さもゆ
2024-11-15 21:56:58
51182文字
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【A英】翌日NY各新聞社『きみたちは見届けたか? 夜の街中で起こった素晴らしい愛の物語を!』

『きみたちは見届けたか? 夜の街中で起こった素晴らしい愛の物語を! まだの人は、ぜひ、うちの新聞でご覧あれ!』

──情報提供者、マックス・ロボ。

アッシュを亡くして七年、怒涛の再会を経て再びアッシュと共に三年を過ごした英二は、三十歳の誕生日を迎える。けれど、翌朝、英二は彼の元から逃げ出そうと躍起になり……?彼らに優しいニューヨークと、はた迷惑な行動を起こす彼らの、へんてこで平和な愛のお話。

※大体のキャラが生きてる
※アニメと原作がごっちゃ(光の庭も含む)
※ちなみに、逃げ出したのがAだった場合、彼は完璧に英の動向を探りつつ逃げるはずなので、それを充分ご承知な英はひとまず自力で追いかけた後、街中で「きみから出てくれなきゃエンパイアステートビルから身を投げ打ってやるからな!!!」って叫んで、瞬間ビルに向かって駆け出す英とAの話になる

2019.9.5 たまごのお粥pixiv投稿作品

「きみはひょっとすると──…………、駄目だ。あらゆる言語を持ってしても、きみの愚行を表現できそうにない」

「どうもありがとう」

「驚いたな。しばらく会わないうちに、嫌味を理解できないくらい衰えてしまったの?」

 英二はぴくりと肩を強張らせた。別に、馬鹿にされたのを悔しく思って反抗しようとしたからじゃない。
 今一番言われたくないことを、今一番縋りつきたい相手に、しかも三つ年下の彼に言われたらまさしく仕様もないことを、真正面から落とされたからだ。
 落とされた言葉は、耳から心臓に辿り着いて、鼓動をしくしく悲しませた。痛みさえ感じた気がするが、いやどうだろう、それは縛り上げられている腕と胴回りが縄に擦れているせいかもしれない。でも、自分をここに拘束している縄がないと、それで腹の中のものを抑え込んでいてくれないと、困ってしまうのだった。
 英二は、一度だって本人に言いやしなかったが、初めて会った時からひそかに「べっぴん」と思っていた同じアジア系の男に、諦めた笑みを送った。

「衰えてるよ。僕は。歳を、取ったんだ。もう三十になる……



 それを見た二十七歳の月龍は、英二の表情について、後に「顔は幼いのに老人みたいな笑い方で、大層気味が悪かった」と語った。



 ※



 三十歳の誕生日に、皆がみなお祝いしようとしてくれるのを、英二は一人ひとり丁重に礼をして、決して派手な一日にならないよう上手く接していた。職業仲間や親しい近隣住民、かつてはギャングだったが今は働きに出ている友人たちや、今も世話になっている親代わりのような人たち、会う度に何か事件に巻き込まれてやしないかと疑って(心配して)くる警察関係者──英二はたくさん直接でも電話口でも「ありがとう」を口にした。そして「ごめんなさい、今日は家で、ゆっくりしたくて」とも。そう言うと彼らは皆一様に、ははんなるほどと閃いた様子で言葉やプレゼント、次に会う予定などを約束して下がっていってくれるのだった。

 そこに少々のからかいや興味心があるのを英二はもちろん気づいていたが、訊かれているわけでもないのに、彼らの考えているようなことは何もないのだと弁明するのは、更なる誤解を招くだろうと曖昧に微笑むしかなかった。

 彼らはいつも、そう思っているらしかった。

 英二とアッシュの間に何かがあると思っているらしい。

 分からなくもない。英二とて、客観視したら「いやいやあの二人、何かあったっておかしくないから」と邪推するだろう。映画なら暗転のうちに絶対これ主役二人はあれした、と予想をつけている。あれって? あれはあれだ、セックス。ううん、自分で考えながら露骨すぎた答えに行き着いたと思うものの、彼らの考える「何か」とは、つまりそういうあれなのだからしょうがない。

