しちろ
2024-06-18 17:16:30
27145文字
Public LOM・宝石泥棒編
 

宝石泥棒編 11

フローライトです。

フローライト

 宮殿を出ると雨が降り出していた。
 夜の雨は人の姿を隠し、匂いと気配を消し去ってしまう。
 瑠璃と真珠姫を見つけることはもうできず、置いて行かれたカイは眠れぬ一夜を過ごし、欝々として帰途に着いた。
 二人きりの帰り道、どれだけの時間をかけてどこをどう歩いたのか。
 ジオを濡らした雨雲に追いかけられながら、同行するシオンともほとんど口をきかず、いつものリュオン街道の分かれ道まで着いた。
「じゃあ、ここで……どうしたんだ、お前」
 シオンが小首を傾げる。
 カイがまっすぐ帰ろうとせず、この世の終わりのような顔をして突っ立っていたからだ。
……帰る前に、店でも寄る? もう夜だけど」
 カイは黙りこくったまま、首を縦に振った。
 早く帰るべきだとわかってはいる……が、マイホームで待つ双子に、どういう顔で会えばいいのかわからなかった。



「いらっしゃいませ、こんばんは!」
 アマンダ&パロット亭に入ると、元気なウエイトレスが二人を出迎えた。声も明るければ、客に向ける笑顔もとびきりだ。
 仏滅みたいに落ち込んでいたカイは、荒んでいた気分が一瞬で吹っ飛んだ。驚きすぎて。
「お食事ですか? それともドリンクだけ? もうすぐラストオーダーですけど、大丈夫ですか?」
「あ、えと、お茶で、いいんだけど……
 声がうわずる。
「レイチェル? バイト、辞めたんじゃ?」
「あらら? もしかして、知り合いだったかしら?」
 ウエイトレスはとんちんかんなことを言って、自分の口元をぱっと手でふさぐ。
 いかにも看板娘と言った風情の、給仕の娘。間違いなく、幼馴染のレイチェルである。だが、なんか違う……どうも違う……。キャラはもちろん、フリフリの少女趣味なエプロン姿にご機嫌そうなのも、すごく違う……
 カイに気付いたオーナーが、厨房から手を振ってきた。
「いらっしゃい、棒の嬢ちゃん! 帽子の兄ちゃんも! この間はすまなかったね」
「う、うん、それは全然いいんだけど」
 言いながら、レイチェルにそろ~っと目線をやる。
「あの……レイチェル、なんか雰囲気が……
 まるで別人だ、とは……さすがに言いづらい。
 オーナーはまるで気にしていないのか、快活に笑っている。
「僕もびっくりしたよ。レイチェルちゃん、辞めちゃったと思ったらすぐに帰ってきてくれてさ。おかげで助かったよ~! 道具屋のマークなんか、娘が家出したーって一時は大騒ぎだったんだけどね、まあ、よかったよかった」
「よかった、って……
 ぜんぜんよくないんじゃないか、それ。
 冷や汗を垂らすカイを見て、レイチェルがぱちんと指を鳴らした。
「あっ! そっか、あなた、レイチェルの友達なのね! 不思議に思うわよね~、そうよねえ。うふふ」
「え? え? レイチェル?」
 『友達なのね』と、レイチェル自身に言われる異常事態。
 当のレイチェルは、意味ありげに片目をつぶってみせる。
「そうよ。あなたがそう呼ぶなら、私はレイチェル。あなたが見た通りに、ね」
 動揺するカイにかまわず、レイチェルは喋り続ける。
「私、勉強や研究だって嫌いじゃないし、真面目に机に向かうのも悪くないと思ってるんだけど、こうして額に汗して働くのも楽しいわよね。この町もお店もあの家も部屋も、私は好きよ。あ、長々話しちゃってごめんなさい。お席にご案内するわ」
 レイチェル?に案内されて、カイとシオンは席につく。
「さて、注文はお決まり? といっても、デザートはあらかた売り切れちゃったけど……カボチャのパイならまだあったかしら」
「それなら、パイと紅茶……いや、お酒! お酒にする!」
 この時、シオンがメニュー表からちらっと顔を上げたのは、カイが酒を注文するのを初めて見たからである。
「お酒? どれにする?」
 慌ててアルコールのメニューを見たカイだが、何が何やらさっぱりわからない。仕方なく、唯一知ってる銘柄を挙げた。
「シュタインベルガーって、ある?」
「シュタインベルガー? ってたしか、ガトの有名な御神酒よね。さすがに、そんなすごいのはないわねえ」
「そ、そっか。じゃあ……
 と言ってもよくわからないので、店で一番人気の酒を持ってきてほしいと頼んだ。
「オッケー、うちで一番出ている銘柄、と。そっちのお兄さんは……え? 紅茶でいいの? グラスは? 要らない……はいはい」
 慣れた様子で注文を書きつけて、レイチェルは足取りも軽やかに厨房へオーダーを伝えに行く。
「レイチェルって、一人っ子だったよね?」
 人生観を変えるような出来事でもあったか、いっそ人が変わったとしか思えない。
「まさかとは思うけど、レイチェルにも別人格があったとか……
 なにがどうなっているやら、さっぱりだ。
 さっぱりだが、カイが知らないところで、とんでもない事態が起きている気がする……。なお、シオンは無言でいる。
 レイチェルのことはひとまず置いておき、カイは引っかかっていたことをようやく話すことができた。
「あの、色の変わる石?」
「うん。ちょっとだけしか見えなかったけどさ、確かに色が変わったと思うんだよね。シオンも見たでしょ?」
 ディアナが最後に遺していった石だ。
 瑠璃が拾い上げたときは緑色をしていたはずが、何かの拍子で魔法のように色を変えた。
 シオンが答える。
「色の変わる石はいくつか種類があるけど……有名なのはアレキサンドライト」
「アレキ……
 頬杖をついたカイは、顎をかきながら上目で天井を見た。どこかで聞いた気がする。
 カイが思い出せずにいると、シオンはもう少し詳しく説明してくれた。
「アレキサンドライト。金緑石 クリソベリルの変種。太陽光下ではエメラルドのような緑に、夜……例えば蝋燭の明かりとかに当てるとルビーのような赤紫になる。だから一般的には、昼夜で色が変わると言われる」
「へええ、そんな宝石が……。クリ?」
 言われてみれば、石の色が変わったのはカイのランプに当たった瞬間だった。色の変化もシオンの言う通りだ。
 そして、はたと思い当たる。

