エワに出した作品。荒船隊結成の道のりと、二人が付き合うまで
二人が高校一年5月入隊と仮定していて、入隊式、結成後、転向後の話です



(荒船)

 時折、あの傷を思い出している。穂刈の顔面にできた殴られた痕を。

 普段はうしろを振り返らなかったし、周りもそうするな、と言わんばかりに後押ししてくれたから、俺はこうして歩いている。
 ただ、狙撃手に転向して一度だけ、本当に一度だけ歩みを振り返ったことがある。
 中途半端な覚悟で進もうとはもちろんしていないが、ますます強く覚悟を決めなければと思った出来事があった──穂刈の顔や腕に、ガーゼを当てながら。
 生身だったらしい。だからって本部にいるのだから、「トリオン体になれば良かっただろ」と苦し紛れにつぶやいた。穂刈は首を振って、
「意味がないんだ、それじゃ」
 とはっきり言った。
 どうして傷を作ることに意味があって、傷を作らないことに意味がないのかはわからない。ちっともわかってやれない。なのに穂刈は、わかっていないのはお前の方だと言わんばかりに瞳の色を沈め、ひどく落ち着いていた。
 穂刈にとって、殴られたことは大した話ではないのだ。でも、俺にとっては違う。あの事件とも呼べる話をもっと詳しく話せば、こうだ。

 ──学校から本部へ向かい、作戦室まで歩いていた穂刈は、C級隊員たちが休憩しているラウンジに寄った。飲み物を買おうと自販機のそばに行くと、噂話を持ちかける隊員たちが、あいかわらずあることないこと言い合って盛り上がっていた。穂刈は聞き耳を立てる。関係のない話がほとんどだが、もしもなにか間違った内容が通ったらシャレにならない。たいていはそんなこともなく、噂にとどまって終わる。終わるが、穂刈の耳に入ってきた人物名が悪かった。
「荒船さんは」
 あらふね、という発音の形まで、はっきりと手に取るようにわかったらしい。
 ずいぶん近くで不用心に話をしているやつがいるもんだ、自分がいることも知らないで。穂刈はそう思った。果たしていい噂なのか悪い噂なのか。手に持った眠気覚ましの缶コーヒーはもしかしたらいらなくなるかもしれない。
 案の定、穂刈の予想は当たった。転向したばかりの俺への噂は、わかってはいたがいいものであるはずがない。小さな妬み、からかい、誹謗中傷──俺が聞いただけなら、いい。無視できる。でも相手は穂刈だった。第三者ではあるが、限りなく当事者に近い人間。
 気がついたら、穂刈はその噂をしている人間のまえに立ち、口を出したという。
 穂刈はそいつの言動に、やめろ、と言わなかった。
「なんで直接言わないんだ、荒船に」
 お前の行動を、ただ疑問に思う、と言ったのだ。
 そのC級隊員は狙撃手で、B級やA級隊員への憧れと、羨望と、それからその感情の中に含まれた、滅多に表に現れないくすぶった妬みが、ときどき漏れ出るようなごくありふれた人間だった。
 ボーダーに入れば誰もがわかる。才能や、サイドエフェクトや、そういうものを持っていることが必ずしも優位ではない。相手のもともとの素質を理由に妬んだが最後、自分の成長は見込めない。経験が、自ら教えを乞う貪欲さが、知識が、個性をどう活かすかが、つまりは自分自身のラインをいかにわきまえ、努めることがボーダーでの最大の一歩である。
 だから穂刈は問いかけた。噂をしている本人に直接聞いて、最短で自分の心を解決を導き、とっとと次の課題や別の進歩へ時間を使った方がいい、と。
 ここまで説明をしたあと、穂刈は正論をぶつけ過ぎたなと反省したらしい。寄り添って解決する方法だっていくらでもあったが、俺に近しい存在の穂刈に言われても、相手に意味はなさない。むしろ逆効果だろう。そういう想像をしながら、気がつけば右頬に強い衝撃を食らったそうだ。