 つまり、英二とアッシュは、周りから性的な関係を結んでいると勘違いされているのである。

 いつからだろうか? 正確には分からないものの、彼を取り巻く全ての不幸から彼が解放され、なんの支障もなくお天道様のもとを歩けるまで七年を要し、そしてその間てっきり彼が死んでいるものと思っていた(思わされていた)英二が、ようやくとうとう彼が実は生きていたと知らされてから、もう三年は経っている。二人が劇的な再会を果たしてから三年、なぜか二人と関りのある周囲は、二人の間に性的交渉がなされていると変に勘繰ってくるのだった。

 もう一度言う。分からなくもない。
 まだ世間がなんたるかを知らなかった十九歳の頃に、世間の泥を嫌でも被って生きてきた十七歳の少年と出会って、一緒に陽の光を浴び泥濘から抜け出そうと足掻いてきたあの激動の時代。二人は特別な、友人同士だった。そして、そんな時代は彼の死によって終わりを告げ、英二だけが取り残された。そこは泥のように深く、闇のように暗かった。アッシュのいない英二が、その絶望から抜け出すのにかかった時間は約七年。七年間、一日たりとも、英二がアッシュのことを想わなかったことがないことを、周囲はよく理解していた。
 だというのに、その周囲の一部が英二を騙していたのだから、そりゃ七年越しの再会は劇的にもなる。

 それから三年間、二人はまたあの頃のように一緒に暮らすようになっていき、先日めでたく英二は三十路の誕生日を迎えたというわけだ。

 男同士である。
 親友であり。
 兄弟のようでもある。
 おふざけで「どっちかが女ならきっと赤ん坊ができてた」と言ったこともある(その時の周りの反応ったら! 哀れみや居た堪れなさで苦笑する者もいれば、赤ん坊がいなけりゃ二人だけで愛し合っていけるさと励ましてきた者もいるくらいだ。その時英二とアッシュは顔を見合わせ、ジョークなんだけど、と言うタイミングを完全に逃した)。お互いが、人間の中で、一番の存在だった。互いにしか向けられない類の、魂の絆、友情、愛を持っていた。
 だから、きっと、心があれだけ通い合っているのならば、体も通じ合っていると思われるのだろう。

 うん。英二はこれに関して何度も首肯したことがある。うん、うん、きみたちの言う通り。僕たちってほんと、映画みたいだよね。ほんとにそう思うよ。男同士でも、友だち同士でも、確かに僕たちはちょっと、特別な何かがある。この特別な何かがあると、映画では濃厚なキスシーンに行き着いたり、はたまたベッドシーン待ったなしな音楽が流れたりするよね。分かるよ。僕だって、「過去に一度やむを得ずキスした男の子二人が、生死を潜り抜けたりしてお互いになくてはならない存在になり、けれど片方がもう一方の愛情こもった手紙を読みながら穏やかな顔して死にゆくことになったのだけど、七年後、二人は奇跡的に……し、む、け、ら、れ、た、奇跡によって再会した」となっちゃあ。そのあらすじだけ聞いたら絶対このあとセックスするって思ってしまうさ。心だけじゃなく身も繋がるんだろうなって想像する。友だちの一線を越えるなって、たとえ本編に描写がなくても疑ってしまうよ。

 でもそれって映画の話だ。
 現実じゃ、ないことなんだよ。
 僕たちに体の繋がりは、本当にないんだもの。

 だから僕の誕生日の「家でゆっくりしたい」発言を「アッシュと濃密な夜を過ごします」に意訳するのは誤解にもほどがある。翻訳機だったら苦情殺到、自主回収ものだ。僕だって最初の頃は律儀に誤訳を正してきたのに。一年を超えたあたりからどれだけ正しても誤訳の方が出回って、正答のように扱われるから。さすがに面倒になってジャパニーズスマイルという名の愛想笑いで聞き流すしかなくなった。アッシュだってそうしてきた。

