さもゆ
2024-12-10 01:39:35
39244文字
Public BBB
 

【スティレオ】レオナルドと冷たい恋人

※人間ではないモブが出てくる
※そのモブがレくんとちょっとイチャイチャする
※スティレオは既にお付き合いをしているが、キス止まり
※スティレオハピエン

2021.8.17 たまごのお粥pixiv投稿作品

 スティーブンさんと一緒にいるとキスがしたくて堪らなくなる。
 目の奥に火花でも飼っているみたいに頭の中がパチパチ弾けて、熱烈に彼の唇へと視線を注いでしまう。やがて全身まで熱に浮かされて、どうにかしてほしくて、氷の彼に擦り寄ることもある。そうするとスティーブンさんは、一瞬、火傷でもしたみたいに身を強張らせて、レオと呼んでくれる。そのまま額にでもキスをしてくれたらまだ熱の治めようがあるのに、唇にも、額にも、俺の頭より上にある口が下りてくることはなくて、俺はただくうくう、待てをする犬みたいに抱きつくだけ。
 それどころか、背中に宛がわれた手が、それ以上強く抱き寄せてくれることもない。

 これが恋人になった俺とスティーブンさんの触れ合いだ。
 大体おれが甘えて、キスもハグも滅多にしてこない彼に、ぎゅうと抱きつきにいく。

 段々と、分かってきた。俺はスティーブンさんがはじめての恋人だけど、これくらいは、わかる。世の中には二種類の恋人がいる。

 つまりスティーブンさんは、あんまり恋人といちゃいちゃしたくない派の恋人なんだ。

 そうして俺は、恋人ともなればたとえ怖い上司であっても、ものすごくいちゃいちゃしたい派の恋人だった。







「エッ。いっしゅうかん」

 久々に訪れたスティーブンさん家のダイニングチェアに座るがいなや、聞かされた内容に、くるりと振り返った。
 キッチンでヴェデッドさんのつくったビーフシチューを温めているスティーブンさんが、背中を向けたまま、ああと頷く。

「かかるだろうな。一週間で済めばいいが……いや充分だ、七日の間にやつらの骨をクラウスの胃薬と飲み干せるくらいにはすり潰してやる。精々足掻けばいいさ、その足さえ捥ぎ取って皮を剥いでくたくたになるまで煮込んで、やつらの頭蓋に虚ろなシチューを注いでやるぞ。俺は決めたんだ」

「まさしく完膚なきまで……こわい、えぐい、ぐろい」

 顔を見なくとも口端をつり上げて笑っているのが分かる声音だ。食事時にやめてくださいようと情けない声を上げた俺は、椅子の下、爪先しか床につかない足をぶらぶら彷徨わせた。
 確かにこの家に入ってから浮ついていた気持ちが、足先の揺れとともに、ゆっくり落ち込んでいくのを自覚する。いっしゅうかん。

 一週間かけて、スティーブンさんの纏めるチームが、ここずっと睨んでいた組織をとうとう追い詰める作戦にかかるらしい。
 俺には全く関係ない領域での仕事だった。スティーブンさんは忙しい。あっちで書類仕事をしていると思ったら、こっちでは戦い、そっちでは指揮をしている。どっちに行っても、俺が仕事で関われることはほとんどない。挨拶と、報告と、休憩中の雑談。職場での関わり合いなんてそれくらいだ。

 だからすっごく、すっごく、お家にお呼ばれするときは、嬉々として飛んでいく。
 今日だって、一緒に夕飯食べようってメッセージを送られた昼間のバイト中の時点で、いかに事故に遭わずに安全最速のルートでスクーターを飛ばせるか、そればっかり考えていたのに。
 また一週間、ほとんど会えなくなるかもしれない。

「スティーブンさん」
 
「ん? 待ってな。もーすぐでできるから」  

 椅子を降りて、とぼとぼ背中に近づいていく。スラックスからはみ出しているシャツの皺を引っ張った。振り向いてくれる。「……どうした?」

……キスしたいす」

 目の奥でじんわり、火花が灯ろうとしている。我慢はしていた。だってスティーブンさんはあんまりこういうの好きそうじゃないし、別にそれでも構わないんだ、無理強いしたいわけじゃないし、尊重したいし、ひとそれぞれだし、俺だって好きなひとのそばにいられれば、せめてそれだけ許してくれるならばそれだけで幸せに思えるくらいの、そういう心だってちゃんとある。
 でもキスがしたくて堪らないんだ。
 ハグだってしたいし、手だって繋ぎたい。
 
