さもゆ
2024-12-06 11:05:12
33408文字
Public BBB
 

【クラレオ】平眼球の全能支配者

ライブラに雑に大事にされているレオくんがちょっとBBにうつつを抜かすものの最終的になぜかクラレオになる話。
※名前のあるオリキャラが出てくる。
※義眼やBB、牙狩り等に関して捏造過多。
※クラウスさん最初と最後しか出てこない。
レオくんにしか見えない諱名を持つ吸血鬼とレオくんてどう足掻いてもバイオレンスなロマンス始まっちゃうな…って思ったら居ても立ってもいられない結果がこれになってしまった。

2020.9.2 たまごのお粥pixiv投稿作品



7


 四日目の朝。
 いくら牙狩り本部が信用できないと言えど、クラウスさんの師匠筋にあたる豪運のエイブラムスさんには知らせなくていいのかと訊いたら、久しぶりに姿を見たスティーブンさんは疲れた顔でこう答えた。
「うちの事務所破壊する気か」
 事務所だけで済んだらいいけどね、とこの四日でできた目の下の隈を滲ませて乾いた笑いを浮かべたので、僕はそれ以上追求せずにそうですねと返した。そうだ。エイブラムスさんは吸血鬼側からひとの何倍も憎まれ呪われ、その余波を周囲に齎す、ある意味での豪運男なんだ。そんなひとを、いまのライブラに呼んだらどうなるか分かったもんじゃない。クラウスさんもいないし豪運が連鎖したら何者にも止められず、地下の捕らえた血界の眷属も動き出すかもしれないのだ。少し考えれば分かることを訊いてしまった。
 ならばと思って少し考えただけじゃ答えの出せない質問をしたら、スティーブンさんは乾いた笑みを更に乾燥させて凍てつく冬の微笑みをつくった。やっぱり質問しなければ良かった。でも俺は本当に、昨日ザップさんと会話をしたあのときから知りたくて堪らなかったんだ。

 クラウスさんが目覚めたら、あの吸血鬼がどうなるのかを。

……どうなる、ね。案じるような言い方だな」

 スティーブンさんはわざとらしく方眉を上げて見せた。
 僕は唇を湿らし、昨日の地下室での騒動を知っているはずの上司に包み隠さず言った。

「ザップさんに、僕はあいつに同情してるって言われました。……してると、思います。スティーブンさん。ぼく……

「レオナルド」組織の副官は紺色のマグカップを牽制の如く、しかし静かにデスクに置いた。「それは俺がする判断じゃないよ」

 糸目を瞬かせる。
「でも……
「もっと突っ込んだ話がしたい? お前がライブラの敵になるなら、そのとき手を下すのは俺の判断だろうが」なんだかヤケクソな言い方に、僕はぎょっと口を開けてしまう――瞳を無闇に見せることのないよう、というよりはもとから糸目のせいで口許の方が感情豊かにできているのだ――相当疲れているらしく人間味のあるスティーブンさんは、僕のそんな反応を恐れと取ったのか、自嘲じみた笑みをつくって癖毛をがりがりと掻く。「昨日のこと、俺がその場にいたらお前を凍らせていたよ」
「そう……ですよね」
……分かっているなら、もっと慎重になってくれ。お前ときたら、いつもそうだ。クラウスと同じで……力がない分、あいつより余計にたちが悪いと思っていたんだがな。よく分からん不気味なことができるようになった分、もっと悪くなってる。最悪だ」
……そーやって、疑って、率直に不気味だって言われんの、実はちょっと安心します」
「トチ狂ったか?」
「義眼を変に凄いふうに見られるよりは、分相応で。クラウスさんの僕を見る目とはまた違って……二人に見られていると背筋伸びるんです。ありがとうございます」  
「きみロクに寝ていないだろ。隈凄いぞ」
「スティーブンさんだって」
 僕らは同時に溜め息を吐き出した。