 ……とどのつまり、二人とも、全く清廉潔白だったのだが、まあそういうふうに見られても仕方ないかと納得できるくらいにはこの関係性を客観視できていたので、強くは否定できなかったのである。

 そして先日、英二の誕生日。
 仕事が終わったら、二人で一緒に過ごしたいと言い合っていた通り、英二は他からのお祝いの誘いを後腐れなく断り、帰路についた。

 ニューヨークの59丁目、高級アパートメント。二人はまたそこで共に暮らしている。目と鼻の先にあったゴルツィネの所有していたビルは、今や一階に美味しいケーキ屋がある多目的ビルに取って代わられている。ニューヨークの街は、あの頃と変わらず都会的で人もゴミも多いが、地下鉄の落書きが一掃されたり差別反対運動が公然と知れ渡ったり、ちょっとは優しくあたたかな街になっていっている。
 証拠に、稀代の殺人鬼アッシュ・リンクスはもう過去のこととなり、彼の経歴を知った上でニューヨークは彼を死に追いやらなかったのだ。きっと、この都市も、後ろ暗かったに違いない。だって彼の人生を翻弄したのが、善人も悪人も不平等に腹の底に治めるこの都市であるということを、自覚していただろうから。世間も立法も行政も司法も、良心的か利用的か、様々なことを鑑みて、当時十代だった彼に日の下を再び歩けるよう手配したのである。それが完了するまでの期間が、七年間だった。

 一昨年の誕生日は、七年間の空白を埋めるための日常が必死すぎて、お祝い自体を忘れていた。

 去年の誕生日は、たくさんの昔馴染みと集まって、最後は中華街の張大飯店で銀河の塵のような炒飯でしめて一日を終えた。(無事に跡継ぎになったはずの友人の料理はいっそ表彰レベルに不味く、そのくせ客足が途絶えないので、最近はもっぱら新メニュー開発の実験に付き合っているのだが、僕は毎回宇宙に飛ばされそうになるのでそろそろ酸素ボンベか宇宙服を買った方がいいのではと本気で危惧している)同じくあの時代を切り抜けてきた大切な友人、張大飯店店主のショーターにさえ、今年は「お前ら二人でゆっくり過ごせよ。邪魔しないって」と明らかに含みのあるニヤケ顔で言われた。英二はこれにだけは全力で違うと首を振った。アッシュとショーターは英二でも立ち入れない絆を持っている親友同士だ。そして、アッシュのいない七年間で、英二とショーターにも強固な絆が結ばれている。三人は、それぞれのためなら、人殺しだって厭わない覚悟さえ胸に秘めている。そんなショーターに、アッシュとの間に「何か」あるのだと勘違いされては、堪ったもんじゃない。きみが一番、僕たちに何もないことを、僕たちのことを理解してくれているはずだろう、と英二は口を酸っぱくして言うのだった。その度に、彼はサングラスの奥の目を呆れた様子で眇めて、「へえへえ」とつるっぱげの頭を撫でるのである。なんだよう、きみまで一体どうしちまったってんだ。



 本当に一体どうしちまったってんだろう。



 英二は誕生日の翌朝、ひどい痛みを放つ自分の頭を抱え、真っ先に思い浮かんだショーターの含み笑いに叫び出したくなった。
 ああきみは凄いや、僕が理解していないとこまで理解して、なおかつ毎回僕の主張を受け止めていてくれたんだから、ほんとのほんとに凄いやつだ、ねえでも、どうして教えてくれなかったんだ? きみがひとことでも僕の、僕自身でも気づかなかった気持ちについて言及してくれれば、こんなことにはならなかったのに。こんな、こんな、騙し討ちみたいな所業──そうまるで三年前の僕とアッシュの再会のような──きみも、僕を騙していた一部の周囲側だったねそういや。シンと大激怒した。でもきみが僕を守るために、きみ自身苦しみながらあえてそうしたことを僕はきちんと分かっていたから、この話はもう蒸し返さないけど。でも、今回は駄目だ。だってきみ、あれは百パーセント、面倒くせえなこいつら、の「へえへえ」だった。僕には分かる。分かるんだ。うん、そう、分かっている。

