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夜明 奈央
2024-05-06 08:15:51
9343文字
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中太小説
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オート・クチュール
ハイブランドの雇われデザイナー×ショーモデル。同じ世界線でうっすら繋がってる短編3つ
*全年齢程度の情事描写あり
2023年5月5日初出
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俺しか見たことがないであろう蕩けた顔に。手にしっとりと吸い付く汗ばんだ肌に。強請るように伸ばされた手に。堪えきれないというように漏れる嬌声に。太宰が漏らす匂い立つような色香に。興奮を煽られた。
何度も言い含められていたから、ダメだと頭では理解していた。けれどどうしても我慢できなくて、目の前にある瑞々しい果実のような太宰の肌に齧り付いた。瞬間、左から飛んできた何かに弾かれて、それが何かを理解するより先に頬に痛みが走る。その何かが飛んできた方を見て、太宰に平手打ちをされたのだと理解した。
太宰は目元を赤くしたまま、荒い呼吸を繰り返して俺を睨みつけている。その鎖骨には、俺が噛み付いた歯形がくっきりと残っている。何も言えずにその姿を眺めていると、押しのけられて太宰は俺の下から這い出した。すぐさま引き出しを漁って鏡を覗き込んでいる。
「痕、つけちゃダメだって散々言ったよね?」
「悪い、つい
……
」
ギッと睨まれて反射で謝る。そこまで過剰に反応する程かと反論したい気持ちが湧いてくるが、ぐっと我慢する。太宰の説教を長引かせるわけにはいかない。イイところでお預けを食らわされた今、一刻も早く続きがしたいのだ。
しかし、俺の発言は太宰の神経を逆撫でするものだったらしい。
「つい?」
ただでさえ低かった声がさらにワントーン下がった。すっと細められた目には、既に先程までの興奮の色は一欠片も宿っていない。太宰の怒りの深さを如実に感じられる。得体の知れない力にねじ伏せられ、俺は指一本動かすことができなかった。
「出てく」
太宰はすぐに床に散らばった服を拾い集めて身につける。俺はそれを呆然と見つめることしかできなかった。寝室と玄関扉の開閉音が順番に聞こえて、ようやく太宰を本気で怒らせたのだとわかった。
太宰は朝になっても帰っては来なかった。俺は呆けたまま仕事に行き、太宰のいない冷たい家に帰ってきた。仕事で2週間程家を空けると言っていたのを思い出したのは、それからだった。
***
「悪かった」
「反省してる」
「返事がほしい」
「帰ってきてくれ」
あれから2日。中也は度々この手のメッセージを送ってくる。たぶん、自由時間の度に送っているんじゃないだろうか。朝食を食べながら開いたスマートホンには中也からのメッセージがいくつも届いていた。太宰は今ニューヨークにいるのだが、時差のことなんて考えていなそうだ。返事はしていない。
次々と届く中也からのメッセージを眺めていると、どうしたって陰鬱な気分になってしまう。これがただの喧嘩なら、許してあげた。反省しているようだし、中也を捨てる気なんてない。
でも、天秤に掛けるのが他の誰かじゃなくてモデルの仕事なら、どう考えたって天秤はモデルの方に傾いてしまう。
中也にそういう性癖があるのだと、ずっと前から知っていた。だけど中也は太宰の仕事を応援したいと言ってくれて、今まで文句のひとつも言わないから、納得してくれていると思っていた。だから太宰だって、中也の仕事を尊重して、それで上手くいっていたはずだった。
人の近づく気配を感じてスマートホンをポケットにしまう。顔を上げると、心配そうな顔をする国木田と目が合った。太宰のマネージャーをしている男だ。
「よく眠れていないようだが」
「まだ時差ボケでね」
「例の怪我絡みじゃないのか」
「国木田くんはもう少し直球以外も覚えた方がいいと思うよ」
肩をすくめて見せると、国木田は苦虫を噛み潰したような顔をして目を逸らした。