『クリソベリル。金緑石とも呼びますね』
『キャッツアイは猫の目のような光が入り、アレキサンドライトは昼夜で色が変わります』

「ああ~っ! そうだ、思い出した! ジオで聞いたんだ!」
 店中に響く大音声だったが、他に客がいないのが幸いした。
 アレキサンドライト。アレックスから教わった石の名だ。ディアナが遺した宝石がそうだったのか。
「あなた、ジオに行ったの?」
「ん?」
 カイが首を回して見上げると、注文品を運んできたレイチェルだ。
「ごめんね、聞こえちゃった」
 ペロッと舌を出すしぐさは、やはり彼女らしくはない。
 レイチェルは、カイの前にジョッキとカボチャのパイ。シオンの前に湯気の立つカップとソーサーを並べると、手慣れた所作で酒を注いでくれた。淡く澄んだ色のシュタインベルガーと違い、ジョッキになみなみと注がれた酒は、やけに黒っぽくて表面が白く泡立っている。
「あの街の宝石屋、いいお店ばかりじゃないって聞くわ。今はどうだか知らないけど、昔は危ない品物を裏取引してるような、極悪な店もあったとか。ボトル、ここに置いておくわ。こっちのナッツはサービスね。じゃ、ごゆっくりどうぞ」
……うん。ありがとう……
 やはり一度、マークとジェニファーに話を聞きに行こう……
 頭の片隅でそんなことを考えながら、ジョッキをつかんでぐいっと傾けた。
 即座に噴き出した。
「うへっ、なにこれ、苦っ! みんな、こんなの好きで飲んでるの!?」
……
 カイの真正面にいたシオンには、たぶん、割とまともにかかっている。
 酒を飲まないカイが受け付けないのは当然と言えば当然で、大衆酒場で一番出る酒なんてのは、安くてたくさん飲めて手軽に酔える、オッサン御用達の酒なのである。
 むせたカイは口直しに、小皿に盛られたナッツをいくつか口に放り込んだ。苦みのある酒に合うよう、塩気が効いている。
……少なくともアレックスさんとこは、そういうお店じゃないんだけどな」
 どうも、ジオの宝石屋というだけで悪く言われがちである。宝石商アレックスはむしろ、悪辣な同業者を激しく軽蔑している側だろう。
 ナッツの香ばしさを味わい、飲み下してから、酒をもう一口。最初より大丈夫そうだ。
「アレキサンドライト……何の意味があるんだろう」
 ただの石のはずはない。ディアナが命をかけて遺したメッセージだ。
 だが、迷う思考はすぐに行き詰まってしまい、深々と溜息をついた。ダメだ。
 一人で悶々と考えてみたところで、それが限界だった。話し合おうにも瑠璃と真珠姫はいない。カイに別れを告げて去ってしまった。
……瑠璃さ。あの石、あたしに見せてくれなかったんだよね」
 ちびちび飲んでいた酒をいったん置き、フォークを手に取る。
 あのアレキサンドライトを拾い上げたときには、瑠璃はもう決めていたのだろう。カイとの関わりを今一度、考えなおすこと。
「真珠ちゃんとの話し合いだって、一人で勝手に進めちゃうしさ。あたしたちずっと一緒にやってきたのに、今さら関わるなってひどくない?」
 言っているうち無性に腹立たしくなってきて、握ったフォークでパイをぶすぶす刺してしまう。『アンタも考えてくれ』と言っておきながら、瑠璃は一度もカイのことを見やしなかった。
 早くも顔を赤くしながらぐちぐち言うカイに、シオンが訊いてきた。
「カイ。ディアナから聞いたこと、ちゃんと覚えているか?」
「覚えてるよ。レディパールを探せって」
 六つ切りのパイのど真ん中を、切り分けもせずにぶすりと突き刺す。今や、アマンダ&パロット亭名物となったカボチャ料理。厨房のマスターが見たら嘆きそうだ。