 僕らは面倒な男なのだ。

 英二は隣で眠っている安らかな寝息をそっと確認し、朝焼けのなか速やかに身支度を整えた。メモ用紙とペンをひったくる。うかうかしてられない。途中、耳を動かしてこちらに不思議そうな顔を向けた寝ぼけ眼のバディに、しいっと指を当てる。

 ニューヨークの街はアッシュにちょっぴり優しくなった。

 けれど、英二に対してもそうであるかというと、答えは否だ。七年間が物語っている。

 この都市はアッシュの庭なのだ。自分はそこで逃げ回ろうとしているのだから、不利なのは当然こちらだろう。ならば、寝起きの悪い彼が起き出すまでの時間が、自分に残された唯一の勝敗の決め手なのである。



 そうして三十歳になったばかりの英二は、十九歳だったあの頃のように、無鉄砲にもアパートメントをひっそり飛び出した。財布と身分証のみをセキュリティポーチに詰めて、だ。

 

 ※

 
 
 マックスのところへは絶対に行けなかった。

 彼は記者として独立し、ニューヨークに会社を構えていたので距離的には問題なかったが、立場的には問題ありだった。彼はずっとアッシュの親代わりであったし、今やアッシュの上司でもある。更には、英二が誕生日の翌朝に自分たちの住処から逃げ出す原因を、間接的に作った人物でもあったので。

 ビル群の明かりがすっかりなりを潜め、高層窓の隙間に豊かな陽光が射しこみ始める時間帯、セキュリティポーチを身に着けた英二は、まずったかなあと眼鏡を服の裾で拭き直した。カメラはやっぱり、持ってくるべきだったかもしれない。こんな日でも、朝焼けが目に痛いほど綺麗なんだもの……涙が出そう。瞼をぎゅっと閉じ、目頭を揉みこむ。こめかみが鈍痛で侵されている。腰も痛い。油断していると昨夜の記憶が痛い頭と滲む瞼の裏側で容易に再生されかけて、蹲りたくなる。両膝をパシンと叩いて叱咤する。いいから歩けのろま野郎。痛風って歳でもないだろ。いや、確か年々発症年齢が低年齢化して、三十代でもなるってニュースで……やめやめ、この三年間は嘘みたいに健康的な食生活を送れていたから、痛風になるとしてもまだきっと先だ。それに下半身の重怠さはちゃんと原因が分かっている。いやだからそれを思い出すのはやめろってば!

 ただでさえふらふらな体を鞭打って出てきたのだが、更にポールに手をつくと痛む頭を強く振った。途端、ぐわんと脳みそが揺れて平衡感覚が乱れる。うっ、胸を押さえた。水だけでも、飲んでくるべきだった……。二日酔いの体で逃亡なんて、無謀が過ぎる。

 じくじくと内側から頭蓋に響くものを耐え、唾を飲みこみ、深呼吸を繰り返す。ちょっと、あなた大丈夫? 早朝ランニングの女性に声をかけられ、大丈夫です心配しないで、さあ走って、と促す。英二は自分で起こした痛みが治まるまで、頭の中を苛め抜いた。考えなければならない。

