氷紀
2024-06-19 17:05:56
10783文字
Public 迷い込んだ彼らの話
 

響く夜雨の隙間で

『言葉にはならないこと』の続き。CPは高沢+若干ゲタ←墓。
雨の夜に。



 昼過ぎから雨が降り出し、夜になってますます勢いを増してきた。
 俺とちいさいのが寝起きする、古びた八畳間の屋根にも、容赦なく雨音が響く。

 この雨で墓のは、ちいさいのの挨拶回りを中止にした。ちいさいのは、雨がとてもつもなく苦手なのだ。特に夜は本当にダメで、今も俺の膝の上、耳を塞いだまま、ガチガチに身を固くして縮こまっている。
 原因はほぼ間違いなく、ちいさいのの父さんと水木さんの死因だ。

 湯飲みやタライに入った水は大丈夫で、水道の蛇口もまあ平気。風呂は俺が一緒なら大丈夫だけど、一人では湯船に浸かろうとしないし、シャワーで髪を流してやるときは、明らかに緊張した顔になる。井戸や川にも、自分からは絶対に近づかない。
 要は『自分より大きな、自然の水の流れ』に近ければ近いほどダメなんだ。
 克服できたらいいとは思うけど、焦ったところでどうにもならない。絶対にダメなのは、ちいさいのに平気なフリをさせてしまうこと。何しろ俺の小さいころ、一番キツかったのがソレだったから。

 俺にも、雨が怖くて仕方なかった時期がある。
 理由は今のちいさいのとほとんど同じ。
 俺の世界の水木さんが、水神に呑まれて消えたのは、俺が十になって少し経った頃のことだ。あの頃は、水木さんが俺の年をちゃんと数えていたから、間違いない。……あれからしばらくの間は、自分の年も一応、意識にあった。でもある年、十から先に増えた年齢の数字が、そのまま水木さんの思い出との距離だって気がついて、それで俺は自分の年を数えるのを止めた。

 水木さんがいなくなってしまった後にも、俺には父さんがいた。だから生きのびる方法は父さんから教わって、生きる為には否応なく戦わなくちゃいけなくて、どんなに雨が怖くても、泣いていられる時間なんかなかった。
 他にもいろんなものを、自分は強いんだから大丈夫だと言い聞かせて、言い張って――それで心へ押し込んだものに気がついたのは、忘れもしない、父さんが体を取り戻した頃だ。
 吹き出したいろんなものを全部父さんにぶつけて、ずいぶん困らせてしまった。でも小さい頃の自分が、恐怖や不安やいろんな感情に耐えることはできても、それは『平気』とは違ったんだって、俺はあのときやっと理解したんだ。
 だから、ちいさいのに我慢しろとは言わない。言いたくない。

 抱きしめて、背を撫でて、雨が去るのを待つのは何度目か。我慢しろとは絶対に言わないけど、じゃア震えて縮こまるちいさいのに、どういう言葉をかけてやればいいのか? と問われると、相変わらずよく分からない。半端に慰めたところで、余計傷つけるに違いないから。