「それから、サンドラが蛍姫のことで恨みを持ってるってのはわかった」
 大きな一切れを、さらに大きな口を開けてかぶりつく。
 宝石泥棒の目的は珠魅への復讐だとディアナは言い、サンドラがディアナにぶつけた狂おしいまでの憎悪はその推察を裏付けていた。話の途中でディアナが殺されてしまい、得られた情報は断片的だったが、それらを総合するにおそらくサンドラの正体は蛍姫に近い者なのではないだろうか。
「エメロードが言ってたんだ。珠魅の都市にいた蛍姫がさらわれて、それでみんな都市を捨てたって。ルーベンスさんも、街が崩壊したのは仲間の裏切りのせいだって言ってたし。その犯人、サンドラか、サンドラの仲間とかだったんじゃないかな」
「へえ。それ、何年前の話?」
「あっ……と」
 珠魅の都市が崩壊したのは、およそ百年から数十年前。瑠璃が生まれるよりずっと前だ。
 サンドラは、どう見積もっても二十代。年齢が合わない。
「う、うーん……
 やはり行き詰まってしまうが、相談相手がいない。いるのは目の前の少年だけである。
「シオン。キミはディアナさんの話を聞いてどう思ったの」
 聞き返されたシオンは、少し考えてから答えた。
「個を守るために涙を無くして種族全体が弱っていくなんて、皮肉な話だなって」
……
 なんつー、ひねくれた男だ。
 カイは口いっぱいに頬張ったパイを飲み込み、残ったジョッキの中身を一気に飲みほした。
 すかさずボトルに手を伸ばし、手酌で注ぐ。閉店間際の静かな店内で、とぽとぽと注がれる音がやけに大きく聞こえた。
「ねえ、シオン。ひとつ、聞いてもいいかな」
……。なに?」
 どことなく不機嫌そうにグラスを注視しているカイは、シオンを見ない。
「キミ、もしかして知ってたんじゃないの? 瑠璃と真珠ちゃんが出て行くこと」
「なんで」
「二人とも、あたしにだけ『さよなら』って言ったから」
 これも、帰り道でずっと気になっていたことだった。
 出て行かれた側のシオンは、カイと同じ立場のはずだ。けれど、瑠璃も真珠姫も別れ際、彼に対しては何も言わなかった。その場ではショックが大きすぎて気がつかなかったけれど、あとから考えてみれば違和感のある話だ。
 シオンは少し言いよどんでから、正直に答えてくれた。
「ジオでお前たちと別れた後、相談された。瑠璃から」
 やはりか、チクショウめ。
 丁寧に注いだつもりが、アルコールの泡はほとんど潰れた。カイは顔をしかめて、ボトルを乱暴に置く。
 シオンのことだから、無理に引き留めはしなかったのだろう。もし彼が止めていたところで、結果は変わらなかったのだろうけど。
「先に言っとくけどさ。あたし、もう決めてるからね」
「決めてるって、何を」
「追いかけるんだよ、もちろん」
 強く断言しながら、カイは二杯目をぐいと呷った。この苦みにも慣れてきた気がする。
「瑠璃とも真珠ちゃんともずっと一緒にやってきたのに、あれだけ深い話聞かされて今さら関わるな、なんて言われたってさ。そうですかわかりました、じゃあさよなら、なんて言えるわけないじゃん。涙石も珠魅が泣ける方法も、どちらも見つけていないのに、それじゃあエメロードは? ルーベンスさんは、ディアナさんは? どうなるの? ザル魚君の友達だってそうでしょ? 誰がサンドラから核を取り戻すの? 誰がみんなを助けられるわけ?」
 それは、瑠璃たちと別れてからずっと……いや、珠魅との関係が深くなるにつれ、カイの胸に激しく渦巻いていたことだった。
 誰にも告げずしまい込んでいた思いは、ひとたび口にすればとめどなく、酒の勢いも借りて自然と語気は強くなる。
