さもゆ
2024-12-06 11:05:12
33408文字
Public BBB
 

【クラレオ】平眼球の全能支配者

ライブラに雑に大事にされているレオくんがちょっとBBにうつつを抜かすものの最終的になぜかクラレオになる話。
※名前のあるオリキャラが出てくる。
※義眼やBB、牙狩り等に関して捏造過多。
※クラウスさん最初と最後しか出てこない。
レオくんにしか見えない諱名を持つ吸血鬼とレオくんてどう足掻いてもバイオレンスなロマンス始まっちゃうな…って思ったら居ても立ってもいられない結果がこれになってしまった。

2020.9.2 たまごのお粥pixiv投稿作品



3


 アムギーネの扉に入り、事務所の執務室まできっちり三人分の認識を世界から隠した僕の義眼は、ソファに座り込むころにはしゅうしゅう音立てて白煙を撒き散らしていた。
 激しい戦闘に、拘束用の血液、凍りついた重たい敵の移動、ツェッドさんだって相当疲弊しているだろうにおくびにも出さず給湯室へ入って行ったかと思えば、二人分のミネラルウォーターと氷嚢を持って戻ってくる。「レオくん、目を冷やして」彼にしては少々厳しい声音とともに差し出してくれた氷嚢を受け取り、すみません、ありがとうございますと目許に当てる。じゅう、およそ目から鳴ってはいけない肉の焼ける音がした。
「痛くはないですか」
「痛みは……不思議と」
……あとから、かなり痛むと思います。いまは、それどころじゃないんでしょう」
「分かっちゃいますか」
「レオくん」厳しいと思った声音は、どうやら随分と慮り過ぎての低音らしかった。「震えています。……体が強張ったままでは、休もうにも休めない。呼吸をしてください」
「僕息してないんですか」
「いいえ。でももっと深く。さあ吸って、ゆっくり」
 ツェッドさんはソファに座る僕の横に跪くと、遅いテンポで背中を撫で擦ってくれる。素直に、言われた通りにしなければと思った体は肺を膨らませようとして、無様に噎せた。喉から食道にかけてがひどく痙攣し、そこでようやく、本当に本格的に自分が怯えていたことを知った。熱を発す目から熱い涙が溢れて染みる。「ゆっくり、ゆっくり……そう、吐いて」落ち着く声を持つ後輩に促されるまま必死に鼻水を啜り、吐く。二度、三度と繰り返していくうちに、いつの間にか痺れて重くなっていた手足の震えが、徐々に治まっていった。渡された水を少しずつ飲み、顔を拭ってもう大丈夫ですと僅かに笑って見せるとツェッドさんは良かったと表情を緩め、立ち上がった。
「きみが隠れ場所から飛び出ているのを見たとき、心臓が止まったかと思いました」
 ぽつりと言った。
「僕はとても怖かったですよ。きみがあいつに殺されてしまうんじゃないかと思って……
「ツェッドさん」
「でも、そうはならなかった」 
 
 出入り口と窓から一番遠い部屋の壁際に、氷像として拘束されている血界の眷属に視線をやり、僕へと戻す。

……訊いてもいいですか。あのとき、レオくんが何をしたのか」

 ツェッドさんはいつも通りの深い労りに満ちていて、その中にやはり困惑も持っていることが窺えた。僕はまた水を飲んで唇を湿らし、ぶるりと身震いする。ツェッドさんはじっと僕のその口が開いたり閉じたりする様を急くこともなく見守り、けれど僕はといえばどうかいまだけはその優しく世界の素晴らしさを見てきた魚眼に映りたくなくて身を縮こめた。ひどい気分になっていた。