 マックスのところは駄目だ。たとえ僕のことを匿ってくれたとて、アッシュならすぐ見つける。
 そもそも忽然と姿を消した日本人を探すため、真っ先に窺うところはどこだろう。決まっている。ショーターのところだ。僕だってこれがただの家出なら、面倒見のいい彼のところに行くさ。たまにしてきたように。そしたらアッシュはわざと時間を置いて迎えに来てくれるだろう。でも今回はそれじゃ駄目だ。絶対に見つかりたくない。迎えに来られても困る。そして僕は、逃げ出した僕をきみが鬼のように追いかけてくるのを予想している。昼間にでもなれば、それは事実になるんだ。鬼ごっこでもあり、隠れんぼでもある。僕は捕まりたくない。とにかく今は、逃げたい。すると中華街は全般的にアウト、それどころか本来ならいい逃げ場所になるアウトローな場所もよさなければならない。交流のあるストリートキッズたちのところなど、それこそ彼の元庭なのだから。

 では他の友人たちのところは? アレックス、コング、ボーンズ……縋りつきたいがとんでもない。彼らはもうアッシュの部下ではないが、今でもアッシュをボスのように慕っている。僕の味方でもあるけど、経緯を知ったら必ずアッシュのもとにつくはずだ。アウト。

 ならチャーリーのところとか? 迷惑にもほどがある。警察だぞ。たとえ家にいたって彼とマーディアとの夫婦生活を邪魔したくないしマーディア経由でショーターに伝わり、そこから背後を取られる可能性がある。

 じゃあシンは。駄目だ。きっとアッシュが二番目に疑うところだ。僕とシンは七年間、仲良く騙されていたから、妙な仲間意識と連帯感がある。未だに騙していた異母兄と月イチの頻度で殴り合いの喧嘩をしているとよく零していたし(腫れた頬をぶすくらせ、それでも再び家族といられるのを、複雑ながらも嬉しそうにはしていた。本当に良かったと思う、お互い)、シンは全面的に英二の肩を持ってくれるだろうが、彼は彼で貿易会社の社長業や治めなければならない問題がきっとあるしそれにあまり、こういう問題に巻き込んでやりたくない。何せシンは、そう、シンだけは! 僕とアッシュの間に性的なことは何もないと思っていてくれたから。(「まあそれは今までの話ってだけで、これからは分かんねえけどな! あっはっは!」とショーターそっくりの明朗快活な笑みで話を締めくくるのが常ではあったが、現時点での僕らの関係を正しく理解してくれていたのである)

 英二は寄せては返していく吐き気の波を揺蕩い、それがきっちりざらついた砂浜を残して引いていくと、胸を宥めるため数度叩いた。胸の奥が、ざらざらしている。城の残骸のような砂がこびりついている。大変な体調不良だ。早々に隠れ場所を見つけて、ひとまず落ち着かないと……

 振ったせいの頭痛は徐々に弱まってきている。ああそんな待ってくれ、まだ良い案が見つかってないんだ。冷静にさせないでくれ。冷静になってしまったら、どう足掻いたって八方塞がりなことを認めなければならなくなる。早く考えろ、アッシュがあまり目を向けないところで、かつ僕に味方しなさそうで、僕らの関係がどうなったって構わないと思っている人のところを──あっ? 英二は俯いていた顔を上げた。ちょうど前の方からタクシーが走ってくるところだった。あ、あっ、ああ!

「タクシー!!」
  
 その日初めて上げた大声は、憐れなほどガラガラだった。



 ※



 奥村英二が来たことを、この屋敷の主に伝えてください。
 お願いします。ああそんな門前払いしないで、頼みます、怪しいもんじゃないんです。名前を伝えてくれたらきっと分かるから、待って待って待って英語分かりますよね? もしや中国語じゃないと通じない? それとも僕を一般人だと思ってるから一歩も中に踏み入れさせたくないのかな。OKいいだろうその辺を歩く一般人じゃなくなればいいんだね。肯定も否定もしてくれないんなら僕は勝手にそう思うことにする。失礼ごめん、ソーリー!
 