 スティーブンさんはデスクで処理していた山積みの書類を崩さぬようカップを持って立ち上がり、伸ばした関節をバキリと鳴らしながらソファに座る僕の前に腰を下ろした。僕は休憩中だった。昨日、あれから、休みなく、自分のしでかしたことを説明し、報告書にまとめ、また調べつくされたので、徹夜と言っても過言じゃなかった。この数日間はやはりまともに眠れていなかったので、見兼ねて(それに地下室の全員が働きづめでいい加減皆が限界だったので)やっと今日一日くらいのお暇を貰ったが、安穏と眠れそうにはない。
 病院に行く前にギルベルトさんが用意してくれたハチミツ入りのホットミルクを飲み、温かなカップを手に包んで指をくっつけたり離したりしていると、おそらく濃いコーヒーを飲んでいる副官は薄っすら無精ひげが生えている顎をしゃくった。「で、クラウスが目覚めたら、なんだって?」どうやら腰を入れて話をしてくれるらしい。僕は頷いてから口を開く。
「クラウスさんが……目覚めないなんてことはないと思ってます」
「当たり前だ」
「はい。それで、クラウスさんが目を覚まして、退院したら、彼は……あの血界の眷属は、どうなるのか知りたくて」

……その答えは、僕じゃなくクラウスにしか答えられない。僕の判断するところじゃないからな」

「はい」

「でも、あいつがなんと答えようと、僕はいつも通り密封すべきだと思ってる」

「は……はい」

「やつを利用し血界の眷属について知れるチャンスとも思うけどね、……リスクがでかい。なあ、少年。『密封しない』と答えてほしいのか?」

「いいえ」咄嗟に口をついて出たが、言い直す。「……分かりません」

「素直だなー」スティーブンさんは目尻の皺を深めてハハと笑った。「嫌だなあ……僕ぁお前を疑いたくはないんだぜ、ほんとは」

「でも僕、どうやら本気であいつに……入れあげてます。あれから、また命令できなくなったけど、あれをするたびに、絆みたいなものが……可視化されそうになるんです」
「やめろって」
「こんなのは、う、裏切りみたいで、俺も嫌です」
「もういい、やめろ」
「クラウスさんに会いたい」唐突に迷子みたいな声が出た。「クラウスさんなら、きっと、いい方に導いてくれる。神頼みみたいで嫌だけど、でも、クラウスさんは僕にとって救い主と同義です。なのに、最近じゃ、赤色が違う色に見える。あのひとが教えてくれた見方を忘れそうになる。駄目です。会いたい……

「会えるよ」
 ふわり、幽かな認識の揺らめきとともに、鈴を転がす声が傍らに落ちた。

 人狼のチェインさんだ。スティーブンさんと同じく久しぶりに見た彼女もまた疲弊した様子で副官の影に降り立ち、大きな紫紺の瞳で真っ直ぐ僕を見据えた。「会えるよ、レオ。大丈夫、自分を構成するひとのこと、簡単に忘れたりなんかしないよ」それからスティーブンさんの濃紺の瞳に目を向けた。
「ミスタ・クラウスが目を覚ましました」

 僕はカップを落としそうになって、慌てて握り直した。
 チェインさんが言う。

「同時に、牙狩り本部の調査員も確認しました。向かう先は、ボスの病室。……報告は以上です」


8


 スティーブンさんの車で違反ギリギリに到着した病院、ライゼズの廊下を小走りに向かうと分身のルシアナ先生から「事情は分かるけど廊下は走らないでねー」と緩く、何度か注意をされた。僕と副官は謝りつつ大股で走っていないふうに見せかけて走るという器用なこと(とは言え僕は完全に走っていた。歩幅が違い過ぎる)を行い、ギルベルトさんが佇む個室前に着いたときには心臓が胸壁をぶち破って転げ落ちていきそうだった。

「ギルベルトさん、クラウスは」
「お目覚めになられてすぐ、本部の方とお話を」
「本部のやつは礼儀を失くしたのか」僕に聞き取れないスラングを吐く。

 何度も肩で息をする僕とは違い、一度の深呼吸で心身を落ち着かせたスティーブンさんは、「いいな?」と僕に確認してきた。

 道中、何度も、すっかり血界の眷属だけに意識を奪われ忘れていたもうひとつの難について、よくよく言い聞かされた。
 この際、押しかけてきた調査員にキッパリ断りを入れるから、僕も本部には行かないと意思を示すこと。
 本人の意思は尊重されないが、それでもないよりはいい。
 何を言われても、つけ入る隙を与えるな。