 後輩の彼がどこまでを想像しているか分からないが、いや、きっと自分のように悪いふうには想像していないんだろうが、それでもこれは尋問なんじゃないかと疑ってしまう。冷静で、悪いことには何通りもの先を見越して先手を打つ、恐れるライブラ副官の。
 あの場で答えられなかったことが、もし、ライブラに仇なす内容ならば、そういう意識のない者を審問官にするはずだ。あの上司にはそれができるし、仲間を疑い、疑心のない者を利用する手段だって選べる。だから疑うことを知らないクラウスさんを支え、守り、あの強靭な両脚で隣に立つことができるのだ。僕は正しく理解している。分かっている。でも、これは、考え過ぎだ。他意はないって思いたい。だって、まさか、自分が疑われているだなんて、信じたくない……

 だって僕は自分が血界の眷属を言葉で封じたとは思っていない。
 そんなこと、できるはずがない。
 超常的な力を持つライブラのひとたちが、血に塗れながらやっと密封できる相手なのだ。
 それを、目がいいだけの一般人、たった一言「動くな」という言葉だけで。

 そんな馬鹿な話があるか。

「わか……らないんです」
 純粋に案じてくれている後輩には、同じように接したいし、僕にはそうすることしかできない。
……分からないんです、俺にも。あのとき、何が……
「僕には、きみが彼の名を呼び、彼らの言語で命じたように聞こえた」 
 それはどうしようもない事実だった。
「おれ何か、怖いことを、しちゃったんでしょうか」
「分かりません。レオくんの意志のもとではなかったんですね」
「はい。勝手に口が動いて、目が……合ったんです」僕は更に体を小さくしてツェッドさんを見上げた。壁の方へは目を向けられなかった。なぜなら、おかしなことに、あのときかち合った視線の繋がりがいまも解けていない感覚がしたからだ。目が合い、真名を叫んだときに繋がった、あの奇妙な関係性。意思とは関係なく繋がったものがまた無意識に途切れたとき、あの血界の眷属は止まった時間を取り戻し、必ず俺を殺しに来るだろう。想像ではなく、予感だった。

「でも、そのおかげで僕らが助かったのは事実です。僕にはそれ以外に大事なことがあるとは思えません」

 彼はそう断言して執務室の重厚なドアへと顔を向けた。

 僕がどこまでも後輩のことを自分勝手に考えていたと気づいたのは、ドアが勢い良く開き鮮血が蛇行して迫り来てからだった。五指よりもっと鋭く広く大きく展開した見慣れた血は、見慣れているはずなのに非現実的で僕はソファから微塵も動けずにいた。あの血は、僕に対して、そういうふうに動いたことがなかった。じゃれ合いからかけ離れた苛烈さを持って襲いかかり、ツェッドさんが三叉槍で防いでいく風圧で濡れていた顔が乾いていく。風が目に突き刺さり、涙が滲んで、やめてくださいと喉が震えた。ツェッドさんは僕よりよっぽど副官のことを、しいては自分の兄弟子のことを分かっていた。

 ドアを開けざま血法を仕掛けてきたザップさんはとうとう後輩の三叉槍を弾き飛ばして奪い取り、右手の焔丸を僕に、左手の槍をツェッドさんに向けた。ツェッドさんは僕の前に庇うように立ち塞がる。

「なんの真似ですか」

「分かってンだろ? とぼけるなよ、お魚ちゃん」
 月と同じ色をした瞳はひどく億劫そうだった。

「とぼけてるのはアナタの方だ。レオくんに攻撃する意味が分からない」

「その意味をいまから尋問するんだよ」
 不意を打って僕の耳元に吹き込まれたその声は冷気そのものだった。


4


 反射的に飛び上がって逃げようとした体をあっけなく背後から押さえ込み、クラウスさんの血に染まった膝で圧し掛かってソファに縫いとめたスティーブンさんは、そのまま片手で僕の両目を覆い隠した。瞼にぬるりとしたものが擦りつけられ、僕はそれが彼の凍える血だと察し、せっかく安定していた呼吸が再び乱れる。
 レオくん、と名前を呼んでくれた後輩に、大丈夫ですと返す余裕はない。