「ディアナさん、最期に道を示してくれた。だから今度こそ、やらなきゃいけないの。あたしはエメロードの騎士なんだよ。それに、サンドラの復讐だって止めなきゃいけないでしょ? あいつにはあいつの理由があるみたいだけど、エメロードのこともルーベンスさんとディアナさんのことも、あたしは絶対許さない。制裁? 核が汚れてる? 珠魅への復讐、なにさそれ。そんなこと言われたって、瑠璃なんか蛍姫の顔も知らないじゃん。関係ないじゃん。あたしは、瑠璃だって真珠ちゃんだってそれ以外の誰かだって、これ以上一人も殺させたりしない。だから、あたしはこんなところで立ち止まっていられないんだ。まだまだ、行けるところまで行かなきゃ」
 一息にまくしたてて、最後は吐き捨てるように言ってボトルに手を伸ばす。
 そのままひっつかもうとしたが、それより早く、シオンがボトルを手前に引いた。
「なんだよ」
 空振りしたカイがシオンをじろっと睨む。完全に目が据わっている。
「カイ、お前……
 黙って話を聞いていたシオンが、やっと口を開いた。ボトルを渡す気はないらしい。なお、彼の紅茶は提供されたきり、全く手を付けられていない。
「瑠璃と真珠姫がなぜ出て行ったか、本当に分かってるか?」
 ふつふつと怒りを煮えたぎらせているカイに対し、シオンはあくまで冷静だ。
 それが、カイの癇に障った。
「わかってるよ、心配してくれてるんでしょ! でも、あたしの気持ちはどうなるわけさ? あたしは戦えるよ、もう負けたりしない。これ以上、サンドラに好き勝手やらせられないもの。瑠璃だって真珠ちゃんだって、そのはずでしょ? なのに二人とも、あたしの答えも聞かずにさっさと行っちゃって!」
……あの二人はね、お前の本音を見抜いてるよ」
「本音? あたしは嘘なんかついていないけど」
「珠魅たちを守れなかった罪悪感と自責から、珠魅に関わろうとしている」
「はあ!?」
 たまらずカイは、両手でテーブルを叩きつけて立ち上がった。
 シオンは意に介さず畳みかける。
「青い瞳を奪われずにいたら? ルーベンスが無事だったら? エメロードが今もお前の隣にいたら? ディアナがまだ生きていたら」
「なんだよ、その言い方は!」
 テーブルに両手をつき、身を乗り出す。
 固く握りしめたこぶしが細かく震えていた。まなじりを吊り上げて睨みつけるが、シオンはこちらを静かに見返してくるだけだ。
 さらに言い返そうとしたカイだが、そうされるとかえって言葉を失ってしまう。
 けっきょく何も言えずにうつむいて、唇をきつくかみしめた。
……誰かのためにってのが……そんなに悪い……?」
 やっとのことで、一言だけ絞り出す。
 先ほどまでの勢いが嘘のような、今にも消えそうな、弱々しい声音だった。
 別に悪くはないさ、とシオンは言う。
「カイ。もしかしたら、お前が尽くす生き方をすることで救われる珠魅はいるかもしれない。お前は自分で思うほど無力じゃないよ。けれど、そんなお前を見て仲間がどう思うかわかるか? それに、もしそれでお前に何かあれば、一番傷つくのは瑠璃と真珠姫だ」
 怒っているわけでも、責めるわけでもない。淡々と紡がれるだけの言葉が、凍りつくカイを容赦なくえぐる。
 次の台詞を聞いたカイは、ついに悲鳴を上げた。
……自分の罪滅ぼしに、他人を利用するな」
「シオン!」
 叫んだ顔がひどく歪む。
「なんで、そんなこと言うの……
 全身の力を失ったカイは、とうとう、ペタンと椅子に腰を落とした。
「ポルポタでキミは訊いたよね? 瑠璃たちと関わる気があるのかどうなのかって。キミ、あの時もう知っていたんでしょ。珠魅と人間は関わっちゃいけないって。でも、頭ごなしにダメだとは言わなかった。レイリスにだって魔法都市にだって、ついてきてくれたじゃない。なのに、今さらそんなこと言うわけ……?」