 両手の指で数えられるくらいのキスをしてきたけど、ひとつ増えるたび、もっともっとと欲しくなる。足りないって思ってしまう。好きなひととのキスは、幸せで、ふわふわして、でもその薄い唇にちょっと毒でも塗ってあるんじゃないかってくらい、からだが痺れて思う通りに動かなくなる。それがたまに怖く感じるけど、やっぱり何度だってキスしたいと思わせてくる。一週間、べたべたしないように我慢するから、せめて今くらいはキスがしたい。

「スティーブンさん」

 だめですか、窺うように見つめていると、鍋を掻き混ぜていた手が俺のうなじに伸びて、襟足をくすぐった。そのまま、くい、と首の角度を変えられる。細められた濃紺の瞳が近づいてきて、俺はやった、と胸の内側を躍らせながら瞼を閉じた。瞼の裏側で煌めいている残像は、唇に柔らかなつめたさが触れたときには、ぐっと赤みが増して火花となる。胸の内でも、何かが弾けそうになった。

「ん……

 好きだけど、緊張する。
 好きなひとだから、緊張する。
 ヘンな顔になっていたらどうしよう。いやきっとなっている。だって顔に変な力が入って、まつ毛まで震えている感覚がする。耳たぶが熱い。
 うなじを支えている長い指が、すりすりと皮膚をこすってくる。くすぐったい。くすぐったいんだろうか? わからない。でもすきだなと思う。
 ちゅう、触れるだけだった唇が、ちょっとだけ、俺の上唇を吸った。腰がびくっと跳ねた。

「はぅ……

 鼻で、息しろって、教えてもらったのに、ちっともうまくいかない。むしろ鼻で息したら息したで、鼻が膨らんでもっとぶさいくにならないかが心配だ。できれば、こいつぶさいくだなって思われたくない。

「ぁ……っ、ふ、……

 唇をぴったりくっつけられたかと思えば、ちょっと離れて、繰り返し。そのおかげで徐々に緩んできた体を、ぐいと引き寄せられた。開いた唇も、もっと深くくっつけられる。

「は、っ、っぅ~~……

 腰に回った腕が、下半身を密着させると、俺はちょっと泣きそうになった。足と腰、が、へんに震えているのを知られてしまったら、呆れられるかもしれない。キスひとつで力が抜ける、へなちょこなガキだって思われるかも。実際、その通りなんだけれど、その通りなんだけれども……

「んっ……

 でももっと、もっとキスしたい。

 その思いのままシャツを掴んでいた手を背中に回したら、口がすぅと冷たくなった。理由は簡単で、キスが止んだからだ。いつの間にか水分を含んで束になったまつ毛を持ち上げ確かめると、変わらず瞳を細めたスティーブンさんが俺を見ている。やさしい顔をしていたことに、すこし安堵する。

「すてぃーぶんさん」

 と同時に、不思議になった。どうしてそんなに優しそうなのに、キスをやめちゃうんだろう。ぜんぜん、やさしくない。もしかしたら、背中に回した手が、制止の合図だと思われた?

「やだ。もっと。もっとキスしたいっす」

 子どものころ、親にゲームをおねだりしたときよりも、うんと甘えた声が出たことに自分でもびっくりする。それぐらい、ほしかった。
 スティーブンさんは微笑んだまま一度俺の腰を更に抱き寄せると、期待していそいそ瞼を閉じた俺の口ではなく額に、ちゅっとキスをおくって体を離した。ぱちっと目を開ける。

