さもゆ
2024-11-15 21:56:58
51182文字
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【A英】翌日NY各新聞社『きみたちは見届けたか? 夜の街中で起こった素晴らしい愛の物語を!』

『きみたちは見届けたか? 夜の街中で起こった素晴らしい愛の物語を! まだの人は、ぜひ、うちの新聞でご覧あれ!』

──情報提供者、マックス・ロボ。

アッシュを亡くして七年、怒涛の再会を経て再びアッシュと共に三年を過ごした英二は、三十歳の誕生日を迎える。けれど、翌朝、英二は彼の元から逃げ出そうと躍起になり……?彼らに優しいニューヨークと、はた迷惑な行動を起こす彼らの、へんてこで平和な愛のお話。

※大体のキャラが生きてる
※アニメと原作がごっちゃ(光の庭も含む)
※ちなみに、逃げ出したのがAだった場合、彼は完璧に英の動向を探りつつ逃げるはずなので、それを充分ご承知な英はひとまず自力で追いかけた後、街中で「きみから出てくれなきゃエンパイアステートビルから身を投げ打ってやるからな!!!」って叫んで、瞬間ビルに向かって駆け出す英とAの話になる

2019.9.5 たまごのお粥pixiv投稿作品


 要素はたくさんあったように思う。

 周りからセックスしててもおかしくない関係だと思われていることを、結局は容認していたこととか。
 三十代という節目を迎える誕生日だったこととか。
 色んな人からプレゼントに酒類を贈られたこととか。
 再会から三年経って、すっかり距離感がなくなってしまったこととか。

 けれどそれらは、たった一つの原因さえなければ、なんの効果ももたらさない独立したビー玉のようなものであったはずなのだ。たった一つの原因? ……たとえば、英二の端末にかかってきた、一本のお祝い電話。



 仕事終わり、両手にプレゼントを抱えてよたよた歩く日本人を、街ゆく人々は背景の一部と捉えたり、目に留めた者は手助けしたそうな素振りを見せたり、「今日は何かの記念日かい?」と陽気に訊いてきたり、様々な様相だった。──「ああ、今日はその、誕生日で」「へえ! あんたの? いくつになったんだ?」「あー、三十です」「エッ?」──そんなやり取りが三度を超えた頃、胸ポケットに入れていた端末が震えたため、道の端に寄り両手いっぱいの荷物を用心深く脇に下ろした。画面を見ると、メール通知数が職場を出る時より増えていて、これは返信が大変だぞと苦笑いする。祝福されるのは嬉しいが、十代の誕生日というわけでもないのに……。英二は電話をかけてきている相手を認めると、端末を耳に当てた。「ハイ、マックス」

『よおー! 英二、誕生日おめでとう!』

 開口一番の溌剌さに、くすりと笑みが漏れる。「ありがとう。もう、今年はなんだか、一生分のお祝いをされてる気分です」

『そりゃ一生分も祝いたくなるさ! お前ったら、ここ三年で見違えるほど元気になったからな』
「もとから元気でしたよ」
『今の、俊一に聞かせてやりゃいい』
 物凄い反論が返ってきそうだ、と英二は思った。結婚し、現在は日本で暮らしている伊部からも、実は今朝方に電話を貰っていた。「おめでとう」「アッシュと仲良くな」「俺は嬉しい」「泣きそうだ」を何回言われたことか。それを聞いた英二も、少し泣きそうになった。今になれば分かる。あの時代、伊部がどれだけ自分に心を砕いてくれたか。当時の彼は今の自分より若かったのに、世間知らずで無鉄砲な英二にできるだけ寄り添ってくれようとしていた。本当に、頭が上がらない。「感謝してるんです。伊部さんにも、マックスにも……。その、」

『あいつの生存を隠してたことは、まだ許せねえけど、か?』

「伊部さんもまだ許してなかったですよ」

『未だに電話するたび小言を言われる。まあ甘んじて受け入れるさ。それだけのことをやったんだ』なあ英二、マックスが言う。『またみんなで集まろう。式とかどうだ、結婚しちまえばいいんだ。まだしないのか? あいつだって、そのつもりで見合い話断ったんだろ』「え、何?」英二は端末を耳に押し当てた。『あ? 見合い話を……。待て、俺は何かまずいこと言ったかな』電話の向こうでぼやく声がした。