 要は流されるなということだ。僕も呼吸を深いものに切り換え、どうやってここの情報を得たのか不明瞭で見知らぬ調査員よりも四日ぶりに会うクラウスさんに会う方が緊張している自分に気づき、正直待ってほしかったが、及び腰になる前に「行けます」と頷いた。ギルベルトさんが一礼し、場所を譲る。スティーブンさんがドアに手をかける。

 開いた先、蔦の伸びた窓から射し込む曇った陽の光を浴びてなお、目に焼きつく燃ゆる赤毛が見えた。

 あ、と一音漏れた。それだけで良かった。

 この世で最も。
 俺の人生のなかで、これから先もずっと、一番、目を奪う赤色。

 それを視認した途端、離れていても繋がっているあいつとの視線が怯えたように揺らめき、俺の意識を一寸引きつけたが、大人しくしていろと念じれば義眼はもう戸惑わなかった。俺の人生のなかで一番なら、義眼にとっての一番もあの赤だ。ほかは認めない。

 立ち尽くしている俺を促しドアを閉めたスティーブンさんは、低い声を発した。
「ミス・ドール」
 取り繕いがない、冷たい声だ。「彼は目覚めたばかりです。些か性急過ぎでは? アポも取られていない」

 そこで俺はようやくクラウスさんのそばの椅子に腰かけた人影を認めた。線の細い後ろ姿。ミス、ということは女性なんだろうが、彼女の後頭部は髪がなく、樹脂のようにつるりとしていた。薄く義眼を開くと、ミス・ドールがなぜ“人形”なのかにも気づいた。――彼女の清潔なスーツに包まれた関節は球体。まさに等身大の“ドール”なのだ。

 その人形の首がなんの滞りもなく僕らを振り返った。

「こんにちは、ミスタ・スティーブン。ミスタ・レオナルド。急なお伺いをすみません。ですが、アポなら取っています」
 変哲もない女性の声だったが、抑揚のない機械的な喋り方、そしてこの目になってからというもの僕が真っ先に確認してしまう両目は、彼女の眼窩に真っ黒いガラス玉として埋まっていた。――視神経がなく、僕の目の支配下ではない――僕は無意識にそこまでを思い、まつ毛のないミス・ドールの視線に恐怖を覚えて後退った。あの黒いガラス玉の向こうで、何人かがこちらを遠いところから見ている。まるで、この義眼をつくったクソッタレな神々のように。……このひとが。
 牙狩り本部の、調査員。

 それから、クラウスさんが包帯の巻かれた首を動かせない様子で、振り向かずに「二人とも、すまないがこちらへ」と幾分か掠れ声で言った。ああ、でも、耳によく馴染み、深い安堵を齎す、あの声だ。

 スティーブンさんは僕の背中を叩いてクラウスさんのそば、ミス・ドールの対面へと連れ立った。クラウスさんの視界へ僕が入り、どんな栄えある植物よりも力強く美しい緑の、眼鏡をしていないちょっと目つきの悪い瞳がふと緩んだのを見た瞬間、僕はぐっと唇を引き結んで涙を堪えなければならなかった。病院で、こういうふうになるたび、このひとたちもいつかあっけなく死んでしまんじゃないか、でも今日も生きてくれて良かった、莫大な不安と安心で真っ先に泣いてしまうのだ。
 
 僕たちに椅子を勧め、座ったのを見届けてから、クラウスさんは改めて口を開いた。

「まず、二人には礼を言いたい。私が眠っている間、多大なる迷惑をかけただろう」
「全くだぜ、ほんと。構わないよ」
「ありがとう。退院したら、皆をきちんと労いたい。それから、レオナルド」
「はい」
 首は向いていないが、瞳はしかと僕を見つめている。僕はピンと背筋を伸ばした。
「きみはまた、私を窮地から救ってくれただろう。……いくら礼をしても、したりないよ」
「は。いえ、そんな」
「きみがあの血界の眷属の動きを封じたことは、鮮明に覚えている。あのおかげで、私だけでなく、皆も無事だった。本当にありがとう」
「そんな……でも……
 僕は弱々しく頭を振った。そんな大それたことは、していない。むしろ、あなたが眠っている間、あなたたちが不利になるような不気味なことばかり、してきた自覚がある。クラウスさんは僕の態度に何か言いたげに口を開いたが、いま話すべきことではないと判断したのだろう、再度僕たちに温かな礼を述べてから、話しを戻した。

