takisaka
2024-06-30 22:56:10
3771文字
Public ネハムゲ
 

果ての名前をしている

お互いの名前について(おもにネさんが考える)ネハムゲ



 ――そして島の中心らしいその場所で、建造物の跡は柱と壁のなごりらしい積み重なった石片をわずかに残すばかりだった。風化が激しく、触れた端から石灰のかたまりのようにかろかろと砕け落ちていくその碑に残された文字を指で辿り、どうにか残された意味を読み取ろうと彼は青ずんだ隈にふちどられた目を凝らす――革手袋のなかでくずれゆくそれを、若いエルーンは抑揚無く読み上げた。種族の特徴である獣の耳は曇り空のような毛色をしていて、それはその髪とも同じだ。

「果て……無し……いや、限り? これは、この村か……もしかしたら、島自体の名前だったのかもしれない。これ以上、正確なところはわからないな」

 植生の研究のために訪れた、ごく辺境の島だった。無人島だと周辺の島には思われていた――が、小型艇を着岸して足を踏み入れ、こうして人跡を見つけ出すに至った。


「ネ――――――? ……

 遠く、呼ぶ声が聞こえて彼は目を細める。
 深い夜の森そのもののような声は、なにひとつ知らねば畏怖さえ感ずる、得体の知れない、ばけものじみた呼び声であったろう。しかしこの名前のない島にたどり着いて暫しの時を経たいま、彼の獣の耳にはいとけない、無邪気な声として届く。

「じっとしていろと言っただろう。お前のからだは大きいから……いや、大きいことは悪いことではない、が。……

 荒れ果てた島にほんの僅か残された、もしかしたら家族の遺骸の跡を踏み荒らすことをはばかって、まず最初にかれが近寄ることを禁じたのだ。それこそ、自分がそばにいて注意をしてやればいいことだった。そっと調査をすすめて結果だけを知らせればよいと思っていたのだが、野生の獣とおなじ生活をしてきた巨躯のドラフに気付かれずに寝ているそばを抜け出すことは、存外難しい。

「それでも、少しはわかることもあった。お前を、俺はこれから、こう呼ぶことにしよう……ムゲン」

 雲巻くような勢いで巨大なあしうらで瓦礫を踏みながら、おそらく数十年は人目に触れたことのないであろう無垢な笑顔を惜しみなく晒す。かたわらにごく低く身を低め身を寄せる、そのしぐさはそれこそよくなついた大型の獣の風情だ。

……ネ、ハン?」
「お前の名前だ。或いは、これも真実ではないのかもしれないが――だが、そろそろ名前ひとつないことも不便になってきたからな。ムゲン」
「むぅ……む? ネハン……

 聞き慣れない響きに、頑是無いおさなごのしぐさでムゲンと呼ばれたドラフはくしゃくしゃと顔を歪めた。それから、助けを求めるように彼の名前を呼ぶ。それこそ、おそらく数十年と人跡のないこの島で誰かのことばに触れることもできずにいたかれが初めて覚えた言語らしい言語が、この発音なのだった。

「ムゲン。ムゲンだ。繰り返してみろ。できるだろう? ゆっくりだ、俺のあとについて、……ム、ゲ、ン」

 彼にとってはほんの数回の調査があり、そして長い不在の間に、このドラフはすっかり若いエルーンの名前の発音だけをものにしていた――この調査旅行の回においてはかれがなにかを指してその発音を口にすることがあまりに頻回であり、だから、彼はマフィアの間で呼ばれる二つ名である己の呼び名の意味について考えることすら、ときどき忘れた。まるで夜に咲く花の名前のような、嵐を告げる風の名前のような、或いは木々の間から透き落ちる月光、ごく深い森に流れるひそかなせせらぎ、高山の岩角に黒く濡れそぼつ血の跡、……そのすべてのかわりに、かれはこの名前を呼んだ。或いは、彼がいないときもこの島で夜の森をさまよいながら、自分がそこにいないまま、この名前を呼ぶのかも知れなかった。たどたどしい、不器用な、それでも成人した男性の、年月に削られた巌のような無骨な声音で。

「ムゥ……ゲ、……ン?」

 巨躯のドラフは、若いエルーンに言われるまま、おずおずと、自信なさげにその発音を口にする。或いは、ほんとうのところは、すこしもかれにとって身に覚えのない名であるのかもしれない。その可能性は充分にあった。

「そう。そうだ、やるじゃないか」

 それでも、ネハンは間髪入れずに肯定の意を告げる――それは思いもよらず、彼のいつもの老成した声音にも似ず、少年めいた、すこしだけ明るい声音として辺りに響いた。そこが、おそらくはこの並外れて大きなドラフにとっては、もしかしたら一族たちの屍の転がる廃墟でしかないにせよ。
 或いは、それこそ己のように、地獄の呼び名であるのかもしれないが。

◇◇◇

 いつか、自分たちには考えるときが来るのかもしれない――そう、因果の演算を離れつつある空の下で、何ひとつ知らない子供たちのように額をつき合わせて、――それでも、こうして互いの名を呼んだ相手のことを。

 そして互いの、限りなく終わりに近く、同時に終わりもなく限りもないという、互いの名前の意味を。