さもゆ
2024-12-10 01:39:35
39244文字
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【スティレオ】レオナルドと冷たい恋人

※人間ではないモブが出てくる
※そのモブがレくんとちょっとイチャイチャする
※スティレオは既にお付き合いをしているが、キス止まり
※スティレオハピエン

2021.8.17 たまごのお粥pixiv投稿作品



「おまえ、害は、ないんだよな?」

 朝起きられたことにホッとしたあたり、自分は昨夜、わりと命の危機を知らずと感じていたように思う。
 目覚めたらテーブル上のクッキー缶で寝そべっていた目玉ちゃんは、そう確認してきた俺に、ぱちりと瞬きしている。その大きくまあるい二つの瞳を見つめ、ぞぞぞと這いのぼる悪寒に、諦めて視線を逸らした。眠る間際、あんなに体温の下がっていた体は、いまは通常通り温かい。

 害は、ない。
 たぶん。
 悪気がある生き物に見えない。

 つき合い方さえ間違えなかったら、きっと大丈夫だろう。

 毒のある生き物を飼っているひとだって、世の中にはいるわけだし。

……朝飯にしよ。あ、でもお前、しばらくスティーブンさんの姿になるの禁止!」

 





 そしてなぜか今日も、いきなりスクーターに乗り込んできたザップさんのせいで危うく事故りかけながら出勤したが、途中、よくあるテロに巻き込まれたので今日こそ後ろに先輩が乗っていてよかったと思ったことはない。でなければ、背中の打撲だけでは済まなかっただろう。(とは言えその打撲もほとんどザップさんのせいであったが)

「イテテ」
「大丈夫ですか、レオくん」
「軟弱やのう」
「いやこれザップさんのせいっすからね、あそこでザップさんが避けなきゃこんなことには」
「俺が避けなきゃ俺に当たってんだろーが」
 そうですけども。もうちょっとこっちの運動神経を加味して守ってもらいたかったというか。まあ、いつものことだから、別にいいけど。湿布を貼ってもらった背中を擦りつつ、出社してしばらくもしないうちに先ほどのテロの余波でしっちゃかめっちゃかになっているらしい区画を鎮めに斗の兄弟弟子が揃って出て行ってしまう。口喧嘩をしながらも遠ざかる背中を見送って、打撲したところを気をつけながら、よっこらとソファから立ち上がった。僕には僕の、できることを見つけないと。

「クラウスさん、ギルベルトさん、何かお手伝いできることないですか?」



 倉庫から言われたものを取ってきたり、買い出しに行ったり、ファイル整理したり、ほとんどお使いのようなものをしているうちに、昼になり、ツェッドさんだけ帰ってきて、また懲りずに愛人さんのとこへ行ったザップさんのことを二人で揶揄いながら昼食をとって、またツェッドさんは外に駆り出されて俺は内でお手伝い。クラウスさんも会議や情報収集で外へ出て行き、それに伴うギルベルトさんには、三時の休憩にと珈琲とマドレーヌを託されていた。

 もちろん、スティーブンさんたちの分も。

 三時になって珈琲を温めているとき、俺はちょっと迷った。自分の分も持って行くかどうか。昨日は気づいていたのかいなかったのか、カップごと持って行かれてしまったし、四日目ともなれば忙しすぎて俺になんか構っていられないかもしれない。うん。自分の分を持って行くのはやめとこう。スティーブンさんの顔だけ見て、ちょっとだけお喋りして、それですぐ退散しよう。