「さて、レオナルド」
 鼻から上を押さえる手に力が入る。「いまから僕の訊くことに嘘偽りなく答えてもらいたい」でなければ、凍える夜闇に放り出されてしまう、僕は血臭を吸い、小さくはいと吐き出した。

「これはさっきも訊いたけどね、きみは先刻、あの吸血鬼に何をした?」

「わかりません」

「それは答えになっていないよ」

 血に濡れた手のひらが冷気を帯びる。
 同じく動けずにいるツェッドさんが抗議的に吹かした風に、僕は少なからず慰められながら、分からないことを分かるように説明し直した。

「僕はずっとあいつの諱名を見ていました。クラウスさんが名を呼べなくなったとき、僕は……義眼が……名前を呼ぶよう働きかけたと思います」

「思う? 憶測でものを言うね。じゃああれは無意識の行動だと?」 

「は……はい」

「きみはやつらの言葉で『動くな』と命じたろう。少しの違和感もない完璧な発音で。勉強熱心なのは見ていたが、いつの間に言葉を話せるようになった?」

「分から……あの、話せません。おれ、あのとき、目に見えた言語を言っただけで、いま同じ言葉を話せと言われても、む、無理だと、思います」

「なら僕たちに隠していたわけではないな? 血界の眷属を、制す力があることを」

「誓ってありません」

「何に?」

「クラウスさんに」

 彼はようよう僕の上から退き、場の空気を支配する力を緩めると、どっと汗を掻き始めた僕の手を取って起き上がらせた。安心したところで濡れていた瞼が冷たさを増したことにヒィと怯えかけるが、「しばらくそのままにしておけ。氷嚢当てるより楽だろ」と剣呑さを消した濃紺が見下ろしてきたので、こくりと悲鳴を飲み込む。眼球ごと凍らされるかと恐れた血液は、器用に、火傷した周囲の皮膚のみに薄く氷を張らせていた。やけに冷たいと思うのは、それほど自分の義眼が熱を持っているからだ。副官は傷のついた手のひらをハンカチで拭うと、血で汚れたそれを無造作にポケットに戻した。それから僕の後ろへ顔を向けて眉を下げる。

……そう構えないでくれよツェッド。見せかけの尋問だ、少年を傷つけるつもりはなかった」

 それは嘘だ、と僕は思った。彼らは本気だったし、ついさっきまで、いつもは気遣ってくれる一般人との境界を明瞭にして僕を拒絶していた。
 仕事と名のつくものは大抵──たとえば仲間を疑ったり裏切る真似を──することができるザップさんは、血刃を収めたのち三叉槍も後輩に放り返して欠伸混じりに焼けた声を落とした。「しっかしまァ、メンドーなことになっちまったな、陰毛。お前やっぱエイブラムスさんに匹敵するわ。厄介レベルが」「嬉しくねえです」「ったりめエだろ。褒めてねんだから」そこでようやくツェッドさんも血の槍を収め、姿勢を崩して口を開いた。「それで、スティーブンさん。見せかけの尋問の成果はありましたか」彼にしては珍しくむすりとした態度は、副官の凛々しい眉を更に下げさせた。と、そのときアップテンポの着信音が鳴り響く。スティーブンさんの端末だ。

 ポケットから取り出した彼は、着信音の時点で誰だか分かっているふうなのに表示されている名前を見て観念したように肩を落とし、僕の隣にドサリと腰かけた。表示の名前はK・Kさんであり、それを僕に見せてから通話とスピーカーのマークをタップする。

『アタシが電波越しに雷撃を放てないことを感謝しなさいよスカーフェイス』

 女性の低い声ってどうしてこんなに怖いんだろう。
 思わず背筋を伸ばした僕の横で、スティーブンさんは反対に背中を丸めた。「誤解だよ、K・K。きみが思うようなことはしてない」 

