科学者は、フォークの使い方を知る

pixiv再掲
石化前の二人が色々あってくっつく話。本能と理性の間で揺れるゼノと、じわじわ相手にわからせたいスタンリーの話です。すれ違いからのハッピーエンド。少女漫画みたいな話。
家の設定、宇宙センターの構造など全部捏造で書きました。ご容赦ください。
ケーキバースの話ですが、設定自体がふわっとしていますし、カニバはありません。
必ず一ページ目の注意書きをご覧ください。
ゼノの結婚の話、そして少しですが名前入りのモブが出てきます。ご注意ください。



(ゼノ)

 その視線は、僕の手足、指、そして背中にさえまとわりつく。
 廊下を歩きながら、僕は気配に気づきつつも知らないふりをした。ニヤニヤと笑う下品な声も無視した。
 足元に、朝の冷たい風が吹く。ヒューストンは秋になると途端に朝晩が冷え込む。湿度もあるから冷たくなりやすい空気は、この研究所内でも例外ではない。窓を開けると頭が一気に冴えてくる。
 そうすると少しだけ、あの嫌な視線のことも忘れられた。こんなわずかな動作だけが僕の息抜きなのかと思うと、げんなりする。肺いっぱいに秋の空気を吸いこむと、部屋のドアを閉めた。仮眠室だから、この時間に滅多に人は来ないだろう。
 ドアを閉めれば勝手に使用中のライトが点灯した音がする。いやらしい視線たちが、扉一つ隔ててシャットアウトされたような気がして、ホッと胸を撫で下ろす。あんな目や声は、気にしなければいいのだ。そうわかっていても、どうにも今日はだめだった。
 ──会議室で、公にもめた。僕がはっきりと少数意見に加担するや否や、金の亡者たる政治家の息がかかった科学者仲間が、口を揃えて罵倒する。正しい科学的見地を述べた研修生に味方をして、何が悪いのか。僕の怒りは限界で、しかし金と権力は無情にも、くだらない大多数意見を採用する。
 研修生には頭を下げるしかなかった。泣きながら、
「ドクターは悪くないです」
 と言う姿の痛々しさが、僕の頭から離れない。
 会議室を出れば、さっきまで権力者どもにヘラヘラ媚びていたつまらない同業者たちが、ひそひそと噂をしている。
「よくあの陣営に楯突いたよな」
「もうすぐあっちの政治家の娘と、婚約するっていうのに」
 ……僕はそれらから逃れるように、どうにかこの部屋に辿り着いた、というわけだ。
 くそ、と品のない舌打ちをする。政略結婚を謀られていることが、あんなやつらにまで広まっていただなんて。
 僕は、どこぞの御令嬢には悪いが、全く結婚をする気などない。いや、悪いという気すらない。どうせその女性も、企みに一部噛んでいるのだろう。僕に女性をチラつかせる。それほど一番、効果の薄いものはない。
 こういうとき、決まって僕はここにくる。
 仮眠室には、密かに作ってもらった自分用の小さなロッカーがある。
「ドクターゼノには休憩がたくさん必要だから」
 とここを作るときに設計担当の知り合いが、暗に「休め」と念を押してきた。研究中はつい我を忘れて没頭しがちだが、体調を後で崩すこともあるのを見かねて何かいい案はないかと相談した矢先のこの言葉。知り合いは、いい笑顔で満足そうに帰っていった。言いくるめられたような気がして悔しくはあるが、それから適度な休憩はここで取るようにしている。
 ロッカーに入れておいたキャンディを取り出す。フランス菓子店の出している瓶詰めの飴は、「旅行先で買ったんだ」と言う同僚からのみやげ。形の崩れやすい砂糖菓子のギモーヴと一緒に(よくギモーヴが崩れなかったものだ)渡されたそれは、長らくロッカーに保管されていた。
「これに手をつけたら、いよいよまずいぞ」という自分なりの警告を込めて。
 それも、瓶でカラリと転がる量まで減ってしまい、僕は下唇を噛んだ。じく、と胸が痛む。口の中に一粒放れば、今日の味はレモンだ。柑橘の爽やかな香りが鼻の奥に広がった。
……足りない」
 足りない、ともう一度口に出す。僕が求めている味とはまったく違う。それでも、無いよりはマシだと思いながら、コロコロと頬を動かした。
 僕は、小さいころからずっと科学を考えてきた。決まってそばで様子を笑って見ていたのは、スタンリー・スナイダーだった。
 いつかスタンが、ガムをくれた。
「これなら、噛みながら研究できんだろ?」
 スタンがそれを指でつまんで口に入れてくれたとき、僕の唇に彼の指が触れた。
「柔らかいね、ゼノの口」
 僕はそう言われて、ムッとしてごまかすように唇を内側にしまう。あは、と笑ったスタンの顔は、やっぱりいつ見てもきれいだ、と思った。
