しちろ
2024-06-18 17:16:30
27145文字
Public LOM・宝石泥棒編
 

宝石泥棒編 11

フローライトです。


 誰か……誰か、来て……
 お願い……

 お願い……誰か……



 深い深い眠りの底から引き上げられるように、ゆっくりと意識が浮上する。
 どこかから、誰かが呼ぶ声がする。
 呼んでいる……いや、あれは、助けを求めている……

 ――誰の声だろう……

 うとうとと微睡みながら、そんな風に思う。
 眠りとともに浮いては消える思いが、次第に明確な疑問に変わる。
 誰かが、呼んでいる。誰を……自分を? それとも、もっと違う誰かだろうか。
 カイの意識が鮮明になるにつれ、閉じた瞼の向こうに、奇妙な明るさを感じた。
 誰か部屋の明かりでもつけたのか、それとももう朝なのだろうか。……それにしては、妙な気がする。
 違和感を覚えつつ、カイはゆっくり目を開けた。
 すると。

……なんだ、ここ」

 見たことのない場所に立っていた。少なくとも、自分の部屋では、絶対にない。
 目を引くものは何もない。
 それどころか色彩すら存在しない。
 あるのはただ、灰色ばかり。それも、気の滅入るような濁った白と、水で薄めて伸ばしたようなぼやけた黒だ。
 ぽかんとして、辺りを見渡してみる。
 すぐに『何もない』というのは間違いだと気づく。これは、砂だ。砂でできた、広大な砂の大地。
 大地というよりはいっそ砂の海と言った方がいいかもしれない。
 灰色の空には丸い天体ととぼけた形の雲が張り付いているが、こちらもやはりモノトーンで、浮かんでいるのが太陽なのだか満月なのだかさっぱりわからない。よくよく見れば、灰色の空そして同色の大地と同化するかように、灰色の奇岩が遠くにいくつも見えている。
 驚きながら自分の手のひらを見てみると、あろうことか、これまたモノクロになっていた。自分も含めて、世界の全てが墨絵か本の挿絵にでもなったかのようだ。
 おまけに、
「寝間着だし、裸足だし……
 寝たときのまんまの、少し着古した、トップル木綿の貫頭衣。いつも着ている、ごく簡単な作りの寝間着である。当然、靴など履いていない。
 困惑しながら、カイは背中まで伸びた灰色の髪をかきあげた。
 こんな奇妙な場所は初めて見る。
 墨色のインク一色で描かれた、どこまでも広がる、乾いた砂と岩の大地。
「これが、砂漠……って、いうのかな……?」
 ファ・ディールとは広いもので、砂だけでできた酷暑の土地が、世界のどこかにあるのだという。過酷な死の世界だという噂だが、ここは暑くもなければ風も感じないし、砂を踏む感触もふわふわとして頼りない。
 ためしに砂をひとつかみ、さらさらとこぼしてみる。
 触ることはできるようだが、その感触にも今一つ現実味がない。
 自然と、こんな台詞が口をついて出た。
「夢の、中」
 自分で言って、納得した。
 そうだ。ここは、夢の世界だ。夢の砂漠に自分は立っている。
「なんで、こんなところに来ちゃったんだろ」
 道もない、目的地も分からない。
 音も風もない。昼か夜かすら分からない。もちろん標などありはしない。
 自分以外の時を止めたような、灰色の世界。
……今の、あたしみたいだな」
 これまで、わき目もふらずひた走ってきた。
 だけど、こんな砂漠では先も後もわき道も、その一切が存在しない。
 自分の行くべき道は、未来は、どこにあるのだろう。
 乾いた砂を素足で踏みながら、カイはあてもなく歩きはじめた。
 