 今まで通りなら、ひたすら過ぎ去るのを待つしかない時間。
 でも今夜は、少しだけ違った。
「こわ、い、」
 小さな声がした。
 そうだ、俺と二人のときは、喋れるようになったんだった。まだつたない話し方で、雨音に掻き消されそうな声であっても。
 それは、無言でいた今までとは、はっきりと違うことだ。ちいさいのの中から、どんな言葉が零れてくるか、聞き逃さないように耳を澄ます。
……きえ、た、ら、いや」
 怯えきった声が心に刺さる。抱きしめ直してやったら、ちいさいのが俺の体に額を押し当ててくるのが分かった。頭を掌で包むように撫でてやれば、骨の形が沢城のソレを一回り小さくした形なのが、よく分かる。……ということはきっと、昔の俺とも同じ。
「は、なさない、で、」
「うん。俺が一緒にいるヨ、ちいさいの」
 あのとき、こうやって、守ってくれる誰かに抱きしめて欲しかった――その記憶を辿りながら、ささやきかける。
 雨音が止む気配はない、どころか更に強くなっていく。抱きしめるのが腕の二本だけじゃ心許ないと思って、俺は髪を伸ばして、腕の上からちいさいのを包んでみた。俺の髪は白いから、二人で一緒に繭にくるまっている感じになる。
 その気配に気づいたのか、ちいさいのは耳を塞ぐ手を僅かに緩めた。
「ごめ……なさ、」
「何を謝るんだ?」
「だって、……ゲタ吉にいさん、まだ……けが、してる」
「ああ、これ。もうそんなに痛くないヨ、見た目が大げさなだけサ」
 昼間、墓のが俺の包帯を取り替えるのを、近くで見ていたからだろう。そんなに痛くない、というのは実はあんまり正確ではない――二日も経てば少々の傷は完治する体だけれど、瘴気の毒素も込みでやられた左腕と腹は、まだ包帯が要る状態だ。まあでも、放っておけばそのうち治る自分の体の痛みよりも、ちいさいのを抱きしめてやる方が大事なのは間違いない。
……きず、……だい、じょうぶ?」
「明後日くらいにはだいたい治るだろ、多分」
 痛いか、と聞かれなくて良かったと思いつつ、引き続き背中を撫でてやる。遠い記憶の中にある、水木さんの手を思い出しながら。
「大丈夫。……俺は雨にやられたりしないヨ」
「ほん、とう?」
「もちろん。俺は絶対負けないし、もしお前が雨にさらわれたら、何が何でも取り返しに行くサ」
 ぴく、とちいさいのの体が一瞬震えた。
「ぼくが、いなく……なったら……にいさん、さがしに、きて、くれる?」
「当たり前だろ」
 ああ、やっぱりそういう方向の不安だったか――笑って返しながら、昼間、高山と話したことを思い出した。あいつらと立場は少し違っても、『執着されないと不安』なのは、ちいさいのも一緒なんだと痛感する。俺と沢城とちいさいの、出元がほぼ一緒だから、当然といえば当然だ。
 ちいさいのが全力で俺にしがみついてるのは日々実感しているから、俺はその点で不安になったことはない。でも、逆はそうでもないかもしれない……とは、ずっと思ってた。ただ今まで、ちいさいのの真意が分からなかったから、あまり踏み込んではこなかったんだけど。
 俺の伸ばした白の中に埋没しかかっている、栗色の髪にひとつ口づけて、続ける。これも水木さんの真似。
「独りになんか、するモンか。家族なんだから」
「かぞ、く」
「そう。……お前がそう思ってて、俺もそう思ってる。だから墓のの術が効いたんだヨ。お前も、あの坂の一番奥に行ったんだろ?」
「うん。……ここに、いたいか、って……きかれて、そうおもって、た、から」
 実のところ、墓のの術式には結構いろいろとややこしい条件があるんだけれど、究極的なところを言えばそうなるし、今のちいさいのに言うならこれで充分だろう。
「だって、……ゲタ吉にいさん、ここ、にいる。かえっ、ても、父さんも、おとうさんも……いない」
 つたない言葉と話し方で、それでも一生懸命に話してくれるちいさいのが愛しくて、俺は抱き寄せる腕に力を込めた。
「そっか。同じだなァ」
「おんな、じ?」
……俺もサ、帰っても誰もいないんだ」
 それ以上はまだ、言葉にできなかった。
 ちいさいのの心に余計な荷物を負わせたくないから、俺のことを話すのはもう少し後回しにしておこう。重荷になっちゃいけない。
「なァ、ちいさいの。……俺は雨には負けないし、お前とずっと一緒にいるつもりだヨ。でもきっと、お前の父さんも水木さんもそう言ってたのに、水に呑まれていなくなっちまったんだよナ?」
 確か五歳頃くらいだったら、と自分の記憶を辿りつつ問いかけると、かすかな頷きが返ってくる。……父さんも水木さんも、どんなに無念だっただろう。想像するしかないこと、だけど。
「だから、今すぐ俺のこと信じろ、って言うつもりはないヨ。俺だって、今のお前みたいなことになったら、ずっと一緒にいてやるって言われても……マア、まず信じられないもの」
……、」
 迷うような吐息。また、やっぱりか、という言葉が頭をよぎる。
 ちいさいのが、俺を本当に信じていたんだとするなら――こんなにしがみついてはこないはず、なのだ。掴んでなきゃ消えるって深い不安感があるから、ちいさいのはいつも必死。
 ああ、分かる。分かっちまう。
 百年を越える月日を重ねても、根本の色は変わらない。
「だけど、サ。……俺は、お前と一緒にいたいよ。それだけは知っててくれよナ」

 ちいさいのにとって俺の代わりはいない、って墓のは言った。
 逆も然りだ。
 俺にとっても、ちいさいのの代わりはいない。

「墓のがいたって、沢城たちがいたって、あいつらはお前じゃないよナ? 俺は、お前と一緒にいたい」
「どう、して?」
……俺に、おかえりって、言ってくれたろ」
 何かの用事でこの寺を離れることは、よくある。それで戻ってきたとき、墓のはいつも『お戻りで』って言うし、沢城たちは『お疲れ様』って感じだ。
 だからちいさいののあの一言は、本当に効いた。
 今の俺が帰れる場所はちいさいのの隣なんだって、……心からそう思えたから。
「次に俺が帰ってきたときも、おかえりって言ってくれよナ。二人になったときでいいからサ」
「うん……うん、」
 涙混じりに二つ頷いて、俺の白い髪でできた繭の中、ちいさいのは俺を抱き寄せてくれた――雨の夜に、その小さな手が耳から離れたのは、記憶にある限り初めてだった。