氷紀
2024-07-20 02:37:12
10752文字
Public 迷い込んだ彼らの話
 

やがて明けゆく

『響く夜雨の隙間で』の続き。CPは高沢+若干ゲタ←墓。
明け方の話。




 不意に、雨音が途切れて目が覚めた。
 雨の気配だけするのに音がしない、何かおかしいと思ったけれど――僕の隣で、先輩はずっと寝息をたてている。何かこう、妙な寝相で。
 一体何が、と思ったけれど、その一瞬後に謎は解けた。部屋の襖が細く開いて、その向こうで白い手が手招きするのが見えたから。知らない人間が見たら、それこそ何かの怪現象だと騒ぐに違いない絵面ではあるけど、それが墓のの手なのは、僕には一目でわかった。音が途切れたのは、術で音だけ遮ったからだろう。僕の体を取り巻くように、無音の一枚布があるように感じる――先輩を起こしたくないのか。
 できるだけ音を立てないように、僕は静かに布団から抜け出した。寝間着の浴衣の乱れをそっと直して、部屋を出る。

「どうしたんですか、墓の」
 雨音が再び耳に戻るのと同時に、僕はひそめた声で問いかける。
 廊下の古ぼけた板張りの上で、墓のはどこかばつの悪そうな顔をしている。
「すみませんネ、こんな時間に。悪いンですけど、ちいさいのを見ててもらえませんか」
「ちいさいのを?」
「ゲタ吉の傷が、ちょっと。……イエ、悪化してるとかじゃないンですけど、何か妖力使った所為で、痛みが出たらしくて。原因が瘴気なんで、術でしっかり目に手当てしてやらないと」
 見上げる僕の視線に宿った疑問に、墓のは先回りして答えてくれた。
「分かりました、そういうことなら」
「お願いします。……やせ我慢してる顔見せたら、余計ちいさいのが気を遣うでしょうにネェ、全くあいつは……
 ぼやきながら、墓のは廊下の向こうに去っていった。玄関から離れに向かう足音が、雨音に紛れて消えていく。
 雨量自体は、土砂降りというほどじゃないけど、……まだ続くのか。
 雨の日に、ゲタ吉にくっついて離れなくなるちいさいのの姿は、この半年で何度も見てきた。生きるのに必死で、僕はいつの間にか慣れてしまったけど――雨が苦手な気持ちは、僕もよく分かる。

 ゲタ吉とちいさいのの部屋は、僕と先輩の部屋と同じくらいの和室だ。押し入れと、ちゃぶ台と座布団と、敷かれた布団。服や日用品を詰めた大きな竹の行李が二つ、部屋の隅に置いてあるところまでは、僕たちの部屋と同じ。
 違うのは、行李の隣に三つばかり、ちいさいのの描いた落書きを突っ込んである木箱があること。その周りにいくつか、積み木や作りかけの竹細工のようなものが転がっていること。ちゃぶ台の上に置かれているのが、菓子鉢と古雑誌じゃなくて、煙草の箱と灰皿だってこと。あと、……ちゃぶ台の下に隠れるように、16色セットのクレヨンが、開けっぱなしで置かれていること。
 懐かしい、と思う。僕はこれとそっくりな景色の中で大きくなった。でも、ただ懐かしむだけでは済まなかった。同時にもう一つ、気がついたことがある――開けっぱなしのクレヨンの箱、その中の青と黒と紫だけが、異様に減っているのだ。他は少しずつしか使われていないのに、その三色の残りの長さは半分もない。
 その三色だけ短い理由をさかのぼれば、今、ちいさいのが布団の中で丸くなっている理由と同じところにたどり着くんだろう。

「ちいさいの、大丈夫?」
 布団の隣に座って呼びかけたら、こんもりした布団の山がもぞりと動いて、中からちいさいのが顔を出した。来たのがゲタ吉ではないと分かったからだろう、少し悲しそうな表情をして、布団に埋まったまま、ちいさいのはこくりと頷いた。
……ゲタ吉にいさん、いた、そう……だった」
「墓のが手当てしてくれるから、すぐ治るよ」
「それは、……、そう、だけど。あの、……っ、ぼく」
 雨音が怖いんだろう。掛け布団で頭の両側を覆うようにしながら、きれぎれの言葉でちいさいのが語ったのは――墓のが前に聞かせてくれた、ゲタ吉がちいさいのの体内電気で昏倒したときの一件だった。
「あの、とき……も、ゲタ吉にいさん、……きっと、いたか、ったのに。……ぼくの、せいで……いたいこと、いたい、の、がまんして、……ばっかり」
 片方だけの目が、必死に涙をこらえているのが見えた。どうしよう。
 やっぱり、僕には両方分かってしまう。
 ちいさいのが大好きで、何がなんでも守りたいし安心させたいし側にいたいゲタ吉と、大好きで側にいたい気持ちは一緒でも、自分がいるばかりにゲタ吉が痛い思いをしている、と辛い気持ちになってしまうちいさいの。……考えてみても、上手い言葉が見つからない。
「そう……だね。そういうの、自分が痛いより、ずっと辛いよね」
 辛うじてそれだけ言葉にした。再びこくりと頷いたちいさいのの頭を、包んでいる掛け布団の上からそっと撫でる。僕が触れても、すくむ気配はなかった。やっぱり元が『同じ』だからだろう。
「ぼく、ほんと、は、」
 雨音に紛れて消えそうな声が、辛うじて耳に届いた。
「かえらなきゃ……だめ、だった、のかな?」
 その問いに対して、僕は何も答えられなかった。――それは今まさに、僕が考え続けていることだから。そう、本来、僕は帰らなきゃいけない……はずなのに。
 僕の心は、そっちに向いてくれない。
 心が動かなければ駄目だと、墓のは言う。
……どうして、そう思うの?」
 問い返す。問いの対象が僕なら、その答えは先輩だ。
 でもちいさいのの答えは、やっぱり違う。元が『同じ』なのは確かでも、同じといえるのは、5歳かそれくらいまででしかないわけで。
「とうさんも、おとうさんも、……けされて、ぼくだけ、にげた……
 それ以上の言葉はないけど、表情を見たらだいたい分かる。大事なひとが消されて、その理由も分からないまま、現場から逃げてしまったら――しかも取り返しのつかない形で背を向けたなら、それは大事なひとを見捨てたのと同じことだって、きっとちいさいのは思ってるんだろう。ひとりで生きる覚悟が持てなくて、結局、居心地のいいゲタ吉の側を選んでしまったんだって……ああ、やっぱり、ちいさいのの心根は『僕』なんだ。苦しいくらいに分かってしまう。
 その苦しさを、仕方ないとか、それでいいとか言わたら、僕はきっと納得しないだろう。だから僕はもう一つ、問いを重ねた。
「もし、ちいさいのの父さんと水木さんが生きてたら、ちいさいのは帰ってた?」
「うん」
 迷いのない頷き。それはそうだろう。
「もっと、いっしょ、が、よかった……だけど、もう、かえっても、……いない。だから……ゲタ吉にいさんと、いっしょ」
 つっかえながらも、ちいさいのは必死に話してくれる。
 今のちいさいのの『一番』は、ゲタ吉で間違いない。そして大好きな人と、一緒にいたい。だからその願いを元に、ちいさいのはこっちの世界で生きると決めたんだろう。