 ■■■



 夢の世界はすなわち孤独の世界、というわけではないらしい。
「こんな場所でも、一人きりじゃないんだなぁ……
 何を思って、ここにいるのだろうか。
 夢の砂漠のところどころにやはりモノトーンの住人たちがいて、各々が思い思いに歩き、思索にふけっている。
 場違いな寝間着姿であてどもなく彷徨いながら、カイはそんな人物に何人も出会った。中には知り合いに似た者もいて、もしかしてあの人は、などと思いながらすれ違う。ためしに幾人かに話しかけてみたが、会話は一方通行で、カイの声は聞こえていないようだった。
 さみしい場所だった。
 灯篭のように立つサボテンと、墓標に似た形の奇岩群。息絶えた獣たちの骨。
 墓場のようだとカイは思った。
 しばらく行くと、どこかから、さらさらと音が聞こえてきた。
……水の音?」
 眉をひそめて、じっと耳を澄ましてみる。
 気のせいではない。聞こえる。
 目的地も定まらず、自身の立てる音を除いては、ほとんど無音だった世界である。その、わずかな流水音の源を求めてカイが歩み出したのは、無理もないことだっただろう。
 音を聞き逃さないよう耳に神経を集中させながら、慎重に進む。
 幽かだった水音は次第に、着実に近づいて来、はっきりと聞こえるようになった。
「滝だ」
 前方に、白っぽい滝が崖の上から滝つぼへ流れ落ちていくのが見えている。
 ただし、水の代わりに流れているのは砂だった。細かな白砂が、絶え間なく砂地に落ちている。
 その手前に、二人の人物が向き合って立っていた。
「あれは……
 カイが瞠目する。
 いずれも、見覚えのあるシルエット。
「瑠璃!」
 気づくなり、一気に駆けだした。まとわりつくスカートの裾が鬱陶しい。
「瑠璃、キミもいたの!?」
 思わず呼ばわるが、他の者たち同様、反応はない。瑠璃はただ、自分の正面に立つ者を見据えている。
 その、相対するもう一人は、レディパール。やはり、カイの姿は見えていないようだ。こちらに気付かない。
 会いたかった二人を目前にしながら、なにもできず戸惑っていると、モノクロのレディパールが口を開いた。
「ラピスの騎士か……宿命は?」
……無い」
 目を逸らした瑠璃を、レディパールは嘲笑した。
 珠魅たちのやり取りは、色彩がないせいかひどく現実味に乏しく、紙芝居の世界か、どこか遠くの出来事にも思える。
「守るべき者を持たずに騎士とは言うまい? 天涯孤独の珠魅など、砂漠に転がる石ころと同じだ」
「蛍姫の涙があれば、オレの宿命は息を吹き返す」
「ふざけるな! 守るべき者を死なせた、脆弱な騎士のために、我が姫の命を削れるものか!」
 我が姫? 
 カイは引っ掛かりを覚えた。すると、レディパールは蛍姫の騎士だったということだろうか。
 『守るべき者を死なせた』……どういうことだろう。
 瑠璃に背を向け、立ち去ろうとするレディパール。そこから、半透明の影が蜃気楼のように分かれ出た。
「真珠ちゃん……

