ジュリエットの亡霊

映司とアンク
初出・同人誌(個人)「ジュリエットの亡霊」2021
書き込み感想もらえて嬉しかった


2

翌日早朝から、俺は持てるツテと知識、そして時折袖の下を駆使して、『トラブルで出国できない』状況をなんとか作り上げた。鴻上さんはともかく他の人々に、職務に関係ない事由での滞在延長が許される気がしなかったからだ。
研究所と手を組むことの利点を理解しながらもこのサラリーマン状態をどうしても窮屈で不自由だと感じてしまう俺は、雇われ人には全然向いていない。サラリーマンとして俺の遥か上を行く里中さんから『トラブルで滞在延長になります』という連絡を受け取ってようやく、ふうと安堵の息を吐いた。
『どうしたんですか』
「いえ」
『保険の関係があるので発掘には参加しないで下さい。そこでゆっくりしてくださいね。たぶん二、三日ですけど』
「ありがとうございます」
 ただし最後に、突如切り替わったモニタに大写しになった鴻上会長に『ミステリーツアーを楽しみたまえ』と告げられてしまったが。
……まあ、なんとかなったな。猶予はそんなにないけど」
《鴻上には何かしらバレてたぞ》
「それならそれで、黙認ってことで」
《あいつに借りを作るな》
「仕方ないよ。今は俺がお世話になってるし」
 窓を開けて顔を出すと、今日も霧に煙っている湖が見える。といっても、ここから徒歩一分というわけではないし、確か畔には近づけないようになっているのではなかったか。そんな難関をくぐりぬけて無意識のまま人を湖に落とせるのだとしたら、その原因が霊だろうが何だろうが脅威だ。
《で、どうすんだ》
「ごはん食べよう」
 時計の針は十二時を少し回ったところだ。
 宿の階下にある簡単な食堂では、ピラフのようなものと具入りのパン、真っ赤なベリーのジュースを頼んだ。行儀が悪いが、羊の脂が染み込んだ米を口に運びながら、過去の水難事故を検索する。
数字で出てきたのはここ五年だけで二十三件、幸いにも死者は出ていないようだが、立ち入り禁止の小さな湖にしては不自然に多い。記事になっているものを参照すると被害者はいずれも男性、保護された人は皆、『気づいたら』湖で溺れていたという。そしてソースの分からない怪しげなサイトまで参照するならば、すべての被害者はこの宿の、冬の宿泊客だった。
《微妙なところだな》
「いや、多いし変だろ。ここ泳いだりできないのに」
《勝手に入って溺れてるだけじゃないのか》
「冬に?」
《肝試し。わざわざ首を突っ込む馬鹿のやりそうなことだ》
 嫌味なアンクを振り返って顔をしかめてみせると、その先にいた別の客に変な顔をされる。
 今のアンクの姿は、俺以外には見えていないようだった。もし見えていてもお化けみたいなものであることに変わりはないから、いざとなったらそういった超常現象的なもののふりをしてもらおうと思っていたが、対面する人間の視線はいずれも、俺自身を飛び越えることはなかった。
 それにしても、人間に憑けることが判明したにもかかわらず、アンクが誰かの身体を勝手に使おうとしないのは不思議だった。いや、ぜひこのまま品行方正にふるまってほしいがしかし、こいつがまさか、俺のたった一言を抑止力としているわけがない。
それはほぼ確信に近いが、もしかしたらという希望を込めた淡い気持ちと、もしかしてめちゃくちゃ改心してるのかなこいつという気持ち、その二つの間にほんの少しだけ、アンクはずっとこのままでかまわないと思っているのでは、という懸念が潜り込んでくる。
