エワに出していた作品です。歳を重ねた鋼君が、SEの処理能力と記憶の容量が釣り合わなくなり、どう過ごすことにしたか
付き合っている二人のお話です



 日差しがやわらいで、遠くの山に雲がかかるころだった。カラスが三羽ほど鳴きながら、山へ飛ぶ。ここに住むようになってから、鳥が夜には巣へ帰っていったり、昆虫が活動するのは昼間の太陽が高い時間であったりするのをよく見かける。子どものころに見かけた風景がふたたび脳に飛び込んでくるのだ。
 霧のようなモヤが辺りを包み、暗がりが生まれる。そろそろ玄関に明かりをつけなければ、と急いで立ち上がる。と同時くらいに、インターホンが鳴った。
 うっすらとした黒い影が玄関に立っていて、オレはドアを開ける。
「すまない、明かりもつけないで悪かったな」
「いや、いい。ここら辺はこんなに暗くなるんだな」
「街灯が届いていないからな」
 そうか、と納得のいった顔をして、荒船が帽子を脱いで入ってくる。
 今日は、荒船が酒を持ってくると言っていた日だ。

 手提げに入っていた酒のボトルは、そこまで大きくはなかった。荒船は、成人してから酒をたしなむようになり、「昔は仕事終わりに一杯やる、ってのが理解できなかったが、今はわかる」と本部で話していた。オレはそこまで酒が強くなかったから、いつかその気持ちがわかるようになってみたいとは思っていたが、自分が鈴鳴から離れてこの場所に住まうようになってから、そんな機会も失ってしまった。
 荒船と、仕事終わりの酒が飲みたかった。そう伝えると、
「別に仕事終わりの酒じゃなくたって、うまい」
 とあっという間に日取りを決めて、本日こうして会いにきてくれた。
「どうやってここまで来たんだ?」
「電車と歩きだ。なかなかいい運動になるな」
「すごいな……カゲは絶対歩きたくないって言って車で来たぞ」
「車も考えたが、そうなると酒が飲めない」
 いや、カゲも誘って乗せてきてもらえばよかったか、代行頼めばいいしな。と荒船は首をひねった。カゲがすごく嫌がりそうなのが目に浮かぶ。オレは喉奥から笑うと、グラスを二つと買っておいた肴を出した。
「それは?」
「ジンだ」
 ビールが二缶、七百ミリほどのボトルが一つ、そして炭酸水がローテーブルに並べられる。大きさの目立つボトルが、薄緑色のラベルに箔押しされた金色の文字で、それがジンだと物語っている。
「米好きのお前には日本酒でもと思ったんだが……薄められる方が飲みやすいだろ」
「そうだな、ありがたい」
 ──日本酒、といえば。思い出した記憶がある。
 成人になりたてで、酒の席にみんなで集まったとき。右も左もわからずにただなんとなく響きが良くて頼んだ日本酒で、ひどく酩酊した。荒船と、当真と、肩を組んで笑いながら、けれどどんな内容で笑っていたのかまでは覚えきれなくて、遅れてやってきたゾエのバイクに乗せてもらったときも、「鋼くん楽しそうだねぇ」って苦笑された。
 いくらサイドエフェクトがあっても、自分自身がフラフラだと記憶があいまいにしか定着しないらしい。でも、楽しかった。ゾエにそれだけを言うと、うんうんと頷いて共感してくれる。ゾエもバイクじゃなかったら、飲めたのに。
 翌日の二日酔い、という洗礼もちゃんと浴びて、オレは一つ学んだ。いや、二つも三つも学んだ。あそこまではもう飲みたくはないけれど、またあの席は座りたいと思う。
「あのあとのこと、そういえば荒船に聞いてなかったな」
「ん? ああ、あのひでぇ酔っ払い方した日か?」
 荒船も自覚はあったみたいで、手を振って顔をしかめた。
「あれはひどかったな。冬島さんが当真を迎えに来てくれて」
「うん」
「当真が冬島さんのジャケットをダメにしてた」
 え、とオレは引きつると、違う違うと荒船は気の緩んだ笑い方をする。
「吐いたんじゃないぞ、冬島さんの上着を下敷きにして寝ちまったんだ。寒いわ帰れないわで、仕方ないから冬島さんも飲むって言い出したんだ」
「飲みたかったな、あの人となんて珍しいし」
「そうだな、滅多になかったから楽しかった。トラッパーの貴重な話も聞けたぞ」
 荒船ならトラッパーの研究もして、自在にやりこなしてしまいそうだ。なんとなく、罠を仕掛ける荒船もかっこいいんじゃないか、と想像してみる。その横で、荒船はビールの缶を開けた。互いに一缶ずつ、乾杯をして口をつける。久しぶりの泡と麦の味を噛み締めた。缶についた泡を舐めとると、舌の上でビールが淡く弾ける。
