清春
2024-09-20 23:52:37
10117文字
Public BL
 

ヤスチハ

まとめ

執着

 優しいヤスが好き。
 泣いていたら真綿で包むように抱きしめて、男らしい低音なのに、甘いスイーツみたいな声音で優しく言葉をかけてくれる、口は悪いけど優しい幼なじみ。
 でも俺はどうしようもなく社会に不向きで、生きるのが下手くそで、文才があると信じていたけど実はそうでもないただの凡人で、一人では生きていけないダメ人間。情緒も不安定で、いつもいつも陰鬱で、根暗で。あとヤスに甘えてばかりで……
……俺、ほんとダメな人間だな……
 ローテーブルにのめり込む勢いで顔を近づけ、あぐらをかいて座っていた体勢を崩した第一声が自己嫌悪だった。
 一睡も出来ずに朝を迎えたというのに、あまりにも文章が書けない。だから泥棒に荒らされたかのように散らかった気持ちの整理も兼ねて、思い思いに書き出していたというのに、逆に自分の心を締め付けるはめになった。病の元になった紙をぐしゃぐしゃに丸めて、そのままゴミ箱に投げる。その紙ゴミはゴミ箱の端にあたって落ちた。思わずため息が出た。
 運動不足でがちがちに硬い体を伸ばして、腕も伸ばしてなんとか拾い、ゴミ箱に入れる。最初からこうすればよかったと後悔。
 ダメだな、こうすれば、ああすれば、なんて今更考えても遅いのはわかっている。いつもそう。いつも……
「っ、ハ……ハァ…………
 まるで自慰中のように、呼吸が浅くなる。不安も後悔も全てに飲み込もうとして、出来ないからこうなる。
 大好きなものを考えていたはずなのに、気づけば大嫌いな自分自身を思い詰め、感情がぐちゃぐちゃになって、汚泥となる。
 俺は、ずっとこういう泥の中に沈んでいるんだろう。一条の光が入らない、濁った汚い感情しかない、クソみたいな水底に。
……辛い……
 浅くなる呼吸の合間に出た言葉は、今年で二十五になる成人男性らしいと言えばらしいのだろう。ただそれは、社会にきちんとなんらかの意味を残して真っ当に生きている人だから許される。俺みたいに引きこもって、売れない物書きを続けて、同居人の収入がなきゃとっくに野垂れ死にするような人間が使っていいものじゃない。
 そう思うとまた呼吸が浅くなった。あぁ辛い、辛い。ローテーブル肘をついて俯くと、長く伸びた髪が前に垂れ下がってくる。
 この男にしては長い髪も、弱い俺を守る鎧だ。どうしようにもなく惰弱で脆弱な自分を守ってくれる。そう信じたい。
「チハル」
 甘い声が、泥の底にいる俺を引っ張りあげた、気がした。呼吸が上手くできていないせいでぼんやりとしていて、目端には涙も浮かんで———あぁ、もう泣いていた。
 深夜のバイトが終わったのだろう、少し疲れた様子の同居人が帰ってきたことに今気づいた。
「チハル、どうした。仕事してたんだろ」
「ッ、や、す……
……チハル。こい」
 荒っぽい口調と同時に、鶏ガラみたいな自分の腕を軽く引っ張られ、そのままヤスの胸に飛び込む。俺より厚い胸板に額が当たって、あたたかくて、少しだけ呼吸が安定してくる。
 ヤス、ヤスヒロ。甘く、でもちゃんと苦めな大人の色気を孕む低音の声。前測った時、百七十九センチはあった俺よりも上背が高くスタイルがいい。
「チハル、また考え事してたのか。思い詰めすぎだ。辛いことはちゃんと俺に言え、誰かに話せば少しは気が紛れるから、そんな風に嗚咽も上手く出ないほど浅い呼吸するな。びっくりするだろ」
 俺の背中を撫でながら今も優しい言葉をかけてくれている。
 ヤスの匂いと俺と同じシャンプーの匂いがして落ち着いたのか、あんなに膨らんでいた不安や後悔といった感情が、空気の抜けた風船のように萎む。
 それでも涙は出てきて、ヤスの服を濡らし続けた。
「ごめん、ヤス……いつも、いつも……
「いいって。チハルを一人にする方が怖ぇし」
……ごめん、ね」
「謝るな。ほら、泣きやめ泣きやめ」
 泣き腫らした顔を片手で持ち上げられ、袖で涙を拭ってくれた。少し雑なように見えるが、痛くはない。虚弱でもある俺に対して最小限力を抑えてくれているんだろう。
「朝飯食ってないだろ、腹も減ってるからそんな風に泣いちまうんだ」
……俺、赤ん坊じゃない」
 むっとして言い返す。しかし、赤ん坊の方がまだいいのかもしれない。感情をありのままに吐き出しているのだから。内側に溜めれるだけ溜めようとするのに、容量が小さいせいですぐ溢れさせて、突然呼吸困難になり泣き出す俺の方がよっぽど下手くそだ。
「悪い悪い。ほら、ちゃちゃっと作るからテーブルの上、片付けておけ。フレンチトーストにするか?」
……うん」
 やっぱりヤスは優しい。なんでもいいよと言いがちな俺に、さりげなく好物を提示してくれて、ご飯の時間を楽しむひとときをくれる。
 言われた通り紙とペンを片付けて、除菌シートでささっと拭き、フレンチトーストが出来上がるのを座って待った。
 甘い匂いがしてきて、幸福感に満ちた。フレンチトーストには何をかけようか。バターの豊かな風味とはちみつの胸いっぱいになる甘みもいいけれど、この間買ったばかりの甘酸っぱいイチゴジャムもいい。いっそのこと全部かけてしまおうか。
 俺の頭の中はそれでいっぱいだった。甘いものを食べている瞬間は、嫌なことも何もかも忘れている。そんな気がした。
「ヤス」
 台所の方にいる彼に声をかけた。声が小さいせいで聞こえたか不安だったが、しっかり届いたようで「なんだ?」とこちらに振り向いた。
「おかえり。……さっき、言えてなかったから」
……あぁ、ただいま。ありがとな」
 ふっと、少しタレた目を優しくやわらげて、微笑むヤス。やっぱりかっこいい顔立ちだなって思う。
 ———俺はやっぱり、泥の中にいる。それでも、こうやって、ヤスという一条の光が引っ張り出してくれるから、俺は今も普通に息をして、今日も不器用に生きている。
 さっき抱きしめられた時に鼻腔を掠めた、シャンプーの匂いに混じる、香水をつけないはずのヤスから香水の匂いを感じ取りつつも。俺はヤスがいないとダメだから、取り繕っていることがバレバレの笑みを浮かべることしか出来ない。


