通学電車の女神

年中組高校生パラレル マニゴルドと以蔵も出てる
初出・同人誌(合同)「I found the girl」2011年


3

 アフロディーテは実のところ、女神などどうでもよかった。それどころか、女一般に対して、噂の登場人物である女神と同じくらいの興味しかなかった。
 アフロディーテはヘテロだったし、人並み程度の性欲もあるから、そういった対象として選びたい女性像というものはある。都合よく平均以上に整っている顔立ちを持って生まれたために、描く女性像から大きく外れた女性を引き当てたことはほとんどない。だが、自分の気持ちをよくよく探ってみると、どうでもいいという結論にしか至らないのである。
 もしかしたら深刻な病なのかもしれないが、アフロディーテはそれを悲観したことは未だかつて一度も無かった。これを病だという言うならば、デスマスクやシュラのほうがよほど深刻だと思う。あいつらは病気だ。
 残暑と呼ばれる時期に入っても、黒緑の葉桜は依然として鬱蒼と茂っていたし、油蝉もしぶとく生きていた。クリーニング屋から出てきたばかりの制服のシャツは、糊が効きすぎていて汗を吸わない。固い襟首を忌々しく思いながら、アフロディーテはうなじを片手で仰いだ。
デスマスクとシュラは空の部室を避暑地か何かだと思っている節があるが、アフロディーテはこの部屋も教室も対して変わらないくらい暑いと思う。そんな気温の差を感じ取る受容器はない。あいつらだってきっと一緒だ。
 では何故登校するなり昇降口を通りすぎて部室へ向かうのかというと、そこに漫画があるからに他ならない。アフロディーテは漫画をとりわけ好んで読むというわけではない。むしろ逆だったが、だからこそ、あの部屋で暇を潰す時間以外に漫画を読もうとは思わない。というのは言い訳かもしれない。それも、どちらでもいい。
 ドアを開けると、暑い暑いとぼやきながら床を這いつくばっているデスマスクと、お前が暑苦しいとぼやきながら机に向かっているシュラが目に入ったので、アフロディーテは暑苦しい彼らに向かって「馬鹿か」と声をかけてやった。
……
「お前挨拶って知ってる?」
「おはよう」
「そんなドヤ顔で言われたって腑に落ちねえよ」
「何だ、お前が訊くから答えてやったのに。腑に落ちないのは私の方だ。あと、暑いならどこかに行け」
「俺たち迷える子羊だからー、行く所なんて無いのー」
 怠惰な上に羊毛も取れない羊を迎え入れる農園はない。アフロディーテは鼻で一蹴すると、本棚の前に寝そべっているデスマスクを足で転がした。「どけ」
「いっった!!」
 デスマスクは大げさな悲鳴を上げる。「ふざけんなよ!そここないだ蹴られたんだよ!」
「知るか」
 アフロディーテより先に、シュラが舌打ちをする。予習か宿題か、彼が手元に開いていた分厚い青チャートが投げつけられる前に、危険を察知したデスマスクはがばりと上体を起こした。
初めからおとなしくどけばいいのに」
「お前らな、怪我人に向かってそういうの良くねえからな」
「もう治っているではないか」
「どこが!見るか!?」
「お前ら、うるさいんだよ!!」
 シュラが一喝すると、彼のもみあげから汗がはじけて飛んだ。
 
