さもゆ
2024-11-15 21:56:58
51182文字
Public BF
 

【A英】翌日NY各新聞社『きみたちは見届けたか? 夜の街中で起こった素晴らしい愛の物語を!』

『きみたちは見届けたか? 夜の街中で起こった素晴らしい愛の物語を! まだの人は、ぜひ、うちの新聞でご覧あれ!』

──情報提供者、マックス・ロボ。

アッシュを亡くして七年、怒涛の再会を経て再びアッシュと共に三年を過ごした英二は、三十歳の誕生日を迎える。けれど、翌朝、英二は彼の元から逃げ出そうと躍起になり……?彼らに優しいニューヨークと、はた迷惑な行動を起こす彼らの、へんてこで平和な愛のお話。

※大体のキャラが生きてる
※アニメと原作がごっちゃ(光の庭も含む)
※ちなみに、逃げ出したのがAだった場合、彼は完璧に英の動向を探りつつ逃げるはずなので、それを充分ご承知な英はひとまず自力で追いかけた後、街中で「きみから出てくれなきゃエンパイアステートビルから身を投げ打ってやるからな!!!」って叫んで、瞬間ビルに向かって駆け出す英とAの話になる

2019.9.5 たまごのお粥pixiv投稿作品


 ニュースボーイ・キャップ。

 日本ではキャスケット帽と呼ばれる帽子を被った英二は、月龍邸に深く深くお辞儀をして(その際、例の門番は冗談っぽく中指を立てる仕草をしたあと、人差し指と交差させたので、英二はうっかり彼にハグしそうになったが、ぐっと堪えて再度頭を下げ、笑顔で手を振った。今度菓子折りを贈ろうと心に決めた)、その足で、無理やりお世話してもらった屋敷を後にした。感謝してもしきれない。今時、マフィアは無関係の一般人を殺したりはしないが、自分は殺されても文句を言えない立場だった。弁護士が弁護するのを嫌がるくらいの愚行だったろう。なのにあちら様ときたら、英気を養う時間と環境をくれただけでなく、こうして逃げる手助けまでしてくれた。カンカンカン! 被告・奥村英二、駄目な大人罪で懲役三十年! しっかりと余裕ある人間に更生してくるように。閉廷! 三十年あればアッシュと正しく向き合えるだろうか……。どうなんでしょう弁護士さん。もっと刑罰を重くするべきではないでしょうか? ええ、まあそれは僕が無事逃げ切れたらの話ですけど……

「捕まったら……なんて言おう……
 
 僕だって逃げ切れるとは思っていない。せめて三日、いやさ一日、一人になれれば上出来だと思っている。ここで死にたくなるのが、アッシュは必ず僕を探し見つけ出すだろうと、探されている僕が確信していることだった。自惚れでもない、惚気でもない、昨晩のことをどう思っているかは分からないけど、彼にとって僕は特別だから。そんな人間に急に色仕掛けされてセフレみたいに翌朝出て行かれれば、なんとしてでも捜索するだろう。僕がアッシュの立場でもそうする。ふざけんなよって思う。アッシュは必ず僕を見つける。そして何を言うだろう。僕はちゃんと、『僕とのことは忘れてください』って、壊してしまったきみとの関係を修復する次第の旨を、書いてきたつもりだったけど。ああ……今なら分かる。この言葉、かなり誤解を招かないか? 僕としては「昨夜の痴態を全て記憶から抹消してください。僕も忘れるためにちょっと頭を冷やしてきます」の意をこめて……慌ててたから……とにかく早く家から出たくて……英語と少しの日本語が分かるきみなら伝わるって信じたいけどこれたぶん無理だろうな。僕ただのヤり逃げだと思われてる。恥ずか死にたい会いたくない。

 英二はキャップを目深に被り直した。

 月龍が持たせてくれたものだ。変装くらいした方がいいんじゃない、そう言って。重ねて、彼は、シンにアッシュへの連絡を遅らせるよう『命令』した。なんて絶妙な優しさなんだ。全面的に助けられるより彼らしくて、その温かさが余計に染みるし、情けない。家出を手助けされてるティーンみたいだ。夕陽の滲む目を擦った。頭も腰もまだ鈍い。でも逃げなければ。追いかけられているなら、尚更。

 シンはアッシュをハリケーンに喩えていた。二人の周囲に聞き込みはもちろん、思い当たる場所には手当たり次第趣き(彼だけでなく、彼を助ける古い友人たちもである。足数が多いのは圧倒的に有利だ)、特にアウトローな箇所は入念に調べているという。そのうち街中のホームレスだって味方につけるぜ、とシンが言っていた。ニューヨークはとことん英二を取り囲もうと動いている。都市一つが英二の敵だった。街から出てしまいたいが、きっとそれも叶わない。犯罪者を逃がしたとなったらまず越境の心配をするだろう。そういうことだ。限られた範囲で逃げ回らないと……

 彼が寝ている間に始まった隠れ鬼は、自分が寝ている間に鬼役の人数が増え、今や百鬼夜行だ。おあつらえ向きに、もうすぐ夜が来る。追いかけっこは無理だ、隠れるに徹した方がいい。でも、どこに? ぐずぐずしてるとせっかく月龍が用意してくれた時間が無駄になってしまう。早々に決めないと。かくれんぼだ。どこに自分を隠せる? 水は大海、木は森、鍵は鍵束、人は……人混み。