 るりくん……
 もう、あなたのためになみだをながせないの……ごめんなさい……

 悲しい謝罪の言葉だけを残し、真珠姫は跡形もなく消え去る。
「真珠姫!」
 瑠璃は虚空に向かって叫ぶ。
「君を動かす力が怒りだけだと言うなら、玉石の光はこれからも人を傷つけ続けるだろう。太陽が与えた光で輝き、人を癒し、安らぎを与える、オレたちに定められた石の宿命。人が奪い続ける限り、オレたちは怒りの火を灯し、心荒ませ、癒す力を忘れ、それが巡るだけの宿命なら、すべてを叩き壊すと言うのか、レディパール!」
 レディパールは瑠璃の言葉を聞こうとしない。
「レディパール、オレにお前ほどの力はない。すべてを叩き壊す力はない。オレにできるのはたった一つ、小さな出口を開けることだけ……
 レディパールは、瑠璃には応えなかった。
 無言で瑠璃から背を向け、去っていく。
……瑠璃」
 カイは残された瑠璃にそっと近づき、声をかけてみる。
 灰色の瑠璃は、ゼンマイの切れたねじ巻き人形か、それこそ読み終わった紙芝居のように、静止している。砂の滝だけは、変わらず流れ続けていた。
「瑠璃、聞こえる?」
 聞こえないとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
 すると、声が届いているのかいないのか。
 動きを止めていた瑠璃が、誰ともなく話し出した。
「オレは瑠璃。珠魅の騎士。珠魅には騎士と姫がいて、騎士は姫を守り、姫は涙で仲間の傷を癒すことができる。珠魅の騎士にとって、姫は命に代えても守るもの。オレは自分の姫を守れなかった。それができなかったオレに、騎士として生きていく資格など無い」
 瑠璃もまた、レディパールとは逆方向へ歩いていき、そして消える。
……。瑠璃……」 
 これは、現実ではない。ただの夢。
 だが、カイはこんなにはっきりと瑠璃の怖れを目にしたことはなかった。瑠璃はいつも、何も言わないから。
 ジオでの瑠璃や真珠姫との会話、そして、先日のシオンとの喧嘩を何故か思い出して歩くうち、同じ滝の裏側に出た。
「また……
 瑠璃とレディパールが、滝の向こう側に立っている。
 今度のレディパールは、瑠璃を拒絶するかのように背を向けていた。
 流れ落ちる砂に邪魔されて、カイは二人に近づくことができない。ただ、成り行きを見守ることになる。
「真珠!」
 瑠璃が一歩進み出、レディパールに向かって呼びかける。いや、引き留めようとしているのか。
「もう一度キミを守りたい……
「私は真珠姫では無い。黒真珠を核とする騎士。宿命は蛍石。胸に脈打つふたつの心臓のひとつ、黒き血の核が本当の私自身。立ち去れ、瑠璃」
 冷徹に切り捨てるレディパールへ、瑠璃が食い下がる。
「蛍姫にはアレクサンドルという騎士がいる……君こそが天涯孤独の石ではないのか、レディパール!」
 カイは眉をひそめた。
 アレクサンドル? 初めて聞く名前だ。
「私の黒き核は一度死んだ。その時に私は蛍姫をアレクサンドルに託した」
「その黒い核を断てば、真珠姫に戻るというのか、レディパール!」
「やってみるかい? お前の力で」
 レディパールは鼻で笑う。瑠璃は黒真珠に向けて、運命の剣を抜いていた。
「レディパール……騎士は、ただ一人の姫を守れればそれでいい」
 瑠璃は運命の剣に目を落とし、それをしまう。
「誰もが小さな力を持ち、小さな力を合わせ、一つの民となる。何を守ろうと言うんだ、レディパール!」
「蛍は全ての珠魅のために涙を流した。だから私は戦う。珠魅の脅威となる全ての敵と」
 瑠璃とレディパールの視線は一度も交わることなく、互いに背を向けている。
「オレに背を向けるな、レディパール……お前の背中は、オレの守るべき宿命、真珠姫だ」
 二人の騎士は最後まで交差することのないまま、その場から姿を消した。同時に、カイと瑠璃たちを隔てていた砂の滝も、幻のように消え失せる。
……今頃、消えてくれたってさ」
 二人のいた場所に立ってみたところで、肝心の瑠璃とレディパールはとっくにいない。
 ここでのカイは、本当に何もできない。
 会いたい人々の姿を見ることはできるし、会話を聞くこともできる。
 だが、それだけだ。
 何一つ手出しできずに、再生される映像を唯々諾々と見せられているだけ。なぜ自分はこんな夢に迷い込んでしまったのだろう。
「なんだろう、この夢……何か変だ」
 これは現実ではない。
 けれど、ゆめまぼろしとも言い切れない。
 どこか、現実に通じるものがある。
 現実の者たちが隠している姿が、声が、ここでは露わになっている。
 自問しながら歩いていくと、奇岩の向こうにまたしても黒い人影が見えた。
 遠目に確認できる、一方はレディパール。
 しかし、もう片方のシルエットは明らかに瑠璃ではなかった。
「あれは……
 それが何者か分かるなり、カイは全力で駆けだした。
「サンドラ!」
 ここには、宝石泥棒までいるのか。どうして。 
 急いで近づいてみれば、対峙するサンドラとレディパールの間には、一触即発の空気がある。
「レディパール、私と貴方の目的は同じのはず。何をしに来たの?」
「奈落への水先案内。お前がこれ以上珠魅を傷つけぬよう、闇に閉ざす」
 触れれば切れそうな、レディパールの眼光。
 対するサンドラはむしろ、慈悲すら感じさせる笑みを浮かべてみせる。 
「たかが1000人の珠魅の命で、蛍姫は元気になるのよ。蛍姫が何人の珠魅を救えるか、よくご存じでしょう?」
「愚かな……すべては繰り返すだけだ! 彼女の力を喰いつくした後は、珠魅の命を狩って力を回復させる……そんなことをいつまで続けるつもりだ!」
「私たち珠魅に生への執着がある限り、永遠によ」
 目の前の宿敵に、レディパールは抗することができなかった。
 苦悶の表情でがくりと膝を折り、その場に倒れ伏す。
「ふざけ………………
 必死で震える手を伸ばすが、サンドラには届かない。
「終わりね……レディパール。砂漠では、あなたの黒い心臓も長くは持たないみたいね」
 サンドラは笑みを消し、冷たい刃のような眼差しで苦しむレディパールを睥睨した。
 その時だった。レディパールの傍らに、白い影が浮かんだ。
……真珠ちゃん……
 半透明の真珠姫は、黒真珠の騎士のそばにしゃがみ込み、励ますように髪をなでる。