「炭酸で割るか?」
 ビールを飲み終わると、荒船がジンの瓶を揺らしながら尋ねてきた。ジンはまだ開封されず、飲まれるときを待っている。
「せっかくだから、最初はロックにする」
「きついぞ? 平気か?」
「ちょっとだけにしておくよ」
 新品の封を開けた。グラスに二センチほど液体を注ぐ。それだけで、かぐわしい香りがした。ラベルを見れば、アルコール度数は四十六度。鼻の奥にその度数分ほどの強いアルコールの濃厚さが伝わる。けれど、それを超える静かな香りに惹かれた。荒船は笑って、「無理すんなよ」と言う。
「お前になにかあったら、困る」
 つけたされたその言葉に、友人としてという重み以上のものを感じ取ったオレは、かたむけかけていたグラスを置いた。
「検査は行っている、大丈夫だ。……心配かけて、すまない」
「それを言うなら俺にじゃねぇだろ」
 荒船はすでにジンに炭酸水を注いで、半分ほど飲んでいた。大粒の氷が、カラリと音をたてて揺れ、一段階溶ける。
「鈴鳴には、ちゃんと」
「ああ、お前がそういうことに関しては、きちっとしてるっていうのはもちろんわかってる」
 遮られ、言おうとしていたかたまりは宙に舞った。理解してもらえているなら、その先の言葉はもう不必要だ。オレは自分のグラスのジンを飲んだ。煽るようにはもちろん飲めないから、慎重に、少しずつ。
 この家で過ごすようになってから、鳥や虫や、忘れかけていた自然の動きを見るようになった。それだけじゃない。山や、川や、森のざわめきも、寝入りまえになると特に顕著に聞こえてくる。風に乗って香りも運ぶ。そういう香りを、この酒からは感じた。とてもクリアで、樹木の湿り気も樹皮を剥いだ肌の新鮮さもわかるような。
「こんなサイドエフェクトがあっても、アルコールが入れば人並みになるんだ」
「そうなのか」
「ああ、みんなで飲んだあと、二日酔いのときに自分で知った」
 荒船は黙る。オレは続ける。
「普通の人間の酒酔いと同じで、酔っているときの記憶はあいまいに定着している。それがわかったときは……ちょっと嬉しかった。オレにも、人間らしさもあるんだなって」
「鋼」
 たしなめられそうになり、オレはあわてる。
「あ、だからって、依存症になろうとかは思っていない」
「わかってる。オレが言いたいのはそこじゃなくて」
 荒船がオレの言葉を手で制し、飲みかけのジンの中へ炭酸水を入れた。オレと荒船の、二つのグラスが一旦大きく気泡を弾けさせ、勢いはすぐに小さくなる。
「忘れていっていい、ってことだ」
「忘れて……?」
「そうだ、お前は、もう全部覚えていなくていいんだ」
 荒船の声は果たしてつぶやきだったのか、存外大きな声だったのか、今となってはわからないけれど、オレの耳にははっきりと残る声だった。凛として、まっすぐに通る荒船の声は、いつもオレには鮮明な視界をくれて、少し痛いこともある。ジンを飲むと、それがよくわかる。透き通る液体が喉を通る感覚は、荒船の声に似ていた。
「役に立てなくなる、とか思うなよ? サイドエフェクトだけがお前の取り柄じゃない。そんなものがなくても、もうお前の手には実力があるし、技術がある」
 突き刺すような痛みは、しかしじっくりと心臓を溶かして穴を開ける。荒船がくれる突破口は、十七歳のあのときにももらった。
 薄暗い倉庫の中で聞いたその言葉を思い返し、見せてもらった動画の中で動く荒船の姿を頭に浮かべるうちに、目の前の大人になった荒船がそれをかき消すように話し出す。
「俺の言葉なんて忘れちまってもいい」
「でも」
「いいったらいいんだ。つまずきそうになったら何回も言ってやる」
 ついこの間、同じようなことを言っていたもう一人の友人がいたな、とオレは思わず苦笑する。
「カゲも、似たようなこと言ってた。そのときはお好み焼きの焼き方のことだったけど」
「あ? ……んだよあいつ、カッコつけやがって」
 荒船は頬杖をついて、首をかたむける。仕草がどことなくカゲに似ている。そこまで言うと荒船はいよいよ嫌そうな顔をしそうだから、やめておいた。
「ただ、あの人の言葉は忘れるなよ」
 飲み干したグラスをテーブルに置いて、荒船の話は終わった。オレは静かにうなずいて、注ぎ慣れない酒を荒船に足す。ジンが三割、炭酸水が七割の液体は、氷を溶かしてまろやかな香りを漂わせた。レモンのようにキリッとして爽やかなのに、後味が苦い。