 街ゆく人々の動きが緩慢になった気がして、ぱちくり瞬きする。眼鏡を外し、つけ直す。気のせいだったようだ。ニューヨークは相変わらず忙しなく生きている。目が合ってしまった通行人に会釈して、意識を耳に戻した。

「見合いって、アッシュが?」
 自分でもちょっとどうかと思うくらい平坦な声だった。

『あ、ああ。知らなかったか? 取材先で知り合った、いいとこのお嬢さんだった。けど一度だけ顔合わせて、丁重に断ったらしい。おい、勘違いするなよ英二、俺は一ミリもあいつが見合いを受けるだなんて、思ってたわけじゃねえぞ。絶対断るだろうと思ったから任せてたんだ。結果あいつはキッパリ断った。分かるだろ? 誰もが思ってることだ、アッシュはお前しか選ばねえさ』

「マックス」
 英二はなんと言えばいいか分からなかった。当たり障りのない言葉を選ぶ。「あの……ありがとう。ええと、あ、そうだ、お祝いにお酒とか食べ物とかいっぱい貰っちゃったから、また近いうちに遊びに来て。電話嬉しかったです。それじゃあ……

『待て待て、お前今、外か? ならアッシュに迎えに来てもらえ。今日は早く帰したから』

「ああ、はい。えっ? あ、ありがとうございます」
『いや。早く帰さなきゃこっちが危なかったからな。じゃあな、英二。良い誕生日を!』

 ぷつり。通話の切れた端末を握り締め、英二は暫しその場に佇み、鳩が荷物をつっつきだした頃、ようやく動き始めた。両手いっぱいに抱え上げて、よたよた歩いて行く。……へー、そうなんだ。

 アッシュ、お見合い話とかきてたんだ。
 知らなかった。

 英二は自分たちの自宅まで、タクシーもバスも使わず歩き続けた。周囲は速くなったり遅くなったり、はたまた渦を巻いているように見えて、どうにも良くなかったものだから。



 ※



 自分よりきっちり頭一つ分は背が高く、彼の師匠とまではいかないまでも広い肩幅、それに見合う均整のとれた筋肉、切れ長の落ち着いた目許に、ハスキーがかった低音を紡ぐ柔そうな唇。
 真っ白い肌に、陽の光を浴びて煌めくグリーン・アイ。

 お見合い相手の女性は、彼のどこに惹かれたんだろう。

 英二はよく知っていた。まだ自分が背伸びすればぴったり同じになった頃の彼の身長を。確かに自分より広かった肩が薄く、怯えて丸まった時があることを。細い彼の体を捻じ伏せ、服従させようとした存在を。その落ち着いた眼差しが自分だけに向けられていた時間、照れ隠しに唇を尖らせることがあったことを。
 傷の多い真っ白な肌、夜ばかり見つめてきた刃物のような緑色。

 英二はよく知っている。それらは全て、過去のことなのだ。今を生きる彼とは、切り離すべきもの。だって……彼の世界の全ては、もう、英二ではない。ニューヨークは彼に優しくなった。彼もそれを、受け入れている。再会して、三年間ともに暮らしてきたから分かるのだ。あの時代彼に手にして欲しいと心から願っていた平穏と安らぎと自由を手にし、光が満ちた庭で生きていっている。僕は? 英二が時折考えることだった。僕は、今のアッシュにとって、どういう存在なんだ? 人間の中で一番なのは分かってる。あの頃も今も、最高の友だち。これは変わらない。けれど、だって、……

 そもそも、どうして一緒に暮らしているんだっけ?
 