……シチューが焦げるぜ。夕飯にしよう」

 それは俺でも分かる、はぐらかし、だった。







「スティーブンさんとイチャイチャしたい」

 思わず呟いた瞬間、肩に乗っていたソニックが音速で逃げた。あいつはひどいやつだ。散々ッぱら聞かされてきた愚痴はもうたくさんだということだろう。ひどいのは俺だ。
 
 はあ、溜め息を霧に紛れこませながら、ライブラからの帰り道をスクーター押して歩く。
 車道は酔っ払ったかラリッたかの生体車が多く、あれに巻き込まれるくらいなら酔っ払いが倒れている歩道を気をつけて歩いた方が生存率が高かった。とぼ、とぼ、ごと、ごと。ふわりと漂うのはどこかの店のディナーのにおいで、昨日のビーフシチューと、スティーブンさんとのキスと、今夜からライブラに缶詰めになるスティーブンさんと交わした「しばらく一緒にいれないからな。自分でも、ちゃんと、マトモなもの食えよ」「……スティーブンさんだって、ちゃんと飯と睡眠とってくださいよ」というどうにも上司と部下の域を出ていない会話を、ぐるぐる思い起こす。

 昨日はあれから、美味しいシチューをいっぱい食べて、いつも通り、お喋りしてから何事もなくゲストルームに泊まらせてもらった。さすがに一緒に寝たいだなんて、段階をすっ飛ばしたおねだりはしないけど、キスをしてそのまま一緒のベッドでくっついて眠れたらどんなに良いだろうとは、たまに考える。ああ、でも、無理そう。スティーブンさん、他人が隣にいたら眠らなさそうだし……

 他人は他人でも、恋人なのになあ。

 つい恨みがましくなりかけた思考を、頭を振って打ち砕く。だめだ。ひとにはひとの、距離感というものがある。そもそもスティーブンさんは仕事人間だ、俺とは違ってキスしたいとかイチャつきたいとかいう欲が薄いのに、俺につき合ってああやって抱きつかせてくれたりキスしてくれたりするんだ。そんだけでいいじゃないか。おまえは充分受け入れられてるぞ、レオナルド・ウォッチ。

「スティーブンさんと、いちゃいちゃ、したい」

 だのにこの口と来たら黙ることを知らないらしい。はあああ、ため息をでかでか、吐きつくす。

 項垂れたまま辻を曲がる。タイヤの先に見慣れた地面が消え、わっと車体を逸らした。露店が広げられていたからだ。地面にしいた絨毯の上にこぢんまり座っているお婆ちゃん(正真正銘、お婆ちゃんだ。人間の)が皺で埋もれている瞼を持ち上げ、傾いた俺を見やった。
「大丈夫かい」
「だ、大丈夫です」
 踏ん張り、転倒は何とか免れる。危ない。「すんません、不注意で。どーぞお構いなく……
「見て行かないかい」
 目が、合う。つぶらな瞳はきらきらしていた。うっと喉が詰まる。「ええと、ごめんなさい、いまお金がなくって」
「タダでいいよ。物を減らすか、貸したいだけなんだ」
「見ます」
 老婆から怪しいものは何も感じない。つい反射的に答え、答えてしまったからには端にスクーターを置き、しゃがみこんで冷やかしにかかった。帰ったところでひとり寂しくうだうだ考えるくらいなら、ここでちょっとでも時間をつぶした方が精神衛生上いいだろうと思ってのことだ。それに、幾何学模様の絨毯の上には、見たことないものがたくさんあって興味が沸いた。しかしほとんどガラクタに見える。心臓の形の壊れた時計に、足がひとつ多いペンギンのぬいぐるみ、黒々とした墨のようなものが入った空き缶。少し珍しいものもある。中で小魚が泳いでいるガラス玉とか。(小魚はどこからともなく現れたサメに食われた)
「ばーちゃん。物を減らしたいって、もしかして断捨離みたいな感じ?」
「そうとも言うね」
 皺だらけの喉でぐつぐつと笑う。「孫に会いにここを出るんだが、いかんせん、持って行けないものが多くてね。捨てるか、譲るか、あたしが戻ってくるまで面倒見てもらうか。往生してたんだよ」
「えーと、わかった、じゃあほとんど、もしやガラクタじゃないっすね?」
「そうとも言う。これなんか、どうだい」

 皺だらけの枯れ枝のような手が、ひとつの品を持ち上げる。どう見ても口の開いた牛乳パックだった。片手サイズ、たぶん何でも物が大きい元紐育じゃあんまり見られない小ささ。

「覗いてごらん」

 言われるがまま、牛乳パックの中を覗いてみる。と、中は真っ黒だった。塗りつぶされているわけでも、カビでもない。田舎の暗がりのような闇がただ広がっている。すると月光が射したかのように闇がさざめき、ぐるりと二つの目玉が浮き上がった。