 英二はそう捲し立てながら若い門番の顔に全力で腕を振り被った。

 マンハッタン中に居を構える、月龍の屋敷の一つで、である。

 瞬間、拳が到達する前に引き倒され銃を突きつけられたのだが、英二は地面に頬を擦りつけながらほくそ笑んだ。……殺すつもりかい? 僕の身元を確認もせずに? ユーシスに問い合わせてみろ、彼の許可なしに僕を殺したら彼はきっと存分に悔しがるぞ。それでもいいのか? きみのご主人は、殺すなら計画的に僕を殺すはずだって言ってるんだ。きみは今すぐその計画を訊きに行った方がいいんじゃないかな? 彼の意向通りに動きたいだろ? だから今すぐ奥村英二が月龍に会いに来たって伝えに行ってくれ。……頼む。

 へたくそな脅しだとは分かっていた。正直なところ後半は何を口走っていたのか自分でも曖昧だ。眼鏡が吹っ飛んだ視界でもよく見えた、門番の気味悪そうにしていた表情から、ろくなことを宣っていないのだけは察している。三十になったというのに、見境がなさすぎて反吐が出そうだ。七年間水底の死体のように沈んでいたのに、アッシュのこととなったら浮上して飛び魚にだってなれるのだから、本当にどうしようもない。そのまま鳥にでもなれたら立つ鳥跡を濁さずができたというのに!

 残念ながら、英二は鳥でない。もっと言うと魚でもない。地べたを地道に進むしかない人間である。よく考えた結果、その進みを本人の意思とは無関係に助けてくれるはずだと閃いた存在が、月龍だった。

 ユーシス。月龍。華僑を裏で牛耳っている、表向きでもトップの男。

 彼とは、一度も、……アッシュが死んで、生きていると知らされるまでの七年間、一度も会わなかった。それはそうだ。アッシュの死亡と生存に彼は一枚も二枚も噛んでいたので。

 けれど三年前、英二は月龍に会いに行った。怒髪天を衝く勢いで、シンと共に。
 その時の彼の様子は、涼やかが過ぎて風鈴の音でも聞こえてきそうな態度だった。──「あれ、きみたち知らなかったの」と一言。あれには目を剥いた。その後、ハッとなったシンが激怒して飛びかかろうとしたのを護衛総出で押さえつけられ、月龍は「なんだい、ちょっと見ないうちに髪を伸ばしたのか? 似合わないね」とシンから英二のことは聞いていただろうにしれっと言い放ったものだから、英二も辛抱堪らず殴りかかりに行くことになった。もちろんあのお綺麗な顔を歪ませることはできずに終わったのだが──周りからの生存疑惑を尽く隠匿してくれたのだから、アッシュは月龍に対して、認めたくはなさそうだが恩義がある。だが月龍はもう必要以上にアッシュに執着していないし、二人のことを探ろうともしない。まさしく適任だった。

 月龍は英二を一時でもニューヨークの目から隠してくれる、救世主なのだ。


 


 
 月龍がやってくるまでの間、英二は毛足の長い絨毯の上で転がされていた。
 両手両足は拘束されており、扉には見張りが一人、身じろぎもせずに立っている。

 適当に一番近くにあった屋敷に押し掛けたが、やはりそう上手くいくこともなく、屋敷の主は別の場所にいたらしい。そうしてトチ狂った日本人の襲撃を報告した門番に、大方「僕が行くまで転がしておけ」とでも命令したのだろう。英二がただひたすら柔らかな絨毯の上で目を瞑る状況が生まれるというわけだ。

 英二はいつまでも待つわ、とワンフレーズ口ずさめそうなくらい、頭がどうにかなっていた。(余談だが最近の英二とアッシュのマイブームは昭和歌謡である)部屋の時計の長針が一周したところで、かろうじて保っていた緊張感が極限まで薄れてしまう。いかんせん、昨日の今日だ。二日酔いと寝不足の体で歩き回り、久しぶりに慣れない脅迫を仕掛けたのだから、そりゃ空調の効いた静かな部屋で質の良い布の上に寝転がされたら一気に疲労が襲い掛かってくる。見張りが英二の寝息を耳にし「嘘だろ」と中国語を漏らすのは時間の問題だった。