 明確に契約を交わしたわけではない。三年前、やっと覚悟を決めたまさしくその時、彼はひょっこり現れた。ずっとずっとしまいこんでいた彼の写真を見ながら、なんとか心の整理をつけて、思い出の彼とともにこれからも生きてゆこうと、個展の搬出作業をわざわざ一人きりでしていた時に。
「それ、肖像権の許可取ってる? モデル料も頂かないと割に合わない」
 後ろから投げられた声に、心臓が動いた。人が死んだ時、声から忘れていくと言うけれど、その時英二も久しぶりに聞いた声に耳が反応せず、訝しんで振り向くだけだった。場合によっちゃ警備員を呼んでこなければならない。しかしそこに佇んでいる男の姿を認め、英二が真っ先にしたことと言えば、右手に持っていた釘抜きを強く握り直したことだった。
 目の前には、金髪緑目の、背の高い、……写真と記憶のなかのアッシュ・リンクスに年月が寄り添ったような姿の男が立っている。
 期待はなかった。英二は何度も幻覚を見たし、七年経っても街ゆく金髪に反応してしまう。目に映る人物が幻でも生身の人間でも、湧き起こるのは嫌悪だった。眉をひそめ、男に背を向ける。
……すみません。片付けをしたいので、出て行ってもらえますか」
「片付け? そしたらもう、後ろを振り返らないつもり?」
「後ろ? ええ、前見ないとできないでしょう」
「振り返ってよ」懇願が潜んでいた。「一度だけでいいんだ。振り向いて、俺を見て。前を向くのはそれからでも構わないだろ?」
 変なことを言う。なんだろう、出し抜けに。英二は辟易して、しかしなぜか、男の言っていることは正しいと思った。最後に、一度だけ、振り返っても、いいんじゃないかしら。だって自分はやっと、これからを生きていくつもりなんだから。ようよう踵を返した。
「英二」
 男が名を呼んだ。大事なものを溢れさせていく調子だった。その途端、無反応だった鼓膜が震え、記憶を掻き起こし、そして、英二は緑色の中に炎を見た。それは交じり合った視線を導火線にし、こちらの両眼を熱く、赤くさせる。「……アッシュ?」二人きりでなければ聞こえない、小さな誰何だった。
 男が頷く。「あ、」英二はそこで、火のついたように泣き出した。混乱していた。勝手な反応だった。ぼたぼたぼたぼた涙を落とし、視界不明瞭ななか歩み寄る。それから──

 ──閉館した展示場の監視カメラに、泣き喚きながら釘抜きを振り回す日本人と、必死に宥めようと謝り倒すアメリカ人の、取っ組み合う様子が一部始終映されることになる。英二にその時の記憶はほぼない。なぜなら、可哀想に、さあ釘抜きで彼か自分の頭をかち割ってやろうかと乱心した際、バランスを崩して転倒し、そこで頭でも打てば良かったのに彼に無事抱きとめられ、情けないこと! 七年間隅に追いやられていた安眠作用がどっと押し寄せ気を失ってしまったからだ。自分が何を喚きながら迫ったのか、一切覚えていなかった。そして病院で目覚めた時、英二の手を握るアッシュが泣きそうになりながら言ったのである。
「お前、俺がいないと駄目なんだよ。よく分かったんだ、この七年で、よく……。俺もずっとそうだ、ごめん、英二。どれだけ眠ってたと思う? 四日だぜ、なあ、そんなんじゃ、昔みたいに隣のベッドにいるのを確かめ合わなきゃ、眠れないだろ。そんなの、俺……
 四日も昏睡していたらしい重だるい瞼を上げ、英二は返した。昔みたいにって、きみ、深夜に抜け出すこと多かったじゃない……
「もうあんなことはない」彼が強く言う。「確かめてみるか? お互い、嘘みたいに安らかに寝られるはずだ。たとえ魘されたって、隣にいればすぐに安心する」

 かくしてアッシュの言う通りであった。四日も眠ったというのに、その日の夜、隣でアッシュが手を握ってくれているだけで、英二は健康的に睡眠を得たし、その後、お互いの家で時間を埋めるみたいに共に眠るようになっても、かつてのようなひどい睡眠障害に見舞われなくなった。二人とも、悪夢を見ることはある。それでも隣の人の様子を窺えばこれだけで、もう一度眠ろうという気になった。二人は、お互いの家を行き来するのは面倒だし、手っ取り早く、一緒に移り住んでしまおうか、と考えを同じにした。

 だから一緒に住んでいる。あのアパートメントで、今度は本気で平和にやっていこうと。

 大変なことだ。僕たちは、僕たちでないと、穏やかに夜を越せなくなってしまったのではないか?