「ウワァッ!」
 驚いて尻もちをつく。確実に牛乳パックのなかの目玉と視線が絡み合っていた。な、なんだっ? ドキドキしている心臓を押さえつけ老女に糸目で訴えかける。また楽しそうにぐつぐつと笑っていた。
「目が合ったかい。いくつ目だった?」
「は、はい? ふ、ふたつ。目が。牛乳パックのなかに!」
「ふたつか。アンタ運がいいね。二つ目のやつは賢い。一つ目は無邪気だがその分厄介だし、三つ目はオイタが過ぎる。二つ目はね、害がないよ」
「は、はあ」
「持って行きな。あたしがまたここに戻ってきたときに、返してくれりゃいいから」
「はい!? えっなっなんで」

 こんな得体の知れないもの、押しつけられても、言う前に辻の老婆が首を傾げて言った。

「だってアンタ、寂しいんだろう。寂しくなきゃ、こいつと目なんか合わないよ」






「馬鹿オメー、ンな時間に道端で無傷で店開いてるバーサンなんざ百パー怪しいだろ。何ふつうに気色わりィもん貰ってきてんだ。とっとと捨ててこい」

 おっしゃる通りで、ひとの家に勝手に上がり込んでスナック菓子まで食べている職場のチンピラ先輩は、こういうとき、何より正しく見える。褐色の頬にくっきり浮いている紅葉模様も霞んでくるから困ったものだ、無断侵入に無銭飲食かまされてるっていうのに。

 自分の家に帰ってきたらザップさんが遊びに来ている光景は見慣れたもので、しかし最近とんと来なくなっていたから懐かしささえ感じる。前は帰った早々、ちょっと何やってんすかクズ先輩、と声が枯れるまで喚いていたのに。手に持った牛乳パックへの不安は凄まじく、今回ばかりは、詰るよりも経緯が口をついて出てくる方が早かったほどだ、ひとのベッドに座っている先輩が勝手に冷蔵庫に残しておいたピザを食べ始めても、まだ文句も出てこない。ただ心のなかで、それおれのピザ……と恨めしくは思っている。

「も、貰ったわけじゃないっすよ、預かっただけで」

「じゃあ今すぐ返してこい」

「ふ、振り返ったらもういなかったんです、あのお婆さん」

「オメーなんつったっけ?」白い眉がひょいと上がる。「“普通そうなおばーちゃんから目玉の入った牛乳パック預かった”? どこが普通そうなんだよ、お前もう駄目だ、この街に毒されてる。二度と普通って言うなよ、意味も分からず使われてる普通がカワイソウ。分かったな、陰毛くん?」

「怒涛の嘲りやめてぇ! 反論が挟めねーでしょ! 違いますよ、普通そうって言うのは、なんかこう、悪意を感じないとか、そーいうので! 俺だってあのばーちゃんがもっと邪悪そうだったらこんな怪しいモン預かってこないっすよ!」

「見るからに邪悪なもんが怪しい物押しつけてくるかよ」

「義眼はそうでしたもん」

「あークソ、ペースが崩された。そいつ引き合いに出すのは卑怯だろが。いーから捨ててこい、マジで悪じゃないっつーんなら、勝手に捨ててもどーもなんねェだろうよ」

「ひとのもの勝手に捨てんのは悪っすよ」

「普通で反論すんのヤメロや。ちょっと貸せ。見せろ」

 ベッドで胡坐をかいているザップさんに牛乳パックを手渡す。そのまま窓から投げ捨てられたらどうしようかと危ぶんだが、開いている口を覗いたザップさんは、思い切り顔をしかめた。「俺にはなんも見えねーけど」
「え、うそ」
 肩に激突する勢いで隣に座り、俺も牛乳パックの中を見る。いる。暗闇のなかに、目玉焼きのような大きな目玉が、ふたつ。目の色は黒だが、じっと見つめていると、まるで赤も青も黄色もちかちかと瞬いて見えてくる。遠い銀河のような、途方もない畏怖を覚え、ゾッとして顔を仰け反らせた。
「いるじゃないすか、目玉、うう、じっと俺のこと見てる」
……俺にはただの飲み干された牛乳パックに見える」
「えっ、……暗闇も?」
「白だろ、パックん中っつったら。あーあーお前マジで、」妙なモン掴まされやがって、ザップさんが盛大に呆れて俺に牛乳パックを押しつけた。「捨ててこい。それか、明日にでもライブラに持ってこい。したら旦那か番頭が何とかしてくれる」