 泣いてはいない。けれど、その声はほとんど泣き声だった。
……カイ、今日はもう帰れ」
「ちょっ」
 カイがまたしても声を上げたが、今度はシオンがさっさと立ち上がってしまう。
「話はまだ終わってない!」
「今日はここまで。お前、今は冷静じゃない。すこし頭を冷やしたほうがいい」
「あたしはいつも通りだよ! ちゃんと考えてるし、ちゃんとわかってる! あたしは」
 カイの抗弁を聞いているのかいないのか。
 シオンはまだ半分以上残っていたカイのボトルをつかむと、一気に呷った。
「あっ!」
 呆気にとられるカイの前で、シオンは酒をラッパ飲みし、片手で口元をぬぐいながらボトルを逆さに振ってみせる。一滴も残っていない。
「終わり、帰るぞ」
 なおもかみつきそうなカイをしり目に、シオンは帳場まで歩いていき、さっさと会計を済ませてしまう。そうなると、これ以上居座るわけにもいかない。カイはしぶしぶ店を出た。
「なんでついてくんのさ」
「酔っ払いを家まで送るくらいの良識は持ち合わせている」
「一人で帰れます!」
 カイは子どもじみた仕草で、いーっと歯を見せる。同じ酔っ払いでも、ロアで感じた心地良さとはまるで正反対の心持ちだ。
 寒かった。水気を含んだ、冷たい北風が髪をなぶっていく。
「風、出てきたな」
 不貞腐れきったカイへ、シオンは小さな包みを押し付けるように渡してきた。
……早く帰れ。この辺ももうじき、雨降るぞ」
 雨雲が低く垂れこめている。
 カイは渡された包みをろくに見もせず、無言で鞄に押し込んだ。
 無表情のシオンを一瞥し、くるりと踵を返す。今度は、彼はついて来なかった。
 商店街を駆け足で抜け、街の入り口を通り過ぎ、リュオン街道に出ても走った。
 走った。
 ずっと走ってきたのだ。瑠璃と真珠姫に出会ってから、わき目もふらず一心に走り続けてきた。
 そうすれば、今すぐには無理でも、いつかは何かに手が届くのではないか。何かを見つけることができるのではないか、そう思って。
 けれど、現実は違った。
 どこまで走っても何ひとつつかむことはできず、守りたかったものは全て壊れて消えた。立ち向かえば破れ、進めば進むほど、失われて行くものばかりだ。
「できるか!」
 街道の中心に立ち止まり、暗い夜空に向かって、わめき叫ぶ。
 ジオでの別れ際、『考えてくれ』と言った瑠璃。
 カイには分かっていた。彼らはもう、戻って来ない。その背はカイに、自分たちのことは忘れろ、日常に帰れと言っていた。
「ここまでさんざん関わってきて、いまさらそれができるか!」
 天を仰ぐ顔に、冷たい雨が落ちてくる。
 そもそもは、純粋な好奇心と友達意識から始まった旅だった。
 楽しかったし、うれしかった。
 友ができたこと、彼らの力になれること。自分の知らない世界の扉が開けたこと。
 変わったのは、いつからだっただろう。
 ひとつ命が消えるたび、失われた命のために何かしなくてはと思った。誰かを守れないたび、今度こそは思うようになった。
 氷雨を受けながら、ぎゅっと目を閉じる。
 シオンの言うことは、たぶん図星なのだ。ただの八つ当たりだ。

 ――あたしがやってきたことって何だったんだろう。
 
 冷雨と寒風は瞬く間に酔いを冷まし、かわりに残酷な現実を突き付けてくる。
 これ以上考えていると涙がにじんできそうで、カイは唇をきつく結んだ。強く、駆けだす。
 今、この街道を濡らしているのは、ジオから遅れて届いた雨雲だ。
 分厚い雲に覆われた闇夜は、漆黒よりも暗い。
 答えは、見えない。