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えのうえ
2024-10-09 00:01:57
11654文字
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掌微ホラー集
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スイッチ
午前四時。ブロロロ、とバイクのエンジン音が近づいてくる。
足を軽く振ると、ウォーキングシューズの派手な蛍光色が視界の隅をちらついた。歩いても走っても足が疲れないし、夜間でもよく目立つ。二十年以上愛用しているシリーズの新作だった。
じぃ、と耳を澄ませる。バイクが我が家へと続く道に入ってきたのがわかる。私は一度屈伸をした。白いウインドブレーカーがシャカシャカ鳴いて、暗い藍色の空、玄関灯のオレンジが視界の中で混ざり合う。
背後でバイクのとまる音がした。
「あっ、おはようございます」私が言うと、バイクの主は軽快な挨拶とともに今朝の朝刊を渡してくる。いつもの人だ。引退したプロレスラーのような体躯と豪快な口ひげを見て、私は思った。
「いやぁ、いつも早いですね」と、彼が笑う。
「早く読みたいって目が覚めちゃうんですよ」
「そんなに面白いこと、書いてないでしょうに」
「書いてないのが、いいんです」
「そういうもんですか」
「そういうもんです」
実は、我が家の郵便受けの中には、ボタンがある。クイズ番組で見たような、突起部分を指先でぽちんと押すとランプが点って解答権を得る。そういうボタン。まさかそれが世界消滅のスイッチであるわけもないが、本当のところは押してみなければわからない。
もし、ここに郵便物が投函されて、それが偶然にもボタンを押してしまったら。誰かに相談したかったが、その結果、相手はどう思うだろうか。又は、ボタンの存在を知り、悪戯に押そうとはしまいか。懸念ばかりが浮かぶ。
──そういうわけで、私は毎朝四時に起きた。
まずは偶然を装って、配達員の山本さんから直接朝刊を受け取る。たったそれだけでほら、夜と朝の不安が一つ消えた。
その後は一周一時間半の散歩コースを歩いて、空に黄金が差してきたあたりで帰宅。軽くシャワーを浴びたら食事だった。目玉焼きを美しい半熟に仕上げ、胡椒少々と醤油を一垂らし。それからカリカリに焼いたベーコンと昨日の夕飯の余りの米。健康と彩りのため、冷凍のカット野菜を添えた。弁当も同じ具合に詰め込んでしまえば準備は万端で、一杯のブラックコーヒーとともに新聞を読み、アイロンのあと吊るしたままにしてあったシャツと毎週末手入れしている革靴を履いて出勤する。
山本さんにも言った通り、私は新聞も日々の暮らしも変わり映えしないのが何よりだと思っていた。毎日、毎週、毎月。決まった服を着て、決まったものを食べる。考えただけで気持ちがいい。
私にとって郵便受けのボタンは、それを邪魔するちょっとした
いぼ
・・
みたいなもので、気にしないでいる方法はいくらでもあった。例えば、インターネットショッピングをしないことだ。そうすれば、郵便受けに強引に何かをねじ込まれる可能性はとんと減るし、私も「今まさにボタンが押されてしまったら」と心配せずにすむ。
これが私の日常だった。
*
本当に災難な一日だった。午前中に起きたトラブルの後処理が夕方までかかったことで、退社がいつもより一時間ずれ込んだ。その上電車は遅延し、買い出しに寄れば精算後店を出たところで卵の買い忘れに気づく。
やっとの思いで自宅にたどり着き、いつもの習慣で郵便受けを覗いた。「えっ!」思わず大声が出る。
何かが入っていた。そして、それはボタンを──
私は「いや、いや、いや」と何度も呟きながら、急いでそれを取り出した。
茶色くて小さいダンボールだった。両端が凹んでいることから、かなり強引に投函したことが窺える。送り主は兄で、綺麗なボールペン字で日用品と書かれていた。
耐えきれず、もう一度、空になった郵便受けを覗く。