 『おねえさま』が助けに来てくれる……もうすこしがんばって……

「助けなど……いるもの…………
 一言だけ伝えて消えた黒真珠の半身は、何を意味するものだろう。
 サンドラは瀕死のレディパールを一瞥し、無慈悲に去っていく。
 たまらずカイはレディパールに駆け寄った。
「パール。レディパール!」
 汚れるのも構わず砂地に膝をつき、大きな声で呼びかける。
 だがやはり、レディパールには声が届かない。歯噛みして助け起こそうとすれば、カイの手は霞か霧のようにするりとすり抜けた。
「なんだよ、ここ! 仲間を助けられもしないのか!」
 行き場を失った拳を、砂に打ち付ける。拳の勢いに見合わない、とぼけた砂の手ごたえが、カイの苛立ちをいや増した。
 そうする間にも、黒真珠の生命力はみるみる細っていく。
 現実の世界で珠魅は次々と死んでいった。それも多くはカイの目の前で。本当の世界では守ってやれず、せめてもの、夢の世界でさえ助けらない? どこまで行っても無力。のけ者、そんな程度か、自分という人間は。
「なんだよ、あたしは……
 地に倒れ伏すレディパールは、死に瀕してなお拒絶に満ちている。
 彼女にカイの声が届いたとて、きっと彼女は助けの手を振り払う。現実でもこの夢でもそうだ。瑠璃が何を言おうと、レディパールは応えようとはしなかった。彼女はなぜ、そうまでして頑ななのだろう。

 ……おねえさま。

「真珠ちゃん?」 
 呼ばれた気がして振り向くが、誰もいない。
 その先はちょうど、サンドラが立ち去った方角だった。
 灰色の砂漠を苦々しく見やって、カイは反芻する。今のレディパールとサンドラの会話。
 信じたくはなかった。
 信じたくはないが、あの中に真実が含まれているのだとしたら。
「珠魅……サンドラが、珠魅? そんな馬鹿なこと……
 レディパールとサンドラが旧知の仲、というのは事実だろう。
 メキブの洞窟で真珠姫が姿を変えたとき、サンドラはレディパールを恐れ、そしてレディパールは宝石泥棒に真っ先に尋ねたのだから。

『蛍は無事なのか?』

……なんてこった」
 その事実に気がついた瞬間、カイの背筋が凍りついた。
「サンドラの本当の、目的……珠魅……『サンドラ』」
 蛍姫の騎士『アレクサンドル』
 アレクサンドル……アレキサンドライト。……サンドラ。

『へえ。それ、何年前の話?』

 ああ、なんてことを訊いてくれた。シオン、キミの問いの答えはこれだ。
 サンドラが珠魅であれば、話が通る。珠魅の命は人間よりはるかに長い。
 蛍姫を都市から攫った珠魅の裏切り者。そして結果的に、珠魅一族の崩壊の引き金を引いた者。おそらくそれは、蛍姫の騎士だった者。
 アレクサンドルの前任であったレディパールは、信じて己の姫を託した人物に、最悪の形で裏切られた。

『蛍は全ての珠魅のために涙を流した。だから私は戦う。珠魅の脅威となる全ての敵と』

 カイは、レディパールの指に触れた。
 触れることは叶わない。
 彼女の白い指先が温かいのか冷たいのかも、カイにはわからない。
 一人で蛍姫を守ってきた、黒真珠の騎士。きっと、彼女は強い。
 カイよりも瑠璃よりも、おそらくは珠魅の仲間の誰よりも強く、強く、誰の手を借りることもなく、一人であらゆる敵に立ち向かっていけるほどに強く……そして、だからこそ。
……レディパール」
 カイは再び手を伸ばし、レディパールの手を握った。
 やはり、触れることはできない。それでもよかった。
 真実を追い求める自分たちの影で、レディパール、あなたはたった一人だけ、最初からすべてを知っていたのだ。
……レディパール。あたし、少しわかった気がするよ。あなたの気持ちが。そして、あなたが誰なのか」
 誰よりも強く、気高く、一人で戦い続ける孤高の騎士。
 けれど、レディパールは真珠姫でもある。
 愛を知り、優しさを知り、仲間とともにあることを知り、自分を守ってくれる人の温かさを知っている、彼女の半身。孤独な黒真珠と背中合わせの、無邪気な姫の顔。
 黒真珠と白真珠は表裏の存在。
 だとしたら、それを知った自分にできることは、ある。