 そういうことばかり気にかけて昨日と同じ失敗を繰り返していたところ、塞がった両手じゃ開けられないドアが、昨日と同じように内側から開けられた。
 パッと顔を上げて綻びかけた表情筋が、にわかに強張る。開けてくれたのは、少々疲れた様子の、アニラさんだった。自分でも表情の変化にあからさま過ぎたと自覚し、慌てて取り繕うように声を上げる。
「お、お疲れさまです! あの、これ、差し入れです、マドレーヌ!」
 スティーブンさんに信頼されているアニラさんが、まさかその俺の様子に気づかないはずもなく、ありがとう、と嬉しそうに言ったあと困った顔で後ろを振り返り、また俺に顔を戻した。「ごめんなさい、今ちょっと、手が離せなくて。私が受け取ってもいいかしら」
 気遣われている。それを正しく受け取った俺は、どうぞどうぞと両手を差し出した。難なく受け取ったアニラさんの細い肩がドアを支えているのを見て、腕を伸ばして支えに加わる。中の様子は、窺えなかった、と言うよりは、窺おうとするのを半ば諦めていた。「開けてるんで、どうぞ戻ってください」ほんとはスティーブンさんに言いたいことがあったけれど、それは本当に、大した用じゃなかった。
「ありがとう」
 黒ぶち眼鏡の理知的な瞳が、柔らかく微笑む。それから、彼女は引っ込めようとした体を一度戸惑わせると、人目を盗むように俺の方へ寄せて、囁いた。
「スターフェイズさん、冥王並みに仕事してるわ。きっと早く終わらせて、あなたと時間を過ごしたいのよ」
 ペルセポネも惚れ直して地上に春がこないくらい、それはもう冷徹な仕事ぶりよ。
 囁かれた言葉にあっけなくくすぐったくなって、頬が緩みきる。ハデスに無理やり妃にされた冥界の女王は、一体、いつ自分が丁重に扱われていると気づいたのだろう? きっと神さまも、仕事に追われて、大事なことに気づくのはうんと後なんだ。

 僕はその大事なことに気づいた心地で――実際には、それが間違いだったと、あとで思い知ることになる。大抵の場合だ――やっぱりスティーブンさんに伝えたかったことを、彼女にこっそり耳打ちした。

「あの、ぼく、三日後バイトのシフト休んだんです。もしスティーブンさん、この仕事終わってたら、」
 
 皆まで言わずとも、彼女はにっこり笑って、快く伝言を託されてくれた。






「スティーブンさん、おれに会いたいから、お仕事頑張ってるんだって!」

 最早恒例となりつつある、帰宅早々ベッドに駆けこんでの妄言に、クッキー缶に入りながらも牛乳パックに闇を伸ばしている目玉ちゃんが、ぱちりと瞬いた。

「なんつってな! 一番は世界の均衡のためだよ! でもアニラさんの言った通り、三番、いや、七番目くらいには俺のこと想って仕事してくれてるのかも……十二番目くらいかもしんないけど……いやさ三十……

 ぶつぶつ呟き、くふくふくふと笑いながらテーブル上を見る。ぱち、目と目が合った。

 天井の電気が明滅する。影が伸び、目の前に広がったときには、部屋の明かりは何事もなくスーツ姿のスティーブンさんを照らし出していた。
「俺いま寂しくないよ」
 これもまた嘘だった。
 スティーブンさんの仕事が終わるはずの三日後、ほんとはバイトで一日潰れる予定だったのを、無理を言ってほかのひととシフトを変わってもらった。別に、その一日を丸ごと俺に捧げてほしいわけじゃない、絶対に疲れているだろうし、ほんのちょっとでも、三十分でも、隣に座って珈琲を飲んだりする時間がとれたらいいなと望んでのことだ。
 そのため、明日と明後日は午前中はライブラ、午後はバイトに入る予定だった。……スティーブンさんに差し入れをすることもできない。たったの二日間だけなのに!
「おれいつの間にこんな寂しがりになっちまったんだろ」
 だってこんな街なら、こんな街じゃなくても、もう俺は世界に何でも起こってしまうって、この身をもって知ってるんだ。
 会えるときに、大切なひとと少しでも会っておきたい。

 なら私にもこまめに連絡してよね、と随分前に恋人ができたことを報告したきり、あまり近況を報せていない妹の不満げな声がよみがえる。ごめんよミシェーラ、兄ちゃん恥ずかしくってまともに話せることないんだよ、心の中だけで返す。と、顔に影が落ちた。

 咄嗟に手のひらを口の前に滑り込ませる。皮膚のへこんだところに、冷たい雪が触れた。人差し指と中指の間に、形良い鷲鼻がおさまる。

「だ、だめ。キスしない」

 濃紺の瞳がじっとこちらを見つめていることに、うっと喉が詰まった。まるで不満そうに感じる。スティーブンさんには、こんなこと、ない。

「キスはだめ。だめだからな。ほら離れて、ぐえっ」

 遠慮なしに抱き竦められ二人揃ってベッドに転がった。寒くなってくる。あーあ、と思う。スティーブンさんとも、こうやって、一緒のベッドで眠れたら、どんなに良いだろう……。朝起きて恋人の顔がそばにあったら、どれほど安心か。