 こういった具合に彼らは馬鹿者で、それに付き合ってやっている自分も大概馬鹿者だとは、時折思う。だが今日はそれを認めたくない気分だったので、というか、漫画を持ち帰ってきたことに満足してしまったので、アフロディーテは昼間から帰路についている。
 アフロディーテは、高校に上がる前からこの路線を使っていた。養育園から引き取ってくれた老夫婦の仕事を手伝うために必要だったのだ。仲睦まじい老夫婦は花屋をやっていて、辞めればいいのに、結局最後まで、配達を断らなかった。彼らが車を運転できなくなってからは、まだ免許のないアフロディーテが、電車で商品の花を運んでいた。今は亡き二人が店を畳むまでそれは続いた。
 そのころには、女神の噂なんて聞いた事がなかったし、今日だって、相変わらずそれらしき人物の影も形もない。それどころか乗客自体まばらだった。学校をさぼって平日の昼間に電車に乗っているということにも原因はあったが、それにしたって、このうらぶれた地方都市のどこに、女神がいると言うのだろう。今日アフロディーテの視界に入ったのは、女神どころか痴漢だった。
……
 違う高校の制服を来た女子高生は、アフロディーテの斜め前に座っていた。彼女があまりにも青ざめた顔をしているので、アフロディーテは初め、彼女の顔色はどこまで悪くなるものなのか、ただ観察していた。おおかた冷え過ぎた車内で腹でも壊したのだろうと思ったのだ。あと二駅で我慢できずに降りるかなと、賭けにならない賭けを始めたところで、彼女の前に立っている男の挙動がおかしいことに気づく。
……
 空いた車内で座らずに立っているので、男は彼女の連れなのかもしれないと思っていた。どうやら違うと気づいたのは、立ち上がろうとした彼女の震える膝を、男が自分の膝で押さえたからだ。その拍子に、男が汚い性器を露出しているのが見えた。
 例えば彼らはカップルで、そういうプレイをしているのかもしれない。しれないが、アフロディーテは、自分のこめかみのあたりに怒りがちらつくのを感じた。どちらかというと、そんなものを見せられたことに腹を立てていたので、彼らがカップルかどうかは、もはやどうでもよかった。
……
 アフロディーテは立ち上がり、男の背中を思い切り蹴飛ばした。女子高生は顔を歪めて目の前に迫る性器を避ける。男は無言で息を呑んで、こちらを振り返ろうとする。彼の汗ばんだTシャツなど触りたくもなかったので、アフロディーテはもう一度足を上げ、彼を左側に押しのけた。男は股間を露出したまま床に尻を付いた。
あ」
 女子高生は蒼白な顔のまま、間の抜けた声を上げる。男は何かぶつぶつ言いながら、ちょうど止まった電車から降りようとする。その足と足の間につま先を差し込むと、男は再び体勢を崩し、今度は顎から落ちた。彼の代わりにドアから顔を出し、アフロディーテは駅員に向かって手を降った。
「駅員さーん、この人」
 痴漢です、言いかけたところで、逃げられる。
 あ、と、女子高生がまた声を上げる。

 発車してしまった電車の中で女子高生と二人、降りるまで無言でいたとしても、アフロディーテは全然構わなかった。むしろそうしていたかった。苛立ちを行為によって昇華したアフロディーテはそのことにすっかり満足していて、彼女と話したいことなんか何一つ無かったのだ。
 だが彼女はこの沈黙を良しとしなかった。
「あっのっ、」
……
「すいません、ありがとうございます、」
いえ」
「あの、ホント、すいません」
 女子高生は壊れた玩具のようにそう繰り返す。あまりにも頭を下げられるので、アフロディーテはまたいらいらしてきた。それに、これではまるで、私が彼女に何かしたみたいではないか。
何故君が謝るんだ」
あ、いえ、ホントに、すいません」
ひょっとして彼、君の連れだったのか?」
「え、いや、」
 女子高生は脳震盪になるのではというくらいに首を振った。「全然」
「じゃあもう、いいだろう。私は他人のチンコになんか興味がないんだ。むしろ嫌いだ。だから蹴飛ばしたのだ」
 女子高生はあっけに取られた顔をして、それから右頬だけを持ち上げて、はは、と笑った。
「そうですよね」
「そうだ」
「私もです」
だろうな」
あの、あの、すいません、お礼に、」
 アフロディーテは眉を上げた。
 食事に誘われたとして、相手が自分と同じ高校生では、その内容はたかが知れている。そんなことは分かっていたし、普段だったら絶対に受けることはない。ましてや、彼女はアフロディーテの好みでも何でもなかった。
 だがその日は腹が減っていた。まだ昼食も取らないまま、学校をさぼって帰ってきてしまっていたせいだった。

