通学電車の女神

年中組高校生パラレル マニゴルドと以蔵も出てる
初出・同人誌(合同)「I found the girl」2011年

1


 デスマスクは女神の存在を信じている。本当だ。例えば今日のように、道端の野良猫は愚か人間様でさえ動く気にもならないような暑い日、最大限の力を降りしぼって電車に乗ったデスマスクが、サラリーマンらの残した汗の臭いと体温にげんなりしているところに現れる、豪快に開けた胸の谷間を曝け出している女なんかは、間違いなく女神だと思う。
 線路の接続部を乗り越えた電車が大きく揺れるというお恵みを与えられたデスマスクは、お導きのままに、吊り革にぶら下さげた上体を大きく揺らした。スイングする視界の中央に捉えた女神の白い谷間はうっすら汗ばんでいて、鎖骨の下から胸骨の一つ目にかけて広がる産毛をきらきらと輝かせている。豊満な胸は逆に下着の影もちらつかせなかったが、そこがいいとデスマスクは思った。誤解のないよう補足すれば、胸が大きければ女神というわけではない。胸が小さい女だって女神である。ただ、今日はこの豊満な胸がデスマスクを救ってくれたというだけの話だ。
 減速する電車がもう一度揺れたので、デスマスクはきちんと体勢を整えた。女神に対しては、常に礼節が必要だ。それが常識というものだ。
 電車の止まった駅が目的地だったらしく、女神は立ち上がった。礼替わりにちらりと目線を寄越すと、女神はファンデーションの乗った頬を少しだけ緩め、柔らかな微笑みと共に電車を降りる。いいね、とデスマスクは思った。あんなものを与えられているのだから、全ての女性は彼女のように、その幸せを振りまき、人類に分け与えるべきだ。
「それは」
 シュラは三白眼を半分にしてつぶやいた。
「お前のためにやっているのではないだろう」
「ああ?」
 野暮なことをいうシュラに、デスマスクは母音だけで抗議した。
 校門をくぐったものの、既に11時半の殺気立った教室に入る気にならなかったデスマスクは、部室棟の角にある使われなくなった部屋で、誰かが置いていった物凄く古い少女漫画を読んでいた。由緒だけは正しいこの公立高校にはクーラーなどという高級なものは設置されておらず、デスマスクの知る限り、夏はこの日陰の部屋が一番快適である。年中日光が差し込まないのでうっすらと黴臭いが、それでも、ただ涼しいだけの四階の男子トイレよりはずっといい。シュラもそれを知っていて、昼休みになるとこの部屋にやってくる。
 弁当箱にしては恐ろしく大きい、家庭用ポットのような筒から白米を食らうシュラは、きちんと口の中のものを飲み下してから言葉を続けた。
「お前のためではないのだからお前に見る権利はない。お前は痴漢だ」
「視界に入ったんだよ。つかお前だって見るだろ」
「見ない」
「嘘つけ」
「シュラは本当のことを言っているぞ」
 デスマスクと同じシリーズの漫画に読み耽っていたアフロディーテは眠そうな声で言い、それから、「おい、その巻をよこせ」
まだ読み終わってねえよ」
「知るか。私はこれを読み終わったんだ」
「知るかって、こっちが知るかよ!」
「下らん話をしているのだから別にいいだろう」
「下らなくはねえよ。ていうか、今のどういう意味?」
……
 こちらに背を向けて床に寝そべっていたアフロディーテは、物凄く億劫だという態度で上体を起こした。括っていた長い髪がほつれて、ところどころ汗で束になっている。首筋に張り付いたその一筋を鬱陶しげに引き剥がし、彼はあくびをした。
「シュラの好みは清楚系熟女だから」
 シュラは咳き込んだ。
「米粒飛んだぞ」
「だっ……!!」
「人の好みはそれぞれだ。デスマスク、許してやれ」
「誰がだ!!」
「ああ、そうか」
 涙目で咳き込むシュラの殺気に満ちた視線をまるで無視して、アフロディーテがもう一度あくびをすると、まだ気管に何かが入っている様子の彼は、息も絶え絶えに「死ね」と吐き捨てた。墓の底から這いでてきた腐乱死体が自分を殺した相手を600年位呪わんとするような声だったが、デスマスクはげらげら笑った。
「確かにな。お前マザコンぽいしな」
「だから誰がだ!!いつ誰がそんなことを言った!!」
「おい、読まないならさっさと貸せ」
「だーから、待てよ」
「お前ら、」
 許さん、とシュラは呻き、それから、「米が鼻に入った」と舌打ちをした。