『そうだと言うならレオっちの元気な声を聞かせてみなさい』 

 スティーブンさんは無言で液晶を僕に向けた。「あ、あの、K・Kさん……

『声が震えてるじゃない! アンタやっぱり何かしたのね、この冷血漢! アンタじゃなくアタシを病院に付き添わせたときからお見通しなのよ腹黒の内なんて!』

「声が震えてるのはきみが怖いからだろ!? 俺は何もしてないって! ……まだ。ちょっと脅した自覚はあるけど」

 独特な金属音が電話の向こうからした。特殊な銃弾の、装填音。僕は寸の間本当に雷撃が電波をジャックして画面を突き抜けて来るのではと恐れおののき、同じことを危惧したのか慌てたスティーブンさんが早口で声を上げた。「落ち着いてくれよK・K、そこ病院だろッ? クラウスの容体は?」ガチャン。彼女は銃を弄っている。『クラっちがあれぐらいでどうにかなるわけないでしょ。いま治療中』
 僕はルシアナ先生の姿を思い浮かべ、どうかお願いしますと祈った。どうか、いつもみたいに、いかにひどい怪我でも治してください……

『レオっち、そこにいるのね? 大丈夫?』ひどく心配している声音を向けてくれる。『あなたがあのとき何をしたにしろ、それが悪いこととは思えないわ。おかげでみんな死なずに済んでる。ボスが倒れて、吸血鬼相手に誰も死んでないって、それほど凄いことなんだから』

 横で副官が深く頷いた。

「でも、K・Kさん。俺、何も……分かってないんです。自分が何をどうしたのか、分かってないんです」

『混乱してるのね。無理もないわ、初めてのことなら誰でも!』電話口の声は家族を持つ慈愛に満ちた母親だった。『誰だって戸惑うものなの。分かるでしょ? アタシたちは最初から人間兵器だったわけじゃない。その血が燃えたり凍ったり風を纏ったりしたとき、それはもうたまげたものよ』

 僕はザップさんとスティーブンさんとツェッドさんに視線をやった。ツェッドさんはわたわたと胸を押さえ、スティーブンさんは両手を上げ、ザップさんはその場にひっくり返って見せた。演技じみた三者三様のリアクションに不安になって「K・Kさんも?」と訊く。
『もちろん。アタシなんて最初のころは銃を使わずに戦ってたから、感電しきりで大変だった。もう絶対髪を伸ばすもんかと誓ったわ。そして、大いに戸惑った。“どうして血が轟くのに私ったらまだ人間の姿をしているの?” 不思議で、不気味で、不安定で、堪らなかったわ』
 僕は義眼を押しつけられたときの罪深い記憶を思い出していた。理不尽な出来事を一瞬で摩訶不思議に感じ取らせられ、そして唐突に暗闇に放り出され動けずにいる妹のもとにせめて駆け寄りたかったのに、それまで見ていたものが猛威を振るって僕に襲いかかってきた。僕はその場にくずおれて、吐いて、泣いて、泣き声でお兄ちゃんと僕の姿を探す妹に何も言えなかった。そのとき、僕は、人間じゃ到底扱い切れない眼球を埋め込まれたことより、血の繋がった家族を守れなかったことの方にショックを受けて、最も底辺な人間、いや、人間の皮を被った何か最低な生き物になってしまったと感じた。
 その感覚を救いあげて、物や人、しいては自分自身の見方を改めさせてくれたのが、クラウスさんだったのだ。

「K・Kさん……
 僕は電話の向こうにいるひとだけでなく、この場にいるひとたちに向けて言った。
「この目は、たぶん、まだまだ使い方があります。さっきのように、よく分からないことを唐突にしでかす。でも、俺、使い方を、間違えようとは思えません。誰かのためになるように、ミシェーラが悲しんだり怒ったりしないように、クラウスさんの……世界の均衡のためになるように、使っていきたい。だから、決して、血界の眷属側に寝返ろうだなんて、考えていません」