 しかし、結論としてはどれも異なっていた。アンク曰く、片腕だけでも復活している状態で憑りつくのとこの状態で憑りつくのでは、感覚が全く異なるのだそうだ。
《俺自身が触ったり聞いたりしてる感じがなくて気持ち悪い》
「へーえ、そうなんだ。着ぐるみ着てるみたいな?」
《着たことないけどな》
「あれ、お前なんにも着なかったんだっけ? 俺クスクシエであんなに」
《着てない。……映司》
「ん?」
《別に俺は知ったこっちゃないが、俺の姿、誰にも見えてなさそうだぞ》
「わかってるよ」
《独り言が激しい》
「あ~っつ、あついな~これ」
 俺は突如具入りのパンの熱さに声を上げるポーズを取ったが、温めなおしただけのそれは割っても湯気すら出てきておらず、不審者ぶりに拍車をかける結果になってしまった。……仕方ない、今から振る舞いを改めるしかない。
 食器を下げるついでに、バーカウンターの向こうから俺の単独公演を見ていた女性に「あの、すみません」と声をかけた。老齢の女性は胡散臭げにこちらを見上げたが、皿と一緒に多めのチップを渡すとすぐに表情をやわらげた。
「教えてほしいんです。ここに出る幽霊のこと調べてるんですけど、ちょっとわからないことがあって。もしご存知なら」
「昔心中した男女のこと?」
「いえ、昔のことじゃなく。ここ最近、湖で溺れた人ってどれくらいいるのかなって」
 女性の表情は再び硬くなってしまった。「幽霊のせいで?」
「はい、幽霊のせいで」
……あなたよっぽど怪談が好きなのね。まあ、あの部屋に泊まるくらいですものね」
「気分を損ねていたらすみません。でも幽霊のせいじゃなかったら、何の原因もないけどここに泊まった人ばっかり、ってことになっちゃうかなと思って。そんなはずないでしょうから」
 灰色がかった目をのぞき込む。女性は皴の刻まれた頬を持ち上げた。
「誰がそんなこと言ってるの?」
「こっちはネットの噂です」
「そうね。そんなはずないわね。それは、噂ですよ。……事故はあるけど、人数なんか覚えてないわ」
 Cさんは宿側が怪談を否定していると言っていたけれど、どうやら違う。怪談それ自体はかまわないのだろう、それで客が来るのだから。問題は実際に事故があるということだ。
 ただし女性の言う通り、この部屋に泊まると湖に引きずり込まれるというのは単なる噂にすぎず、証拠はどこにもない。実害を認めたら確実に客足が遠のくであろうことは俺にもわかる。もしシロなら宿は被害者だろうから、俺はそれ以上突っ込めなかった。
 フロントや清掃スタッフにも同じ質問をしたが、帰ってくる答えは皆似たようなものだ。しかし宿の外に出てみると、Cさんの話と同じように、皆口をそろえて「あの部屋は出るぞ」とどこか楽しげに言う。「血しぶきが浮かび上がるし男は湖に連れてかれるって話だ」
《観光資源は欲しいが被害は隠したいってか。周りの連中はとりあえずあの宿に押し付けておこぼれ狙い。いいじゃないか、欲望に満ちてて》
 身も蓋もないアンクの言葉に俺は顔をしかめた。まあ、そうなんだけど。
 湖に向かう道中は相変わらず路駐と観光客でいっぱいだったが、道路の脇を降りて林の中に入っていくと、もうそこには何の音も気配もなかった。ただただ霧で真っ白だ。
《宿の食事に薬でも入ってるんじゃないか。それで湖まで連れていく》
「全員あそこで食事するわけじゃないだろ。俺だって今日初めて食べたし」
《馬鹿、冗談だ。だがなんだってやりようはある》
「あるかなあ。それに何のために」
《四十年もこのネタで食ってきて、今更辞められるわけないだろう。事件が起きれば起きるほど噂が広まるし、噂が広まれば広まるほど、肝試しをしたがるカモが集まる。うまい商売だ。ここにいる馬鹿もまんまと引っかかってる》