 アイデアが浮かんだ。良案か? 分からない。しかしあそこなら、いざとなったら近場の建物へ逃げ込めるし、タクシーも呼べる。英二は目立つ見目じゃない、日本人も大して珍しくない、人種のるつぼ! ネオン輝く眠らない繁華街、交差点! うってつけじゃないか? 身に着けたセキュリティポーチを確認する。靴ひもをきつく結び直した。ずれた眼鏡を上げる。準備はいいな? ……よし、じゃあ行こう。

 目的地は、──タイムズ・スクエアだ。



 ※



 やあお兄さん元気? そこの店にいいビールがあるよ寄ってかない? いえ結構です酒は昨日しこたま飲んだんで。追い酒しちゃいなよ嫌なことぜ~んぶ忘れられるよ? いや僕の場合嫌なことしちゃうタイプなんでははは翌朝きついんですよ、僕はこれで、お仕事頑張って。その顔で酒飲み? お兄さんいくつ? 全然だよ、昨日で三十になった! はっ? そのリアクション予想通りだありがとうそれじゃあね……。ああお嬢さんごめんよ今急いでるんだ失礼……

 キャッチセールスを躱しながらぐんぐん人の流れの多い方へと歩いて行く。近くまでタクシーで来たが、しきりに窓の外を気にする日本人に「あんた追われてたりするの?」と話しかけてきた運転手がもしやアッシュの回し者ではないかと疑うくらい、英二には余裕がなかった。「追われてたら僕を乗せて走ってくれる?」「チップ次第かな」「よっぽど信用できる」狼狽えすぎても悪目立ちするし、警戒しすぎるのも視野を狭める。自然体を装って、その辺を歩く観光客か通行人かに紛れないといけない。それで上手い具合にどこかホテルにでも入れれば……ホテルか、すぐバレるだろうか。どこかバーとかの方がいいだろうか。正直しばらく酒を見たくないが、しまった、さっきのあんちゃんに着いてきゃ良かった。

 タイムズ・スクエアには携帯やカメラを掲げて頭上へ向ける者が多かった。
 ちょうど、ビルとビルの合間に夕陽が射し込み、光と闇の境目を美しく形作っている。遠くは暗く、別の人工的かあるいは太陽には叶わない自然的な明かりがちらついていた。あれが完全に沈みきったら、鬼みたいな人間たちの得意な時間が始まる。どこででもそうだった。全ての者が夜に眠る習慣を持っていたら、世界はもっと平和だったはずだ。火さえ覚えなければ……そしたらみんな死んでいたかもしれない。絶滅。そして英二は日暮れより夜明けの方が好きだった。いつでも平和に朝を迎えたかった。果たして明日はどうなるだろう。できれば、英二とアッシュ、それぞれにとっての穏やかな朝がきてほしい。

 交差点に差し掛かる。向かいのビルとビルに窮屈そうに挟まれたバーガー屋の巨大看板に灯りが点った。周囲の店灯も負けじと次々に点きだす。前を歩く学生らしい集団が、ポテト食べよう、と言った。いいね、英二は心の中で同意する。僕はお茶だけ頼んで少し店に居させて貰おう。交差点を渡り始めた。

 なるべく速さを意識しないように。ゆっくりになりすぎないように。英二は上手く背景に溶け込めていた。自意識過剰、感覚過敏、なんでもいいが、一歩間違えればニューヨークは英二だけを見つめ地面からビルの天辺までを蠢かし捕らようと動く気がした。横断歩道は穴だらけに見えた。白いラインだけを踏み締めて歩く。
 車道をひとつ越え、中央歩行者道に辿り着いた時、そばで携帯を構えていた女性が満足そうに踵を返した。陽が沈んだんだ、英二は思った。歩きつつ女性が見ていた方向を振り返る。

 広告や看板でごたごたした電飾明るいビルの隙間、夕陽が最後の光を放ち、そして沈んだ。

 金色を見た。

 見間違いかと思った。眠りについた太陽の、残り火のような。そんな色はどこにでもあった。だから英二は見間違いだと目を瞬かせて、前を向き、どこでもあるその色を誰と見間違えたのか考えて、背筋を凍らせた。気のせいだ。めっきり見なくなった幻覚が、再発したんだ。

 けれど英二が分からないはずないのだ。

 英二はもう一度振り返った。さっきまで自分が歩いて来ていた歩道、その遠くに、金髪が見えた。別に、人間の髪は発光したりしない。なのに不思議と彼の髪は輝いて見える。分からないはずがない、顔は視認できない距離だが、あれは……

 あれはアッシュ・リンクスだ!

「うそだ」 

 一歩踏み違えた心地になる。
 現に、動揺した足は逃げを打とうと後退り、「危ない!」いつの間にか信号が変わっていた車道に飛び出しかかっていた。後ろをけたたましいクラクションが通り過ぎてゆく。「ご、ごめんなさい、ありがとう」こちらに注意し腕を引いてくれた若者に頭を下げ、離れた。まずい。まずい。空がぐんと暗くなり、走行車はみな目を光らせ、ビル群がたくさんの人間の中から英二ただ一人を見下ろしている。まずい。信号が変わってくれないと、動けない。しかし、なぜ? いくらなんでもタイミングが。

 英二は信号待ちをしている背の高い黒人男性の後ろに隠れるようにして様子を窺った。帽子をぎゅっと引き下げ、背を丸める。

 彼は一見、散歩でもしているふうだった。散歩? だって彼の左手はリードを持ち、その先はゴールデンレトリバーに繋がっている。どこからどう見てもバディだ。犬の散歩だ。ひょっとしてバディに僕を探させてるのか? だとするとうちの犬はなんて賢いんだろう、タクシーに乗った道順を辿ってきたの? そんな馬鹿な!