 英二が感じたのは不安だった。危機感。防衛本能。恐ろしさ。まさか、彼に惚れた女性が、こんなことになっているとは思うまい。

 アッシュはもう一人ではない。世界中の全部が敵でも英二だけは味方、そんな状況はもう生まれはしない。振り返ったのは一度だけ、英二もアッシュも前を向いて、今を生きている。こうなることを、ずっと願っていた。祈っていた。

 だというのに、どうしてこんなに怖いんだ? 何を? 僕は何に対して、どう思ってるんだ?

 ぐちゃぐちゃだった。アッシュが老若男女問わず、他から惹かれる人間であることは理解している。外食していても遊びに行っても、隣への視線を感じることがある。分かっていたはずだ。お見合い話? 何もおかしなことじゃない。いつかは、彼もそのへんの男と変わらない家庭を持つだろう。素敵な人と出会うといい。昔に話してくれた、悲しい初恋の女の子、その子よりもっともっと大事にしたくなる存在が、今の彼をきっと守ってくれる。彼も全力で守る。そういう幸せを、僕は願っている。それを彼は遠慮せず手にすることができる。そうでなきゃ……困るだろう。英二はアッシュの幸せを何より望んでいるのだから。昔も今も、そういう存在なのだから。

 アッシュが選んだ幸せを、なんだって、受け止めることができる。七年かかることもあるけど、僕にはそれができる。

 その幸せに、自分が含まれなくなってしまったって、いいんだ。僕は、きっと、……それでも構わない。

 ぐちゃぐちゃな思案に無理やり見出した結論は、その場しのぎに作ったせいか、触れれば簡単に崩れてしまいそうな脆さを主張していたが、気づかぬふりをした。ぐらぐら、まるで崩されるのを今か今かと待ち受けている。英二は無視し続ける。そうするしかなかったのである。









 そのぐらつきを無視できなくなったのは、三本目のワインを開けた頃だった。






 ぐるぐる渦巻く街から帰ってきた英二は、言ってくれたら迎えに行ったのに、そう荷物を掻っ攫っていったアッシュと共に、リビングに入る。貰ったプレゼントの中には犬用のフードも多く、英二は駆け寄ってきたバディをひと撫で、お皿にいつもより豪華な夕飯を盛りつけ、差し出してやる。わふ、バディが嬉しそうに尻尾を振った。

 テーブルには既に料理と、おそらく向かいのビルの一階で買ったケーキが並べられていて、これを用意したのがアッシュなのだと思うだけで英二はくふくふ笑ってしまう。一人で永住権を取った時より、随分物が増えたように思う。揃いの食器に、ひとから貰った小物、とにかく料理に関するものが多い。シンも遊びに来てくれるし、ショーターもたまに中華料理を作りに来てくれるし(アッシュはそれを『合法的な毒殺準備』と呼ぶ)、なんならマックス一家もたまに訪れに来てくれるから、食器だけでなくマイケルの好きな日本のアニメや漫画だって見渡せばあるのだ。
「幸せだな」
 おいしそうだね、と言ったつもりだった。両方本音だったが、ついて出た片方を聞き届けたアッシュが、むずりと唇の上下を擦り合わせて、柔らかく口角を上げた。「本当にな」

 そうして二人は向かい合わせで席につき、英二が望んだ誕生日プレゼント、「家でゆっくりしたい」を叶えていく。

 誕生日プレゼント、何がいい? 