「俺は別に」
《同じことだ。それに、犯人が幽霊だろうが人間だろうが結果は一緒だ。まあ、幽霊なんてもんがいればの話だがな》
確かに、レアメタルや遺跡が見つかるまで、ここには特に金を呼ぶ産業はなかったと聞く。まして、国が絡むような採掘産業で劇的に儲けられるような人間は限られている。アンクの言うことには一理あった。
あったのだが、こいつがやたら幽霊を否定したがるのがなんとなく引っかかった。
「お前、自分がそんな姿なのによく言うよな……あ、」
 俺は漂うアンクを見上げた。「アンクお前、ひょっとしてお化け怖い?」
《あ!? 誰が》
「俺は別にどっちでもいいんだけどさ、幽霊でも人でも、止めたいだけだから。ただお前は幽霊じゃない説推してるみたいだから」
《俺だってどっちだっていい!!》
 舌を出しながら顔を前に戻す。遊んでいる場合ではなかった。ちょっかいを出したのは俺だけど。
 湖を目指す道中はまあまあ厳しいものだった。視界がない上に足場が悪すぎる。表面が溶けたり凍ったりを繰り返している石を雪の中で踏んずけて、俺は何度か尻餅をついた。
《映司お前、体幹鈍ってるんじゃないか。情けない》
「うるさいな。鍛えるけどさ、寝ぼけたみたいな状態の人連れてこんな道降りて来るには、結構な体幹が必要ってことだよな」
《転がしときゃ勝手に凍死するだろ》
……でもこれじゃあ、溺れたりはしない」
 俺たちの目の前に現れたのは、湖を取り囲んでいる鉄の柵だ。
乗り越えようと思えばできないことはないが、能動的に動かないと無理だ。適当に転がして湖にドボンというわけにはいかない。……いやそれより。
 思わずアンクを見上げる。「アンクお前、これ乗り越えて、こんな道通って連れ帰ってくれたの」
 アンクは宙を半周した後、《転がしといたほうが良かったか?》と言い、俺の眉間を指した。
《いいか映司、この貸しはでかいぞ。アイス一本じゃ済まないからな》

 緯度の高い国の冬だ。気づけばとっぷりと日が暮れてしまっていた。宿に戻り温かいスープと黒パンを食べたあと、俺たちは一度部屋に戻った。
 湖の周囲を歩いてみたが、柵は途切れることなく湖をぐるりと囲んでいた。破れた部分はなく出入り口のようなものもなく、つまり湖に入るには、視界と足場の悪い傾斜を下り、さらに柵を超える必要がある。
 酩酊だか昏睡だかわからないが、そんな状態の人間を運んで湖に落とすには同等の体格の大人が必要だ。宿で正気を失わせてから人目につかないように運ぶ、というのは少し無理がある気がする。この宿には俺たちだけじゃなく、不特定多数の人が泊まっているのだ。
外で行うなら誰かが宿泊客にぴったりくっついている必要があるが、そんなことをするならそれこそ村ぐるみの犯行だ。それを何年も続けているとは考えづらかった。
「だいたい、昨日は俺一人だったんだよな?」
《知るか。俺はお前が飛び込んだから叩き起こされたんだ》
「寝るのかお前。……あれ、アンクお前、俺が飛び込んでからCさんのところに行ったってこと?」
《たまたまあいつが近くにいた》
「湖の? なんでまた」
《さあな。散歩でも……、》
 俺たちは顔を見合わせた。身体を借りておいてなんだが、昨日の件に限って言えば、Cさんがめちゃくちゃに怪しい人物になってしまう。
……いやいやいや、鴻上さんとこのスタッフだぞ」
《どうだかなァ。あの鴻上だ》
「えっ、そっちが黒幕!?」
 話が飛躍している。