 三時間ほど経った。いくら衝撃を吸収する高級絨毯と言えど、さすがに身動きできない状態での居眠りは体の節々を痛くさせ、英二は無様にも喉奥で呻いた。

「やっとお目覚め?」
 
 後ろから聞こえた呆れ声に、顔を上げようと首をもたげる。しかし、涎でべたつく口元に絨毯の繊維が引っつき、重力が加圧されたかのような全身の重さも相俟って、あっけなく頭は再び伏された。確か自分の後ろはソファだった。そこに座っている人物が、鼻で笑う気配がした。英二は言おうとした。おかえり、ユーシス。帰った早々悪いんだけど、ちょっと頼みたいことがあって……。だが唇をこじ開けるのに失敗してしまう。後ろから、かちゃりと硬いものが軽くぶつかる音がする。お茶でも飲んでいるのだろう。英二はそのことについて特に異論はなかった。彼が、突然やってきた日本人を縛り上げたまま放置し、優雅にティータイムを決めていてもおかしくない性格だと、よく知っているからだ。(そしてこの場合、英二は招かれざる客なので、彼が自宅で何をしようと当然のことのように思える)

「きみは経験したことがあるかい?」
 月龍が嫌味ったらしく、丁寧に言う。「仕事中に、自宅の警備から、『あなたに殺される予定の男が、律儀に自己申告してきたのですけど』と可哀相なくらい困惑した声で、電話をかけられたことが?」ないに決まってるだろ、内心だけで返した。「僕はこれでも結構な人生を歩んできたけれど、きみみたいのは初めてさ。マフィアの家にトンチキな脅しで押し入る輩は」それは、光栄だな、またもや心のうちだけで返事した。すると衣擦れの音がし、柔らかな絨毯を踏み締める、音のない気配が近づいてくる。眼前に赤い部屋履きが止まり、英二は視線だけを上にしようとしたが、今見上げたらとてつもない蔑みの目と、おそらく自分の充血した目が合いそうな気がしたので、視界いっぱい広がる一色絨毯の色の濃さで錯覚を見つけようと躍起になった。あ、あそこにペンギンみたいな模様がある。いや手羽先かも。あっちには深海魚みたいなのも。そういえばお腹が空いて……いやこの気持ち悪さは酒のせいか空腹のせいかどっちだろうか。喉が渇いている。口内を湿らせようと、ひりつく舌で、もごもご頬の裏側や歯茎を舐める。ようやく張りついていた唇の表面が離れた。「ユーシス」英二は目を上げた。

「きみのとこの門番には悪いことをした。トラウマにさせたかも。ごめん」

 あ。
 間違えた、と思った。月龍と話していて時たま感じることだ。昔は、それにすら気づかなかったから、彼が自分のどの発言でその顔を歪ませたのか、ちっとも分からなかった。

 見下ろしてくる、切れ長の、長い睫毛に縁取られた黒目が、思い切り不愉快さを露わにしている。

 彼のその顔を見るのは、一年ぶりくらいだった。あれは外でだ。現役裏稼業の人間とは、滅多に会わない。少しの間アメリカを離れるからと、無理やりシンに引っ立てられた月龍と、アッシュとショーターとともに顔を合わせた。あの時も、不可思議なメンバーとの気まずい空気のなか、英二が「行ってらっしゃい、気をつけて」と一応声をかけたところ、今と同じような顔をされた。二年間、様々な文句を引っ提げてぶつけるうちに(何せ七年ものだ! まだまだ足りなかった)、英二は自分のどの発言が彼を不快にさせたのか、よく分かるようになっていった。ただ、それがどういう作用をもたらして、彼の虫の居所をお悪くさせるのかは、複雑すぎて分からないけれど。今の間違えた言葉は「ごめん」だろう。毛虫を見るような目だ。拘束された姿ではあながち間違いないだろうが。