……なあなあ」

 ぎゅうぎゅう抱きついてくる彼の背中に腕を回し、出来心、前からしてみたかったことをとうとう、口にしていた。

「おまえのこと、その姿のときだけ、ちょっとだけ、……アランさんて呼んでもいい?」







 スティーブンさんとしてみたいことなんて山ほどあった。
 手を繋いで街を歩きたいとか。ハグされてホラー映画を一緒に見たいとか。新聞を読む彼の隣で、いつまでもゲームに没頭していたいとか。
 それから、眠くなるまでキスをして、そのまま同じベッドで眠りにつきたいとか。

 誰も呼んでいるのを聞いたことがない、ミドルネームで彼のことを呼んでみたいとか。

 どれもこれもが、おこがましくて、ひどい欲望だ。

 スティーブンさんはライブラとクラウスさんに身と心の全てを置いているから、好きになったポッと出の子どもに割く余分なものは何も持ち合わせていないんだろう。だから好きですと言って、僕も好きだよと返してもらえた、それだけで最初は充分なはずだったんだ。

 なのに俺はどんどん欲深になってくる。

 あのひとにおれにあげられるものは何もないと知っているのに、欲しがりになってねだってしまう。困った顔をさせてしまう。我慢しなきゃいけないのに、ちっともそれができない。

 もっと大人になれたら。
 せめて二十歳になったら、何か劇的に変わったりするんだろうか?
 ……残り数か月で自分の幼稚さが急に大人びるとは、到底思えない。







「アランさん、ピザ貰ってきた! 一緒に食べよう」

 おまえはものを食べないから、形だけね。紙のお更にピザを二枚、取り分ける。そのうちの一枚をさっそく咀嚼しながら、もうすっかり馴染んでいるスティーブンさん姿の目玉ちゃんに今日あったことを話しかけた。朝から散々だったのだ。
「なんでか知らないけど、今朝もザップさんが乗り込んできてさ。午後からバイトなんで今日と明日はお昼一緒しませんからねーっつったら、“テメー何勝手に予定変えてんだ、スケジュール通り動かねーと俺に迷惑がかかんだろ”ってしこたま車体揺さぶられた。あれは危なかった。何なんだ、僕の予定はあのひとの生活に組み込まれてんのか? 本気で分かんねえ。しかもバイト先でも集られたし。もしや明日もこんな感じなんかな、やだなー」
 もぐもぐ。チーズがおいしい。
「加えてお客さん同士の小競り合いに巻き込まれてさ、背中の打撲が痛いのなんの。あ、湿布買っとくの忘れた……」油でべたつく手をティッシュで拭き、テーブルに出しっぱなしのメモ帳に買い物メモをつける。「あと新作ピザの売り上げはいまいち。やっぱり異界産の喋る人面じゃがいもはヒューマーには向き不向きがあると思うんだよな。おれも無理だもん。嚙み砕いたときに延々と聖書の文句を……やめようこの話題。とにかくグロかった。ピザは無口がいいよ」 

 もぐもぐもぐ。もぐ。ごくん。

……スティーブンさん、ちゃんと食べてるかなあ」

 以前の事務所閉め出され事件のときは、デスクに、エナドリの墓地ができていたことを思い出す。今回は一週間とは言え、七日もまともに寝食をしなかったら、人間はあっという間に体調を崩すだろう。

「ちゃんと仮眠とってるかな……
 
 あのときの限界値の近い微笑み、心底おそろしかったなあ。

 明後日会うころには、どんな顔をしているんだろう。あんまり、怖い顔をしていなかったらいいけれど。眉間の皺が取れないようだったら、おとなしく、ベッドに誘導して寝てもらおう。

「明後日かぁ」

 なんだかんだで、あと二日だ。
 
「おまえの姿も見納めかと思うと、さびしいな。や、ばーちゃんが戻ってくるまでは家にいていいけどさ」

 その言葉に反応したのか、彼は立ち上がると、後ろに回って抱きしめてくれた。相変わらず寒い。おそらく、この寒さで一晩を過ごしたら、かなりまずいことになると第六感のようなものが警告している。第六感というか、デジャブだ。むかし、子どものころ、積もった雪の中で眠りこけてしまったことがあって、その時の家族の激怒っぷりったらなかった。寝そべる体をあんなに包み込んでくれる雪が命を奪うものだと、はじめて知った。
 しかし辻の老婆の言葉曰くこの生き物に害はなく、すこぶる賢い。どうにも僕以上に、自分が僕とくっついていることに対して、制御しているふうだった。その証拠に、必ず眠るときは自分の部屋に戻っていく。危うく、賢く、そしてかわいい。背中の痛みが、冷えで鈍くなる。