 俺は少し考えた。ほんの少しだ。天啓が落ちてきたから考えるのをやめたのではなく、もう他に思いつく手がなかった。「よしアンク、俺たちもやろう」
《何を》
「肝試し」
《はァ? また湖に行くのか》
「行くことになると思うけど、被害者がどうやって湖まで行くかも知りたいから、昨日とおんなじ状況にしよう。出るならこの部屋なんだろうし」
……同じ状況?》
「寝る」
 言いながら灯りを落としてベッドに潜り込む俺を、アンクは呆れたように見下ろしている。
《ずいぶんのんきな作戦だな。何時だと思ってんだ》
「もう他に思いつかないんだよ。お前何かある? それに、夜中に起こされるならちょうどいいだろ」
《何も起きなかったら》
「ゆっくり寝よ。昨日あんまり寝てないし」
 寝床から見上げるアンクはふらふらと漂っていたが、やがてあきらめたようにそばに降りてきた。
「アンクお前、今どこで寝てるの」
……メダルのそばだ》
 メダルは常に俺のポケットの中にある。
 その事実と、アンクの憮然とした口調に、俺はなんだかむずがゆい気分になった。そっか、と返事をした自分の声が変だったような気がして、ごまかすように少し大きな声を出した。「なんか懐かしいなあ」
《俺は全然だ》
「今の姿ってどんな感じ? 腕だけ復活したときと違う?」
……あの時よりぼんやりしてる、いろいろ》
「ぼんやり、」
《物に触れないし匂いもない。わかるのは音とか気配くらいだ》
……やっぱり身体、欲しい?」
 少し考えたアンクは、《当然だ》と言った。
 その少しの間に何を考えたのか知りたかったが、言わないということは聞いても教えてくれないだろう、とも思う。
「どうやったら身体、手に入るんだろうなあ。どうにかしてセルメダル探して、お前とコアメダル置いたら出てくるのかな」
《知るか。知ってたらとっくにやってる》
「はは、おっしゃる通り」
 先ほど指摘された通り就寝時刻としてはだいぶ早かったが、温まる寝床の中では早々に手足が火照ってきていた。ゆっくり溶けていくように弛緩する身体を心地よく思いながら、
「お前のこと、蘇らせようとしてるんだ、俺」
半分独り言のようにつぶやく。
アンクは小さく鼻を鳴らした後、《知ってる》と、今度は間髪入れずに答えた。
……知ってるんだ」
《俺はずっといるって言ってんだろ。馬鹿が何してるかくらい、わかる》
「そっか。……なあアンク、」
 瞼が落ちる。徐々に輪郭を無くしていく意識の中、暗闇に向かって、俺は囁いた。
お前の身体が欲しいのは、俺もだよ。
 ……それも、知ってる。

 眠りが物音で中断されたのは二十四時を回ったころだ。俺がアンクを呼んだのと、アンクが俺を呼んだのはほとんど同時だった。
 風の音ともネズミの足音とも家鳴りともつかない妙な物音は、高くなったり低くなったりしながら絶え間なく響いている。動くものが近づいたり遠のいたりしているのではなくて、振動する空気そのものが近づいたり遠のいたりしているような、正体不明の不快な音だった。
「うわあ、なんかやだなこれ」
……映司、窓開けろ》
「窓?」
 凍っている窓枠を無理やり開ける。雪のちらつく静かな冷気と室内の不穏な物音が混ざり合って耳をツンと鳴らす中、外の景色の中にふらふら歩く人影を見つけた俺は、思わず声を漏らした。「Cさん」
《何? またあいつか》
「しまった、この部屋以外にも出るんだ。……アンク行こう。あれたぶん、散歩じゃない」
 ダウンに袖を通しながら部屋を飛び出す。エントランスを出たところで、Cさんの身体は道路の脇に消えた。湖に向かう急傾斜だ。慌てて追いかけるが、積もり始めている雪のせいで昼間よりもさらに歩きづらい。