「アポは取ってもらっていたよ。……私の夢の中でだったが。そして、ミス・ドールから大方の話は聞いた。その上で私は言うが、やはりレオナルドくんの身はこちらで――
「待て、待て。クラウス。ああそう、夢で、夢でね」副官は一瞬物凄く柄の悪い、義眼でなかったら見逃してしまう表情を浮かべたが、すぐに大体の人間がそうとは気づけない柔らかな愛想笑いをつくり(僕にはその顔が“非常識なことしやがって”という冷笑に見えた)身を乗り出して言った。「大方の話とは? 何か齟齬があってはいけない」こちらは少しも牙狩り本部へは話などしていないぞ、とは言わなかった。言ったが最後、この等身大の人形はなぜそのような重大な話を本部に知らせなかったのか、詰問してくるのが僕にですら分かっていたからだ。

 彼女は血色の悪い唇を開いた。
「レオナルド少年の身柄は常々こちらで預かりたいと申し上げて来ました。我々が敵、血界の眷属の諱名を見ることができる、大変貴重な存在です。ですが、今回、更に貴重なことをしましたね。言葉をもって吸血鬼を封じ、操りました。素晴らしいことです」

 僕はゾッとした。淡々とした言い方も、ところどころ奇妙な言葉のセンスも、樹脂の唇が動く様も、何もかもが不快だった。

「こうなっては、彼のことをこちらだけで完結させることは、手に余ることかと思います。ぜひ、牙狩り本部へと預けて頂きたい」

「彼は物ではありません」
 クラウスさんが語気を強めて返す。「我々の考えだけでなく、当人の意思をまず聞くべきでは?」 

「では、聞きましょう」
 深淵のようなガラス玉がこちらを向いた。「レオナルド・ウォッチ。初めまして、私は牙狩り本部の人型ポスト、意見を飲み吐き出す要員のドールです。あなたの意見を伺っても?」

 僕は隣のスティーブンさんと目の前のクラウスさんにそれぞれ目を向け、居住まいを正し、唇を湿らして、真っ直ぐ深淵を覗き込んだ。怖がってはいけない。向こうで僕たちを覗いている者たちがどれだけ遠くにいようが、平らな眼球が視神経と繋がって存在している限り、全ての支配権は僕にあるはずだ。意を決して声を発する。力のない僕は、言葉を失くしたらお終いなのだ。

「初めまして、ミス・ドール。僕はレオナルド・ウォッチです。お話は少し聞いています。僕は、この街から出ようとは思いません。……あなたたちのところへは行けません」

「分かりました」彼女はまつ毛のない瞼で瞬きをした。当然ながら眉も、頬の赤みもない。表情がない。「ですが私たちはあなたを望んでいます。ここに留まる理由は?」

……この義眼について知りたいことがたくさんあるのと、ライブラの皆さんと一緒に働きたいのと、……ここは、こんな街ですが、僕の再生の場所です。クソだけど、愛着が、湧いています。ここにいれば義眼の情報にも最も近づける。まだ離れられません」

「私たちは、何も、永久に本部に来てほしいと言っているわけではありません。僅かな間だけでもどうでしょう」

 僕はミスの方を向いていたので、当然ながらクラウスさんのことも視界に入っていた。緑の瞳が煌めいて僕をじっと見つめ、無言の圧力を示し、そしてベッド下、スティーブンさんの靴先が分かりやすく僕の足を蹴った。察して首を横に振る。「いいえ、行きません。僕の答えはノーです」

「そうですか」大きな球体人形は滑らに頷いた。「意見は聞きました。聞き入れるつもりはありません」

「へ」
 僕は一瞬何を言われたのか分からず間抜けな顔を晒した。
 隣の副官が忌々しげに靴裏で床を音もなく叩いた裏腹、クラウスさんの膝に揃えられた分厚い両手には明確に力が入った。それぞれの、不服の表し方。どちらにも気づいていないのか、気づいた上で放っているのか、不躾な人型ポストは殊更丁寧に言葉を続けた。