 去年訊かれた時は、きみが死なない保証、と答えようとした。でも、いやそれは無理があるなと言い淀んだ。「ええと……、待って、考えるから……」何せ七年間欲していた人が戻って来てくれたのだから、物欲なんてすっ飛んでしまって濁したまま数日経ち、アッシュは痺れを切らしたらしかった。「プレゼント、何渡せばいいか分かんなかったから訊いたんだぜ。このままじゃベタに花束になる」「……嬉しいけど、枯れちゃうからなあ」「じゃあ何がいい」「……」英二は迷って言った。「きみが、……死なない保証」彼は瞠目し、逡巡して、「あの、花束でいいよ」英二を置いて寝室を探りに行ったかと思えば真っ直ぐ戻ってきて、分厚いファイルの中身を英二の前にぶち撒けた。ぎょっとした。「い、嫌がらせ?」「──運転免許証に、その他身分証、俺の経歴を事細かに記したもののコピー、アメリカでつつがなく過ごすためのお偉方との誓約書、エトセトラ」そんな大事なものを! 英二は慌てて拾い集めようと手を伸ばしたが、その手を握りこまれる。アッシュが、ひたむきに告げた。「こんなもんしか用意できないけど、全てだ」英二はこの時、比喩でもなんでもなく腰が抜けた。へなへなへたり込んで、周りに散らばる薄っぺらい紙たちの重さで床も抜けやしないかと思った。あんまり重すぎる誕生日プレゼントだった。それらは彼の生を保証するものだった。「嫌がらせになる?」アッシュが問い、英二は答えた。「最高の、プレゼントだ」

 あれをことある事に思い出しては、ひとりだらしない顔で笑うことが多かった。あのアッシュ・リンクスだぞ! 僕のためなら死ねるって態度だった、実際死亡扱いになったり一度は生を諦めたりしたあのアッシュ・リンクスが、本物の、体ある生を、僕に預けてくれた! 魂だけじゃないんだ! 英二は言いたくて堪らなかった。きみは気づいてた? あの頃、僕ばかりが「ずっと」や「いつも」を使っていたってこと。きみはそういうの避けてた。ねえ、それを、今になってきみから返されるなんて! きみが死んだまま、僕の魂といつもずっと共にあるより、よっぽどいい。きみがそれに辿り着いて、行動を起こしてくれたことに感動だ。相変わらず、振り切ったら嘘みたいに熱烈だし、激情家。プロポーズみたいだったよ。思えば、お前は俺が守るとか側にいてくれとか、本当にそう。本当に、本当に。恋人だって勘違いされてもおかしくない。(シンから言わせれば「あのラブレター紛いの手紙贈った英二もどっこいどっこいだろ」とのことだ。うん、あれには愛をこめてた。ぐうの音も出ない)
 
 だから、ずっと一緒にいようとお互い口にしたわけではないけど、離れるつもりもきっとない。彼は夜中に英二を置いて出掛けることもないし、なんなら帰りが遅くなる時は連絡をくれる。そして命を狙われることも、狙うこともなくなった。去年の誕生日プレゼントは、綺麗にファイリングし直して、厳重に保管してある。それを開ける鍵は、英二しか持っていない。
 
 でも、誰かと恋をして、結婚するってなったら、その鍵はその人の物だ。

「誕生日おめでとう、英二」

 アッシュがグラスを持ち上げて言う。

「ありがとう。……僕もおっさんの仲間入りかあ」

「全然。十九歳に見える」

「それは言い過ぎ」

 ふふっと笑って、グラスをくっつけた。赤い液体がゆらりと揺れた。

 テーブルの上はでたらめだった。
 オムレツもあったし、シュウマイもあったし、納豆も豆腐も寿司もあった。エビとアボカドのサラダも。今朝に、夕飯は俺が作るから、と言われて悩んで、リクエストがなけりゃなんでも作るし買ってくるけど、とつけ足されたのでお任せにしたのだ。その方が楽しいと思って。ポテトチップスまである。酒も色々用意されていた。ワインにビールにハイボール……、十年前と違い、今やお互いがお互いの健康を管理し合ってきた(アッシュがいないと僕が案外ずぼらであることを知った彼が、劇的に生活力をつけてくれたのだ)が、今日は仕方ない。積極的に生活破綻していこう。だって誕生日だもの、許される。