 期待値が低ければ、向かい合っているのがファストフード店でも幻滅はしない。同じファストフードならばフレッシュネスバーガーよりもすき家に行きたかったが、ご馳走してもらった立場なので何も言わない。
 女子高生はやたらと浮き足立っていたが、アフロディーテは素知らぬ顔をしていた。アボカドの入ったハンバーガーを食べ終えてしまったアフロディーテは、ジンジャーエールに入ったミントの葉をストローで執拗に押しつぶしながら、彼女をぼんやり観察する。
 彼女は、自分のことを知っているようだった。
「あの、電車でよく、見かけてました、前」
「私はあまり始業時間に学校にはいかないのだが、君もそのクチと言うわけか」
前、です。あ、今日は、テスト期間で学校終わるの早いんです」
 女子高生は弁解した。
「よく見てたのはちょっと、いや、結構前、中学の時?」
……
あの、朝早く、あの電車乗ってませんでした?お花抱えて
……
 アフロディーテはストローに口をつけた。
 逆ナンパにしては陳腐な文句だと思っていたが、どうやら彼女は本当にアフロディーテを知っているようだった。だが、あまりにも昔の話過ぎるし、この近辺に住んでいるのならば、そんな人間がいても何らおかしいことはない。早朝の電車で花を抱えていた自分が悪目立ちしていたことくらい、アフロディーテは自覚している。彼女のセンチメンタリズムに付き合ってやる義理はない。
 ないのだが、無言に耐えかねたのか、いつ自分の発言を撤回しようかと不安気な顔をしている彼女に向かって
そうかもしれないな」
と答えてしまった。
「うわあ、やっぱり」
 彼女は文字通り顔をほころばせ、それから堰を切ったように話し始める。「わたし!!」
……
「私、あのときいつも、朝練で早い電車に乗ってたんです。あの電車、ラッシュの時は混むけど、朝は誰もいないじゃないですか、今でもだけど。それで、毎朝すごく綺麗な子が、お花抱えて、誰もいない電車に乗ってて、ずーっと覚えてて」
……
 今までの歯切れの悪さと打って変わって、こちらが口を開いたら最後だとでもいうような勢いだった。もしかしたら、彼女はアフロディーテが思っているよりも聡明で、こちらの内心に気づいているのかもしれない。どちらでもいいのだが。
「それでね、私、友達とか、対外試合で会った子とか、もう色んな人にずっと言ってたんだけど、信じてもらえなくて」
?何を?」
 グラスの底に溜まってしまったハチミツが惜しくなり、それを飲み干すために氷を溶かそうと躍起になっていたアフロディーテは、彼女の言葉を半分以上聞き流していた。だから、
「この電車、女神みたいな人が乗ってるって」
と言った彼女の言葉も、そのときは頭の中をすり抜けていった。
ん?」
「え、だから、女神みたいな」
と、彼女はもう一度繰り返す。それからアフロディーテの顔をまじまじと見て、再び、自分の発言をいつ撤回しようかという表情に移り変わっていく。
 アフロディーテは鼻から息を吐き、音を立てながら、グラスの底に残った甘ったるい液体を飲み込んだ。
私は男だが」
うん、そうですね」
 はは、と、右の頬が上がる。
「でも、そう思ったんです」
「それはどうも」
でも、あ、いえ、すみません」
 彼女は電車の中と同じ動きで頭を下げた。それから別れ際に、もう一度、「でも、」と付け加えた。
「女神が女の子じゃなくてよかった」
「なぜ」
「なんか、ホントに女の子だったら、怖いもん」