 ──どうしてそうやって人を煽るんだよ、とか、だから殴られるんだ、とか、言いたいことは山ほどある。ただ、穂刈は俺がそう言いそうな気配を察すると、フイとそっぽを向いた。珍しく、頑固さを見せてくる。
 口の中が一ヶ所切れている。これはそのときのだろう。
 殴った隊員は、続けてもう一発殴ったらしい。それを聞くと隊員に同情してしまう。
(きっとこいつは、微動だにしなかったんだろうな)
 そこそこ体格のある隊員が殴れば、人はよろける、吹っ飛ぶ、体を倒す。けれど穂刈の隊服には、ほこりもちりもない。なにかにぶつかったような跡もない。
 穂刈は、座っていた椅子から上目遣いでこっちを見てきた。
……ちゃんと思ってる、悪かったとは」
「誰に対してだよ」
 努めて平坦に聴こえるように、俺は返事をする。穂刈は唇を尖らせ、しばらく考えるのかと思いきや、意外と早く回答する。
「半々だな。そいつと、荒船に」
……お前な」
 穂刈はそれきり黙って目を閉じて、残りの治療を受けるがままになっていた。俺は当てたガーゼにサージカルテープを巻く。指先に当たる穂刈の頬の温度だけを感じて、穂刈とその隊員のことを考える。
 ──殴っても、殴っても立ちふさがってくる穂刈を、C級隊員はどう思っただろうか。人か、はたまた己が乗り越える壁か、区別がつかなかったのではないだろうか。そして、自分の怒りは一方的にぶつけてむなしく霧散していくのに、代わりに無言の穂刈から押し隠している怒りが滲み出て、自分を覆い尽くす感覚は、どれほどの恐怖であっただろうか。
 殴り返せば、穂刈も罰則を受ける。隊にも迷惑がかかる。だから穂刈は立ちはだかっただけ。見ていた隊員たちはそこそこの数がいて、誰もが穂刈の正論をわかっているし、隊員の揺らいだ気持ちもわかっている。周りを取り囲む彼らはただひたすら黙っていた。黙って、今も仲間内で噂をするだけに留まっている。殴った隊員はどうなったのか。穂刈はなにも咎めなかったし、上に報告もしなかった。俺もそいつの顔を知らないから、すれ違ってもわからない。
 そいつはC級から上へのぼってくるだろうか、辞めてしまうだろうか。いずれにせよ、俺には穂刈や他の隊員が急に口を滑らせて話し出すまでは一生知り得ないことだし、それをいつもそばにいる穂刈が許しはしない。
「大したことだろ、殴られてんだから」
 俺が苦々しく言い放つと、そうかな、と穂刈は飄々としていた。
 違う、暴力の有無じゃない。お前がそうして体を張ったのが、ってことなんだよ。
 俺はそう言いかけて、やめた。その代わり、思い切り消毒液をつけて穂刈の傷口を洗った。

 ……この一件以来、俺の歩くレールのうしろには、穂刈がいることを俺は知ったのだ。誰も、なにも邪魔を入れないようにそっとついてくる穂刈が。
 それはもう、まえを向いて歩いていくしかないし、こいつがいたからうしろは任せてしまった。ランク戦でも顕著である俺へのサポートは、かゆいところに手が届くちょうど良さがあって、こいつの視野の広さに驚かされる。
 いつも、いつもいてくれる。それに甘えるのはいけないとも思う。
 けれど、いつの間にか委ねている。
(俺が隊を解散すると言っても?)
 自分に問いかけて、わからない、とまた伏せる。穂刈にとってのやりたいことが見つかったら、そのときは手放さないといけない。よく考え、よくたしかめ、二人で決めることだ。思いがけずあっさりと決まるかもしれない。義務や責務ではなく、そうしたいと思ったから生きる。委ねた背中はきっと俺にとってちょうどいい温度を保ったままだ。ぬるま湯でも、熱すぎるものでもない。
 決まったあとでも、きっと俺は穂刈が受けた傷を思い出す。それは後悔でもなんでもない。傷を作るほどの覚悟に、背中を預けたというかけがえのないスタートラインだ。