《オイ、あいつのほうが全然早いじゃねえか》
「Cさん地元のひとだから……
 というのが言い訳になどならないのはわかっている。「ちょっとアンク、黙ってて」
《人のせいにすんな、っておい》
 走るより滑り降りた方が早い。足を前に出して重心を後ろに倒す。馬鹿と叫ぶアンクの声が後方に流れるのが思ったより早くて、俺はちょっとだけ焦った。「うわーッ!?」
 暗転。
……お前本当に馬鹿だな》
 半ば転げ落ちるように柵のあたりまでたどり着いた俺を、アンクは呆れて見下ろしている。逆さまの景色を正位置に戻すと、Cさんが塀の上から反対側に身体をうつすところだった。慌てて起き上がり追いかける。「Cさん!」
……
 呼びかけても返事はなく、やはり彼は正気ではないように見えた。水の中に入られたら厄介だ。その前に止めたかったのだが間に合うだろうか。
走りながら距離を計算していると、視界の端を極彩色の影が飛んだ。
「アンク!?」
 アンクはCさんに掴みかかるように近づくと、そのまま体内に消えた。前のめりになってたたらを踏んだ身体から押し出されるように、別の影が飛び出てくる。
 人影は薄い布のようにふわりと飛び、それから呆然とCさんを振り返った。宙に浮いたまま。
「で、出た……
 Cさんに入ったままのアンクはなぜかしぶしぶといったていで「出してやったんだ」と言った。
……よかったな映司。お前の言う通り、幽霊が犯人だ」
「アンクお前、やるな……?」
 お手柄だ。ただ、別に良くはない。むしろ本当に幽霊が犯人だった場合はどうやって問題を解決すればいいんだろう。
 考えることで跳ねた脈を静めながら、俺は目を凝らして影を観察する。
 まだぼんやりと浮かんでいるその姿は、気を抜いたら霧の中に溶け込んでしまいそうだったけれど、半身にべっとり付着した赤い血のおかげで、視認性はまあまあだった。見るたびに息を呑みそうになるが。……そう、赤い血だ。
 ロミオは宿で喉を掻っ切って自殺したとか。
「引きずり込んでるのはジュリエットじゃなかったんだ」
 俺がそうつぶやくと、影男の霊は、ほうっと息を吐くようなしぐさの後、全身の力を抜いた。
……やっぱりそうだ》
「え?」
《待ってたんだ、あなたたちみたいなのを》
 助けてほしいと言う影に、俺とアンクは顔を見合わせた。

 Cさんに倣い、男の霊のことはロミオと呼ぶことにする。
 ロミオとともにいったん宿に引き返した俺たちは、連日酷使を強いられているCさんの身体に疲れが残らないことを祈りながら寝床に横たえ、それから俺の部屋でロミオの話を聞くことにした。
 彼の話は、おおむねCさんの語った怪談の通りだった。湖での心中を試みた二人だったが、ジュリエットだけが水死。ロミオは助かるが後日自殺する。ロミオの自殺した宿に泊まる男は湖に引きずり込まれる。
 よく聞いた怪談と異なるのはその犯人だった。
《宿に泊まった人を湖に連れて行ってるのは、俺です》
 宿のベッドに腰掛けた俺と宙を浮くアンクを前に、ロミオはどこか遠くを見つめながら告白を始めた。
《毎年気づくとここにいるんです。いつも冬。ずっと彼女のことを探してるんだけど、どこにもいない。探してるうちに、彼女の死体がまだ引き揚げられてないって話を聞きました。滝壺でもあるまいしそんなことありえないと思ったけど、ひょっとしたら俺たち、彼女の死体が上がってないせいで会えないんじゃないかって思いついて、それで潜ってみたんです。……彼女はいました、綺麗な姿で》
「四十年前って聞きましたけど」