 国籍無関係のテーブルにこうしてついていると、まるであの頃のようだった。

 英二は気分よくお喋りしながら、その都度、眼前に座って同じように相槌を打っているアッシュを見やる。

 耳の奥、バックミュージックのように、マックスとの電話越しの会話が、再生されてはぶち切られていく。──式とかどうだ、結婚しちまえばいいんだ──あいつだって、そのつもりで見合い話断ったんだろ──アッシュはお前しか選ばねえさ──ああ、マックス。どうしたらその誤解が解ける? 今更ながら反論してしまう。結婚って、そりゃ同性婚は認められてるけど、僕たちは夫婦って感じじゃない。友だち。最高の。周りからセックスしてるって思われたりするけど。でも距離が近いと誰でもそう邪推するだろ? (これに関しては、ショーターに「じゃあお前、俺とアッシュがそういうふうに見えんのか?」と訊かれ、自分から訊いたくせにアッシュと同時にげろを吐く真似をされたので素直に「見えない」と僕は僕の弁に矛盾を生み出した。それは生まれたまま放置され、たまに産声を上げたりしたけど、日々の忙しさにかまけてネグレクト気味だ。誰か僕を捕まえろ、そして代わりに解決してほしい)それに、アッシュが僕しか選ばないってのは、……自惚れるけど、その通りだけど、でもそれは、今、この時、僕しかいないからだ。十七歳の時の経験が強すぎて、彼は今も当時の僕に縛られている。彼の世界を、腐った配管で飛び上がって切り開いた、最初の一人が僕だったから。なんでも、第一人者は重宝されるものだ。切り開かれた世界は彼を明るみに連れ出し、そして、最初の僕とこうして共にいる。ほかが、現れるまで。そうだ、うん。

 英二は楽しくなりながら喉を潤し、胸中ひとりで何度も頷いた。

 そうだよ。僕たちには愛があるけど、恋はないもの。彼もいつか、この新しい世界で、新しい人に新しい愛を持つ。僕はそれまでずっと側にいるし、それからもきみと相手の幸せを手助けする。なかなかいいアイデアじゃないか。結婚式? 友人代表スピーチはショーターかな。仲人役は任せてくれ。スピーチは長すぎないよう配慮しないといけないから、早めに教えてほしい。間違っても、今日みたいに、ひとから見合い話を聞くなんてこと、御免だぜ。

 どうして教えてくれなかったんだろう。英二は口の中をもぐもぐ咀嚼し、飲み込んで、会話に笑って、酒を飲んだ。

 お見合いって、大事なことじゃないのか。

 だってきみが人生の伴侶を見つけたら、僕はその人にきみの全てが詰まった金庫の鍵を渡さなきゃいけない。
 きみが選ぶ人だ。容姿や書類を見ただけじゃ到底分からないきみの魅力を、よく知って、大切に思ってくれる人だ。きっとそうだ。そういう人が見つかるかもしれないチャンスを、なぜ、現在進行形で人間の中で一番の僕に教えてくれなかったんだ? 最初から断るつもりだったから? ああ、それはあるだろうな、きみったら、昔っから僕には分からないだろうとタカを括って(実際分からないことが多かったけれど)スラングや売春っていうワードを使ったものな。どうせ断るから、いいと思ったんだ。これは正解だろう。きみの性格。あの頃から変わらない。

 そしてきみは、僕を、あの頃から変わらないイノセントボーイとでも思ってるのか?

