犬蓼
2024-10-29 00:58:48
8864文字
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周回軌道の変化に因る惑星の接近とその影響について

せつなさんが風邪を引いた話。
外部さんたちがうどん食べてても平気な方向け。
ほとんどせつなさんとみちるさんしか出てきませんがベースは、はるみちでできています。と思います。

 北風に撫でられて、首をすくめた。
 木枯らしが背を押すように往く脚が気忙しくなる季節だ。せつなは歩幅では間に合わず、タクシーを使い帰宅した。大通りで降りて見送り、家と家の合間を上る。辺りは宵の口。直線に均等に並んで街灯は白々と上り坂を照らし、敷地の広い並びで見える数は少ないが聳えるどの家もオレンジや黄色の灯りを灯している。
 坂を上り切って少し。見慣れた家影に触れて、せつなは一つ、ほっと息をついた。安堵を自覚すると急に肩が重くなったようだった。このところ仕事が立て込み、昼夜の別はなくなり、この扉を押すのも三日ぶりか。時空の扉の番人が日にちを数えるのも覚束なくなるとは。門扉と玄関と、二つ開けてくぐってまた深く息をついた。
 定型句を告げようとするとリビングの戸が開く。飛び出してきたのはまず少女。上がりの端を越えようかというほど駆け寄ってきて黒髪跳ね、小さな花の色の綻ぶ眼差しで見上げた。
「おかえりなさい、せつなママ!」
 戸を開けたその人を見ると、深い海の色の眼差しが温和に応える。
「お帰りなさい」
 玄関の開閉が室内に響くような作りの家ではない。それなのになぜわかるのか、と訊いたことがある。答えは、どうしてかしらね、だった。彼女の心に封じられていた世を映す鏡の力に関わりがあるのかもしれない。ちなみに同じ質問をもう一人にしたところ、こちらの回答は明快に、それでもごく僅かだが減圧を感じる、であった。三人で呆れ感心したものだった。
 ああなんだか脈絡のないことが頭に浮かぶ。そう思いながら言いかけていた言葉を声に乗せた。
「ただいま帰りました」
 と。その意味を込めて二人に告げると、みちるがふと首を傾げた。
 歩み寄る。間近に立って一言の後に手が伸べられ、前髪を退けながら額に触れた。それがひやりとした。水仕事でもしていたのだろうか。
 手はすぐに離れ行き、代わりに問いかけが来た。
「暑かったり、寒かったり、気分が悪かったりするかしら?」
 せつなはどれも否定した。疲れはあるがそれらはない、と答えると、海の色が眉を下げながら優しげにいろどられる。
「難儀ねぇ」
 促して上りに招き、靴はそのまま急ぎ自室で寝間着に変えるようにとみちるは言った。理由を尋ねることさえもなんだか億劫で、促されるままになる。折れ曲がりに二階へ続く連なりを見上げ、その一段目を踏んだ時、背後の会話を聞いた。
「大丈夫よ。ほたるは体温計を持ってきてちょうだい」
 返り見ると、力強く黒髪の振れたところだった。翻って少女の細かく軽い足音がリビングに向かう。確かに体温計はリビングのに置かれたチェストボードの中だ。足の止まったせつなには早く自室へと微笑みで促し、みちるは置いていけと言った靴に屈んで手をかけた。
 それらに背を向け、上階を見定める。歩みを進める。リフォームをした時に一段の高さを以前より減らした分、階段が少し窮屈になったのだと聞いたことがあった。減らしてもらっていて助かったかもしれない。日常に感じたことはなかったが自覚してしまうと急に、一歩を上げるたびに足が重かった。
 自室に辿り着くとライティングデスクと揃いの椅子に鞄を置き、コートをその背に掛け置き、服を変えると脱いだ全てをその上に置いた。みちるに返した答えは未だそのままだが、確かに全てが億劫で、気怠くて、ベッドに腰が下りてしまう。そのまま横にさえなってしまいそうだった。
 丁度ノックが鳴らされた。寄ってドアを、と思う間に薄く開き、確認の声がかかる。肯くと入ってくるのは一人だけ。
「念の為、ね」
 そう言ってみちるは体温計と一緒にマスクを手渡してきた。彼女自身もきちんと鼻と口を覆って、それでも労わるような眼差しが静かな波のように寄せられる。
「どうかしら? 自覚症状は増えた?」
 体温計を小脇に挟みながら、せつなは苦笑を返した。悪寒なし、倦怠感と頭重感を素直に告白する。虚勢はこの際意味がなく、せつなにできることは決まっている。流行性感冒、いわゆる風邪の第一の処方は栄養と休息だ。理解が早くて助かるわ、と持ってきたランドリーボックスを広げる様子に、そこまでは、と言ったが一笑だけで制された。
「何か入りそう?」
 首肯を一つ。空腹は感じていないが薬効が必要になった時のためにも不振がなければ食べるべきだ。
「ゆるいものを作るわね」
 洗うものを分け、一言許可を取り、ウォークインクローゼットにコートを掛けに入っていった。見送って、計測の終わりを告げた体温計を確かめる。予想をだいぶ上回っていた。有機的事象を無機的に表す数字を見下ろしながら、せつなは研究職にあるまじき行為を思い浮かべる。頭上から影がかかった。
 すなわち報告の下方修正、とはしかしならず、いつの間にか傍に戻ってきていたみちるにそのまま渡すことになった。
「すぐ作ってくるわ。だけど横になっていて」
 彼女には予想通りだったようだ。確認と納得の間のような息一つ。体温計はまた使うかもしれないのでサイドテーブルに。ランドリーボックスを抱え上げたみちるにかぶりを振った。
「いえ、起きています。そのまま寝入ってしまいそうで」
 かろやかな笑声のあと、困ったように答えの返る。
「いいのよ。寝てしまっても」
 せつなは眉をひそめた。何をかを、言いかけて青い髪の揺れる背を視線が追ったが、体調不良で思考の不明瞭なせいか言葉は出ない。ドアが開くと、そこに黒髪が覗いた。予想だにせぬものに気を削がれ、元より杳とせぬ思考は霧散してしまった。みちるも驚いたようで、かるくたたらを踏む。
 ふり降りるのはお小言と予想はできているのだろう。きまり悪そうに見上げた眼差し。そしてそれを見下ろす眼差しは背で見えないが、見えるようだ。
「ほたる? うつらないように部屋に入らなかったのに、寒くて風邪をひいてしまったら困るでしょう?」
 機密性が高く、暖気が全体に回るようになっている家だが、さすがに廊下は温度が少し下がる。とは言え、閉ざされたドアの前でじっと待っていた心持ちは理解の及ぶところだ。語気もやわい。
 一つ頷けば、距離を保っての面会が許された。小さな花の色の眼差しが戸口の向こうから覗き込む。
「お休みして早く良くなってね」
 不安げな眸にせつなは微笑んで頷いて見せた。
 虚飾ではない。扉が閉ざされても口元につい残る。
 横になって布団を引き上げるとついにぞくりとしたけれど、すぐに体温が温めてしまった。起きて、みちるを待って、彼女が作って持ってきてくれるであろうものをせめて一口でも口に入れて、と思ったが、数度瞬いているうちに瞼は下りていく。意識が穏やかな暗がりに落ちる寸暇、言わんとしたこと、それよりももっと言うべき言葉のあったことを思いついたが抗いきれなかった。