河童の皿箱
2024-11-27 10:13:42
5774文字
Public 遊戯王:短め(2024年度)
 

世を観し水

娑楽斎と娑楽斎(?)が遊び歩くだけ


 時を戻し、ある日のことだった。世間に多く噂のある浮世絵師の男――その名を娑楽斎と云う。男は大して人前に出ることはなく、人里離れた場所で仲間と共に暮らしていた。年末のために新しい演目を作るのだと息を巻いては、本棚をひっくり返し、蔵の中身を荒らして回り、それでは足りぬと美術館やれ博物館やれ見て回っては、資料という資料をかき集め、ようやく何か描くぞと腰を据えたものの、いやはや困った。「何も思い浮かばない」。男は散々暴れてのたうち回り、けれど何も出てこぬと、まさしく五里霧中だと苦しんでいた。
 困った困った、けれどとにかく手は動かさねばと、男が手癖のままに空間へと描いたのは、かつて繁華街のビル群の隙間を縫うように描いた巨大な青き龍……の小さい版。とはいえ、男の周囲をぐるり取り囲むには十分であった。ふうと一息ついたその時、龍はひとりでに動き出しては、男に尾を巻き付けた。これはどうしたことかと男が目を丸くしている間にも、龍は男をぐるりぐるりと取り囲んでしまった。
 「だ、誰か! 助けてくれ!」。男が思わず家に叫び、飛び出してきたのは、共に暮らせし雅楽師の男。「どうした!」と雅楽師もまた、浮世絵師の窮状に「ぎゃあー!」と悲鳴を上げては、次に飛び出したのは黒衣を纏った浄瑠璃人形師。口を両手で抑えるかのようなしぐさをしている間にも、浮世絵師の身は龍の長ーい体でぐるぐる巻き。雅楽師が駆け寄って龍の体をほどこうとしても、何たることか、びくともしない。それどころか、雅楽師に大口を開けて牙をむく始末。最後に飛び出してきたのは、彼ら集団の中で最も幼き能楽師であった。ぽうっとした瞳がぼんやりと絵師たちを眺めては、「落ち着いて」と宥めた。「でも」と絵師が動こうとしたとき、龍はその頭を絵師の首元に摺り寄せたのだった。

 「遊びたいだけ、そうだよね?」。能楽師がそうっと寄って、ふさりと揺れる鬣を撫でれば、龍はぐるぐると声を上げて、絵師に頭をぐいぐいと。能楽師は龍に尋ねた。「おしゃべり、できそう?」。すると龍はまたぐるぐる。能楽師がとてとてと家へ走っていったその直後、龍は絵師に巻き付くのをやめて、中空を泳いでは、突然ドロン。ぶわりと広がる煙か霞か、絵師が目を凝らしてそこにみたのは、自分の顔であった。いや、そこには鏡などない。けれど自分の顔は、唖然としている自分と異なり、なんとにやっと笑っていたのだ。
 「おい、娑楽斎。悩んでいるようだな?」。随分とやんちゃそうな声が聞こえたかと思いきや、自分と同じ顔がぐっと近づいては、指でこの顎をグイと掬い上げた。いったい何が何やら。霧が晴れれば晴れるほど、徐々にその自分と同じ顔が、自分と同じ体を持っていることに気づく。肩の厚みも、腹の筋の浮かび方も。そこで絵師は瞬発的に自分の上着をばっと脱いでは、目の前の自分にかけて、家から遠ざけた。
 「おい、なんだよ!?」。自分の声で上げられる抗議、けれど男はそれを譲らず、「黙ってろ!」と。いよいよ霧が晴れたとき、それをはじめに視認したのは、近くにいた雅楽師であった。そこには、何故か上着を脱いでいる浮世絵師と、上着だけ着て向こうを向いている素っ裸の浮世絵師。はて、こりゃあどうしたことだ、と雅楽師が首をかしげる間、浮世絵師は叫んだ。「セアミン、スパイダー! こっちに来るな!」と。もう片方の浮世絵師は抗議する。「なんだよ、せっかく人の姿をとってやったってのに」。いやまさかとは思うが。そのころには雅楽師の頭の中に、ひとつの可能性が浮かんでいたが、浮世絵師本人はそれどころではなく。「俺の尊厳の問題なんだよ!」と。

 騒ぎが一息ついたころ。雅楽師の予想の通り、もう一人の浮世絵師の正体は、浮世絵師が描いた龍そのものであった。「龍が人の姿を得るなんて、普通のことだろ?」。浮世絵師に歌舞いた着物を着せられた龍は、けらけら笑う。「それより喜んでくれよ、せっかくお前と話そうと思ったのにさぁ。そりゃ……裸で出てきちまったのは悪かったけどよ」。なんて龍が言うものだから、浮世絵師は眉間を抑えた。悪気はないのだ、悪気は。ただちょっと、人としての常識が足りていなかったというか、なんというべきか。
 「いやぁ、しかし。妙な気持ちだ」。ふと、雅楽師はそう切り出した。いつも共に生活している人物が、突然2人に増えるだなんてと。浮世絵師はそりゃそうだ、と苦く笑った。「しかし、どうしてこんなことになったんだ?」。雅楽師は卓を囲む人形師と、能楽師の顔も見たが、当然心当たりなどなく。すると、龍はあっけらかんと言った。「娑楽斎が困ってるようだったからな」と。確かに、描かねばならぬ時なのに、何も思い浮かばず困っていたのはその通り。「おい、そんなシケた面すんじゃねぇ。立てよ娑楽斎。ちょいとぶらつきに行こうぜ?」。龍が絵師の腕を強引に引っ張れば、ずんずんと玄関まで歩いて行く。「お、おい」と雅楽師は止めようとするも空しく、「夜明けまでには帰るからよ!」。龍は人の姿からまた元の姿に戻っては、絵師が抵抗する間もなく、その首元をぱくりと咥えて飛び去って行ってしまった。