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残りの夜が来た
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星矢
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通学電車の女神
年中組高校生パラレル マニゴルドと以蔵も出てる
初出・同人誌(合同)「I found the girl」2011年
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シュラの住んでいる部屋はだだっ広く、いつでもい草の青い匂いがする。少なくともシュラがこの家にやってきてからは一度足りとも、この家の畳が痛んでささくれ立っていたことはなかった。
布団を畳んで押入れにしまい込む。小さい頃の記憶では、寝起きの布団はすぐに押入れにしまってはいけなかった。押入れが湿気るからだ。だがこの家ではそうすることになっている。
この時間は冬ならばまだ夜で、星の残る中を歩くのが好きだったのだが、今はあいにくそれを楽しめるような季節ではなかった。日本家屋の造りは夏向きだとこの家に来たときには感動したものだが、今や気温がこの造りの想定を遥かに凌駕しているのか、それとも自分が慣れて無感動になってしまっただけなのか分からない。シュラはただ暑いとだけ思った。日の当たらない廊下にすら既に熱がこもっている。夏は苦手だ。
「おはようございます」
食堂には既に誰もいない。シュラは伏せてある食器に白米と味噌汁をよそった。
温め直さない味噌汁にはきちんと皮を剥いた茄子が入っている。養育園の味噌汁の茄子は皮がついたままで、汁が真っ黒になっていた。それを嫌がる別の子供の椀をこっそり空けるのがシュラの役目だったが、この家の味噌汁ならばそんな必要はない。元より、自分以外に同じ物を喰っている人間が、この空間にはいない。それでもシュラは手を合わせ、その指を組んで、一瞬祈ろうとした。
それから思い直して指を開き「いただきます」とだけ言う。宙ぶらりんになってしまった祈りは、早くも行動を開始した蝉の鳴き声と一緒に、シュラの喉のあたりを引っ掻く。
女神というのが一体何を指すものなのか分からなかったが、シュラは未だにその存在に気づいたことがない。
シュラのいる家から学校までの道のりは物凄く遠く、乗り換えを含めると二時間強かかる。その二時間を二年間繰り返してきたが、噂に登場する女神はもちろんのこと、デスマスクが毎日嬉々として報告してくるような女にもお目にかかったことがなかった。アフロディーテの奴が何か下らない事を吹聴していたが、好む好まないの問題ではなく、また興味が無いわけでもなく、本当にただ気づいたことがないのだ。そんなことを口にしたらまた何か言われることは目に見えているから言わないが、自分は女神というものには一生涯遭遇しないのではないか、とも思う。
ホームに降りた時点から既に響き渡っている油蝉の鳴き声に脳内を蹂躙されながら、シュラは教室、ではなく、まず空の部室に向かった。風は吹いていなかったが、久しく雨の降っていない校庭の脇を歩いているだけで、身体中が土埃にまみれそうだった。朝だというのに既に強い日光と相まって、何となく視界が黄色い。
部屋にはまだ誰もいなかった。シュラはほんの少し肩透かしを食らったような気分になったが、すぐに思い直す。シュラを含めて三人とも、ここに来る明白な目的があるわけではないし、今朝シュラが部室に向かったのも、別に奴らに会いたいからではない。ただ、この汗だくの身体でいきなり南向きの教室に入るのが嫌だった。
すっかり蒸しているスニーカーを脱いで、シュラは部室に入った。リノリウムの床はほんのり湿っているような気がする。靴下の裏側で見えない水の粒が潰されていくのを想像しながら部屋の中央に向かう。