 ところで最近、学校近くのこの路線には女神が現れるともっぱらの噂だ。流布したのはデスマスクではない。
 高校生にしては幼いその噂における女神というのが何を指すのか、何となく下種な匂いがしなくもなかったが、それとは関係ない部分で、デスマスクは噂を下らないと思っていた。女神この世のあらゆる場所におり、彼女たちは常に自分たちの前に姿を現しているではないか。それに気づく気づかないは、信仰度合いの差だと思う。
 神をたった一人だと決めた国の人びとと違い、デスマスクはこの国でぬくぬくと生きてきた。だから、女神も一人である必要はない。決してない。デスマスクは彼女たちから差し伸べられる手をひとつも払い除けたことはないし、その全てに対して最大限の敬意を払って接している。裏切ったと泣く女神の姿にはきちんと心を痛めている。それは単なるポーズではない。そんなことをしていると、いつか自分の身に同じことが降りかかってくるよ、と彼女は言うが、例え同じことが降りかかってきたとして、デスマスクはそれを不幸とは思わない。
「博愛主義なの?」
 デスマスクの前にトレイごと食事を差し出した彼女は、カウンターに肘を付きながらぼんやり呟いた。
 彼女とはお付き合いしている女性を指す単語ではなく、代名詞のsheであり、それはここではデスマスクの目の前にいる中年に差し掛かった女を指す。彼女はデスマスクが幼い頃からこの店にいて、大体頬杖をついてカウンターの向こうに座っている。外見も中身も居酒屋だかバーだかスナックだか分からない上に、商店街の一番端からさらに離れた通りに位置している店内には客らしい客はおらず、最近は、芋焼酎の水割りを片手にずっとテレビを観ている初老の男と、ビールを一杯と麦チョコだけ食べて帰るスーツを着た女と、制服を着たままのデスマスクしかいなかった。
 デスマスクはこの店で夕飯を食べてから家に帰る。時折彼女の晩酌に付き合うことがあるが、そういうとき彼女は大体ずっと黙り込んでいるので、デスマスクも黙って杯を開け、そのまま帰る。デスマスクにとって唯一女神と成り得ない女がいるとしたら彼女だ。決して貶めているわけではないが、そうなのだから仕方がない。
 記憶をいくら遡ってもリクエストした食事が出てきた試しがないので、デスマスクはいつものように何も注文せず、取り留めのない話をしていた。悪友は痴女が好きらしいという話のときに、彼女は鼻息だけで笑ったが、それ以外にとりたてて反応はなかった。これもいつもどおりだ。
 作り置きのモツ煮を山盛りと、何故か素麺の盛られた皿を出され、デスマスクは白米を要求したが、女は「今日は炊いてない」と言った。
「注文されたらどうするんだ」
「そんな客来ない」
 確かに。デスマスクは手を合わせてから素麺をすすった。
博愛主義の男ってやだな」
「俺は博愛主義者じゃねえよ。多神教の信者かもしれねえが」
「なにそれ。博愛主義にしか聞こえないよ。介護士にでもなれば?」
ぜってー嫌だ」
 デスマスクの呻きを面白がるというよりは自分が言ったことが面白かったという様子の彼女は、また鼻息で笑った。その発言の何が面白いのかさっぱりわからなかったが、彼女がこんな頻度で笑うことが珍しかったので、デスマスクは「知らん奴のシモの世話が出来るほど人間できてない」と続けてやった。彼女はまた笑う。
「私はあんたのおしめ、替えてやったのに」
知らねえよ」
「嫌だ、恩知らず。やっぱり博愛主義なんかじゃないね」
「だから、そう言ってるだろ」
 ほとんど形を失った大根を箸先で追いかけるデスマスクの頭上で、彼女はフフ、と、今度は声に出して笑った。
「あんたがホントに女神を捕まえたら、私は田舎に帰れるのになあ」