 彼女は息を呑んだようだった。『スティーブン』音のない稲光の如く鋭く静かに彼を呼ぶ。『あなた、その子に何を訊いたの? 血界の眷属側に……なんですって?』

「誤解だK・K、怖いよ」

『怖いのはあなたよ』

 僕からすれば二人とも怖くて、慌てて言い募る。

「あの、K・Kさん、違うんです。俺、分かってるんです。自分でも何をしたのかよく分かってないすけど、でもあれは、疑わなきゃ駄目な技でした。俺が……きっと……あいつの目と、諱名を見て、“動くな”と命じたから、あいつは今もそれに忠実に縛られてる。そんなのは、皆さんにとってだけでなく……もっと多くの……脅威になりかねません。俺、ちゃんと分かっています。皆さんがそれを危惧していることを、ちゃんと。疑ってください、俺自身、この目が信じられない」

 そこでスティーブンさんは癖毛頭をがりがり掻くと、ため息を吐いて僕の頭に手をやった。珍しい労りの仕方だった。乱雑に一度撫で、肩を抱き寄せ口を開く。「聞いたかい、K・K。この子は賢く、潔い」『あなたと違ってね』「手厳しいな……」『でも、本部にはアンタよりよっぽどいやらしい連中がわんさかいる。報告するの?』「せざるを得ない……というか、秘密にしてもいずれ漏れる」『ほんと、やらしい相手』会話の行方が分からず黙って聞いていると、肩に置かれた手に力がこもった。「でも、クラウスはそれを許さない」『当然でしょ』「だったら俺のすることはひとつ、ボスが目覚めるまで待つよ。そして、クラウスが望むことをやる。本部から隠すと言うのならそうするし、喧嘩を売ると言うなら全力で加担する」K・Kさんは呆れ声を上げた。『これだから男は!』しかしそれには充分すぎるほどの諦念が窺い知れて、彼女の口角は上がっているのではないかと思えた。『後方支援は任せなさい。なんであろうと撃ち抜いてやる』事実、彼女の声は楽しげに笑っている。

「決まりだな」
 スティーブンさんは嘘みたいにカラリと晴れた声で言った。
「K・K、引き続きクラウスのこと頼むよ。ミス・エステヴェスにも」
『分かった。レオっちのこといじめたら、承知しないからね』

 そうして通話は切られた。後には、肩を抱かれたまま状況を理解できずに首を傾げる僕と、同じく不思議そうにしているツェッドさん、珍しく誰より把握しているのか怠そうに佇んでいるザップさん、そして僕の肩を指先で叩くスティーブンさんが残された。

「端的に言うと」
 やがて上司は部屋の隅、氷漬けにされている吸血鬼に視線を移して口を開いた。

「牙狩り本部の査問委員会は、僕の尋問なんざ可愛いレベルに最悪なんだ」

 違ェねえ、ザップさんが心底嫌そうに相槌を打った。スティーブンさんは頷いて続ける。

「精神干渉系の能力者や問答無用で頭の中を弄り回す術師がいる。白は黒だと言わされるし、本当にそんな気がしてくるから参ったもんだ」

「そ、……そーいうの、不当な捜査なんじゃ……

「もちろん、冤罪なんてドジな真似はしない。ただ真実を探ることに手段を選ばな過ぎるのと、納得のいく答えを引き出すまで一切の容赦をしないだけなんだよ。どうかすれば、自分たちに都合の良い真実を作り出したりもする」

「やっぱバリバリに不当じゃないすか」
 加えて先ほどの副官よりも恐ろしいということだ。知らされた情報に、しかしなぜいまそれを自分に教えるのか不安になる。しかも牙狩りの本部のことなどと。この街やライブラについても深くまでは知らないのに、その大元となる組織については殊更何も知らなかった。いままで、自分から深く訊いたことはないし、周りもちょっとしたことしか会話に上らせなかったのだ。食堂の麺類はいまいちだとか、訓練場の地面にはエイブラムスさんの豪運が引き起こした大穴が開いているだとか、あそこの治癒者は慈悲はあるがむさ苦しい男だとか、むかし大規模な火災があっていまでも跡が残ってるだとか(という話は大変だったと言うわりには皆スッキリした顔をしていたけれど)。僕はそれを、彼らが引いたひとつの線であるのだろうとなんとなく察していた。僕が一般人でいられるようにだけでなく、特殊な自分たちの立場を守るための、お互いにとっての配慮。