あれだけ恐れていた景色だ。見紛うことなどなかった。ついに、ボタンは押されてしまったのだ。その事実が、私の背筋をすうっと寒くした。
スイッチは作動してしまっただろうか。郵便受けの中のボタンはただ無機質に、当たり前のようにそこにあった。赤く光ったり、音を発したりするでもない。ただ、ある。まさか本当に世界消滅のスイッチなんかじゃないよな。私は思った。
ドタバタと足音を鳴らしてリビングに駆け込む。兄からの贈り物はダイニングテーブルの上に放り投げた。部屋の隅に落ちてあったテレビリモコンを拾い、電源をつける。
パッと画面が明るくなって、部屋にお笑い芸人の特徴的な笑い声がこだました。
すぐにチャンネルを変える。どこかで緊急の事件やら事故、もしくはそれに近い何かを報じてはいないかザッピングを繰り返したが、どの番組も通常通りだった。
いや、もしかするとただテレビで報道されていないだけかもしれない。私は思い、壁際に置いたラジオのアンテナを限界まで引っ張った。テレビの音を下げ、ラジオの電源をつける。地元放送の周波数に合わせる。ザザザ、と砂嵐のあと、いつものパーソナリティが普段と変わらぬ声色でリクエスト曲を紹介した。
私は恐ろしかった。何かのスイッチが作動したはずなのに、その正体が一向にわからない。今、まさに何かが起こっているに違いないというのに、だ。ラジオからは聞いたことのある洋楽が流れているし、テレビでは有名な料理研究家が家庭料理のキホンについて説いていた。
みんな、私の郵便受けの中にあったボタンが押されてしまったことを知らないのだ。それが、とてつもなく恐ろしかった。
その後は夕飯や風呂といった日常生活を全て放り出し、延々とテレビとラジオを聞き続けた。緊急ニュースが流れまいか、この事件はスイッチの影響だろうかと薄暗い部屋で一人毛布にくるまった。
ブロロロ、と音がして目が覚めた。私は飛び起きた。いつの間にか朝が来ていたのだ。裸足のまま外に出て、山本さんが配達してくれたであろう朝刊を手に取る。
少しカサついた指で新聞紙を開く。ページを一枚捲る、捲る。捲る。
そして、最後のページを捲る。変わったところは、
「何もない」
「何にもない!」
私は自分の口から笑声が零れ落ちるのを聞いた。
杞憂だったのだ。やはり、一個人の家の郵便受けに、全国または全世界に影響を及ぼすボタンなどあるわけがなかった。考えた途端、どっと疲労が襲ってくる。
フラフラ倒れるようにダイニングチェアに腰掛けた。手に、兄からの郵便物が触れる。バババとテープを剥ぎ、紙緩衝材をどけると、二つ折りのメッセージカードと包装された箸、箸置きが入っていた。
メッセージカードを開く。オルゴール調のメロディが流れ出して、「ハッピバースデートゥーユー」と宇宙人が唄った。お誕生日おめでとう、と兄と甥の字が書き添えられている。
自然と頬が緩んだ。
スイッチは、何もなかった。
ならば、私は私の
いつも
・・・
を過ごそう。そう思った。
いつもと同じ合数の米を炊き、その間にシャワーを浴びた。少し張った湯に身体を預けると、一気に緊張が解けた気がした。
風呂から上がり、米が炊けるのを待つ。テレビとラジオは消した。静かな部屋で、炊飯器の音と匂いだけが活発に動いていた。
あと三分、といったところで卵を焼き始める。黄身を中心に寄せ、塩と胡椒を振った。いい具合になったところで裏返し、十秒。形が崩れないよう、慎重に皿へと移す。
ベーコンはカリカリよりも少し柔らかい方が好みだった。フライパンの熱にさっとくぐらせる程度。よし。いつもの通りだ、私は頷いた。
それを目玉焼きの側に盛り付けたところで、ちょうど米が炊きあがった。
お供のコーヒーには砂糖小さじ一と牛乳を一回し。
「いただきます」
温かい匂いが優しく私を包む。スイッチの件など、なかったかのようにいつも通りの風景。
新聞を捲る。うん。いつもと何ら変わりがない。
「スイッチなんて、気にしなくて良かったんだ」
目玉焼きにケチャップをかけながら、私は笑った。
いつもの味。素晴らしい日々との再会に、心の底から安堵していた。
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