 そいつはたまげた! ──あらかた食べ終わった食事に手を合わせて、にこにこ陽気にアッシュを褒める。「おいしかった、どこの店で食べるより、きみのご飯が好きだな。残りを食べる明日が楽しみ。ごちそうさまでしたっ」「どーも。オソマツサマ、デス」覚えた日本語を話す様子に、益々顔を綻ばせる。嬉しかった。楽しかったし、幸福は熱を持ってやってきていた。「片付けはさ、後にして、向こうでケーキ食べよう。お酒も持って」ソファに移動し、テレビを適当に点ける。ローテーブルにはケーキと、アルコールと、貰い物のナッツやドライフルーツなど火を通さなくても食べられるものを並べる。「あんまり飲みすぎるなよ、英二。強くないんだから」アッシュが水を用意し、英二の前に置いた。「うん」英二はへらり、頷いた。バディは二人のあとをついて回ったけれど、つまらないと思ったのか、二人にそれぞれ鼻を擦りつけて挨拶すると部屋を出て行った。「今度、バディとめいっぱい遊ぼうか」「ああ、今日は我慢してもらうしかないな」

 広いソファでは近すぎる距離に座った。
 肩は触れてしまっているし、肘を動かせばぶつかりそうな隣同士は、テレビが点いていようと、声を張る必要もない。……そういえば、今日、帰る時にね、何回か僕にいくつになった? って訊いてくる人がいて……
 三十です、って答えたら?
 みんな目をまん丸くしちゃってさ、そんな顔したいのはこっちだって話だ。
 はは、だから言ったろ、十九歳に見えるって。……まあ十九は確かに言いすぎたな、二十代前半って言われても納得できる顔してる。
 それ、あんま変わんないよ……。英二はショートケーキを口に入れた。生クリームがねっとり甘くて、生地まで浸透している。苺も抓む。口の中で潰れたそれも、甘みが強かった。喉に溜まるような感覚がどうも良くなくて、酸味のあるワインを飲む。少し渋みがあって、気に入っていた。アッシュも飲んでいたから全部というわけじゃないが、既に二本を開けて飲んでいたくらいには。二本目の最後が今の一口だったと気づき、いそいそ三本目を開ける。

「あ」 

 アッシュがぽつりと声を落とした。「なに?」英二はグラスに注ぐのをやめて、彼の視線の先を辿る。テレビだった。

「このコメンテーター、だいぶ長いことやってるんだな」

 テレビの中で、一人の女性が、白い歯を見せて笑っている。

「ああ、昔も、一緒に見たよね。彼女、一時期テレビから退いてたみたいだけど、また戻ってきたんだよ」

「へえ。老けたな」

「おいおい、そんなあけすけに……

「お前とえらい違いだ」ニヤリと笑った。

 英二はたまげていた。その瞬間、無視し続けていたぐらつきを認知し、楽しい誕生日の裏で自分が何を考えていたかを明瞭にさせられたからだった。……たまげた、たまげてる、びっくらこいた。きみまさか本当に本気で、僕を、無垢なままだと思って?

 こんなに、きみと離れたくない、勝手にお見合いしたってことにもヤキモキする、生死の鍵を誰にも渡したくなくてあのプロポーズのような言葉たちも僕だけに向けてほしいと思ってる、惨めな、三十歳の、おっさんなのに?

 そんな……嘘だろう。嘘だ。
 だって僕は、アッシュが選んだ幸せなら、何年かかったって、なんだって受け入れる気で。そのつもりで、今までずっと、生きてきたのに。そんなところを振り返るつもりは、なかったのに。僕は……

 テーブルの上に視線を落とす。栓を抜いたワイン。缶ビールに、カクテル、ハイボール。食事中、行儀悪くも一口ずつ飲んだものの残骸。自分の手にはワインの瓶。それらはドミノのようだった。普通なら倒されない。しかし英二はいくつものビー玉を持っていた。三年間周囲から何もないのに無意味に察せられていた体の関係、三十歳になっても若く見られる不変性、今日はたくさん飲みなと容認された状況、隣の体温さえ感じる近い距離感……、そしてビー玉を転がすきっかけすら用意されていた。──誰もが思ってることだ、アッシュはお前しか選ばねえさ──ぐらぐらぐら、その場しのぎに作った結論の城が、揺れている。──アッシュはお前しか──「英二?」アッシュが訝しんで顔を覗き込んでくる。あの頃と同じ、英二にだけ向けられる表情。なのに英二は。僕は変わってしまった。僕はきみの幸せを何より望んでいる。