 眉をひそめる僕を見下ろし、スティーブンさんはすっかりいつもと変わらない穏やかな顔をして笑う。

「その不当な機関から、再三きみを寄越せと言われていてね」

 大体この顔は怖いことを言う顔なのである。それくらいは過ごした時間の中で知り得ていたのだが、僕は思わず義眼を開きそうになった。溶けた氷が水滴となって頬に伝っていく。「そんなこと……初耳っす」

「いま初めて言ったからな。寄越すつもりのない話だ、言うだけ無駄だろ? けれど、そうもいかなくなりそうだ」

「僕が……おかしなことを、したからですか」

「僕らが散々、本部を焦らして来たからだよ。何も、きみだけじゃない。ツェッドだって対象さ」

「僕もですか」
「彼らはきみを詳しく調べ上げたいらしい」
……当然のことのように思えます」
「抵抗してくれ。お前たちがそんなだから、あいつの胃痛が悪化する」

 僕とツェッドさんは顔を見合わせ、行き着いた結論に二人して副官を振り返った。「守ってくれてたんですか? 僕らのこと」

「そう言ったら聞こえはいいけれど。まァ実際は、うちの構成員を向こうに渡すのが嫌だっただけさ。クラウスは心からの心配だろうが、なあ。きみらなんざ、魔窟に入ったらいいように利用されるのが落ちだ。そうなるとこちらの不利になる。早々どこかへ貸せないよ」

「ありがとうございます」

「よせ。礼を言うなら、クラウスに」
 彼はそう言って煩わしそうに手を振ると、鼻を掻きつつ(おそらく、照れ隠しだ)話しを戻した。
「でだ、レオナルド。今回のことは、いままで躱してきたものがおじゃんになっちまう可能性が高い。どう秘匿しようが嗅ぎつけられるし、連中の興味はきみに一点集中するだろう」

……俺はまだこの街を離れるつもりはありません。断ります」
 
「俺の話を聞いてたか? 断る断らないじゃない、お前の意思は尊重されないんだよ」

 完全に溶けきり、水滴を流すだけとなった瞼を薄く開いた。痛みは、それほどない。「……本当にスティーブンさんより怖えひとたちってことですか」ぼそりと落とした呟きを聞いた上司は、ハハと笑って僕の頭を鷲掴んだ。「言ったな? でもそういうことだ。いいかレオ、クラウスが目覚めるまで、その目に引っ掛かったものは些細なことでも逐一報告しろ。しばらくは事務所から出るな。本部に知られるのもマズいが、このことを知って目の色を変えるのは牙狩りだけじゃない。分かるな?」

「はい」僕はもう吸血鬼の方を見ようとはしなかった。だが、やはり、視線はずっと繋がっている感覚がして背筋を震わせる。

 血界の眷属の急所である諱名が唯一見えることは、隠しておかなければ、自分の身が危うい。なのに、いまは、その上諱名を呼び言葉で操れるかもしれなくなったのだ。あの吸血鬼が自由を手にし、密封されることなく再び街に戻れば、僕のことは瞬く間にやつらの社会に広まるだろう。そうしたら死よりも残酷な結果になるかもしれない。

 青い顔で頷く僕の頭を「いい子だ」と言って掻き回した副官は、もしかしたら先ほどの“脅し”を彼なりに申し訳なく思っていて、僕の怯えように傷ついていたのかもしれなかったが、次に落とされた言葉はあまりに恐れる副官らしくて、僕はむしろ安心してしまった。

「そういうわけだ、少年。うちでもきみの目を徹底的に調べていくから、当分休めないと思えよ」