 そのとき感じた味を、どうしても忘れられない。
 どこにでも売っているガムだ。スタンがよく、携帯用にキャンディを買っているストアでたくさん見かける。味の種類は数通り。僕は自分のこづかいで、三日後にそれを買った。
 自分で頬張るそれと、この間もらったそれは、全然違う味がした。僕は首をかしげる。どうして違うんだろう。ありふれたティーンのコミックのように、もらった相手が違うから、だなんて非合理的な現象があるんだろうか。
 ううん、と困ってうなっていると、今日もスタンが遊びにくる。
 そのうち忘れるだろう、こんなガムの味の違いなんて。僕は頭のモヤを振り払うように、スタンの呼び声に大きく返事をした。
 でも数日後、またスタンがガムを放りこんできた。今度はちょっと呆れた様子だった。さすがに僕がうるさかったんだろう。何せ一時間以上も、ベラベラとレールガンの新しい仕組みについてしゃべっていた。子どもの一時間はとてつもなく長い。長くて長くて、くたびれ果てるのに十分な長さだ。スタンはよく我慢をする方なんじゃないかと思う。スタン以外の人間なら、僕の説明を一時間も聞いてくれない。
 これが大変遺憾なことに、大人になっても直らない癖なのだから、このころに戻れるのならスタンリー少年に謝っておかねばならない。「君はあと何年もこれを聞くことになるんだ、すまない」と。
 とにかく、あのうつくしく形の整った眉(なんと全く手入れをしていなくてああらしい)をしかめて、
「わかったわかった、それがすげえのはよーくわかった、だからちょっと落ち着け」
 とガムを口に入れられたとき、僕はまたしても不思議な感覚を、文字どおり味わう。
 まえと同じガムのはずなのに、まえと違う味がする。
 そして僕はとっさに気づく。気づいて、口を抑え、絶句する。
 いつもなら、こんな面白い研究対象はない! と喜びで浮かれてスタンに抱きつき、嬉々として材料を集めて研究を始めようとするはずなのに。
 ……その日、僕は「体調が悪くなった」と嘘を言い、訝しげなスタンを見送ってどくどくと鳴っている心臓を抑えるのに必死だった。ありふれた少女コミックの世界は、なんと自分自身にも当てはまることだったのだ。そしてそれは、非合理的でも幻覚でもなんでもない、この世界で認知されている当然の現象だった。
 しょせんこのときの僕はまだ、自分がたった数日の間に持ったフォーク性と感情に対して、あまりにも未熟な十歳の子どもだったのだ──
 いつの間にか、レモン味の飴は舌の上でじっとしていた。転がすのを忘れて、ぼんやりとしてしまったらしい。
 その少年のときの二回以来、スタンから受け取るガムは手のひらでもらうようにした。スタンはちょっとだけ意外そうに目を見開いたが、とくに何かを聞いてくることはなかった。そのうち僕自らでガムを用意するようにしてからも、何も言わず、彼はやがてあの毒ガスであるタバコを吸い始めるようになった。
 タバコのことを、からかうように注意することはあるけれど、僕は少しだけホッとしていた。タバコの匂いは結構キツい。だから僕は「あの味」を忘れられる。
 ふたたび口の中でころりと飴を動かしたとき、カチャリとドアが開いた。
「ゼノ、ここにいたんだ」
 ……飴を口からこぼしそうになった。心臓がひとつ大きく高鳴る。
「スタン?」
 まさか今考えていた当人が目の前に現れるなんて。僕の体は熱くなり、冷たくもなった。
「サプライズ。驚いた? 休暇前にちょっと呼び出されたんよ。で、用事終わったからゼノ先生探し回ってた」
 よくのびる声が僕に告げる。仮眠室の中にある簡素なソファにどっかりと体を落として、長い脚を組んだ。
「こんな時間に使用中の仮眠室は怪しいかんね、ここだなと思って入ってみた」
「そうか。でも君も、仮眠を取りにきたんだろう?」
「まあね」
 スタンは家まで自家用車で帰るとき、とんでもなく眠くなるから、とヒューストンに寄れば必ず一時間ほど仮眠を取る。ここからだと自宅まではとにかく直線道路が多く、退屈な道のりらしい。たしかに数度行ったことがあるが、あれはとてもじゃないが眠くなる。助手席でよく船をこいだ。
 ごそごそとポケットをまさぐって、何かを探している。多分、タバコだろう。ここは禁煙だが、唯一喫煙スペースも別で設けられている。ようやく探り当てたタバコをいつものようにくわえ、指先でくるくると遊びながら僕を見た。
「あれ、甘いもん、好きじゃねえって言ってなかった?」