……もう呼べなくなるんなら、いっぱい呼んどこ。アランさん、アランさん、アランさーん、うぎゃっ」

 見上げた先、額に雪が落ちてきた。拒むのは、間に合わなかった。







 お疲れっす、お先失礼しまーす、挨拶して裏口から出る。ドギモピザの裏口は狭く、路地が入り組み、霧が暗く停滞しやすい。その道の一本、比較的安全な開けたところにスクーターを停めている俺は、軽い足取りでそこまで向かった。
 今日も無事、バイトを終えられた。今朝もザップさんに危険な乗り込みをされたけど、それ以外は特に危険もなく平穏な一日だった。よかった、今日怪我をしようものなら、明日スティーブンさんに会ったときに何を言われるか分かったもんじゃないし、そもそも病院送りになって会えなくなるかもしれない。やっと、ようやく、明日だ!
 
 一週間なんて、なんてことない、すぐだった。
 帰ったらちゃんとあの生き物に感謝しなくちゃいけない。彼がいなかったら、七日を永遠のように感じていたかもしれない。

 ほとんどスキップで狭い路地を駆け抜け、道が広くなったところで、スクーターの傍らに人影を見つけ立ち止まる。しかしすぐにそれが誰か分かり、驚いて駆け寄った。

「アランさん!」

 霧に紛れそうなグレースーツ、夜闇もかくやの髪の色、飄々と背の高い。どうして彼がここに? 今まで家から出たことなかったのに。

「む、迎えに来てくれたの? だめだよ、アランさん、」――その姿でうろちょろしたら、どんな誤解を招かれるか、分かんないよ、続けようとした口がぴたりと止まる。

 見上げた先では彼があのよく分からない顔で笑っている。俺はすっかり彼があの目玉の生き物だと思い込みかけていた。だって、明日まで仕事のひとが、こんなところにいるはずがない。
 けれど霧が漂っていても、僕の目は、目許の隈も、無精ひげも、いつもしている黄色のネクタイがない剥き出しの襟元も、正しく視認した。
 何より、ゆっくり頬に宛がわれた手が、つめたく、温かい。きちんと血の通ったつめたさを感知する。

 スティーブンさんだ ・・・・・・・・・

「きみはいつから、俺のことをミドルネームで呼ぶようになったのかな」

 緩く弧を描いた薄い唇からそう零れ落ちた瞬間、ドッと心臓が一際大きく跳ねて冷や汗を噴き出させた。
 触れられている頬が痙攣したのが、自分でも分かる。まるで宥めるように撫でてきた指先を殊更怖く思いながら、いやいやこれは俺が勝手に後ろめたくなってるだけで、バレたわけじゃない、と慌てて口を開く。

「あ、あの、ずっと、呼んでみたくて。呼ぶ練習、してたから、つい、ご、ごめんなさい。馴れ馴れしかったですよね、すんません、もう呼ばないです、ごめんなさいスティーブンさん」

 とは言え咄嗟に言い訳ができるほど頭は回らず、ほぼ本音と事実を告げたところ、そうか、と指の腹で下瞼をこすられた。そうか。そうか? ってなんだ? 怒ってる? 呆れてる? 嫌がられてる?

 泣きそうな気持ちで下唇を噛んだら、頬を撫でていた手が顎に下りて掴んできた。ひえ、出そうになった怯えは、スティーブンさんの口に飲み込まれた。目を見開く。

 ちょっと眉間に皺を寄せた、苦しそうな笑みの目と目が合って、慌てて瞼を閉じた。混乱だ。なんでそんな、まるで下手くそな微笑みを浮かべて、なんで。
 顎を掴んでいる指も硬いし、というか顎なんて、そんな乱暴なとこ、掴まれたことがない。