 これじゃまるで僕がここに来るのを分かっていたような──あっ?

 アッシュが歩いてくるにつれ、英二はその右手が何を持っているのかに気づいた。端末だ。アッシュの。英二は携帯を持ってこなかった。連絡を取るつもりがなかったから。それに、GPSやらなんやらでこちらの居場所を簡単に特定されてしまう恐れがあったから。英二はじっとアッシュを見つめる。すると彼は端末を見ていた顔を、不意に上げた。こっちを見た。英二は冷静に首を反対に捻った。心臓が鼓笛隊みたいに騒々しく鳴っている。

 落ち着け。眼鏡をかけた状態で表情が確認できない距離だ、まだ気づかれてないはずだ。でもこっちを見た、どうして? キャップを掴む。指先が布地の向こうの触感を拾った。何か、硬いもの、が。いちはやく違和感を覚えた指先が弄り、それが布の中に埋め込まれた何か四角く薄い物体のようだと把握した瞬間、英二は思い切り地団駄を踏んだ。──あんにゃろう! ユーシス、あいつ! 下唇を噛み締める。やっぱり謀りやがった! 目の前の黒人が驚いて英二から離れた。全く最高の悪役だよ、僕はきみが分からない!

 脳裏で愉悦の笑みを浮かべる性悪な月龍が「誕生日おめでとう」と祝福してきた。一体どの時点でこれを思いつき、実行に移そうと用意したのか、七年間彼に騙されていた英二じゃ理解不能の領域だったが、とにかく謀られたのである。これはたぶん(じゃない、確実に)GPSの類いだ。連絡を遅らせる? 遅らせたところでアッシュに教えたのがこちらの現在地なら何も意味がない。嫌がらせだ。月龍は英二が嫌いだった。味方とか敵とか依然に、手助けするなんて天地が引っ繰り返っても有り得ないことだと、英二は知っていた。そうだよね、うん、きみはそんなに僕を。知ってたとも。ばーーーーか!!

 帽子を剥ぎ取る。思い切り明後日の方向へぶん投げた。弧を描き、反対の歩道へ着地する寸前、うおん! と犬の咆哮がこだました。それも聞き違えるはずのない音だった。走ってくる、バディが!

 英二は振り向き、そして、飼い主の手を離れ、信号を無視し、車の間を縫って駆けてくる大型犬を叱らなければと思った反面、健気な様子に褒めたくもなり、謝りたくもなった。クラクションが響き渡る。一直線に英二のもとへ駆け寄ってきたバディは、半日以上ぶりに会う大好きな人間の足にまとわりつくと、咎めるように鼻先を押しつけてきた。英二は泣きそうになった。

「ああ、バディ、ごめん、ごめん。駄目だよ、離れて……お願いだよ」

 この期に及んでまだ逃げたかった。バディの頭を撫で、離れてくれるよう懇願する。「バディ、バディ。僕の言うこと聞いて、ごめん、いい子だから……」一匹の犬と一人の日本人を好奇の目で眺めつつ、青に変わった道路を歩行者たちが歩いていく。英二もなんとかその流れについて行こうとし、横断歩道へとバディが擦り寄る足を進めた。振り向いてはいけなかった。顔をしかと見たらもう駄目だと思った。

「──オクムラ……」 

 しかし、英二を振り向かせることについて、その人はあんまりにも長けていた。

「エイジ・オクムラァアア!!!」

 そう、あの個展での再会のように。

「ば」
 英二は全身を硬直させ、ひび割れた氷のように冷や汗を噴き出させながら、勢いよく振り返った。「こんな往来でフルネームで呼ぶなんてどうかしてるよアスラン・ジェイド・カーレンリース!! バカじゃないのか!?」信じられないくらい大声だった。周囲の人波がさっと引いていく。英二は横断歩道のド真ん中に立ち、彼の姿を直視した。

 金色の髪を振り乱し、翡翠の瞳で英二を射止め、長いコンパスで猛然と人混みを駆け抜けてくるアッシュは、バディと同じように信号を丸切り無視した。車からのブーイングも無視だ。アッシュの世界の全てはここにいる英二にしか向けられていない。逃げなければ捕まる。だが足は既に地面に掴まれ、微塵も動かせない。

「くるな」
 口だけは動いた。
「来るな!」

 でも、振り向いてしまった自分は、もしかしたら捕まりたかったのかもしれない。

 アッシュが立ち止まる。横断歩道の手前、息を整え一度深く呼吸すると、気にせず突き進んできた。彼の歩く横断歩道は穴ぼこではなく、白線かそうでないかなど関係なかった。ニューヨークは彼の庭であり、その中をどう動こうが彼の自由だったのだ。

