takisaka
2024-06-30 22:56:10
3771文字
Public ネハムゲ
 

果ての名前をしている

お互いの名前について(おもにネさんが考える)ネハムゲ

 名前には意味がある。世界に運命があるように。
 少なくとも、ネハンはそう信じている――それは覇空戦争時代にはすでに空の民に特徴的に見られる文化の一端で、独特の文字や伝統にその片鱗を残すカルムの郷でもそうだった。名前に与えられる文字にもまたいくつもの意味があり、音韻も読み替えられてはその都度また別の意味を織りなしていく。そういうものだった。どうせもう、自分とあと一人のほかは、誰も覚えていもしないことなのだろう。
 涅槃。
 死後の名前だ。そう思えば、成る程――たとえば世界に運命があるのならば、この名こそ自分にはふさわしい。
 死後の名前だ。彼にとっての世界とは或る幼い日から常に終わり続けており、彼にとっての罪とは踏みしめるひとあしごとに影のごとくこの身に寄り沿っている。だからこそきっとこの苦しみは、終わりもなく限りもなく続くのだ。

◇◇◇

『一日目。名前のない島、十六個目。気候は温暖、地味は湿潤。港の跡は既に森に埋もれている。正午岸壁に小型艇を着岸。これより調査に入る』

(参考人私物:返却予定。てのひらほどの革装の手帳に残る記述)

◇◇◇

 手ずれのした手帳にごく簡素な記述を書きつけ、艇から足を踏み出す。まだ若い、痩身のエルーンの肩から掛けた上着が、小島特有の岸を旋回する乱気流にばたばたと翻った。
 名前のない島など珍しくもない。
 だがひとびとが逃げ出し、もしくは死に絶えた――そういう風説が残っているのならば、彼――ネハンにとっては仕事の場でもある。魔物や星の獣の驚異と脅威の領分であるのと同じくらい、未知の風土病、寄生虫、食中毒……それらのさまざまの可能性もあり、そうであるのならば薬毒を職能としてマフィアの若い世代で頭角をあらわし始めた彼の領分でもあるのだから。
 無表情なくちびるから、うっそりとしたため息ひとつ。灰白の髪と、そのたたずまいに隠された根深い諦観こそが殊更、彼を年に似つかぬ老人のようにも見せた。組織上層部から開発部門技術長の呼び名をこのほど承り、新たな薬の開発のための調査――ということになっている。名目上。

 じっさいには、己の手札を増やせるのであればなんでもよかった。

 知ったのは、つい先日である。空の世界で最強を謳う騎空団の一角、十天衆。六星の名をもち己が出自とふかく関わる男がそこに身を寄せている、と――その強者ばかりの拠にこの爪を立てられるのであれば、なんでも。奴隷の身となってから切り売りしてきたあまたの薬の中でもそろそろ秘中の秘――入神湯の製法にかかわる技術にも手をつける頃合いかもしれない。

(そうとも。出し惜しみをすれば、俺は、すぐに死ぬだろう)

 思えば、痛みすらを置き去りにし恥とともに生きてきたこの身にも、わずかにひりつくような心地がする。笑みを忘れはてたこのくちびるにも、引き攣れた火傷のような笑みが浮かぶ。
 その感覚は、たとえば、希望にも似ている。闇の断崖(きりぎし)にうかぶ、あかるい星にすら似ている。例えば、どこかの一族で呼ばれていた、誰かのむかしの名であるかのよう。だからやはり、名前には意味があるのだろう――たとえこの感情のもたらす先には、未来も意味も、何処にも何ひとつたりとてないにしても。
 憤怒と呪詛とともに自他の命を喰いつぶす、この途の名をも、ネハンは知っている。復讐という。

 彼自身の哲学に則れば、知ってしまったことこそが、きっと運命なのだろう。

 いまやこの瞋恚を燃やしているあいだだけは、彼は生きることが許されている気がしている――
 春だった。風にまじり艇を着けた東岸には、時折翼竜の高い鳴き声が遠く響く。渡りの習性をもつ魔物の営巣地でもあるのだろう。踏みしめるあしもとには白い花弁をもつ小花が道の跡に沿って咲き乱れており、調査のてはじめとして彼はそのひともとを摘み取り、小瓶に落とし込む前に匂いを嗅いだ。味の判別はつかなくなって長いが、いまだ残る嗅覚には、甘く、どこかほの苦く、青い茎を折ったばかりのたおやかな香りがする。
 名すら忘れられた島の気候温暖な風がふいにゆるやかに鼻先を撫でて、しかしそのことに、彼は気付かなかった。

◇◇◇