 それを受け取り、ザップさんの口から出てきた人物名称に喉が詰まる。スティーブンさんは、だって、ザップさんも知っての通り、しばらく忙しいじゃないっすか。ってことはクラウスさんも、結社をひとりで統率しなきゃなんねーんすから、忙しいでしょ、まだ何ともなってないのに、面倒かけるのは、ちょっと……ごにょごにょ。口の中だけで言っていると、スパン! 頭を叩かれる。「イッテェ! 何すんすか!」
「うっせー。ごちゃごちゃ抜かしてっからだ。ウチは報連相が基本なん忘れたんか。旦那によく言われてんだろ、些細なことでも相談しろって。それをせずに痛い目遭うのはどこの誰だよ」
「で、でも、相談しても痛い目に遭うときは、遭います」
「相談しなけりゃ死んでんだろーが、その場合」
「ぐう」
「ぐうの音出してねーでいいから黙って首縦にしとけ。第一、あのひとが忙しいからこそじゃねーの。知らねー間に自分のモンが目玉入り牛乳パック掴まされてる身にもなってみろや、ゾッとするね」
「誰の話っすか?」
「え? お前なに、言わせたいの? ラヴァハラで訴えるわよ」
「何キャラっすか。ラヴァハラって何すか」
「ラヴァーズハラスメント」
「らばーずはらすめんと」オウム返しをし、会話を振り返る。正しく理解した。「そんな! 俺ってスティーブンさんのモンなんすか!」他人から恋人同士に見られているのは、素直に、とても嬉しい。パッと喜色に満ち振り上げた拳を、しかしすぐにベッドに振り落とした。「まさか! ラヴァーズですけど、スティーブンさんが俺に対してそんな執着持ってるなんて思えない!」言って悲しくなってきた。それはザップさんの感覚でのことなんだろう。ザップさんにとっては、恋人や愛人は、自分のものであり、自分もまた相手のものなんだ。スティーブンさんは違う。

 俺の叫びを聞いたザップさんは反吐を出しそうな顔で呻いた。

「オメーマジで」

 バ・カ。

 後半の言葉は声に出すにも億劫だったのか、唇の動きだけで罵られた。何なんだ。加えてなんでそんな憐れむような眼差し向けらんなきゃいけないんだ。今の自分がそれほど馬鹿なことを言ったとは思えない。「なんすか、何すかぁ」なんだか本気でどうしようもないと思われていそうな態度に、でも何がどうしようもないのかいまいち把握できずに情けなくなってめそつく。ザップさんは構わず立ち上がった。
「いーから報告しとけよ。それと、牛乳パックのお化けチャンは目玉持ってんだな? ならそこは信頼しとくぜ、何かされたら容赦なく目玉掻き混ぜてやれ」
「え。ザップさんどこ行くんすか」
「アリアンナのとこ」
「頬叩かれたのに?」
「それはモルガン」
「げーっ! 刺されても知らねーっすからね。……泊まってかないんですか」
「ったりめーだろ」
 テーブルのピザを血法で取って食べながら(最後のひとかけらだった)狭い玄関に向かう白い背中へ、俺はベッドからぶうたれた。「ザップさん最近つき合い悪い」前みたいに突然遊びに来たかと思えば、どんなにゲームがいいところでも泊まってはいかなくなった。一応職場の先輩とは言え、更にとんでもないクズと言えど、友だちみたいに仲の良いひとと、一晩中騒いでいられるのは人生で楽しいことの上位に入るのに。
 ふくれっ面とジト目で睨んでいたら、ザップさんがドアを開けざま顔だけで振り返って、心底嫌そうにへの字口を動かした。