「英二」

 静かに名前を呼んだ声は、街の喧騒の中でもよく耳に届いた。英二は俯いた。

「来ないでくれよ」

「どうして」

「だって、近づいて、どうするつもりなんだい。僕はきみに殴られたら簡単に首が折れるよ」

「俺がお前を傷つけるとでも?」

「でも、正直、ぶん殴りたいだろ」

 バディが心配そうに見上げてくる。視界に彼の靴先が入り込んだ。眼前で止まる。ほかにも、ちらほらと二人を気にして止まる足があったが、ここが車道の真ん中であることを思い出したのか、そそくさと歩みを再開していった。あんたたち何やってんの? もう信号変わるわよ、対岸で誰かが叫んだ。

「正直」
 アッシュが低く言う。
「怒ってる。かなりな」

「ごめん」
 捕まったらなんと言おう、胸のうちで降り積もっていた塵クズたちがそのまま口から飛び出した。当然正しい形にはなっていないゴミのような言い分だ。
「ごめん、アッシュ。あの、僕、申し訳なかった。僕だけは、あんなことしちゃいけなかった。僕たちは最高の友だちで、だからきみが拒まないのをいいことに、迫ったんだ。本当にごめん。誕生日で浮かれてたし、酒も入ってたし、それにきみが……、とにかく、時間が欲しかったんだ。あの残してきたメモ、あれは言葉の通りじゃなくて、いや言葉の通りなんだけど、僕とのことは忘れてくださいっていうのは、あの夜のことだよ、きみさえ良ければ、きみが赦してくれるなら、僕はちゃんと更生して、またきみといられるよう頑張るから……だから時間を」

「俺を一夜だけの男にするつもりか?」

「えっ、なにっ?」

 よく聞こえなかった。英二の視界、彼のスニーカーが、ダンッ! と地に踏み下ろされた。

「俺を一夜だけの男にするってのか!? 俺はもうお前とじゃなきゃ夜を越せねえんだぞ!!」

 英二はカッと頭に血が昇り、その感覚のまま弾かれたように顔を上げた。

「なんの話だよ!? 僕はビッチじゃないんだぞ! 一夜も何も、あんなこときみ以外にできるわけないだろ!!」

 二人の叫びを聞いた子連れの親は、咄嗟に子どもの耳を塞いだ。プパー! 甲高いクラクションの音が響き渡る。横断歩道は二人だけの場となり、信号が青にも関わらず足止めを食らっている車は苛々と車体を揺らした。至る所、時間に余裕のある者、好奇心に負けた者、親切心のある者、皆が二人に視線を投げかけ、落ち着きなく声を潜めていた。興味のあった者や、勘のいい者なんかは、あるいは、彼らが名のある写真家と元ギャングのボスであることに気づいていたかもしれない。

 英二は顔を上げてしまってから、ぐっと喉を詰まらせた。やられた。彼はニヤリと口角を上げている。目と目が合う。もう俯くことはできない。ニューヨークに、アッシュに、完膚なきまでに捕獲された。アッシュは首を傾げた。

「その頬どうした?」
 声音から、すこぶる機嫌が宜しくないのは真実らしかった。

「ちょっと。なんでもないよ」

「なんでもなくないだろ。昨夜はそんなとこ怪我してなかった」

「そりゃ、今日したんだもの」

「お前は──」一瞬、肩を怒らせたものの、すぐに竦めた。「なんでいつも、そうなんだよ。俺が目を離した隙に、そうやって。平和になっても安心できねえだろ、昔とちっとも変わらな」

「僕は十九歳じゃない」
 英二は強く言った。いつも穏やかな飼い主の剣幕に、くうん、バディが不安そうに傍に座り込む。「僕は……十九歳じゃない」こちらの呟きに、アッシュが片眉を上げる。続きを促していた。

 拳を固く握り、見据える。

「きみだって分かってるはずだ。昔と変わらない? それなら、僕はきみを襲ったりしなかった。昨日をいくつの誕生日だと? 三十だぜ、なあ、いつまでも無垢な少年じゃいられないんだよ」

 プープー、プパプパー! 痺れを切らした車が断続的に抗議に打って出た。英二はちらとそっちを見て、すぐに顔を戻した。

「無理なんだよ。きみが僕のことをあの頃のように思い続けているなら、僕はきみと一緒にいられない。だって、きみ、性的な関係の友だちなんて嫌だろう」

「英二、」

「なぜ追いかけてきたの? 殴りもしない、説得するつもりで? 無理だよ、今はまだ、僕は一昨日までの僕に戻れないよ、呆れただろ? 辟易した? 構わないんだ、僕のこと嫌いになって。いっそその方がいい。アッシュ」

「英二、俺は」

 ププッパァーー!!

「うるっせえな!」
「ちょっと黙っててくれよ!」
 二人は同時に中指を突き出した。

 理不尽なハンドサインを食らった車は絶句したのち、扉を音立てて広げた。出てきた運転手が怒りのまま突っかかろうと足を踏み出したところで、その肩を掴む者がいた。後ろからガシリと腕を回した男は、サングラスでも分かる人好きのする笑みを浮かべる。「ちょーっとごめんな、おっさん。どうか怒りを抑えてやってくれよ」ショーターだった。彼の傍にはバイクが停められている。アッシュの味方の一人が、その力を遺憾無く発揮している。本当に、みんなで英二を探していたのだ。「はあっ?」運転手が突然出てきた男を鋭く睨みやる。ショーターが申し訳なさそうに囁いた。「邪魔しないでやって、一世一代の告白なんだよ。きっと感動するぜ」「あんた頭おかしいんじゃないのか」「あー、劇薬の後遺症で」「警察呼ぶぞ!」