 ギョッとした俺を見たロミオは《すごく綺麗だよ。見てほしい》と血塗れの顔で微笑む。
 思わずアンクの方を見たが、彼は特に反応を示していなかった。たしかに目の前の現象を考慮したら、四十年前の水死体が綺麗なまま沈んでいても、なんというか誤差の範疇かもしれないが。
《そう、彼女は綺麗な姿で俺を待ってる。だけど、この宿から出てあるところまで行くと、俺はどうしても動けなくなる。糸がついた凧みたいに決められた範囲でしか動けないみたいなんだ。ここで死んだからかもしれない。……でもさ、もしかしたら彼女の魂もそうなんじゃないか? そう思わない? だから俺たち会えないんじゃないかな?》
 頭が迫ってくるので上半身を反らして避ける。別に避けなくても触れるわけではないのだが、血のインパクトがすごいのだ。それに幽霊だからなのか、どうも距離感がおかしい。身体ごと後ろに移動しながら、俺は「その辺はよくわかんないですけど」と相槌を打った。
《ですよね。でも俺はそう思ってます。だから彼女の死体を引き揚げたいんです。ただ俺は彼女に手が届かない。それになんとかしてあそこまで行き着けたとしても、死体に触れないと思うんだ。……だから、この部屋に泊まった人間の身体を借りて、湖に潜ってみようと思い立ったんです》
「憑りついたら遠くまで行けるんですか?」
《いや、何回か試したけどダメでした。身体は行けますが俺が剥がれるんです。俺が剥がれた後に意識を取り戻さなかった人は溺れてしまった》
……それで事故があんなに」
 つぶやくとロミオはぶんぶん顔を振った。《いや、俺だって溺れさせたくはないですよ! だから今は交渉して身体を借りるようにしてます。俺が動けなくなって離れたあとはその人に死体を引き揚げてもらわないといけないんだし、交渉は必須ですよ。特にこの部屋にはやたら協力的な人が泊まりに来てくれるようになったから、村ぐるみで応援してくれてるのかと……
「応援」
《はい》
 めちゃくちゃポジティブだ。アクティブだし。「……なんで心中なんかしたんですか」
《ンなこと聞いてどうすんだ》
「いやちょっと気になって……
《詳しくお話ししましょうか》
《いい、黙ってろ。……オイ映司、溺れたやつらはやっぱり肝試しじゃねぇか》
「そうみたいだな」
《もうほっとけ。全員勝手にやらせときゃいいだろ》
「うーん」
 半分そんなような気もしてきたが、しかし、放っておいて最悪の事態が起こらないとは限らない。それに、「俺は身体使っていいかとか訊かれた覚えないんだけどなあ」
《OKもらいましたよ》
「え、ほんと!?」
《好きにしろって言ってました》
 好きにしろ?
 聞き覚えのある言い回しだ。
 俺はすっとぼけて斜め上を浮いている腕に視線を向けた。
「アンク」
……なんだ》
「勝手にOK出しただろ」
《うるせえな。証拠あんのか》
「小学生みたいなこと言うな! 絶対お前だろ!」
《だったらどうだっていうんだ》
「どうだってお前……まあ他の人じゃなくて良かったけど、びっくりしただろ!」
《だから助けてやっただろうが》
「あ! そうやってー! さっき威張ってたけど貸し一でもなんでもない……、いやそんなことよりアンクお前、犯人わかってたな!? このこと隠そうとして幽霊じゃないみたいなこと言ったんだろ! 疑っちゃったろ村の人」
《全員共犯みたいなもんだろうが。それに俺だって寝てたんだ、まさかこんなのが話しかけてきてるなんて思うわけねぇだろ。びーびーびーびーうるせえんだよ!》
《あの、ここは俺に免じて許してあげてください》
 いやなんで!?
