅ」
 火花が、灯る。ぱち、ぱち。もうどうやら怒っていないことが分かっただけで、あっけなく全身が血潮を巡らせて喜んでいる。涙と、氷と、熱で、視界がきらきら、星よりも瞬いている。
 ぬるぬると、濡れた唇をこすり合わされる。
「~~…………はぅ……

「しょっぱいな」
 スティーブンさんは口を離すと、まだ濡れている頬を袖口で拭い、新たな雫が流れてこないことを満足そうに確かめた。「もっとって、言わないの?」

 ぐう、喉の奥で音が鳴る。見透かされている。本当はもっと、してほしい。
 噤んだ俺の口を、親指がゆるゆると撫でていく。開きそうになったけれど、耐えた。
 スティーブンさんが、笑ってはいないけど、垂れた目尻で言う。

「優しくしたいって、思ってるんだ。だってそうだろ、お前が、」これはさっきの言葉の続きだ、気づいた僕は素直に夜色の瞳を見上げて続きを待った。「……生焼けのホットケーキみたいになるから」

……、」
 首が、傾いた。「……ん、」黙考。「……な。なま。……なんですって?」

「だからそれ以上、手が出せなくなるんだろ」

「ええと、な、生焼けの、ホットケーキ。ぼくが。スティーブンさんにキスされると」

「生焼けのホットケーキでも、中がどろっどろのフォンダンショコラでも、蕩けたりんごのアップルパイでも、何でもいい。柔らかく溶けてるくせに、限界まで焼かれてるみたいに、すぐ涙目になって、震えて、赤くなるから」

「へ。な、なってない」

「なってるんだよ。だから……

 こっちだって、我慢してたんだ。

 そう言われ、傾いていた首が、もう反対方向に傾く。
 よく、分からない。分からないものは、分からない。
……俺が生焼けホットケーキみたいになるとして、それでどうしてスティーブンさんが我慢することになるんですか。おれはすっごく、あなたといちゃいちゃしたいのに。食あたりするからっすか。やっぱりそれってキスされてるときの俺の顔がぶさい」く、は口のなかに入ってきた親指に押し留められた。侵入者を、反射的に食んでしまう。すぐ離そうとする前に、ぐにぐに、親指が舌を押さえてきた。「んや……しゅてぃーぶんひゃん」

「きみさ、僕のことどう思ってるか知らないけど、僕はそんなに無欲な人間じゃない。お前より十三年も長く生きてる男だぜ、恋人との愛し方が、それなりに確立されてる」

 目つきが、厳しくなる。

「十代のうちは手を出さないって俺がどれほど、……お前には分からんだろうさ。それを、もっといちゃつきたい? “いちゃいちゃ”の具体例も幼稚なくせに生を言うなよクソガキ」

 ひえっ。
 あの優しい微笑みのひとかけらもない顔と言い方に、怖くなりながらも、合点がいく。スティーブンさんは、限界値が近づくほど、優しくなる。
 今までずっと限界だったんだ。

 だから、生焼けホットケーキだけに? なんて茶化しは口が裂けても言えなかった。俺は限界を超えたスティーブンさんがどうなるのか、まだ知らないんだ。それから、それから、俺が手を繋ぎたいだとか、ハグしたいだとか、キスしたいだとかよりも、もっとうんと深いことを、このひとはおれに想ってくれている。らしい。さすがに、“十代のうちは手を出さない”の言葉の意味くらいは、分かった。

 それが分かった途端、またほろほろと涙が出てきた。口から親指が出ていく。慌て始めるスティーブンさんにきゅう、と抱きつきに行く。

「ス、スティーブンさんも、おれといちゃいちゃしたいって、思ってくれてる? おれだけじゃない? ハグも、キスも、していいですか?」

……いいよ。けど、俺からは今まで通りだぞ」

「そんでもいいす」

 ぐす、ぐす。

「誕生日までの数ヶ月くらい、我慢しますもん」

 ……それ、誕生日がきたら手を出されるってことだぞ、本当に分かってるのかと苛立たしげに唸っているスティーブンさんの肩口を、べしょべしょに濡らす。そんなの分からない、と心の中だけで言った。だって手を出されたことなんて人生で一回もない、だから、スティーブンさんに分からされなきゃ、この先もう絶対に分からない。
 嗚咽を漏らす僕の背をぎこちなく叩いてくれているスティーブンさんは、「なんだかな」と愚痴っぽく呟いた。「いいな、子どもは大声で泣けて。普通、泣きたいのは僕の方だろ」また分からないことを言っている。でも確かに、さっき俺は、スティーブンさんの傷ついた顔をしかとこの目で見ていた。