「ひ、すてぃ、」

……黙って」

 低い声に、言われた通り、黙った。目も口もぎゅっと閉じて身を固くしていると、押しつけられるだけだった唇が、やわやわと僕の唇を食んだ。ふ、と息と体の力が抜けていく。わけが分からないし、なんだか怖いし、いつもと違うけど、その感触だけは胸をふわふわ上擦らせてくる。
「ふ、んぅ、ぅ」
 ちゅ、ちゅ、と繰り返されるたび、頭からほとんどのことが薄れていって、代わりに広がるのはスティーブンさんが好きだなあという気持ちと、キスをされているという喜びと、もっとしたいという欲望だけだった。彷徨わせていた手で、きゅう、とスティーブンさんのスーツの胸元を握る。
「んぅ、ぅ~~……
「口開けて」
「ふぇ」
 な、なんで? 
「レオ」
 疑問を発する前に、促されるように指が顎下をくすぐってきて、ぱかり、従順に口を開けていた。柔らかい唇にまた食べられたかと思えば、今度は、開いた口にぬるりと肉厚なものが入ってくる。

「ひっ……

 逃げたい、と思ったのに、手は反対にスティーブンさんにもっと縋りついていた。
 氷のようにつるりとした舌が、俺の口のなかを舐めて、体内の熱さを意識させてくる。耳の裏まで熱があがって、すぐに涙が滲んできた。顔が火照って、火照って、このまま溶けるか、焦げるかしそう。やがて引っ込んでいた舌を捕らえられ、いつの間にか回っていた腕に、跳ねた腰を押さえつけられた。

「ひぅ……っぁ、~~んっ、ンぅっ、……にゃ」

 見られ、てる。
 視線を感じる。
 スティーブンさんの視線は、いつもクラウスさんの周りに向けられてる。
 キスするときだけは、おれのこと、見てくれてる。

「はぅ」

 出ちゃいけない声が、出そうになった。
 あまったるい、おれが出しちゃいけないような声が、すぐさま唾液混じりに口から出て行きそうになった。こく、こく、口のなかいっぱいに溜まっていくおれの唾液と、スティーブンさんの唾液を飲み込む。そうしないと、顎を伝っていきそうだったし、ちゅく、ちゅく、耳を侵してくる濡れた音にも、耐えられそうになかったから。

「ンぅッ、ふ……あぅ」

 そのうち足に力が入らなくなって、かくりと膝が曲がった。けれど地面に尻もちをつくことはなく、腰に回った腕がぐいと体を引き寄せてくれる。足の間が、押しつけられたスティーブンさんの太腿に擦れて、へんな気持ちになった。きゅん、とお腹の底が引き絞られたみたいに、こわくなる。

「す、すてぃ……んっ! ぁ、ッ~~……

 こんなに何度も、長い間、キスされるの、はじめて。
 こわいけど、うれしい。
 
 ぱち、ぱち、小さな火花がたくさん弾けてくる。
 体はもう汗ばむほど熱くて、脳みそもきっと、茹っていた。

 それでも俺よりは低い体温にくったりと縋りついて、はふはふと下手くそな呼吸を繰り返す。
 腕と、脚の逞しさに支えられ、そのまま、火花がどんどん大きくなって、瞼の裏側を白く焼こうとしたとき。

 またパッと熱が引いていった。

「ふえ……」 
  
 夜の海みたいなひとを泣きそうになって見上げる。

 そのときのスティーブンさんの顔といったら、桜も恥じらいそうなほどの壮絶な春風を浮かべて、たとえばここが職場だったならその微笑みは俺をゾッとさせたけど、二人きりのときはただものすごく微笑まれているとしか思えなかった。優しそうだ。くい、と握りすぎて皺になっていそうなスーツを引っ張る。
「も、もっと」

「もうお終い」

「うえっ」

 素っ気ない断りに、一気に熱が引いて茫然とする。スティーブンさんは体すら離した。

「悪いな。ちょっと、休憩がてら、顔を見に来ただけなんだ。それと言わなきゃならないことがあって――

 ――なんだかものすごく、その先の言葉を聞きたくない。

「明日、一緒に過ごそうって言ってくれただろ。あれ、悪いんだが、」

「お仕事、終わらないんですか」

 聞きたくないから、問うていた。

「いや。夜明けまでには終わらす。いま最後の修正なんだ、必ず成功するよ」

「そ、そうですか。良かったです、お疲れさまです」にへ、とさっきまであんなに熱かった唇が、すうすう冷たいのを誤魔化すように、無意識にも動いていく。「そりゃ、疲れてますもんね。ゆっくり、休んでくださいね。せっかく午後休、クラウスさんからもらったんだから、有効活用しないと。俺がいちゃ、休まらないですよね」だからしょうがない。

 しょうがないから、気の抜けた笑みだけ浮かべてろ、俺の顔。