 同じ黄色人種なのに、英二より数段白い腕が伸びてくる。それが胸倉を掴むと、ぐいと身を起こされ、座らされた。それでも高い目線が気に食わなかったのか、あろうことか月龍が膝をつく。顎を乱雑に掴まれた。「怪我をしてる」……アッシュもそうだが、綺麗な顔で不機嫌そうにわけの分からないことを言い出すのは、なかなか迫力がある。恐ろしい。英二は眉根を寄せた。「怪我?」眼鏡を通していないせいで遠くがぼやけた視界に、ああと思い当たる。

「さっき、門番に襲いかかった時の。ちょっと擦れてるだけだろ? 自業自得だよ。むしろそれだけで済んで良かった」

「無謀なことをした自覚はあるんだ?」 

「そりゃ、……もちろん」 
 中国マフィアの家だ。殺されてもおかしくなかった。

 しかし、訊かれて再認識したおかげで、英二は本当に自分の行動が愚かだったと反省した。忍び入るよりは正面突破がいいと思ったのだ。あの門番の様子を思い出すと、益々申し訳なくなる。ごめん、まだ若そうだったのに、イレギュラーな珍客の相手させて。今後僕のような馬鹿者は現れないと思う。ためにならない経験をさせてしまった。「あの、ほんとに門の彼は何も悪くないんだ。僕の訪ね方が……悪かった。本当に」自分の行動が、どれだけの人間の肝を冷やしているか、承知していた。あと二時間もすれば、アッシュは目覚めるだろう。そして隣のシーツが冷たいことと、残してきたメモに気づいた彼によって、僕らの友人知人の顔色が青くなる。そこまでは完璧に予想通りになるだろうと、自信さえある。英二はそれらに心の底から申し訳ないと思いつつも、自分勝手な逃走を貫きたかった。 
 
 薄く擦過傷になっている頬を、月龍の切り揃えられた爪先がそっとなぞってくる。傷口に突き立ててきそうな剣幕が、眉間の皺に刻まれていた。「きみはひょっとすると──……」開いた口が止まり、暫時。首を振る。「……駄目だ。あらゆる言語を持ってしても、きみの愚行を表現できそうにない」
「どうもありがとう」英二は月龍が多言語を操れる聡明な人であることを知っていた。
「驚いたな」わざとらしく片眉を上げている。「しばらく会わないうちに、嫌味を理解できないくらい衰えてしまったの?」

 英二はぴくりと肩を強張らせた。嫌味に食ってかかりたかったからじゃない。とても耳に痛いことを言われてしまったからだった。

……衰えてるよ」
 思いのほか哀愁に満ちた声音が出てしまう。「僕は、歳を、取ったんだ。もう三十になる」

 月龍が気味悪そうに口を曲げた。「三十? いつの間に」

「昨日」

「へえ。それで記念として僕に殺されに来たって?」

「ああ、うん、そう。それはきみに会うための方便だったんだけど。でも、もう、やぶさかでない」

「分からないな」苛立たしげに指の腹で頬を押してくる。「情報が少ない。きみは昨日誕生日だったんだろう? きみのことだ、どうせアッシュと気楽に祝ったんだろう。それでどうして、そんなに顔色が……」月龍はふと口を噤むと、ぐっと顔を近づけてきた。

 英二はぎょっとして仰け反る。すん、ひと嗅ぎされる。目と目が合う。探られている。情報収集だ。こちらが二日酔いであることがバレた。宵闇に咲いた藤のような目が英二を上から下へと眺めまわす。頬にあった指が下り、胸元のシャツを引っかける。英二は更に身を引いた。遅かった。──誕生日、アッシュ、二日酔い、月龍への早朝アポなし訪問、積極的な自殺行動、たった今見られた自分の肌──彼の頭の中で限られた情報が正しく位置づけられ、線で結ばれていく。なるほど、月龍が呟いた。分からないな、ともう一度。

「生娘じゃあるまいし。避妊する必要もない者同士だ。どこに逃げる理由が?」

 英二の耳たぶがカーッと熱くなった。