 彼女のそんな言葉を聞くのが初めてだったので、デスマスクは調子を狂わせていたのかもしれなかった。
 真っ暗なクラブの中、そこだけ空間ごとふんわりと浮き上がるような素敵な微笑みをこちらに投げてきてくれた女神と一緒に、デスマスクは煙草臭い階段をだらだらと登っていた。女の子が外に出たいと言ったから、それからどこかへ行きたいと言ったからだ。
「はー、汗だく」
 踊っていた気配も、はたまた汗っかきな気配もなかったが、女の子は手で顔をぱたぱたと仰ぎながらそう言った。嘘をつけ、と思ったが、そんなのは後で確かめればいいことだ。
 デスマスクは返事をせず、その代わりに「なあ、女神って知ってる?」と質問してみた。
は?」
「なんか、女神がいるらしいぜ」
「えー?なにそれ」
「電車に乗ってるんだと」
「えー?」
 デスマスクは女の子を振り返った。女の子は仰いでいた手をひらりと翻し、その手で髪の毛を掻き上げながら首を傾げる。
「痴女?」
そうかも」
 何故か少しだけ絶望しながら、前方に戻した視線を足元に落とし、デスマスクは片頬だけで笑った。どいつもこいつも情緒がねえ。ないが、無理やり話を合わせて来られるよりはいいか、と思う。俺はもしかして、会いたいのだろうか。みんなが囁く女神というものに。下らねえ。俺にとって世界中の女はみんな、
「ねえ、」
 呼びかけられたので、下らない思考を放り出して再び振り返る。
 女の子は目を細くしてくすくすと笑っている。
「どこ行く?」
 そうねえ、と返事をしかけたデスマスクは、舌を噛んだ。後頭部を殴られたからだった。
「おー、どこ行くの?お兄さん」
 煙草か酒で掠れた男の声が降ってくる。
 女の子はくすくすと笑っている。
「なあ、どこ行くの?」
 女の子は、くすくすと笑っている。その顔を見たいなあと思う。落ちた頭を持ち上げかけると、二発目が降ってきた。
「こいつ、俺の彼女なんだけどー」
 耳を撫でる笑い声に、別の汚い笑い声が混じった。階段に吐き出した唾の上には何人分か分からない影が落ちていて、デスマスクはげんなりした。何だこれ。今時。
「ツツモタセとか
「どこ行くかって聞いてんだよ」
 背中を蹴り飛ばされる。身体がふわりと浮く。
 デスマスクは女の子を避けた。そのせいで受身もクソもない不恰好な落ち方をしている自分を、どこか上の方から見ているような気分だった。だっせえな。情緒がねえ。どいつもこいつも、情緒がねえ。
 踊り場の隅の埃を被った消火器をぼんやりと眺めながら、デスマスクはため息を付く。世知辛い世の中だ。本当は、誰だって、会いたいくせに。たくさんの女神に会いたいくせに。女神たちだって、待っているくせに。
「ちっせーなー」
「ああ!?」
 ヤンキー漫画の読み過ぎだ、というような唸りを発して、持ち主の足よりも明らかに大きいスニーカーがデスマスクの腹を蹴った。足は増え、デスマスクは床に固定され、消火器の赤がぼんやりと滲んでいく。情緒がねえ。もしくは、こいつらの情緒は間違ってる。
 抵抗しなかったのは、多勢に無勢すぎて面倒だったからだし、調子を狂わせていたからだし、それに、女の子がまだくすくす笑っていたからだった。女の子は、繁華街の明かりを逆光に、ピンクのグロスの間から白い歯をほんの少し出して、笑っていた。笑い声は罵声や骨の鳴る音をすり抜けて、デスマスクの耳を優しく撫で続けている。
 デスマスクは女神の存在を信じている。本当だ。だからこんなことになっても、逆恨みなんかしない。してやらない。
 にやりと笑ってやると、女の子は何故か傷ついたという顔をした。何だよ。女神なら、そんな顔、すんなよ。