 そして吸う前のタバコを持った指で、僕の手にある瓶を差す。
 ……僕は、スタンに半分嘘をついている。
「甘いものがあまり好きじゃない」と。
 事実、そんなに菓子ばかりを食べるタイプではない。脳にはきちんとした栄養が行きわたらないといけないし、偏っていては科学の新しい発見やひらめきを逃してしまう可能性がある。甘いものはあくまでついで。どうしても必要なとき以外は摂取しない。
 二人でどこかへ出かけても、メニューの隅にあるデザートにはそそられない。たまにスタンが頼むときに、一口シェアして味わわせてくれるが、それだけ。
 これが僕の嘘の、半分の真実だ。
 もう半分は、言えない。
「これぐらいの糖分を取ることもあるよ」
 僕はとっさにそう言った、真実だからだ。スタンはとくに気に留める様子もなく、「まあそっか、そうだよな」と立ち上がる。
「それみたいに、ゼノんとこのハウスキーパーの作る菓子、たまに食ってやったら喜ぶんじゃねえの?」
……そうだね、検討しておくよ」
 僕の家にときどき家事代行で来ている老齢の女性は、菓子作りがとても上手い。しかし僕は、ほとんど手をつけたことがない。それが彼女をちょっとだけ悲しませているということはわかっていた。
 けれど、仮にそれを食べて、彼女をますます落ち込ませるようなことはしたくない。僕が心を許す、数少ない人間のうちの一人だから。
 そして僕が最大に心を許している人間は、今喫煙ブースまで歩いている。喫煙ブースの横には仮眠室のドアがある。スタンは一服したあと、そこのベッドで休むだろう。さっさと歩いていき、ドアを閉めた背中を見送って、僕は大きくため息をついた。
 ──僕の秘密。甘いものが好きじゃない、と彼に嘘をついていること。
 そして、世の中にある全ての甘いものが苦手というよりも、食べたところで「敵わない」から食べないだけだ、ということ。
 秘密は、少しずつ足音を忍ばせて僕の心にある闇を食っていく。いつか話すときが来る。こんな非合理的なことがこの世の中に本当にあったとは。本能とは、理性とは。いくら科学で脳伝達物質の機能をわかったとしても、あらがうことができなければ、衆愚たちと変わらない。
 まるで今の僕は、花瓶を割って隠し続けている子どものようだな、と自嘲する。
 ……スタンがタバコを吸い終わったらしい。パタンとドアの音がして、仮眠のためのベッドルームへ入っていった。鍛え上げられた軍人は少しの物音でも気配を察して起き上がるが、彼はこれから休暇で、今のところ表立った緊急案件もない。いつもよりは少しだけ、気の抜けたあくびをしている。僕のまえだと無防備になる姿は、本当に幼少期から変わらない。
 自分のロッカーにキャンディの入った瓶をしまう。鍵をかけて、白衣のポケットに入れた。布擦れを起こさず靴音を立てないように、そっとベッドのある部屋へ近づく。音には最大限の注意を払っているはずなのに、耳奥でバクバクとうるさく鳴っている。
(この心臓という器官は、どうすることもできないのがもどかしい)
 ドアを開くと、さっきまでスタンが吸っていたタバコの匂いがした。彼が初めて吸い始めたとき、僕は思いきり顔をしかめたっけ。今や彼はすっかりヘビースモーカーになってしまった。
 スタンの、規則正しい寝息が聞こえる。いつも容姿と肩書きでもてはやされ、目立つ男なのに、眠っているときは存在していないかのように静かになる。軍にいて鍛えられてこうなったのか、生まれつきこうなのかはわからないが、バッテリーが切れて動かなくなったモーターのようだ。スタンの眠りは沈黙とも呼べる。
 横顔に目を向けると、顎に少し傷がある。きっと適当に薬をつけて、放っておいたんだろう、跡が残りそうだ。ただでさえスタンのファンは彼が傷つくのを恐れて前線に出すなだのうるさいのに、当の本人が自分の美貌など全く鼻にかけず、戦場へ飛び出して指揮を出す。怪我をしようが折れようが、スタンは止められない。
 ふとそこに、光る水滴を見つけた。
 スタンはときどき、こうして眠りながら涙を流すときがある。長い任務のあとはとくに。目がずいぶん乾くのか、それとも悪い夢を見ているのか。
 僕は流れていく水滴を、ただ見つめていた。透明な涙が、なだらかな鼻筋を通って落ちている。僕はスタンに顔を近づけて、そして──
 部屋が寒い。きっと起き抜けにこの室温だと、スタンも嫌だろう。僕は部屋に数枚置いてある毛布を取ってくると、彼の全身を覆えるようにふわりと広げた。