 帰り際、荒船はなにかを言いかけて、やめた。
「遠慮しないで言ってくれ、忘れそうになるならメモするし」
 オレがそう言うと、記憶の整理の邪魔になるかと思って遠慮をしてくれた友人は、咳払いをする。
「あの人が──来馬さんが明後日ここに来んの、楽しみにしてた」
 それだけだ。と言って、帽子を深くかぶって家をあとにする。荒船の背中を、小さくなって消えていくまでいつまでも見送った。
 オレは、この情報は忘れることはないとは思ったが、念のためメモを取る。いや、きっと、メモを取りたいと思ったのだ。忘れたくない、というより、目で見て、いつでも嬉しく思っていたいから。
 オレらしい硬質な文字で「来馬先輩が、楽しみにしてくれている」と書いた。玄関にいつの日か定位置として置かれている付箋を端から破り、ボードに貼る。家を購入してすぐに買ったボードには、いくつか付箋がすでに貼られていて、「肥料のやり方」「修理業者の電話番号」などが当初のたどたどしい文字で書かれている。

 ──オレの脳は、少し疲れてしまっていた。ボーダーに入隊して以降、フル活用で学んできた頭は、全てを記憶して学習していくことが難しくなってきていて、それは後ろ向きなことでもなんでもなく、自然な老化現象なのだと自ら察した。
 以前なら百パーセント覚えていたことが、九十になり、八十になる──そんなのは長く生きていれば当たり前のことで、オレのサイドエフェクトを知らない人であれば、オレをここに住まわせることはただの疑問でしかないはずだ。人と会わないように制限をして、なるべく日々の覚える量を減らす。それは逆に脳がさらに衰えるだけだと思う人もいるかもしれない。通常の人であれば、衰えてしまう。
 これはあくまで、村上鋼の場合だ。人よりも確実に全てを詳細まで覚え込むこのサイドエフェクトが、ゆるやかに下降していく脳細胞の機能に反比例して覚えようとするから、記憶を収納しきれずにパンクする。そうすれば、脳が熱を持ってオレは倒れる。上層部は、オレを心配した。さっきの荒船をはじめ、今ではもう顔見知りで気心の知れた連中ばかりいる上層部のうちの一人は、
「鋼が壊れるんやったら、あかんやろ」
 と一緒に教室にいたころと変わらないトーンで、けれど厳しく言った。
 オレは四角く置かれたテーブルの真ん中で、涙を流した。久しぶりの涙だった。頬を伝う水滴は温かくて、少々手荒に拭われる手もやさしい。「泣かせたみたいやんか」と笑う水上は、幹部として働き出したこの数年でずいぶん性格が丸くなって、こんなオレの体一つのことで、顔を歪めてオレと同じく泣きそうになっていた──

 人と会うのを制限して、ここから本部に出勤する。日数も減らして、覚えなくていいことと、覚えていたいことは分けて。
 けれどこの付箋に書かれた先輩の気持ちは、どうしても覚えていたいことになってしまうなあ。
 オレは心でつぶやいて、玄関のドアを閉めた。