「先ほど、彼のことを物ではないと言いましたね。ええ、そうです。彼には血が通い、骨でできた関節があります。考える脳もあります。ですが、働く者というのは、どこかしらの管轄下に入っているものです。この場合の管轄は、ライブラ。統括責任者のミスタ・クラウス」彼女は唇の端を上げて微笑んで見せた。「レオナルド・ウォッチは、あなた方の構成員ではないでしょう」

「は」
 また僕は何を言われたのか理解するまでの時間を要したが、けれど無慈悲にもそれは流れていく。

「ツェッド・オブライエンやあの問題児ザップ・レンフロ。彼らをこちらに寄越さないことは大目に見ましょう。彼らの雇用主はあなたです。無理やりに引き抜くことはしません。私たちも仲間ですから、穏便にいきたいのです。しかし、義眼の少年を正規に雇ってもいないのに長らくこちらの要求を飲まない態度には、辟易しています。彼は物ではありません。あなた方が独占する謂れもないはずです」

「ちょ……っ」ようやく時間が追いついて口を挟む。「ちょっと待ってください、俺が構成員じゃないって、何ふざけたことを」

「手続きをしましたか? 秘密結社ともなれば、あらゆる面を配慮して誓約をするものです」

「かっ書きましたよ! ここに入ったとき、馬鹿みたいな量の書類にサインした! 俺が死んだあとのことだって色々、妹のことまで気を遣ってくれるっていう誓いまで!」

 パイプ椅子を打ち鳴らし立ち上がって憤慨するも、捲し立てているのが自分だけという事態に急速に冷静になる。どころか、冷や水をぶっかけられたみたいに動けなくなり、思いついた結論に恐る恐る上司二人を見やった。「ふぇ、……フェイクだったんですか? あの書類」みっともなく声が震え、握った手のひらに冷たい汗を掻く。「おれ、ライブラの構成員じゃ、ないんですか」

「きみは我々のかけがえのない仲間だ」
 間髪容れずクラウスさんが答えた。
「しかし、……彼女の言う通り、正式な手続きは、していない」

……なぜ」

 赤毛に隠れた太陽のペリドットが俺を射抜く。首に巻かれた包帯に、じわりと血が滲み始めている。
「きみがいつでも、愛する家族のもとへ戻れるように。……騙す形になったのは、申し訳ない」

 違う、と言いたくなった。
 謝ってほしいんじゃない。
 俺は出そうになった鼻水を啜り、唾を飲み込んで座り直した。「イエ。……いえ、ありがとう、ございます」……これも、違う。複雑だった。一般人としての感謝と、いままでライブラの人間としてちっぽけでも仕事をしてきたプライドが、ごちゃ混ぜになって涙腺を刺激した。面倒くさい。面倒くさい思考だ。感謝一辺倒にするべきだ。当たり前だ。いくら人知を超えた領域に踏み込んだって、レオナルド・ウォッチは血の繋がった家族を一番にしているそこらへんによくいる十九歳の人間の男なのだ。……人間兵器の彼らとは、何もかもが違う。
 寂しい、と思った。
 そう思った自分があまりに幼稚で、情けなく、傲慢で、とてつもなく恥ずかしくなる。俯き、とぐろを巻く感情に耐えていると、容赦なくミスが追い打ちをかけてきた。

「分かって頂けましたか? あなた方にはこちらの要求を拒否する権利はありません。もちろん、本人の意思を尊重しますが、彼が強く固辞を示すというならこちらにも手段を駆使する権利があります。レオナルド・ウォッチ。私たちのところへいらっしゃってください」

 断ったらひどいことになる。
 断らなくてもひどいことになる。
 彼女の無機質な声音は如実にそう表していた。

 ライブラのひとたちが苦々しく、ともすれば恐れている組織だ。僕なんかが太刀打ちできるとは、到底思えない。

 でも、やっぱり、どうしても。
 俺はここを離れたくなかった。

 クラウスさんのそばで、自分のできることを精一杯していたかった。

 黙り込んで唇を噤んだ僕に代わり、数秒の沈黙をクラウスさんがおもむろに打ち破った。

「ミス・ドール。では、彼をここに縛りつける誓約があれば、我々に拒否する権利ができるということですね」

「ええ」球体の嵌め込まれた首が縦に頷く。「それが用意できるのなら、此度も身を引きましょう」やれるものならやってみろ、そう挑発せんばかりに深淵のガラス玉が暗く輝いている。