 ショーターが一人の怒れる男を相手しているうちにも、二人は言い合いを続けていた。もはや恥も外聞もなく、傍から見たら完全なる痴話喧嘩だったのだが、英二にその意識はなかった。自分のことは棚に上げ、大切な友人をこちら側に落とし込まないよう必死だった。こうなったら話すしかこちらに分はない。

「本当にごめん。きみに、ほかでもない、きみに、気持ち悪い色目なんか、つかって……。僕だからだろう、受け入れてくれたけど、もし、それで益々、僕を特別なように思ってしまったら、それは勘違いだ。多感な時期に、きみが苦しい時に僕と出会ったから、それでずっとそのまま……、そんなのは駄目だ」

「何がだ? 意味が分からない、さっきから俺のためを思ってみたいなことを抜かして」

「きみのためを思って抜かしてるんだよ!」

「それで俺から離れるって!? 本当にその結論が出たのかッ? 本当に?」

「だってきみ……っ、」とうとう涙声が飛び出た。「お見合い、断ったって」眼鏡の下を強引に拭う。

 アッシュは寸の間、なぜそんな単語が出たのか虚を突かれた顔をし、それからチッと舌を打った。「マックスのやつか」しかしまだ理解が追いついていないように首を振る。「それとこれが、どう関係してくる? 確かに見合いの話はあった、けど俺はお前の言う通り、断ったんだぜ」

「どうして断ったの」

「それは、そんなのお前が」

「僕がいるから? そうなんだろ? 分かってるよ、きみは僕が好きだろう。僕もきみが好きだよ、大好きだ。でもだからって、ずっと二人だけのままじゃ、いけないんだよ。僕はアッシュが幸せならなんでもいい、お見合いしようが、誰のそばにいようが、僕は。僕は平気だ。きみは幸せになる人間だ。いつか、誰かと、必ず、幸せになる」

「ならなんで俺にキスしたんだ?」

 今度は英二が虚を突かれた。この質問がどこに行き着くのか予想もできず、言葉につっかえる。「なにが、」

「昨日俺にキスした理由は? 酒か? ああそうだな、お前は泥酔してた」彼が何度も頷く。「分かったよ、お前の言い分は認める。英二は十九歳じゃない。昨日三十になった、酒の絡み方が少々酷くっても仕方ないさ」

「待ってよ、その言い方だと」

「酒に酔って人肌恋しくなるなんて珍しくもない、よくあることだ。そして隣には絶世の美丈夫! そりゃちょっと火遊びしたくもなるだろうな」

「何を……
 心臓にいた鼓笛隊の楽器の尖った部分がグサリと刺さった。鮮血が溢れ、血液となって循環し、ふつふつ沸騰した。これは怒りだ。そして悲しみ。あれだけうるさかった鼓笛隊の楽器はオーバーヒートし、壊れ、破片が傷口から血とともに全身を巡っていく。つきつき痛んだ。心臓より大きな音がまた近くで鳴った。さっきとは別の車。あちらこちらで非難の声を上げている。そう、非難されるべきなのは自分だ。それはいいんだ。けど、英二は胸元をシャツが皺になるまで掴み、血潮の熱に耐える。けど……

「勘違いするな」

 勘違いさせたのも自分だけれど。

「さっき叫んだ通り、僕はビッチじゃない。酒に酔ったからって、誰彼構わず迫ったりしない」

 アッシュが挑発するように腕を組んだ。「どうだかな。現にお前は翌朝いなくなってた。セックスの常套句みたいなメモだけ残して。俺じゃなくても良かったんだろ?」

「そんなわけない。そんなこと、なんで……、きみだから、僕は、あんな、」

「英二。俺はお前の建て前なんざ求めちゃいない。もう一度訊くぜ。俺を一夜だけの男にするつもりか? それならなぜ、俺を選んだ? キスをした理由は?」

 英二は口を噤んだ。青い顔色と同じ色の信号が灯り、二人を避けて人々が横断歩道を渡っていく。擦り抜けざま、励ますようにアッシュの肩を叩く者や、応援してる、場所はわきまえた方がいいけど、二人とも仲良くね、といったあくまで気を遣った他人事な言葉を投げかけてくれる者がいた。さっさと仲直りして、ベッド・インしちゃいなよ、下世話なアドバイスをくれる者も。大半は無関心か、無関心を装った者か、はた迷惑そうに顔を歪める者たちだったけれど、誰もがタイムズ・スクエアの真ん中で留まっている二人を、無理に動かせなかった。