 ビー玉が転がった。
 ドミノを倒し、途中仕掛けの英二の手を動かせ、ぐい、ワインを一杯注いで飲み干させた。カッと食道が焼け胸に染みわたり、目の奥を熱く重く圧してくる。涙が滲んだ。

「アッシュ」

 城が揺れている。彼の腕を掴んだ。アッシュがハッとして水を取ろうとする。「お前、飲みすぎ──」その顔を鷲掴んで引き寄せた。力加減がへたくそなせいで首が軋んだ音を発し、そうして、彼の唇は不躾な英二の唇によって盛大に潰れた。最後の仕掛けだった。粗末な、崩されるのを待っていた城が音もなく崩れていく。

 僕はきみの幸せを何より望んでいる。
 きみが選んだ幸せが、なんだって、時間はかかるかもしれないけれど、受け止めて、受け入れてみせる。僕にはそれができる。
 でも嫌なんだ。

 その幸せに、僕が含まれなくなってしまったら。そんなの、耐えられない。嫌なんだよ。

「アッシュ。僕は、きみが……

 自分がずっと見ないようにしてきたものがそこにはあり、矛盾は矛盾じゃなくなり、二人だけで守ってきた関係を覆そうというのに、その先の言葉は出なかった。僕はきみが好きだ。愛している。言ったって、それがどういう種類のものか、きみには分からない。

「アッシュ」
 だから英二はただ名前を呼んで、彼の胸元に縋りつき、駄々をこねる少年のように、ずるい大人のように、ねだった。拒絶されても良かった。でも自分は知っているのだ。最低なことに。

 アッシュは英二を拒まない。

「英二、」   
 アッシュが困惑したように名前を呼んでくる。もう一度キスをしかけた。もう一度、もう一度……。滲んで、ぼやけて、眼鏡はとっくにずれていて、そんななか、英二はまた緑色の瞳に炎を見た。ああ、今回の導火線のもとは、僕か。燃え上がってくれればいいと思う。きみは僕を拒めない、絆されただけ、今日だけだ。今日が過ぎれば、あとはもう、今まで通りにするから……。「アッシュ、お願いだよ」今だけでいい。

 僕のそばにいて。



 その晩、英二はアッシュに抱かれた。

 お互いきっと自分本来の情欲には疎かったから、汗みどろになりながら必死に求めていった。
 気持ちよくは、なかったと思う。ただ、お互いの肌に刻まれた傷痕を、労わるように、赦しを請い願うように、はたまた慈しむように唇で辿られると、もう駄目だった。英二は譫言を繰り返していたように思う。そばにいて、とか離れないで、とか。ごめんよ、とか。なんだか妙に既視感があって、それが彼と再会した時の、なんと喚いたか覚えていない自分の言葉だと気づいた時には、気を失う寸前だった。なあんだ、そうか、やっぱり。僕はきみがいないと駄目なんだな。

 きみは、そうでも、ないはずなんだけど。



 翌朝、情事のあとが色濃く残る寝室で目覚めた英二は、ひどく狼狽した。一晩経って酒の残滓がこびりついた頭を抱え、とんでもないことをやらかしてしまったと末恐ろしくなった。自分の欲に駆られて、騙し討ちのような真似を。僕たちに、性的なことは、一切……

 一度崩れてしまったものは、早々建て直せない。何が、今日が過ぎれば今まで通りにする、だ。できっこないくせに!

 すぐそばで眠っている男を見た。金の睫毛が縁どった薄い瞼は、しっかり閉じられている。唇は半開きだった。出て行こう。英二は思った。出て行くなら、今しかない。そうしないと、キスしちまう。

 決意したが否や、身支度を静かに素早く整え、最後に書き置きを残していった。立つ鳥は跡を濁していく。ならしが効かないくらい、住処を汚していってしまったのだ、最後までそうしたって些細なことだろう。

『僕とのことはどうか忘れてください』

 英二は逃げ出した。