撮影に支障が出ては困るので、国木田には怪我の件を伝えてある。幸い血が出るような傷ではなかったが、今でもうっすらと鬱血痕が残っている。
国木田は余計なことは言わずにいてくれているけれど、あれは誰がどう見たって歯形だ。それがつく場面なんて誰だっておおよそ予想がつく。最初に伝えた時も、今だって、そんな奴とは別れろと視線が訴えている。何も言わなくてもそれぐらいわかるし、マネージャーならそれが正しい判断だろう。
太宰本人だって、頭ではわかっている。自分にとって大事なのはモデルの方だ。それは何度考え直しても変わることはない。それでも、どうしたって後ろ髪引かれる思いがあるのを否定できない。
「帰ったらちゃんと話をつけるよ」
にこりと笑みを浮かべると、国木田はため息ひとつでその話を終わりにしてくれた。
ポケットに入れたスマートホンが1度だけ振動して、メッセージの受信を伝える。確認するとそれはやっぱり中也からで、今度は「謝るから許してくれ」と情けない言葉が並んでいた。
それに「帰るからもう送ってこないで」と返事をした。すぐに既読がついて、太宰の指示通りそれ以上メッセージは送られてこなかった。
***
太宰の帰宅予定日。俺はそわそわと落ち着かない気持ちで太宰の帰宅を待っていた。飛行機の時間は知らない。遠方での仕事なんて珍しくもないから、わざわざそんな話をしなかった。でも、今回ばかりは聞いておけば良かったと激しく後悔している。「送ってこないで」と言われてしまったので、メッセージで尋ねることもできないままだった。
玄関扉を開錠する音が聞こえて、俺はリビングを飛び出した。2週間振りに顔を合わせた太宰は、随分と疲れた顔をしている。
「ただいま」
「おかえり」
確か今回の仕事はニューヨークと言っていたか。フライト時間を考えると無理もないだろう。
「先、お風呂入ってもいい?」
すぐにでも謝らなければと思って気が急いていたが、太宰がこうして素直に疲れた顔を見せる相手は限られている。だから太宰の提案を拒否なんてできなくて、俺はただ頷いて太宰のために風呂の準備に走った。
太宰が風呂に入っている間に、不在の間に考えた謝罪の台詞を頭の中で繰り返す。
「つい魔が差しました。もう2度としません。だから許してください」
太宰が脱衣所から出てきて、いよいよその台詞を言う時が来たのだと身構える。けれど太宰は、中也には見向きもせずに間をすり抜けて、いつも通りのスキンケアを始めた。
化粧水、美容液、乳液、ボディクリーム、ヘアオイル、マッサージ、ストレッチ、etc.etc.
俺は知っていたはずだった。太宰が今の地位を掴み取るために、並々ならぬ努力をしていたことを。それを維持するために、今だって努力し続けていることを。太宰はモデルの仕事に誇りを持っていて、そのために自分ができることはなんだってすることを。指先ひとつまで完璧でいるために、あらゆる努力を欠かさないことを。
俺はそれを日常の風景だと思う程に、ずっと近くで見てきた。誰よりもその努力を知っていたはずだった。なのにそれを、俺は一時の感情で踏み躙ったのだ。自分がしたことの重大さを実感した。
「手前が別れたいって言うなら、俺に拒否する権利はないと思う」
太宰が手を止めて、顔を上げた。太宰を直視することはできなかったから、気配だけだ。
「『別れたくない』とは言わないんだ」
「別れたくはねぇよ。でも俺は、取り返しのつかないことをした」
「そうだね。だから、許してあげるつもりはないよ。
……
ないけど、でも、挽回のチャンスぐらいはあげてもいいよ」
ハッとして顔を上げると、太宰が困ったような顔でこちらを見ていた。おそらく今までずっと、1人で悩んでいたのだ。
「ちょっと、何か言ってよ。君が自信ないから別れたいって言うなら私だって考え直すけど」
「別れたくない」
反射で否定の言葉が飛び出した。すると、硬かった太宰の表情が安堵したように崩れた。こいつも柄にもなく緊張していたのだろう。
「私も」
太宰は、一音ずつ確かめるようにはっきりと口にした。力の限り抱きしめたくなって、いきなり約束を破るわけにはいかないと直前でブレーキを掛ける。そっと抱きしめると、耳元で微かに笑う声が聞こえた。
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