 翌朝、アフロディーテは始発電車に乗った。配達の必要がなくなってから始発などには乗らなかったから、おそらく三年振りだった。それ以上かもしれない。それ以下かもしれない。アフロディーテには分からない。
 分からないが、久しぶりの割には、アフロディーテの身体は始発の空気を覚えており、またその空気を拒みもしなかった。まだ陽の昇りきらない薄暗い車窓と、蛍光灯の明かりと、酒臭い大学生と、疲れきったサラリーマンと、大きなバッグと共に部活に向かう中高生と、花を持っていない自分。アフロディーテはさっさと座席に座って足を組んだ。
 結局名前も聞くことがなかった彼女の言葉は、空になったグラスと一緒に、フレッシュネスバーガーに置き去りになったはずだった。はずだったのだが、何かの拍子に、頭蓋骨のどこかにひっかかってしまっていたのかもしれない。滑稽な文句は、今更アフロディーテの眼球の裏側をちりちりと焼いている。この電車、女神みたいな人が乗ってるって。女の子じゃなくてよかった。
 怖いもん。
 そういうものなのだろう。
 ビルの影から出てきた日光が目を差すので、アフロディーテは目を閉じた。それから、ほら、と呼びかけてみる。デスマスク、シュラ、噂の女神の正体は、きっと彼女の勘違いだぞ。女神などいないのだ。
 アフロディーテは本当に、女神などどうでもよかった。会いたいと思ったことなど一度たりともなかった。それでも、あの、漫画以外に何も無い、暑苦しい部室で、あの馬鹿共と話すことが一つなくなってしまうのは、何となく惜しいような気がした。それだけだ。本当にただそれだけだ。
 それだけだったのだが、アフロディーテは、正体の分からない喪失感にぼんやりとした。
 朝日の強い紫外線はガラスを貫通してアフロディーテの瞼を焼く。閉じた目の裏側が、茶色く明るくなっていく。
「本当に馬鹿だなあ」
 乗客を無視して、アフロディーテは声に出してそう言った。目を閉じたままだから、誰がどんな目でこちらを見ていようがどうでも良かった。それからあくびをすると、
「ま、はしたない」
 聞き慣れ過ぎた声に感傷を邪魔される。
 あくびと一緒に出てきた涙でぼやける視界には、またいつもと違う香りを纏ったデスマスクがいた。
また朝帰りか」
「嫉妬?」
「誰に?」
 デスマスクは答えずに、アフロディーテよりも大きなあくびをする。
 アフロディーテは、ひょっとしたら噂の出処かもしれない女子高生に会ったことも、こいつらの、女神に対する勘違いの片思いに関しても、何も言うつもりはなかった。いや、言ってやる義理がないのだ。
 それでも何となく苛立ったので、代わりに目の前に立っているデスマスクの脛を蹴った。
「いっ!?」
前に立つな」
「はあ!?お前さ、どうなの、その態度」
「お前こそ、私に感謝して然るべきだ」
「やめてくんない、そういう電波系の発言。あ、」
 電車が減速し、デスマスクはごく当たり前だという動きで入り口を振り返る。別の路線の乗り入れ駅だからか、こんな時間でも、車内はそれなりに人で埋まってきた。
「お前、そうやって物色しているのか、毎朝」
「物色とかじゃねえし。人聞きの悪いこと言うな」
「で、いたのか。今日の女神は」
「わんこかよ」
「何か違うのか」
 デスマスクはそれでも後ろを向いたままだったので、つられたアフロディーテも、車内に流れこんでくる人々をぼんやりと眺めた。ほとんどは今車内にいるような人種と対して変わらないように思えたが、その中に一つ、小さな赤い靴を見つけて、首を傾げた。
子供?」
 子供は花を抱えている。
 始発電車には不釣合いな姿を追いかけようと、アフロディーテは目を凝らした。逆光で視界が悪いが、どうしてか、彼女を探さなければいけないような気がした。
 別に、子供が好きなわけではない。こんな時間に花を抱えた子供の乗客だっているだろう。そんなことはアフロディーテの知った事ではない。それでも目を細める。
 花を抱えた少女は、こんなにたくさん人がいるのに、たった一人で別の世界に立っている様に見えた。一人では寂しかろうと思った矢先、彼女は後ろを振り返る。視線の先には老夫婦が立っている。
 人間の臭いに満ちた車内で、そこだけが花園のように見える。三人は幸せそうに微笑んでいる。幸せそうだ。寂しそうなどではなかった。
……
 心臓を撫でられた気分になり、アフロディーテは息を止めた。それから、女の子じゃないか、と思う。女神はやっぱり女の子じゃないか。いや、女神?女神なんて、
 彼女がこちらを見た。
 彼女は、アフロディーテに向かって微笑みかける。肯定するように、いや、そんなの勘違いだとでも言うように?
おい、デスマスク、」
「え?あ、」
 デスマスクが声を上げる。「いた」
 アフロディーテは彼女の方ではなく、彼の視線の先を見てしまった。
「ぜんぜん可愛くねーのが、ほれ」
 デスマスクが顎で指した先には、仏頂面のシュラが突っ立っていた。
……
 こちらを見るなり車両を移動しようとした失礼極まりない彼は、案の定デスマスクに捕まった。無理やり肩を組もうとするデスマスクを押し退けようとしたシュラの腕が他の乗客にぶつかり、可哀相に、彼は舌打ちの洗礼を浴びる。
すみません」
「シューラ、おはよ。朝からヤンチャしちゃダメよぉ」
死ね。お前のせいだ」
「死ねとかお前。せっかく見つけてやったのに。てか、挨拶って知ってる?」
「お前にする挨拶などない。暑いから離れろ」
「うっわ、聞いた?」
……
 視線を外したきり、少女も、老夫婦も、花すらも見失ってしまったアフロディーテは、しばらくぼんやりとしていた。
 思い出そうとすればするほど、彼女の笑顔は朝日にまみれ、かき消されていく。彼女を見たときの自分の感情だけが、光の中に取り残される。
 そういうものなのかもしれない。
全く聞いていなかったのだが、聞く価値がある会話だったのか?」
「全然」
あ、シュラ、あのこすげー可愛い、こっち見てるし」
「お前がうるさいからだ」
「いや、お前のことみてるぞ」
「だからデスマスク、シュラはどちらかというと、清楚系熟じ」
「違うわ!!!」
 シュラの絶叫は再び周囲の舌打ちを呼ぶ。
 可哀相な彼のために続きを飲み込んでやったアフロディーテは、足を組み直してあくびをした。
思い出せないのならば仕方がない。やはり自分は、女神などどうでもよかったのだ。こいつらの会話と同じくらい。
 だから、何故か救われた気分になったのも、もはやどうでもいいことだ。