 俺とアンクが同時に振り返った先のロミオは、湖畔で見せたのと同じ懇願の表情で《助けてほしいんです》と俺たちに訴えかけていた。
《あなたたちがぴったりなんです。お願いします》
 勢いを削がれ、なんだか急に恥ずかしくなる。いつの間にか立ち上がっていた俺はそっとベッドに腰を落とした。アンクがおちょくるようにこちらに迫るのをしっしとやりながら、ロミオのほうに話を戻す。
……さっきも言ってましたけど、それ、どういうことですか?」
 俺たちの代わりに再び勢いづいた彼は、俺とアンクを交互に見ながら、《あなたたちは、身体が一つと、なんでだか知らないけど、意識が二つあるでしょう》と言った。《普通は身体に対して主になれる意識は一つだけみたいで、俺が憑いてる身体はその間意識を失っちゃうんですよ。それが事故の元で》
 俺たちに関して言えば正確な事情とは異なるのだが訂正はさておき、後半の確認のためにそうなの? とアンクを見上げると、彼は《たぶんな》と少し揺れた。そういうルールらしい。
《でも意識が二つあれば……、まず、あなたの身体を俺に貸してください。それから、その……その手? も一緒に、彼女のところまで潜ってもらいます。そんなに深くないし俺が場所を知ってます。最短ルートでたどり着ければ、死にはしないはずです》
 死にはしないはずときた。「一応最後まで聞きます」
《俺が憑いていられるギリギリのところまでたどり着いたときにあなたの意識が戻らなかったら、そちらの手の方が身体を動かせばいい。意識がすぐ戻ればそのまま行けばいいし……ああ、これで救助要員も要らない。すごい。とてもいい》
「救助要員って?」
《今年はより万全を期そうと思って、一人畔に配置してから二人目で潜ることにしたんです。一人目が全然目覚めなかったら意味ないんですけど、一応》
……だからCさんが畔にいたんだ」
……確かに救助要員にはなったな》
……まあ、そうだな」
 その試みに俺自身も助けられてはいた。しかしだ。
ロミオの言葉の意味も意図も理解できなくはないが、彼とは肝心な部分がどことなくわかり合えている気がせず、俺はなんだかクラクラしてきた。アンクすら若干引いているではないか。
「ちなみに今日はなんでCさんに憑いたんですか? 俺たちが必要ならCさんは別に要らなかったんじゃ」
《本当に一つの身体に意識が二つなのか確認したかったので、おとりとしてお借りしました》
……それ、CさんOKしてるんですか?」
《潜らないから断らなくてもいいかなって……
 よくない。
 よくないけど、俺の目的はこの霊に説教することではない。これ以上事故が起こらないようにすることだ。「あ~、もうおいとこう。わかりました」
《オイ! 何勝手に、》
 憤るアンクを無視し、俺はロミオに正面から向き直った。
「体を引き揚げたらもう人の身体で潜ったりしませんよね?」
《しません!》
「ジュリエ……恋人の方と会えるかどうか俺は知りませんけど、それでもしませんよね」
《やめます! 取り急ぎ湖に用事はなくなるし》
 なんだか不安が残る返事だが、やるしかない。
「アンク、行こう」
《なんでだ》
「なんでって」
《俺はほっとけって言ってんだ。いつ協力するって言った》
「手伝ってよ。頼む」
《知るか》
「昼間は手伝ってくれたろ」
《昼間だって手伝うなんて一言も言ってない。暇だったからついてっただけだ》
「今だって暇だろ。……いいや、メダル持ってればお前はついてこざるを得ないんだよな。もしものときは頼んだ」
……お前ら……
 どっと疲れたみたいな声を漏らしたアンクはしかし、最終的に舌打ちをしながら《貸し二だ》と言った。
《一につきアイス十本だ。絶対に忘れんな。手に書いとけ》
「貸し二かぁ? これでやっと一じゃないの? まあいいけど、消えちゃわないかな」
《うるせぇな、毎日書け!》
《あの、できれば急いでもらえると……
 再び同時に振り返った先のロミオは時計を指さしている。時刻は三時前。《痴話喧嘩してると夜が明けちゃうので……
「痴話喧嘩じゃありません」《誰が痴話喧嘩なんかしてるんだ》
 ロミオはハハハと笑った。
《明るくなると人目につくかなって。ほら、観光地だから》