 余談

 智治がフレンチトーストを嬉しそうに食べている間に、ゴミ袋の中身をまとめようと思った安浩は、まず手始めにローテーブルの近くに置いてある円筒型のゴミ箱にかかっている袋を取って台所に向かった。その中にある、新しめのくしゃくしゃの紙ゴミから智治の字が見えて、ふと気になった。彼のスランプを直感して、何か励ます言葉をかけてやろう、そうしたら智治が照れ臭そうに眉尻を下げて泣き笑いをする姿を見れる、などと想像を膨らませながら、シワを伸ばしつつ丁寧に広げた。
 その紙に書かれてある言葉で、まず目に付いたのは『優しいヤスが好き』だった。その後にも安浩への愛情が綴られており、智治自身のことになると途端に暗さが文面から伝わった。智治の自己嫌悪が強く、自己肯定が限りなく低いことを理解しているだけに、安浩はぐっと唇を結んだ。
……あいつ、やっぱり考えすぎていたんだな。いつもの事、と言えばそうだけど、俺がいない時にやられると、顔を見れないだろ)
 悔恨が詰まった表情が刹那、覗かれる。しかしすぐにそれはひょっこりと姿を消してしまった。
(優しい俺が好き、か)
 お前がそう言うなら、いつまでも、ずっと、優しくしてやる。
 安浩はこの思いを吐露することなく、内側で霧散させた。