……クラウス」
 スティーブンさんが戸惑いの声を上げた。その様子に、クラウスさんが僕の雇用について副官とたくさん話したのだろうことを予想させる。きっと、頑固だっただろう。僕のためを思って、そうしたのだ。
 それをいまから覆すのかもしれない、でも、クラウスさんが、果たして一度決めたことを反故にするだろうか? 僕とスティーブンさんは同じことを疑問にしたに違いなかった。だって、正式な誓約書を書かせなかったということは、書かせた場合、僕に何か不利なこと――それこそこの先、家族に会えなくなるとか――があるから、フェイクを用意したということだ。それくらいは分かっているし、ボスの優しさを正しく感じている。

 僕が俯けた顔を上げたとき、ちょうどクラウスさんが明朗なる声で言った。

「では私は彼と婚約を結びましょう。そうすれば、貴公らには彼を奪う権利がなくなる」 

 ガシャーン!
 横にいたスティーブンさんが恐ろしく綺麗に椅子ごと引っ繰り返った。
「くっ……
 僕はそれが呻き声だと思ったがどうやら打ちつけた頭より上を向いた鼻を押さえている手から、呻いているのではなく笑いを堪えているのだと気づいた。ト、トチ狂っている。

 僕と言えば本当は同じくらい見事に引っ繰り返ってしまいたかったのだが、いつの間にかクラウスさんの大きな手に腕を取られていて身動きができず、また、何か衝撃的なことを言われたことは分かっていたが脳が処理を上手くできずに混乱していた。「く……くら、こ、こんやく?」 

 首を動かすことのできないクラウスさんが掴んだ手を引っ張り、あの真摯な瞳で見つめてくる。僅かな、懇願。
「レオ。私と婚約してほしい。駄目だろうか」
「だっ、どっ、どーしちゃったんすか、こんやくって……婚約って、エッ?」
「レオ」
 心拍数が劇的に上がった耳の奥に、キリキリと引き絞られるような幻聴が届いた。幻聴というか。これ、クラウスさんの胃痛の音だ。
 よくよく見れば彼は汗を掻いていたし、握った手のひらは縋るようだったし、何より慣れないことをしている様がありありと分かった。首には血が滲んで広がっている。

 あ、これ。僕は思った。苦肉の策だ。

 僕はクラウスさんも大概突飛なアイデアを勢いで実行するひとだと知っていた。

 突飛すぎる。大丈夫なのか。貴族のひとが、勢いで、場を切り抜ける策として婚約って。

「ぼっ、……ぼく、」

 包帯には血が滲んでいる。
 胃が痛そうだ。
 こんなことはさっさと片して、一刻も早く休ませてあげなければならない。

「おっお、お、俺っ! クラウスさんと婚約します!!」

 大声で叫んだ瞬間床のスティーブンさんが咳き込んで身を捩った。たぶん爆笑を堪えている。

 クラウスさんは見るからにほっと息を吐いて僕に向けていた瞳をミス・ドールに向けた。
「婚約とは、第三者に知らしめることで誓約となります。このことを本部にもきちんと伝えて頂きたい。ミス・ドール。それはあなたの仕事のはずだ」

 ぱち、ぱち、瞬き。「……政略的な婚約ですね」彼女はやはり抑揚のない声で言う。「これは、一本、取られました。はい。誓約があればいいと言ったのは私です。参りましたね」そう言うわりには未練も何もない動作で立ち上がり、ガラス玉の両目を閉じた。「此度は引きましょう。本部も混乱しています。また、メッセージの受け渡しの際には、参ります。失礼致します」

 そうして彼女はスーツを着た身体のあらゆる関節を捻じ曲げ、「ヒッ」悲鳴を上げかけた僕の前でそれを更に折り、小さくし、完全な球体になると、公園で忘れ去られたボールのように動かなくなった。

「ど、どーなったんですか、あのひと」
「彼女の体は使い捨てのようなものでね、もう、問題はない」
「そ、そーですか……案外、あっけなく、よ、良かった……

 僕は脱力して息を吐いた。

 ああ、けれど、どうしよう。僕とクラウスさんはどうやら婚約してしまったらしい。

 一難去ったのに、また一難だ。