 ――『アナタが心の底から決めたとき、決めた方への道がつながります』。

 頭の中に甦った墓のの言葉、まさにその通りになっているのが、今のゲタ吉とちいさいのだ。でも、それで後悔がなくなるわけもない。実際に、本来の世界に背を向けた事実は消えない――その痛みが、後悔が、ちいさいのの言葉では『かえらなきゃだめだったのかな』という問いになる。

 でもそれは、大事なものを選んだからこその、後悔なんだ。だめなのかな、ではなく、だめ“だった”のかな、と言っているので。……そういう言葉を選ぶだろうと確信できるのは、やっぱり、根元が僕と同じだからだろう。

「ゲタ吉にいさん、と、いっしょ……で、いいの、かな、よかった……の、かな」
「それは、いいに決まってるさ」
 だから僕は、こちらの問いにはうなづいた。
 大事だと思うものを大事にする、と決めたちいさいのの心は、『本当のこと』に違いないから。
「ゲタ吉にいさん、いたいこと、ばっかり、なのに。……いつか、けされちゃう、かも、……しれない、のに?」
「じゃあ、さ。……今すぐじゃなくていいから、ちいさいのが強くなったらいい。いつか、ゲタ吉を守れるくらいに」

 その言葉は、するりと口を突いて出た。
 『強くなったらいい』。
 僕がかつて、お守りのように抱いていた言葉だ。水木さんが水神に呑まれて消えて、目玉の体の父さんを守りたくて、生きのびる為に必死だった頃の僕が。

……そ、っか」
 ちいさいのが微かに息を呑む気配。そこまでは考えなかった、という風だった。
 大事なものが消されてしまう未来に怯えるより、大事なものを守れるくらい強くなるんだという願いの方が、心を支えるには有効だった。
 そう願う以外、僕に生きる道はなかった。
 僕の大事なもの。水木さんがくれた愛。父さんの笑う声。
「そう。……ちいさいのは、これからどんどん強くなる。時間はかかるけど、願いの分だけ強くなれるよ」
「ほん、とう?」
「本当。それは僕が保証する」
 ちいさいのの出元は僕とゲタ吉と『同じ』だから、僕は確信をもって言い切った。そうでなければ僕もゲタ吉も、元の世界で、生き残れなかったに違いないから――続きは胸の奥にしまいこんで、僕はちいさいのを励ますように笑いかけた。
「だから、まずはちゃんと食べるのと、寝るのが大事だよ」
「うん、……でも、ゲタ吉にいさん、いつ、もど、って、くるかな」
「待ってたい?」
 布団の下の腕が、もぞりと動く。左手首の組紐を、右手で押さえたらしかった。
 ゲタ吉の願いが込められた組紐にしっかりと捕まって、ちいさいのは必死に言葉を紡ぐ。
「もどっ、て、きたら、おかえり、……って、いい、たい」
「うーん……それは、起きた後でもいいんじゃないかな」
 あの頃、水木さんの残業帰りを待っていたときの気持ちを思い出す。
 早く帰るという約束が反故になるたび、僕はふくれっ面で『おそい!』と怒った記憶がある。あの頃の僕は、人間の世界の都合なんか何も知らなかったから、今から思うと随分わがままを言ってしまったな、という気がした。
「でも……、」
 ちいさいのの表情は晴れない。でも、このまま世を明かしてしまったら、むしろその方がゲタ吉は心配するだろう。
「今夜は僕が一緒にいるから……ゲタ吉が戻ってきたら、起こしてあげるよ」
……、」
 一瞬だけ、何か言いかけて――でも上手く言葉が浮かばなかったのか、ちいさいのはちいさな唇を閉じて、布団の中で姿勢を変えて目も閉じた。
 また、昔の記憶が揺れる。僕の体を布団越しに、とんとん、とゆっくりやさしく叩いてくれる、大きくて温かな手のひら。
 その動きを真似て、ちいさいのの布団を叩いてやる。僕の手はあんなに大きくも暖かくもないから、真似る、以上のことはできないけど。
 やがて、ちいさいのの呼吸は静かな寝息に変わっていった。