『レディパール、オレにお前ほどの力はない。すべてを叩き壊す力はない。オレにできるのはたった一つ、小さな出口を開けることだけ……

 そうだ、瑠璃。それはキミだけじゃない。
 自分にだって、ごく小さな力しかない。自分だけで何かをしようなんて、そんな大それたことができる人間じゃない。
 カイの心のどこかで、黒い何かがささやいている。
 今見ている、これは夢。ただの夢。目の前のレディパールだって、現実の彼女ではない。助けたところで、何になるわけでもない。自分は珠魅に拒絶されたのだ。
「いいや。今は、それでも」
 カイはもう一度レディパールの手を強く握り、低い声で呟いた。
「あたしが今見ているモノが、たとえ夢でも嘘っぱちの世界でも、構わない」
 カイの手に、『冷たい』感触が触れた。
 その手をそっと離すと、カイはぐっと顎を上げる。
 砂漠が鳴動している。カイが見据える視線の先、砂の中からなにかが生まれ出ようとしている。みるみる小山のように盛り上がる砂の合間から、怖気を振りまく鈍い光が見えている。
「これが夢だとしても。あたしは今、できることをやるだけだ」
 咆哮を上げ姿を現す、巨大なジュエルビースト。
 対するカイは、簡素な寝間着姿のまま。武器はおろか道具ひとつ持ってはいない。
 それでも、魔物に向かって駆けだした。
 裸足の足に蹴りあげられて、灰色の砂が巻き上がる。

 その時、世界が色づいた。

 モノトーンの砂漠は黄色い大地へ、巻き上がる砂もまた灰から黄へと変わっていき、くすんだ空は澄み渡る青天へ。
 地表をなでるように吹き渡る風は辺りに砂塵を起こし、空には真昼の白い月。
 そして色を失くしていた人々は、本来あるべき色彩へ。
「今のあたしにできるのは、あなたとあなたの騎士を、もう一度出会わせることだけ!」
 瑠璃が、レディパールが踏み出すことを恐れているのなら、私が出口を開ける。
 大きな助けにはならなくとも、立ち止まる彼らに、後ろから手を添えることくらいのことなら、きっとできる。固く閉ざされた扉を、ほんの一筋開くことなら。
 この世界の名は、ファ・ディール。
 世界は見る人によって変わるもの。
 世界はイメージ。
「槍!」
 無手だったカイの手の中に、槍が生まれた。冒険を始めたころから共にある、使い慣れた三日月型の三叉槍。
 厚い毛皮のついた靴が砂を蹴り、腕には赤い布でできた腕当て。
 頭の棒がみょうちきりん? それで結構、それが私だ。大胆に切れ込みの入った衣装は、女の旅装束にしては派手すぎると言われることもある。だけど、これが動きやすい。
「ごめん、あなたはきっと誰かの悪い夢」
 魔物の哭き声が、黄色い大地を震わせる。
 誰かの怖れを、悪夢を体現したかのような崩れかけの石の魔物。黒、白、青、緑、赤……。魔物の核はあらゆる色が複雑に入り混じり、不気味な光を放つ。
「もしかしたら、あなたが悪いわけじゃないかもしれない。だけど、あなたにここにいてもらうわけにはいかないんだ」
 ジュエルビーストは歪な咢をばくりと開き、獲物をかみ砕こうとする。疾走するカイはとっさに身を低くし、それをかわした。
 そして、跳ぶ。
 中空で身をひねりながら、ジュエルビーストの身体を踏み台に、もう一段高く跳躍した。
 驚くべきことが起きた。
 身体を宙に舞わせながら、自分の仕業に目を丸くする。
 背中に翼が生えたかのように、あるいは重力がないかのように、カイの身体はジュエルビーストより高く、高く、砂漠の空高くまで飛び上がっていた。砂塵を見下ろす青天が、天空に浮ぶ白い月がぐっと近い。