シュラは左腕のGショックの液晶をちらりと眺め、始業までまだ時間があることを確認してから、体温よりも少しだけ冷たい床に膝を付き、そのままゆっくりと横になった。少しだけだ。眠りはしない。ただ、身体を冷やしたかっただけだ。
どうやら自分はキリスト教の教えに則って教育されていた時期があるようだ。それに気づいたのは、今の家に来てからだった。
非常に曖昧な表現なのは、シュラ自身はっきりと覚えていることが何もないからだ。キリスト教の教義もよく分からないシュラには、ただ、食事の前に祈りを捧げる習慣だけがあった。初めは、養育園がそういった方針だったのだろうと考えていたのだが、調べてみると記憶違いだった。だとしたら、この習慣はそれよりももっと前からシュラに染み込んでいるということになるのだが、物心ついたころから施設にいたシュラが、それ以前の事を思い出せるはずがなかった。
食事の前に祈ることを禁じられたことはない。からかわれたり笑われたこともない。だがシュラは、今の家に来てから祈るのをやめた。記憶からはすっぽり抜け落ちているくせに、シュラの与り知らぬどこかに根づいているものが奇妙で、疎ましく、そして怖かったからだ。
中途半端なシュラの祈りは、存在の曖昧な神というものに対して捧げられているわけではなかった。眼を閉じた先に浮かぶのは、自分の前で同じように手を組み合わせている女の姿だ。霞がかった黄色い日差しの中で、女は誰かに対して感謝している。質素な食事を前にした祈りの声はいつでも蝉の声にかき消されていて、シュラは首の周りに汗をびっしょりかきながら、それを見つめている。
…
いや。
シュラが、覚えているはずはないのだ。だから、これも記憶違いに他ならない。
…
それにしても、蝉の声がうるさい。蝉さえ鳴かなければ、女の声が聞こえるかもしれないのに。そうしたら、思い出せるかもしれないのに。彼女が誰なのか。
…
いや。もう通りすぎてしまったことを、思い出必要などない。し、これは、記憶違い、
「あれー、シュラ、珍しいな」
シュラはがばりと上体を起こした。デスマスクが閉めたドアに蝉の声が挟まれる。
「サボり?」
「
……
」
髪の毛を掻き上げた拍子に滴り落ちた汗が、床で砕け散った。時計を見ると、ホームルームは愚か、一時間目が始まってから既に30分も経っている。
「
……
」
頭を抱えているシュラの脇をすり抜けたデスマスクは、空き教室から勝手に持ってきた椅子に腰掛け、漫画雑誌をぱらぱらとめくる。
彼はまだあちこちにガーゼを当てているくせに、今日も朝帰りの様子だった。身なりは整えてあっても、ワックスかシャンプーか香水か知らないが、身体に纏っている匂いがいつもと違うので、そういう日はすぐに分かる。その匂いが二度以上完全一致したことは未だかつてなく、シュラはそういうデスマスクが半分羨ましく、半分は根本的に理解できない。また同時に、理解しようとも見習おうとも思わないが、この不良と自分が、結果的に全く同じように授業をサボっているという事実は、立派に頭痛の種だった。
シュラは舌打ちをして、その辺に落ちていた漫画を投げた。
「いてーな!怪我人に八つ当たりすんなよ!」
「知るか。暑いから入ってくるな」
「うっわ、何様」
「
…
何度だ、今日」
「さあ。35度くらい?」
「
…
もっと暑いだろ、ここ
…
」
「教室はさらに暑いんだから、いいじゃねえか」
「
…
何がだ」
何も良くはない。良くはないが、言うとおりでもある。
とりあえず付けてみた理由に対して納得したわけではなかったが、面倒になったシュラは、再び寝転がった。床はもうちっとも冷たくなく、それどころか汗で湿っていて不快だったが、ここ以外に時間をつぶす場所をシュラは知らなかった。
蝉の声がうるさい。
「
…
デスマスク」
「あー?」
「
……
」
「
…
なんだよ」
「お前、女神に会ったとか言っていなかったか」
「おー、さっきまで隣で寝てた」
「違う、お前が俺の名を騙って電車にタダ乗りした時のことだ」
「
…
あー」
デスマスクは何故か言葉を濁す。あの時以来、彼の口からその噂にまつわる話題が出たことは無かった。デスマスクが口を閉ざすのは、案外その女神が本物だったからなのではないかと、シュラは何となく思った。
