心臓

修行時代のドドメの話です。連載中。太公望と普賢にもう一人同期がいたらという話。オリキャラが出てきますので、苦手なかたはご注意ください。
4/10 1話「もう桃の花は咲いたか」
4/15 2話「そんなに怖い顔をしなくても。……“望ちゃん”」
4/22 3話「なぜおぬしは普賢を選んだ?」
5/26 4話「考えられるパターンは二つある」


杜光とこうは淡々と普賢を装った。
もともと普賢は口数の多い方ではなかったから、笑顔で人の話を聞いていれば不審がられることもなかった。物理を学ぶために足を運んでいた講義には「まだ体調がすぐれないので」と欠席を伝えた。そのかわり、自習と称して書庫から仙術についての書を借り、部屋に積み上げた。
太公望も言われたとおり、普段通りにふるまった。
「うっかり間違えたら、俺がうまく取りつくろうよ」と言われたが、間違うはずがなかった。ただ、自分が気づいている違和感に、周りのだれも気づいていないことが、どうしようもなくもどかしかった。普賢は何かを企ててじっと息をひそめているような、あんな顔はしないのに。
普賢と杜光は普通の、仲のいい友人だったと思う。普賢は杜光を「彼の向上心はすごいね」と絶賛していたし、杜光は普賢を「食事も忘れるほど物事に没頭する集中力を見習いたい」とほめていた。
太公望がサボろうとすると、悪乗りしてついてくるのが普賢で、いったんは止めつつ、なるべくバレない策を提案してくるのが杜光だった。「見つかったら三人一緒ではなく、ばらばらに逃げよう。そのほうが捕まりにくい」と悪知恵を授けたのも杜光だ。
今、すました「普賢」の横顔に思い出すのは、二人と過ごした楽しくて刺激的な記憶ばかりだ。崑崙山にやってきて、まず彼らとのかかわりが土台になかったら、憎しみを抱えていた腕をけっしてほどけなかっただろうと、太公望は信じている。
だからこそ、杜光がこうして普賢を人質に取るような真似をする理由がわからなかった。
「気持ちのいい風だね」
読んでいた書から顔を上げずに、杜光がぽつりと呟いた。夜も更け、そろそろ眠りにつこうという時間だった。わずかに開けた窓から、まだ春になり切らない風が吹き込んで、小さな火をゆらりと揺らした。
「のう、杜光」
薄明かりの中、反対の壁際で寝台に横になったまま、太公望は口を開いた。
「やり残したことがあると言ったな。そのために手助けをしろと」
そうだな、と杜光はすこし考えるそぶりをしてから、書を寝台のわきに戻す。
「宇宙、生命、この世の事象はすべからく陰陽によって成り立つ。陽虚すれば陰虚となり、陰虚すれば陽虚となる。陽実すれば陰実となり、陰実すれば陽実となる。人体もしかり」
言いながら、杜光は右手を伸ばして指で宙に輪を記した。
「人は精神をつかさどる魂と、その器である肉体から成る。それをつなぐのが気だ。気を循環させることで、陰陽のバランスを取り、心身を健やかに保つ。仙人道士が修行を積むのは気を高め、磨き、究めるためである。そう俺たちは教わった。覚えているだろう」
仙人界に来て最初に学ぶことだ。人ならざる命を生きる覚悟を決め資質を持った者だけが、人としての寿命を手放し、その節理に身を置くことを許される。
杜光は続けた。
「気が心と体をつなぐが、体は外的要因——気温や天候などに容易に影響される。それが病となって体に現れる。俺はもともと体が弱かったから、その影響の大きさを身をもって知っている。寒さ、暑さ、湿度、気圧。仙人界の過酷な環境が、俺の体を蝕んだ。——知っているか、呂望。人は死に近づくにつれ、一つずつ感覚を手放していくんだ」
「感覚」
杜光はゆっくりと手のひらを開き、さっきよりも小さくなった火にかざした。
「俺の場合は——最初は味覚だった。なにを食べてもなんの味もしない。あんなに好きだった果実も、あんなにまずかった薬湯も、なんの味も匂いもしないんだ。砂を噛んでいるみたいだった。次に色が、形が見えなくなった。そして音も聞こえなくなる」
この部屋よりもっと暗い、底のない暗さだ。そういって杜光は手で炎を覆った。
「お前たちには眠っているように見えただろう。だが俺は暗闇で考え続けた。人は魂と肉体によって成り立っている。死によって体が朽ち、終わりを迎えたら魂は体を離れる。その魂が行く先はどこだ。もし、自分の意志で場所を決めることができたら——それが、別の人間の体であっても不思議ではないのではないか。肉体から魂が離れる瞬間に、どこか別の場所に着地させられないか、徹底的に探した。人体は五臓——魂、神、意、魄、志から成り、心は神、つまり心臓に宿る。陰と陽とが行き来する場所。そこしかないと俺は思った」
呂望、と杜光は言った。
「肉体が健全であれば、俺はちゃんと仙人になっていた。お前のようなずば抜けた頭脳も、普賢のような特定の分野に特化した才能もないけれど、それでも仙人になるために不可欠な気の力は、お前たちには決して劣らないと自負している。道士として力をつけ、宝貝を授かり、仙人となって洞府を構える。その道が俺には見えていた」
それはずっと彼が目指してきた未来だ。ここで出会ってから何度もくり返し聞いたし、それに共感もした。
「もし俺が、健康で健全な肉体を持っていたら。病に時間や気を奪われず、ただ修行に専念できていたら、道士としてどこまで成長できるのか。普賢の体を借りて、それを試したい」
開いた手のひらが影を作って床に伸びる。指の間からのぞく目が、瞬きもせず呂望を見据えた。
「俺は、仙人になりたい」