 財布を失ってしまったデスマスクは、それでも始電に乗るために、がんがん痛む頭を下げた。頭を下げられた駅員は通報か救護か一瞬迷い、結局最も無難な手段として改札を開ける。連絡先はシュラの家にしておいた。奴の家が一番まともそうな住所だったからだ。
 車内には誰もいなかった。好都合だ。横になりたかったが、あばらが痛かったので、仕方なく深く腰掛けたまま頭を垂れる。止まったと思っていた鼻血が再びつうと落ちてきたが、手の甲で拭う以上のことを何もする気になれず、床を見つめる。痛みを掻き消すように睡魔が降りてくる。
 あんたがホントに女神を捕まえたら、なんて、彼女は何故、お門違いなことを言うのだろう。女神は捕まえるもんじゃない。追いかけるものでもない。女神たちはただそこにいて、デスマスクはそのご機嫌を取らせて頂くだけだ。それだけだ。それ以外に何がある?見当違いの事を言っているから、彼女の望みは叶わないのだ。
 そう思ってから唐突に悲しくなったが、眠くすぎて、何故かはわからなかった。まあいい。どっちにしろ女神は捕まらないし、そうしたら、彼女はもう少しあそこにいるだろうし、デスマスクにトンチンカンな夕飯を作ってくれる、
 本当は、誰だって、俺だって、会いたい、
 閉じかけた瞼の間に赤い靴が映った。蛍光灯の灯りだけが眩しい始電には不釣り合いな、子供の小さい靴だった。
 デスマスクはぼんやりした頭で訝しんだ。電車には誰も乗っていないと思っていたのだが。とはいっても、脳はくらくらしていたし、腫れた瞼のせいで視界は狭いし、自分の感覚は当てにならない。この靴だって、もう夢なのかもしれない。
 それでもゆっくり顔を上げると、少女が立っていた。
……
 少女は無言のままハンカチを差し出す。
 デスマスクに向かって、綺麗な白いハンカチを、

 朝だというのに、学校はうるさい。
 朝練に励む陸上部員がハードルをガシャガシャ倒す音や、チャリ通組のママチャリがメンテ不足にきいきい鳴く音を、窓のすぐ近くに止まっているらしい油蝉の絶叫が掻き消している。それらを聞きながら、デスマスクは空の部室のリノリウムの床に寝そべっている。リノリウムはすぐに温まってしまうし、掃除なんかした覚えのないこの部屋には、土埃はおろか、正体を探りたくないような毛まで落ちている。それでもデスマスクはここから動かない。ここが一番、快適だからだ。
 電車の続きのつもりでうとうとしていると、ドアノブの回る音と一緒に、蝉の鳴き声が一層大きく飛び込んできた。続けて、
お前、」
と、物凄く嫌な声を投げられる。
そんな声出すなよー、」
……
 家まで持ち帰ったらしい少女漫画を数冊床に積み上げたアフロディーテは、くつくつと笑うデスマスクを無表情で見下ろした。
汚いぞ」
「名誉の負傷ですよ」
めでたい奴だな、お前は」
なーアフロディーテ、」
なんだ」
「俺、会っちゃった」
……
「でも、全くタイプじゃねーんだよ。ペドじゃねえし、俺」
お前が犯罪者になったら、友人としてお前のことを洗いざらい話してやろう」
「楽しみにしてるわ」
 アフロディーテは無表情を少しだけ崩した。分厚い唇がにやりと歪むのをぼんやり見ていると、
「デスマスクっ!!」
 ドアごと引き剥がさんばかりのシュラの勢いと怒声で、あれほど響いていた蝉の鳴き声が止んだ。
「貴様っ、人の名前を語るな!!というか、何をした!!朝から警察に、」
「あ、シュラちゃんおはよー」
「おはよー、じゃない!!」
「シュラ、剃り残しがあるぞ」
「どうでもいい!!アフロディーテ、こいつの素行を何とかしろ!!」
「私は何も知らん」
 シュラは怒りに震えている。アフロディーテはその横であくびをする。
 彼らを見上げながら、デスマスクは笑い続けた。横隔膜が震える度に脇腹が強く痛んだが、その痛みも苦ではなかった。これも信心の成せる技だ。
 デスマスクは女神を信じている。
 信じたいのだ。本当は。