 バーーーーカ。

 バタン、ドアが閉じる。

「なっなっ何なんすかぁ!」

 めそっ、枕を投げつけた。



……キャベツ食べる? 萎びてるけど。あ、りんごもあるよ。……萎びてるけど」
 
 HLのペットショップに行けば目玉との適切な過ごし方を教えてくれたりするだろうか。

 お婆ちゃんは“害はない”“世話をする必要もない”みたいなことを言って霧のどこかに消えてしまったけれど、目玉が暗闇のなかで瞬きしていることから察するに、やっぱり、この目玉、ちゃんと生き物なんだということが分かってそこはかとなく責任感を刺激されてしまう。無暗に預かるべきじゃなかった。
 それに、義眼になってからというもの、視神経の繋がりをよく感じる。自分のも、ほかの生き物のも。自分の目から見えない糸が繋がって、複雑に絡み合い、ほかのものへと辿り着く。それを一本一本選別するのは難しく、だから大勢がいる中での視界を混合させるのはどうしたって周囲一帯になってしまう。けれど自分の部屋で、自分と、もうひとつ目玉があるだけだと、強烈にひとつの繋がりを意識してしまうのだ。目玉はずっと、じっと、俺のことを見ていた。

「怖いよう」

 比較的鮮度が保たれているキャベツの葉を持ったまま、しくしくと牛乳パックから目を逸らした。うう。逸らしても見られてるのが分かる。義眼でパックごと観察してみたりもしたけど、特に術式がかけられているわけでもなく、ただ暗闇のなかに目玉があるだけで、義眼で見てもそうということは本当にこういう生き物だというわけで、話しかけてもうんともすんとも言わないし、物も食べないし、そもそも口がなさそうだし耳もなさそうだしで、もう、本当にどうしたらいいのか分からない。

「お、おれ、寝るよ? 寝ちゃうからね?」 

 この生き物を預けてきた老婆の“害はない”という言葉を信じて質量を感じない牛乳パックをテーブル上に置き、ベッドに潜り込んで毛布を抱える。電気を完全に消すのは怖かったので常夜灯にしてテーブルの方を向いて横になった。めっちゃ見られてる。パッチリお目々でめちゃくちゃ見られている。見えなくとも感じる。

「ううう怖ぇ」

 いつ何時も命綱の端末をぎゅっと手に持ち、そろそろと画面へと視線を下ろした。当然だ。スティーブンさんからのメッセージはない。今もきっと、事務所で仕事をしている。こちらから何かメッセージを送ろうか――お疲れさまです、おやすみなさい、それとも、目玉を預かりました? ――考えて、結局、何も送らずにぎゅっと瞼を閉じた。

“寂しくなきゃ、こいつと目なんか合わないよ”

 辻で言われた言葉と、瞼を閉じても感じる視線を、必死に頭から追い出しにかかった。



 朝になっている。

 いつものことだ。むかしっから、どんなに怖い映画を見ても、風呂やトイレ、ベッドに入る瞬間までは怯えまくって今日もう俺寝らんないと思うのに、いつの間にかちゃんと眠れている。HLに来てからもその図太さは健在で、おかげで未だに不眠症などになったことがない。健康優良児候補になってもいいはずなのに、どうしてだか、身長はあまり伸びなかったが。

 蹴飛ばしていた毛布を拾い上げ、湿気と寝癖で鳥の巣になっている後頭部を掻きつつテーブルを見ると、牛乳パックは変わらずそこにあって、そして視線も感じていた。まさか一晩中見られていたんだろうか?

「とりあえず、おまえに害がないってことは分かったよ。おはよう」

 開いている口を覗き込むと、ぱちり、大きな二つ目が瞬いた。

 支度を始める。
 シャワーを即行で浴び寝癖を直して(正直寝癖なのか元々の癖なのか自分でも分かっていない。こういうとき癖毛は便利だなと思う)鏡で義眼を確認し、いつもの服に着替え、食パンをトースターにかける。時間がないときは生のまま食べるが、今日は、いくら眠れたと言ってもやはり緊張していたのか、いつもより随分早くに起きて余裕があるため、焼き上がったトーストに萎びたキャベツを乗せてハインツのケチャップを塗りたくってからかぶりついた。オレンジジュースも取り出して、コップに注ぐ。備え付けの小さなシンクに立ったままもたれかかり、もっもっと食べ続け、無言でテーブル上の牛乳パックと見つめ合った。