 ごめんね、静かにお休み。

 心の中で語りかけ、地を這う哀しき魔物に狙いをつける。
 狙いをつけながら、槍を大きく振りかぶり、意識を集中させた。
 イメージ。
 可視化された力はひとつひとつが細かな光となり、槍の穂へと集まっていく。それは金にも銀にも白にも、虹色にも見える。喚び主の声に応え、現れる、その光。この世界を構成する、ありとあらゆる色に移り変わりながら煌めくそれが、マナの光だと、カイは知らない。
 凝縮したマナの輝きは槍の刃を青く光らせ、青い光は刃から漏れ出て一気に膨れ上がる。
 それが極限に達した時、カイは満身の力を込めて槍を振り下ろした。
 解き放たれた力は青い龍の形を取り、眼下のジュエルビーストへ激流となって押し寄せる。魔物目がけて一直線に駆け落ちながら、竜はジュエルビーストのそれよりはるかに巨大な咢を無慈悲に開けた。
 もはやジュエルビーストに逃れるすべはない。
 逃げることのできない悪夢の魔物を、青龍が一口で飲み込んだ。
……す、すご」
 不安定な砂地に危なげなく着地したカイは、思わず自分の手と槍を見比べる。たった今、自分の為したことが信じられない。
「ん?」
 ジュエルビーストの消えた場所で、何かが光っていた。
「鍵だ」
 拾い上げたそれは、親指ほどの小さな鍵だった。なんの鍵だろう。くすんだ金色の素材に、淡い緑色の石がついている。
 カイは鍵をポケットにしまい込み、レディパールが倒れていた場所へ急ぎ駆け戻った。
「あれ? あれは……
「真珠!」
 目を凝らしたカイの前に、青い人影がマントを翻して割って入った。
……瑠璃……
 カイより早く、瑠璃がうつぶせに倒れる真珠姫に駆け寄っていく。先ほどまでは、レディパールがいたはずの場所だ。
 真珠姫は小さく呻いて身を起こすと、心配する瑠璃に向かって「わたしはだいじょうぶよ」と言った。実際、彼女の血色はよく、どこも問題はなさそうに見える。
「レディパールは? 彼女はどこへ? どうして君に戻ったんだ?」
 世界や人物が色を取り戻しても、やはり瑠璃たちにカイの姿は見えないらしい。
 瑠璃は真横に立つカイに気づく様子もなく、真珠姫に疑問を投げかける。
「るりくん……わたしはだいじょうぶ。るりくんは、だいじょうぶ?」
「オレが? 大丈夫かだって?」
 思わぬことを訊かれて、瑠璃は目を丸くした。
「だってるりくん……すこしへんよ……
 真珠姫に真顔で言われて、瑠璃は何度か瞬きをした。それから、ふっと笑った。 
……行こう、真珠姫」
「うん! わたしも行くっ!」
 砂漠を歩きはじめた瑠璃の後を、真珠姫が軽い足取りでついていく。
 どんなに現実めいて見えても、ここは夢の国。ここにいる瑠璃も真珠姫もレディパールも、みな夢の世界の住人だ。自分の声は届かないし、彼らにカイの姿は見えない。カイが彼らに関わることはできない。
 けれど、カイの気持ちは不思議と晴れやかだった。ああ、きっと、あの二人は大丈夫。
 これは夢なのに、夢だとわかっているのに、カイには不思議とそう思えた。

 ……おねえさま。

「え?」
 小さくなりかけていた真珠姫が、こちらを向いていた。
 瑠璃にカイの存在がわからないように、彼女にもカイは見えていない。そのはずなのだけど。
 真珠姫はまっすぐにカイを見つめると、花開くような笑顔で片目をつぶった。 
 そして、それを最後に世界は白い閃光に包まれた。

 もうやめて……誰か……

 光とともに遠ざかる、不思議な夢の砂漠。
 どこかでまた、声が聞こえた。
 ああ、自分がはじめに聞いたのは、この声だ。
 白い光に包まれながら、カイは思う。
 初めて聞く声だった。誰だろう。あまりにもか細くて、今にも消えてしまいそうな。
「ねえ、教えてよ。さっきから『泣いてる』あなたは、誰……?」

 もうやめて……
 お願い、『アレク』……