…
もし本物だったら、
「
…
その女神、」
そこまで言いかけてから、シュラは言葉の続きを考えた。
…
自分は何が聞きたかったのだろう。
蝉の声が。
「なんだよ」
「
…
いや
…
」
「あ、残念ながら、清楚系熟女って感じじゃあなかったな、お前好みの」
「だから、それは根も葉もない妄言だ!!」
「まったまたー。いいんだぜシュラ、誰にだって、人には言えないことの一つや二つあるだろ。お前のはむしろ健全だ。俺なんかなあ」
「聞きたくないわ」
「いでっ!!」
もう一度漫画を投げたシュラは、そのモーションで寝返りを打った。こめかみに張り付いていた汗が一滴転がり落ちる。
…
では、自分は何が聞きたかったのだろう。
帰りの車窓に映るのは、既に夜の街になっていた。街と言ってもそれらしい光景が見られるのは電車に乗ってから初めの15分くらいで、残りの105分はひたすら田んぼだ。夜になってしまえば何も見えないのだが、シュラは二時間ずっと、その暗闇を眺めた。電車内では蝉の声などしないはずだが、音はそのままシュラの首の後ろに張り付いているかのように、暑さでぼんやりする頭の中でずっと鳴り響いている。
…
夏は苦手だ。もしかしたら、蝉の声が苦手なのかもしれない。
音を消せないまま、時折蛙の跳ねる暗い道を歩いたシュラは、立派すぎる家の前にたどり着いた。古めかしい引き戸の鍵を回そうとして、ぎょっとする。開いている。今朝はきちんと鍵を閉めて出かけたはずだ。ということは、家主が帰宅しているということだった。
既に億劫な気分になっているシュラは、それでも「ただいま帰りました」と声に出した。家の中からは何の返事も無かったが、人の気配はした。
歳若いシュラの養父はほぼ家を開けており、家の中のことは雇いの家政婦に任せている。自分が何故こんなに立派な家に引き取られたのかシュラには全く分からなかったが、最近は、もしかしたら単に留守番役として抜擢されただけかもしれないと考えている。いや、そうでも考えなければ居心地の悪さを打開できないというのが正しい。シュラは決して養父やこの家が嫌いな訳ではないが、彼はシュラと同じベクトルで無口で、何を話していいのか未だにさっぱり分からないのだった。無口な養父は以蔵と言う。
彼は縁側で酒を飲んでいた。
蚊に刺されないのだろうかと思いながら、シュラは彼のところまで挨拶に行った。布団のようにそうしろと言われた訳ではないが、彼の佇まいはそうしなければならないような気持ちを起こさせる。
「お帰り」
「ただいま帰りました」
「遅いのだな。いつもこの時間か?」
「
…
大体。友人と、少し」
あの馬鹿二人を友人と説明するのに躊躇したが、それ以外に適当な言葉が見つからなかったので、シュラは仕方なくそう言った。以蔵はシュラの顔をじっと見たが、何も言わず、また一口酒を飲んだ。
「お前も飲むか」
「
…
未成年ですが」
「つまらぬことを言うな」
夕飯を食っていない空の胃に、何の銘柄か知らないが日本酒と思われる酒を入れるのは、友人という言葉を出した時以上に躊躇われたが、それでもシュラは、差し出された猪口を受け取った。晩酌に誘われるのは、シュラの記憶が正しければ初めてだった。以蔵は酔っているのだろうか。
「
…
どうも」
口をつける一瞬祈りかけ、いつものように押し留める。
…
押し留めることには躊躇しなかった。
冷酒は口の中では冷たく、食道を落ちるときには熱い。
「ごちそうさまです」
「
……
」
以蔵は受け取った猪口に手酌で酒を注ぎ、一口で杯を空ける。
「
……
」
「
…
夕飯、頂いてきます」
「
…
シュラ、」
今度はこちらを見ずに、以蔵は言った。
「受け入れればいいのだ。何でも」
「
…
は?」
「
……
」
それきり言葉は止んだ。
聞き返そうかと思ったが、以蔵は答えないだろう。何となくそう思っただけだったが、滅多に会わなくても、居心地が悪くても、意志の疎通がままならなくても、数年共に暮らしているのだから、それくらいは分かった。