 どうしよう、考える。ライブラに持ってった方がいいんだろうか。いいだろう。あれは怪しい。害はなくても、あの目玉が何なのかくらいは調べてもらったっていいはずだ。でも、スティーブンさん、昨夜は眠る時間はあったのかな。寝てなかったら、声、かけづらいし、第一わざわざ別室で仕事をしているスティーブンさんチームのそばに寄りづらいし、いやだからクラウスさんにまずは報告して……

「ライブラ……行きづらいな……

 呟いてしまってから、思い切り頬の内側の肉を噛んで自戒した。ケチャップが染みて悶える。何を言った、俺いま。言っちゃいけないことを言ったな。
 私情を挟んで仕事に集中できなくなる部下なんて、スティーブンさんが最も嫌いそうなタイプだ。本当にだめだ。だっておれ最近じゃライブラにいるときだってスティーブンさんとキスしたいなって思っちゃうときが多々あって、そんなの本当に、きらわれ――

 ――不意に暗がりが顔に落ちて、俯けていた顎を上げる。もぐり、最後のひとくちを口に押し込んでいたから床や服がケチャップ塗れになることは免れたが、押し込んだせいで悲鳴が出せなくなった。んぐっ、喉が鳴る。

 牛乳パックから暗闇が広がり、伸びて、天井まで這い寄り、音もなく俺に覆い被さろうとしていた。
 ちか、ちか、星が瞬いている。違う。つけっぱなしの常夜灯が明滅している。そのなかを、大きな二つ目がぐるりと鼻先まで迫り、暗いまぶたを半分、下ろした。視線が絡み合っている。背を反らしたところで後ろはシンクだ。反射的にぎゅっと閉じかけた糸目を、しかしまた脊髄反射で開き切った。この目を逸らしたら、俺にできることは何もなくなる。義眼のおぞましい燐光に照らされた目玉は、一寸、その闇を膨張させると、ゆっくりまぶたを閉じきった。

「え、」

 そして波が引くように影が小さくなっていく。いいや、俺よりは大きな人間の形をつくると、まるで電気がつくように、それはいつもの革靴とスーツを身につけたスティーブンさんの姿となった ・・・・・・・・・・・・・・

「は、」

 処理能力が遅れ、瞬きを繰り返すだけの俺の体を、そいつは何を考えているかよく分からない笑みで見下ろし、腕を伸ばして抱きしめてくる。

「えっ、」

 それから、ぎゅう、と力がこめられた。

「ひえっ、」

 生身の人間の感触、それも記憶と違わない――もしかしたら違っているかも、だって俺から抱き締めにいくことは多くても、抱き締められることは少ないから、ひょっとすると何か違うかも、いや違うだろこれはだってスティーブンさんじゃな、「わっわっワア、ァ、あああ」吐き損なった悲鳴を切れ切れに吐く様は間抜け以外の何者でもなく、藻掻こうと伸ばした腕で背中を掴むものの、更にきつく抱きしめられて完全に硬直してしまう。何が、どうなって、ごきゅり。口からまろび出そうになった心臓かトーストか分からないものを飲み込む。何がどうなってるんだ。

「あ、あ、あの、」

 義眼を巡らし、拡大、縮小。視神経が繋がっている。ずっとだ。俺とあの目玉の視線は、合っている。グレースーツの胸元に押しつけられている顔を、頬を擦りながら上向かせ、彼の瞳を見た。
 首筋に暗色の刺青もある。頬の傷。鷲鼻。そして、濃紺の瞳。けれどその瞳は、確かに、あの目玉の視神経と同じだった。これはスティーブンさんじゃない。HLの摩訶不思議、そういう生体か幻術か行き過ぎた科学か、魔法か、ただスティーブンさんの姿を借りているだけの、全く別の生き物だ。
 
 雪のような体温の冷たさが、それを証明している。――スティーブンさんの体温は、ここまで冷たくはない。

「は、離して」
 
 あんまり、弱々しい声で訴えた。よく分からない微笑みを浮かべている顔が、にっこり、満面の笑みで僕をもっときつく抱きしめてくる。きゅう、自分にしか聞こえない音が、胸の奥で鳴った。恐怖か、緊張か、混乱か、そのどれもか。もしくはちょっとした歓喜か。どうしよう。どうしよう……

 だって僕はいつだって、こうやってスティーブンさんに抱きしめられてみたかったんだ。