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犬蓼
2024-10-29 00:58:48
8864文字
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周回軌道の変化に因る惑星の接近とその影響について
せつなさんが風邪を引いた話。
外部さんたちがうどん食べてても平気な方向け。
ほとんどせつなさんとみちるさんしか出てきませんがベースは、はるみちでできています。と思います。
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みちるの立場に身を置けば、食器を下げに訪ねると病人の姿がない。探してみれば当人は洗面所で手をついて屈んでいる。背後から見ては不調の様子としか見えたものではない。
反省を促されてせつなは承服した。声を荒げて申し訳なかった、とみちるも謝ってドアを開けた。ライティングデスクに寄り空の器を窺って、口に合ったようで何よりと微笑む。せつなは後は寝るだけとベッドに腰を下ろした。
「計り直してみる?」
ちらりと見遣った先の体温計。せつなは眉をひそめ、かぶりを振った。
「やめておきましょう」
薬効が出るまでにはもう少しかかるだろう。結果が見えている上に、この数値は今後の方針に変化をもたらさない。そう言うと、ころころと玉の鈴のような笑声が澄んで鳴らされた。
「研究者でもそれを言うのね」
他に誰が、と思って、一人しか思い当たらない。
「レーサーですか」
しかしみちるは、残念ね、と笑み含みのまま言った。
「ヴァイオリニストもよ」
笑い事ではない。全員ではないか。渋面のせつなに向けてみちるは更に笑いこぼし、そう全員、と添えた。
「うちは“みんな”甘えるのが不得手なのよ」
覚えている?と問われ記憶を探る。引き出しはすぐに開いた。検温を拒否することはできなかったほたるは、熱はない、大丈夫、体温計はウサギさんが持っていってしまったと言って隠したのだ。呆れ果て、熱せん妄と区別のつかない嘘はやめなさいと言ったのは、せつなだった。
「難儀ですね」
知らず瞠る。思わずこぼれ落ちた言葉に額を抑えた。ころころと。玉の鈴を鳴らす面差しを見上げると、海の色は深い。鈴の音が止んでもまだ深く、丹花は薄く端を上げる。
デスクの縁に寄りかかりせつなに正対、少し捩って丼鉢に視線を落とした。
「私の家の出入りのホームキーパーに西の出の人がいて、その人に教わったのよ。元は、はるかが」
角盆の縁に人指し指を立ててなぞり、みちるは語るでなく呟くでなくぽつりぽつりと落とした。
「気にしないで、かまわないでと私が言ったから、あの通り口にしやすそうなものを全部買ってきて、これを作って、怒ったの。『君は僕に必ず食べろと言うじゃないか、今度は僕が言わせてもらう』って」
やわらかく丸い指先は楽器のナイロン弦をそうするように盆の縁を弾いた。桂材の縁はもちろん弦のように澄んでは響かず、鈍い音を立てた。
「その時、右手が箸を持たなかったから、具を全部刻んでくれたのよ」
せつなはわずかに瞠り、みちるはその目に小さく笑みを返した。右手をそっと握る。往時の名残はそこにはない。
「左でも扱えるなんて話はしていなかったから
……
」
箸、筆記具、文房具。みちるは右手に出来ることのほとんどは左手でもできる。けれどきっとそれは問題でなかっただろう。ヴァイオリンは両手で弾く楽器だ。はるかの怒りの色が、清冽な夜明けの寸暇を切り出したような眼差しに映った哀切を含んだ怒りの色が、容易に思い浮かんでしまう。それは、と、せつなは呻いた。
案じたようなことにはならず傷は癒え、みちるの両手は今も天才と呼ばれる技量で音色を描いている。だからここで感傷に浸る必要はない、と海青の眼差しは殊更に明るく見せた。右手が、肩に乗った髪房を背に流す。
「はるか、病食のレシピを聞こうにも他に当てがなかったのよ。プライベートスペースに他人が入るの、嫌いでしょう?」
ハウスキーパーを入れて維持をするような高層マンションの一室に住んでいたのに、それを嫌がっていたからみちるを通しての伝手しかなかったのだと言う。訝られて経路が漏れてしまったのだ。はるかの部屋を、住人の一人好きを隠れ蓑にタリスマン探しの根城にしていたがその時が一番侵入者の危機だった、と、みちるは笑ったが、せつなにはなんとも応えようがなかった。
あれから年月が経った。事情から多くの時間を同じくしていた二人は共に暮らすようになり、その人数は四人に増えた。はるかは相変わらず他者がプライベートスペースに入ることが好きでなく、戦士たちが人目を忍ぶことも変わりない。だからこの家の日常管理をしているのは住んでいる四人だ。
「ねぇ、せつな」
海の色の眼差しは真向かう。
「はるかは受け入れられないものまで飲み込んだりしないわ。私も」
海は果てなく広く、どこまでも深い。応えを求めるでなく青色をやわらげて、みちるは、具合の悪い時に長話をしてごめんなさい、と謝罪を口にした。
いいえ、と、せつなは応えた。何をかを、言わなければ。そう思った。
みちるは返り見、角盆を取り上げる。飲み物は置いていくと告げられ、せつなは頷いた。
不調があれば声をかけるよう念を押し、夜の挨拶をしてみちるは背を向けた。その背に緩やかに波打つ青い髪が揺れた。脳裏には先ほどの打ち明け話が残響を引いている。
「みちる」
把手
ノブ
に手をかけて歩は止まる。深い色の眼差しが返り見た。
「ありがとうございます」
他に何をか。思いつくことができなかった。
眼差しは直ぐと見ている。小首を傾げ、肩口に流れる髪がささらに揺れた。丹花は早春のそれのように綻ぶ。
「ええ。さっきも
……
」
いただいたわ、と言いかけてみちるは、紅梅色の唇を覆い触れた。
「いけない。忘れていたわ」
念の為、であるとはいえ防除の基本。せつなも自身の口元に手を当てた。パウダールームに行く前に外したマスクは、サイドテーブルに置かれている。気づくタイミングはあったはずだ。せつなは自身の行いを悔いた。
みちるも同じであったろう。自省、と柳眉ひそめ、しかし彼女は次には思い至ったように、年相応よりもさらに幼い少女の悪戯な顔をした。
「うつってしまったら、その時はよろしくね」
そう言って、晴れた空の下に遠波が輝くように双眸きらめかせた。
驚き瞠る。は、と吐息のような笑いが漏れた。何をかは、それで良かったのだ。
せつなは微笑んだ。
「お任せください」
みちるはその微笑みに微笑みで返した。
おやすみなさい、ともう一度挨拶をして再び背を向ける。その背に青波のような髪は揺れる。ドアは静かに閉まり、部屋はしんとした。
せつなの部屋には腰丈の本棚が造り付けで設えられていて、棚上にはほたるの力作が数々と並べられている。それらを見渡してまた口元に笑みを浮かべ、スポーツドリンクをグラスに半分、注いで飲んだ。水分の吸収を助けエネルギーも補える。体を動かすことに親しむ、はるからしい良い選択だと思った。
明かりを落とし横になると、薬効が出てきたのだろう。熱っぽい気怠さはあるが頭痛はだいぶ引いていた。明日が休日なのは幸いだった、と思いながらせつなは瞼を下ろした。
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