「なんかかなしいことあったんですか」
 
 そうときたらこの泣けない大人を慰めてやらなくちゃいけない、僕は使命感に駆られてしがみつくばかりだった体でスティーブンさんの広い背中をなでなで、一生懸命撫で擦った。大変だ。このひとったら何て冷たいんだろう! 泣きすぎたせいで上がりっぱなしの体温だからか、余計にそう感じる。氷の恋人だ。星の輝きすら宿しているくせに、遠すぎてそれが中々燃えているからだと気づかれない、冷血漢。でもほんとは不器用なところもあるって、ちゃんと僕は知ってるんだ。何が悲しいんだろう、どうして泣きたいんだろう、ひとりでこれ以上傷つかないで、なでなでなで、摩擦で温まるように撫で続ける。部屋がみしりと軋んだ。ああ、部屋さえ凍っていなければ、すぐにお湯を沸かしてあげられるのに……

「聞いてくれるかレオナルド」
「ききます、聞きます」
「僕には恋人がいてね。十三も年下の、馬鹿みたいに馬鹿なやつなんだが」
「それはただの馬鹿っすね」
「だろ? 僕もそう思う。で、その馬鹿な恋人なんだが、怖がりでな。怖がりなくせに、僕のことを好きだとか抜かしやがるから、こっちも優しく接してやろうと気を遣ってたんだ」
「スティーブンさん、偉いです。大人です」
「だろ。理性的であろうとしてた。盛りのついた猿みたいに肉欲をすぐには求めたりしない、せめてそいつが成人……いや二十歳になるまで待とうと。だってそいつまだ十九なんだぜ、三十二の怖い上司なんかより、もっといいやつがほかにいるだろ。一時の気の迷いかもしれないし、そいつ馬鹿だから、恐怖を恋と勘違いしているのかもしれない」
……スティーブンさん」
「そんなやつに、仕事でほとんど寝てない、理性のない状態で会えるか? 会えないだろ。自分が何を仕出かすか分からない。一旦よく寝て、それからお詫びでも何でも、してあげたかったんだ」
「やさしいです」

「ところがそうやって部屋に来たら自分そっくりの顔した得体の知れん輩と浮気されてたんだ、その馬鹿に。泣きたくなると思わないか?」

 ビシッ、自分の骨か、部屋の氷かが、もとから硬いのに更に硬直して音を立てた。

 恐る恐る、体を離す。容易に離れた。床に跪いてくれているスティーブンさんを、窺うように見下ろす。垂れた目尻の、表情のない顔で見上げられると、迫力がすごいんだなと思った。つまり、大層怖い。

「う、うわき」自分はショックを受けているらしい。今スティーブンさんが話した内容は、よく考えずとも、俺のことだ。ということは俺は本当に彼の言う通りただの馬鹿なんだろう。弾劾されているとようやく思い至って、けれど往生際悪く首を横に振る。「し、してないです、そんなの」だってだって、おれ別に目玉ちゃんに恋してない。

「どっちでもいいよ」
 薄い唇から白息を吐きながら言う。「ただ重要なのは、」ひとりごとの温度。「きみに別の相手ができたら大人しく身を引く気でいたのに、実際、俺じゃないやつがお前を抱いてるのを見たら身を引くどころか足が出ていたってことだ、最も真理だ。浮気だろうがなかろうが、あれが何でも、殺してやろうかと、」言葉を選ぶような間のあと、結局、ほかの相応しいものが喉に上がってこなかったのか、同じ言葉を言い直す。「殺してやろうかと思ってる。今も」

 部屋奥の二つ目は、惨たらしくひしゃげたクッキー缶の蓋に寄り添い、じっと俺たちの様子を観察している。繋がっている視線からは怒りも憎しみも恐怖も感じない、ほんの少し、気に入っていた棲み家を破壊されて悲しみに揺れているだけだ。その棲み家が既に凍りついている牛乳パックなのか、壊されたクッキー缶なのか、もう雪のなかで眠ってあげられない俺なのかは、ちょっと怪しいとこだけど。俺は慌ててベッドを下り、二つ目のもとまでほぼ滑り込んで抱き上げた。また雪を抱いているような寒い心地に襲われたが、それよりも、スティーブンさんの氷の方が強く、音も色も、全てが煌めき冷たかった。

「殺しちゃだめです」

 スティーブンさんが街灯のように背中を丸めて立ち上がる。「分かってるよ」あんまり、分かってなさそうな低音だ。「お前が殺すなと言うのなら、殺さない。それどうするんだ。飼うのか? 大事ならしっかり見とけよ、今度同じように眠ったら、永遠の虚より深く暗い氷の底で二度と目覚めないようにしてやるぞ」

「ひえ……は、はい」

「少年には言ってないから、安心しな」

 何も安心できない。

 庇うように抱き直したら、笑い皺のひとつもない眦が益々冷たい剣呑さを宿したので、ひえんと震える。腕の中で、まあるい二つ目が、じっと俺のことを見つめている。冷たい。寒い。凍った部屋をどうしようとか、あとで同じクッキー缶を買いに行こうとか、ライブラ二人揃って遅刻ですねとか、色々気にしなくちゃいけないことがあって、まだちゃんと謝れていない(きっとお互いに)こととかもいっぱいあって、けれどもいい加減、限界だった。涙の痕さえ凍りつきそうなのだ。

「す、スティーブンさん」

 とりあえず。
 俺は我慢せずに、体が生焼けになるキスをひとつ。図太くもおねだりした。