 それもそのはず。アッシュの邪魔をさせまいと人為的な力が働いていたからだ。まずほかの走り出したい車たち。これらももちろん物理的な抗議に出ようとしたが、それを阻む者が一人二人三人四人……英二捜索隊に加わっていた、太っちょだったりガリガリだったり頬骨が出ていたりガタイの良い黒人だったりの彼らは、最早アッシュに命令される立場ではないしされてもいない、共闘する関係でもなかったが、それでも友人や仲間として彼を助けようとした。彼らはアッシュと英二がお互いになくてはならない存在だと常々悟っていたため、全くこれは絶好の機会だぞと思ったわけだ。あの二人は収まるところにおさまるべきだと、心遣いとお節介と多少の嫌気をこめて彼を邪魔する者を片っ端から相手にしていったのである。「今邪魔したらあいつら一生もぞもぞする関係のままなんだよ。信じらんねえだろ?」誰かが説得に持ち出した身内にしか分からない台詞は、全員の総意だった。運転手たちはわけが分からないと首を振り、愛の告白をしていると信じ込まされた協力的な者はその場で二人を見守ることにし、もしくは、短気な者は説得者を押しのけようとしたが、腕ずくは彼らの得意分野であったのでさほど心配はいらなかった。
 次に、問題は、タイムズ・スクエアがゲイカップルの喧嘩で封鎖されていると連絡された近くの警察官である。だが問題視されたのは渦中の人物が誰であるかを認めるまでの、僅か十数秒だけだった。

「はいはい、通して、ちょっとどいて」
 巡回中のパトカーを降り、人混みを掻き分けてきた若い警官二人組は、金髪と黒髪の男を見てはてあれは誰であったかと首を捻らせた。ニューヨークの警察に纏わる都市伝説、噂、上司からの昔話、たまに警察署にやってくる外部協力の男、そのどれもに彼らは当てはまるような気がし、何かに思い至った片方の警官が、あっと声を上げた。そして素早く自分の上司に電話をかけた。──ねえ、もしかしてあれって、そうなんですか。──げっ、あいつ何してるんだ。──いえ、どうやら何か、喧嘩しているようで。ええ、はい、黒髪のアジア人とです。見ます? そうでしょう? えっ? それって、いいんですか。──責任は俺が取るよ。──はあ、まあ、分かりました。
 警官は、署内でも優しくお人好しだと評されている(ただ、結婚してから急に頼もしくなったと言われていた)上司との電話を切ると、もう片方の相方に言った。
「警部からの命令兼頼み事だ。“彼らを見守れ”」

 そうして、英二にとってはとても有り難くないことに、真っ当なニューヨーカーたちはまるで迷惑な二人に手を出せないでいた。
 英二の足は貪欲な地面に囚われたまま、夜明けの翡翠と向き合わされている。月に謀られたり暁に追いかけられたり、自分は空とはこうなる運命なのではないかしらと諦めのようなものが過ぎった。自由で広大な空。そこを飛ぶだけで良かったはずなのに。いつから邪な欲が出てきてしまったのだろう。いつでもいい。もう手遅れなのだ。

「理由は、」

 泣くのだけは嫌だった。キッと濡れた黒目で眼光鋭く睨みやる。

「キスをする理由なんて、きみと違って僕には一つしかない」

「メッセージの受け渡しか?」冗談か本気かどっちつかずに見下ろしている。

 その瞳が見開かれてしまえばいいと思った。驚愕か恐怖で、固まってしまえ!

 信号が変わり、行き交う人々が再び途絶えるも、英二はこの騒がしい交差点で最低限聞こえるよう、声を張った。

「愛情表現の、押しつけだよ。分かる? 僕はきみが好きだよ、大好きだ。そしてとても、愛している」

 ひゅーう、あちこちで口笛や指笛が鳴る。まだ終わってないぞ、ギャラリーの茶化しに怒鳴ろうと構えると、それまでじっと伏せていたバディが颯爽と駆けてわん! と鳴いた。気の早い合いの手をしている者たち目掛け、叱咤している。バディ、いいぞ! 運転手と取っ組み合うショーターが叫んだ。英二は愛犬の気遣いに感謝し、謝罪し、無駄にはしまいとアッシュを見上げた。

「僕はアッシュのことを愛している。人間として、友だちとして。でも、それだけじゃ、なくなってしまった。僕はもうきみの自由な幸せを願えない。お見合いなんてしてほしくない。僕以外の誰かと一緒になんて、いてほしくない。魂だけなんて嫌だ。ずっとそばで、ともに、暮らしていきたい。きみを、僕のものにしたいし、僕をきみのものにしてほしい。そういう愛だ。……だから、キスをした。このくそみたいな、想いを、見せつけて、きみが嫌になればいいと思ったんだ。僕を拒絶できないと知りながら、そう思ったんだよ……

 けど、と続ける。

「“一夜限りの男にするか?” ……ああ、もちろん。信じて貰えないかもしれないけど、まだ、きみが、僕のことを友だちだと思ってくれるなら。挽回の、チャンスがほしい。きみが望む……十九歳の僕に、戻れるように、頑張るから。せめて時間を、くれたら……、みっともなくて、ごめん」

 さあ来るのは失望か憤怒か侮蔑か。
 英二はずっとアッシュの瞳を見つめ続けていた。どの感情が宿るのかを見逃さないためだ。やがて彼は緩慢に瞬きし、視線を伏せ、英二を見つめ返した。瞠目するのはこちらの方だった。

 翡翠の中に炎が燻っている。移され移した熱ある火が、導火線を辿ってこちらの目を熱くする前に、英二はサッと視線を逸らした。なぜ、なぜ、そんな目をするの。

「英二」

「な、なに」

「俺を見ろ」

「やだよ。焼死する」

 ちゃり、金属音がした。
「英二、お前、俺が誰かと幸せになってもいいって?」

「うん」
 そう思えるように、努力するよ。

「お前のもとから離れても、いいって?」

「うん」
 きみを縛りつけるのだけは、しちゃ駄目なんだ。

「ならばこの鍵、管理人を変えても平気だと、そういうことか?」
 妙に芝居がかった口調に、英二はそうっと目を上げた。
 彼の手には、紐のついた鍵が握られている。
 本来なら、英二が肌身離さず持っていた、彼の生を守る大事な鍵だ。家を出る時に、持って行こうと、どうしても思えなかった……