どこかで蝉の声がする。
以蔵もその音を聞いているようだった。
目を覚ますともう以蔵の気配はなく、シュラは普段と全く同じように布団を上げ、全く同じように食事の前に手を組みかけ、いつもと同じ電車に乗った。田舎の風景から始まるシュラの通学電車は、いつもと同じように人影がまばらで、女神の影も形もなかった。いつもの車両に乗り込んだシュラは、いつものつり革を掴んでぼんやりする。
電車の中に女神が見当たらないのは当然だった。そのくらい、シュラだって分かっていた。シュラはいつも窓の外を眺めていて、車内にはほとんど目をやっていないのだ。
見るものの何も無い窓の外に視線を固定し続ける癖は、今の家にやって来て以来のものだ。初めは、見慣れない風景に慣れたかった。早く慣れて切り替えたかった。自分の前を、後ろを、上を下を通りすぎていくものに対して、いちいち固執したくなかった。だから、祈りも、蝉の声も女の姿も、どこかに置いてきてしまいたかった。
いや、本当は、置いていかれる自分を守りたかっただけかもしれない。固執しなければ、自分はただの自分でいられると思っていたのかもしれない。
幼い考えだ、とシュラは思った。どのみち、シュラの中には蓄積されてしまう。布団を上げる習慣も、馬鹿二人とあそこでたむろすることも、以蔵とのぎこちない会話も、きっと、祈りと同じように、シュラの中に残されてしまう。
…
受け入れればいいのだ。何でも。
以蔵の真意は分からないままだったが、シュラは反芻した。受け入れればいいのだろうか。あの祈りも、蝉の声も、女の姿も、それを見つめる自分の姿も。そうすれば、いつか、思い出すことができるだろうか。
…
いや、やはり、思い出さなくてもいいのかも、
行ったり来たりする思考を転がしながら、シュラは車内を振り返った。田舎の始発電車に乗る人間の顔ぶれなど、毎日大して変わらない。事実、ずっと窓の外を見ていたはずのシュラは、そのどれにも見覚えがあった。シュラも覚えられているのかもしれなかった。
赤い靴をぶらぶら揺らしている少女とは、初めて目が合った。
昼休みに部室に行くと、コンビニのおにぎりのフィルムをべりべり剥がしながら、デスマスクがぼやいていた。
「なあ、俺、殴られてから顔の形変わってない?」
「
……
」
「
……
」
アフロディーテは相変わらず漫画を読みふけっていて、デスマスクの言葉が耳に入っているかどうかすら怪しい様子だった。靴を脱いで部室に上がったシュラも、その話題には全く興味が無い上に、彼の顔が変わったかどうかも分からなかったので、「知らん」とだけ答えてやる。腹が減っているのだ。ありがたい話ではあるが、あの家の家政婦の用意してくれる弁当箱は大きすぎて、早弁に向かないことこの上ない。
「なあアフロディーテ、変わってねえ?」
「
……
」
アフロディーテは黙ってページを捲っている。劣化した紙が乾いた音をたてるのを聞きながら、シュラは布の包みを開く。重なったいくつかの箱をばらして、蓋を開ける。
「
…
それ、そんなに面白いか?」
「お前の顔よりだいぶ面白い」
「古すぎねえ?コーラで髪脱色してんじゃん、主人公。誰だっけ」
「和希」
「そうカズキ、つーかアフロてめえ、聞いてんじゃねえかよ」
「聞いている聞いていないではなく、興味がないんだよ、デスマスク」
アフロディーテはそこで初めて顔を上げたのだろうか。「満面の笑みで言うなよ」とデスマスクがぼやく。
馬鹿二人ではなく、弁当箱の唐揚げをぼんやり眺めていたシュラは、下らない会話を、そこまでは聞いた。そこまで聞いてからやっと、祈りの形に指を組んだ。
「
…
なんだ、どれほど変形していると思えば。全く問題ないぞデスマスク、つまらん」
「つまらんって」
「だから、漫画の方が面白いのだと言っただろう。今、春山が大変な」
「あーそれ、春山助か」
舌打ちの後に鈍い音がする。
デスマスクの呻きと同時に、シュラは目を開ける。
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