そんなことのために、と言いかけて口をつぐんだ。おそらく彼は本当に本心から切望していて、叶えられないことに体が崩れるほど絶望し、その中で一縷の望みを見出したのだ、文字通り命を懸けて。
太公望は体を起こした。彼のまなざしをまっすぐに受け止める。
「ここまでともに修行に励んできた仲だ。おぬしがそう言うのであればわしも力を貸そう」
杜光は「ありがとう」とホッと息をついた。
「俺がいることで、普賢の体にどんな影響が出るかわからない。もし、お前がそばで見ていておかしいと思うなら、すぐに伝えてほしい。俺は夢中になると周りが見えなくなる性質だから」
太公望は頷いた。
「それから、元始天尊さまや十二仙には黙っておいてほしい。きっと俺が取った方法は許されるものではないから」
それも理解していた。きっと禁忌に近い手段だ。わかった、と太公望は言った。
「いくつか聞いておきたいことがある。おぬしが仙人になった後はどうする。返答次第ではこの場で断り、なにもかもを師にさらけ出して、しかるべき方法でおぬしを引きずり出す」
ごめん、と杜光は苦笑した。
「あのときはああ言ったけれど、仙人になった後のことまでは考えていないし、その先は望まない。おとなしく普賢に体を返すよ」
「もう一つ」
太公望は訊ねた。
「なぜおぬしは普賢を選んだ? なぜわしではなかった」
杜光は一瞬きょとんとし、それから声を立てて笑った。
「普賢のほうが、仙人になるのに近いと思ったからだよ」
「はあ?」
「お前はまだしばらく道士でいるつもりだろう?」
ひとしきり笑ったあと、杜光はふと目を細めた。
「それに——お前なら悩むだろうから」
「悩む? わしが?」
「悩んでいるじゃないか。俺と普賢、どちらも助けようとしてお前は悩むし迷う。最善の方法を探してね。でも、普賢はきっと迷わない」
すっかり小さくなった火を、杜光はふっと吹き消した。
「もし俺がお前を選んでいたら、呂望じゃなくなった俺の心臓を、普賢はためらいなく握りつぶすだろうさ」