心臓

修行時代のドドメの話です。連載中。太公望と普賢にもう一人同期がいたらという話。オリキャラが出てきますので、苦手なかたはご注意ください。
4/10 1話「もう桃の花は咲いたか」
4/15 2話「そんなに怖い顔をしなくても。……“望ちゃん”」
4/22 3話「なぜおぬしは普賢を選んだ?」
5/26 4話「考えられるパターンは二つある」



窓を開けた。
木々の枝から滴り落ちる雫がキラキラとまぶしい。昨日までの雨が嘘みたいだった。湿気た空気が少しずつ朝日にあたためられ、それに合わせて周りの木々がいっせいに輝きを増していく。待ちに待った日の光を、ありったけ集めようと両手を広げているように見えた。
こんなに晴れなのに、いくら呼吸をしても息ができている気がしない。雨上がりの空は腹立たしいほどすがすがしくてめまいがした。
「よかった、雨が上がったね」
杜光とこうは起き上がり、身支度をはじめた。三人にあてがわれた部屋の窓際で、普賢はいつも眠っていた。「こっちで眠ったのは初めてだったなあ」と言いながら、杜光はていねいに寝台を整え、眠気を払うように大きく背伸びをする。華奢な背も、骨ばった手も、どこから見ても普賢なのに、何度見ても普賢ではなかった。
杜光が死んでから一つ空いていた寝台を、こんな気持ちで見ることになるとは思いもしなかった。睨む視線に気づいて、杜光はにこりと笑った。
「そんなに怖い顔をしなくても。……“望ちゃん”」
思わず胸ぐらを掴んだ。血が沸騰するようだった。憤りで息が荒くなる。杜光はやれやれと肩をすくめた。
「落ち着け、呂望。いまの俺は普賢だ」
「ふざけるな。普賢をどこへやった」
杜光はひどく冷めた目でじっと見つめ返した。いままで「普賢」から向けられたことのない、向けられるはずがないまなざしの冷たさに太公望は一瞬怯み、思わず掴んだ手をゆるめる。
「呂望、」
なだめる口ぶりで、杜光はささやいた。
「心配するな。俺にとっても普賢は大切な同期で、かけがえのない友人だ。悪いようにはしない」
「わしになにをさせるつもりだ」
「そのうち話す。だが、お前の出方次第では、俺が普賢の代わりに居座ることだってできる」
そういって杜光は胸ぐらを掴み返す。
「いいか。これを知っているのは俺と、お前だけだ」
……だれにも言うな、と」
杜光は「呂望は物わかりがいい」と頷いた。そして皺を伸ばすように、ぽんと胸元を突いた。
「さあ、今日からまた修行を再開しよう。——がんばろうね、“望ちゃん”」

修験場へ向かう道すがら、杜光は何度も立ち止まって空を仰いだ。こんなにきれいな青空は久しぶりだと声を弾ませ、木の枝先に新芽を見つけてはうれしそうに指で触れた。そういえば彼が病床にいる間、ずっと天気が悪かった気がする。
後を歩きながら、太公望は考え続けていた。
杜光は死んだ。それは紛れもない事実だ。元始天尊が葬儀を執り行い、死者はしめやかに地に還された。普賢が寝込んだのはそのすぐ後、意識を取り戻すまでに数日かかった。その間に、なにかが起こった。おそらく、杜光がいう「やりたいこと」に関係している。
(普賢をもと通りに戻し、杜光もきちんと還す。その方法を考えなければ。そう、できるだけ早く)
「呂望」
声をかけられて顔を上げた先で、杜光が夢でも見る表情で芽吹いたばかりの若葉にうっとりと頬を寄せていた。
「こんなに待ち遠しい春ははじめてだ。今年は冬が長かったからな」

太乙真人は、春を先取りしたみたいな笑顔で二人を出迎えた。気になっていたんだよ、薬が効いてよかった、もう出てきて大丈夫かい。矢継ぎ早に訊ねる十二仙に、杜光は笑顔で「ありがとうございます」と頭を垂れた。
「ご心配をおかけしました、太乙師兄。休んだ分も取り戻せるよう、がんばります」
「太公望も、これでやっと安心して眠れるね」
曖昧に頷いて、太公望は言葉をにごす。あれ、と太乙真人は首を傾げた。
「どうかしたかい。まだ心配ごとでも?」
ちらりと杜光がこちらを見るのがわかった。太公望はいいえと首を横に振る。
「睡眠不足なのです。普賢の熱が下がったのも早朝だったので」
「望ちゃんはずっと寝ずに看病してくれていたから、疲れているんだと思います」
そうかい、と太乙真人は頷いた。
「熱心なのは立派だけど、病み上がりだから無理をしないようにね、普賢。太公望も、今日ばかりは居眠りを大目に見てあげよう」
瞑想の席について目を閉じた。どこかから鳥のさえずりが聞こえる。もう春をかぎつけたらしい。隣で口元に笑みをたたえた杜光が「いい季節だな」と息をついた。
……太乙師兄は勘がいいから、気をつけないと」
「十二仙は崑崙山の筆頭だ。道士ふぜいのおぬしの企みなど簡単に気づくだろう。いつまでも隠しおおせるわけがない」
「大丈夫だ」
どこか愉快そうに杜光は言った。
「俺は自分が死んだことを知っている。この状態がいつまでも続かないこともわかっている。だから、気づかれる前に終わらせるよ」