「うん」
 いつかは、僕の手を離れて。
 もっと相応しい人がきみを守るだろうから。

「そう」
 アッシュは鍵を握り込み、囁いた。
「お前にしか開け閉めできないものを、お前がいらないと言うなら、こんなもん意味がない。ただの……ゴミだな」

「アッシュ、」

 へらりと笑う。
「マナーは悪いが、投げ捨てさせて貰う」

 腕を振りかぶった。

「やめろ!」

 叫び声が紛れもなく己の喉から発されたその時、足裏を捕えていた地面が波打ち(もちろん、実際には地面は地面らしく踏まれているだけだったのだが、英二にはバネのように押し出されたと感じられた)飛び上がらせ、その手が開かれる前に掴みかからせた。全身が心臓となって脈打ち、汗が噴き出て、焦り、アッシュの腕にしがみついていた。それは英二の意思らしかったが、どうにも思考が追いついておらず、肩で息しながら「くそっ」スラングを放つ。

「ば、馬鹿じゃないのか、きみ、それっ、そんな大事なものをッ」
 鍵を握る手を、捨てさせまいと強く強く押さえ込んだ。

「いらないんだろ?」

「いるよ! きみの全情報を保管する鍵だぞ、何考えてるんだバカ!」

「馬鹿なこと考えてんのはオメーの方だよ!!」

 キイン、耳元で叫ばれ鼓膜が怯えた。その隙にしがみついていた腕を取り、腰を抱き寄せ、反射的に逃れようとした英二を睨み見下ろしたアッシュは、英二と額を突き合わせた。それはほぼ頭突きだった。交り合った視線から火花が散る。英二の眼球が裏側から熱くなった。

「なあ、英二」
 感情を押し殺そうとして失敗した、低く掠れた声だ。
「悪かったと思ってる。お前をとんでもない方向へ突っ走らせた。間違うなよ、精神的な意味でだ。いや、物理的にも言えてる。まさかユーシスのところへ行くなんて思わなかったんだ、おかげで俺はニューヨークを更地に変えた方が早いと判断するとこだったんだぜ」

「ご、ご冗談を」

「分かってほしい。俺の気持ちをどうか。まず昨日の夜だ。特別で、最高の、友人の三十歳の誕生日! いつもより何倍も気分が良かった、酒もいつもより飲んでた、けどいつもより酒のペースが早いお前が倒れても運べるよう、自制してたんだ俺は。つまり正気だった。そしてぶちかまされる友人からの唐突な熱いキス! 完全に目が据わってた。たちの悪い酔い方だと思ったね、ぜってえ外で酒を飲ますもんかと誓いかけた、でもだ」

「アッシュ、」
 
「これは酔ってるからだけじゃないんだと気づいたんだ。俺たちはまだ離れてた時間の方が長いけど、お前の酔い方のパターンなんてもうとっくに知ってる。あんなのは初めてだった、そして何よりお前の目! とても悲しそうで、そして、おっとこんなギャラリーの多い場で言うには俺の寛容さが足りない、ぼかして言うぞ? 俺を欲してた」

 英二は何か言おうとしたが、何も出てこない口は悔しげに頬の内側を噛むだけだった。アッシュが続ける。

「俺は泣きたくなったよ! だって、なあ、お前は、いつも俺に与えてばかりなんだ! 俺はお前と再会する直前、必ず与えてくれた分の幸せを、返そうと、それが俺の命ある理由だと信じて、振り向かせたんだ。お前が俺を拒絶しても構わないと──そしたら、お前ったら、釘抜きなんか振り回して、俺に離れるなと喚き散らした。その時、ようやく……俺がいないと、お前も駄目なんだと知った。俺はもとからお前がいないと駄目だ、そんなの、小学生だって分かる、ひとつの愛だ。はは、俺の口から愛なんていう単語が出るなんてな、これも英二のおかげだよ、ありがとう」

……ど、う、いたし、まして」

「全てだ。愛も平穏も生への執着も諍いへの反省も死への恐怖も、お前が、ぜんぶ、与えてくれてる。日常の幸福に、ひっくるめて。そんなお前が欲するものは、何がなんでも与えてやりたいさ。死なない保証? 俺の生きていくための保障をやる。あれは、かなり、出来損ないのプロポーズみたいだった。でもあんまり嬉しそうにするから、俺はまた幸福で、そして不安になったんだ」

 視界の端で青色がちらついた。けれど、横断歩道を渡る者は一人もいなかった。この告白を怒鳴り声などに変える無粋な輩は、ニューヨークに押さえつけられていたのである。

「奥村さん、あんたは誰が見たっていいやつだよ。誠実だ。この年齢になると俺よりお前の方をよっぽどものにしたいと思う輩が多い。お前が大人しそうな顔して無鉄砲だと知らない奴らだ。今のは俺の優越だぞ、正しく受け取れよ。いいか? 俺だって不安だったんだ、お前が、俺とずっと一緒にいる未来を選択するとは限らない。今はあの頃の延長として脳が勘違いを起こしてるだけ」

「違う!」

「分かった、OK、最後まで聞けよ」英二の腰を叩き、ズレていた眼鏡を上げると、微笑んだ。「俺はお前が好きで、大好きだから、勘違いだろうがなんだろうが、そばにいてくれるなら、なんでもいいと薄暗く考えてたんだ」
 それから表情を引き締めると、真摯に言った。

「だから、キスされた時、お前が俺を欲していると分かった時、この上なく嬉しくて、泣きそうになった。こんなチャンスは二度とない、あの英二が、心だけじゃなく体ごと俺を求めてる! そういうことに関して器用な奴じゃないからな、翌朝お前が酒で何も覚えてなくても、これで益々俺から離れ難くなる理由ができたと思った」

「こ、拗れてるな、きみ」

「それがどうだ? 翌朝ベッドにお前はいない、テーブルの上にはご丁寧なメモ! 『僕とのことは忘れてください』? ふざけんじゃねえぞ、忘れられねえからお前のもとへ戻ってきたんだろうが! お前は今でも俺と違って、自由にどこへでも行ける、けどもし赦されるなら、お前に幸福を返せる巣にでもなれたらって……お前が、戻ってこないと、意味がないんだ。なあ英二、十九歳のように見ていたら、俺は決してお前を抱かなかったよ。なぜか? どうしようもないほど愛してるからだ、今の英二を」

 ひゅうううーう! 場外がどっと歓声を上げた。今度はバディの制止がかからなかった。そのままハイタッチでもしてきそうなニューヨーカーたちは、英二の「でも」掻き消えそうな呟きを途切れさせないよう、一旦動きを止めた。

「でも、」

 目の裏側が熱い。合わせ過ぎたのだ。彼の瞳の中では炎が燃え盛り、火花が視線を辿って英二の中に火を灯す。それを消そうと涙が滲む。泣きたくないのに。腕を掴んで、切に訴えかける。「でも、きみは、僕じゃない誰かと、」

「そんなやつは知らない。俺は英二しか見えない」

「ぼ、ぼく、そんなの、きみのこと離してやれない」

「離すなよ。それに俺が逃がさない」

「だって、……だってそんなの、きみの世界の全ては、僕じゃない、僕じゃないよ」

「お前とじゃなきゃ、幸せになれないのに?」

「だって……

「あの子も言ってたぜ、俺と同じ名前の女の子」

「なに、アーちゃん……?」

「あの個展の帰り。あの年の子にしちゃ、鋭い睨みだった。『奥村さんを幸せにしないと許さない』」

「そりゃ、僕は、きみがいれば、幸せになれるけど、」

「ああもう、頑固なやつだな。分かったよ。もっと分かりやすく言うよ」

 アッシュはもう怒ってはいなかった。優しい顔つきで英二の頬を撫でると、その場に恭しく跪き、震える左手をそっと取った。英二は不思議になって、されるがままに、その様子を見ていた。

 左手の薬指に、ぐるぐると鍵の紐が巻きつけられていく。それを全て巻き終え、鍵を飾りか何かのように薬指に乗せると、アッシュは手を取ったまま英二を見上げた。

「俺と結婚してくれませんか」

 きゃああーッ! 至るところで悲鳴が上がる。

「今だけじゃない、ずっと、俺のそばにいてくれ。……ダメか?」

 窺われた英二は、数瞬、殺された、と思った。しかし自分は殺されても死なない人間であるらしいことを思い出して、左胸に手をあてがって確認した。どっどっどっ、壊れた楽器が限界を超えて皮膚の外へと打ち鳴らしている。殺されてないけど、死にそうだ。まだ、死ぬわけには、いかなかった。

「心臓が、痛いよ、アッシュ」

 英二が言った。

「それは、困ったな。英二、どうしたら治る?」

……突き破って、出てこないように、押さえて……ほしい」

「分かった」
 アッシュは立ち上がり、ぎゅうぎゅう英二を抱き締めた。苦しいほど熱かった。ぽろりと一粒だけ水滴が零れ落ち、彼の胸に吸い込まれた。「ほかは?」

「ほかは、」
 ひく、嗚咽が漏れた。「キス、してほしい、アッシュ」

「分かった。でも……誓いのキスなら、返事を貰ってからじゃないと。“イエス”と一言」

 息を吸って、

……イエス、いえすYES! きみとずっと一緒にいたい、僕、きみと結婚した──んむッ!」

 残りの吐きそびれた息は、彼の口に飲み込まれた。衝突のようなキスだった。それを見ていた(見させられた、見守っていた)うちの気の利いた誰か一人が、二人の近くに携帯を滑り込ませた。音楽が流れ響く。『I will always love you』だった。いやいや、あれ別れの歌じゃないか、それじゃ駄目だよこっちの方がいいよ、別の人間が『Can't take my eyes off you』を流す。何言ってるの? 私の国じゃこれが定番のラブソングよ、更に別のどこの国の言葉とも知れない歌が流れる。流れはあっという間にタイムズ・スクエア中を駆け巡り、たっぷりと多種多様の音楽と歓声と野次で満たし尽くした。



 その晩、ニューヨークは、夜の闇に譲らず、朝焼けのようなあたたかさと、たくさんの様々な愛で人々を包み込んだ。

 それは、彼らのための、光に溢れた庭なのである。