夜明 奈央
2024-05-05 13:52:15
28376文字
Public 中太小説
 

いつまでも、君と

太宰卒業後、太宰のアメリカ留学をきっかけに別れた2人が復縁する話。31歳の中太。
※中也が名前のあるモブ男と付き合ってるし寝てるしモブが出張る
明日も、君との続き



 太宰に「これが最後」と言われてから、2週間程が経過した日曜日の昼下がりだった。スーパーのお菓子コーナーで偶然太宰を見かけた。「生活圏が被ってる」と言った太宰の言葉を思い出し、まあそうなるか、と納得した。
 太宰はつまみ系の菓子ばかりが並ぶコーナーで1つを手に取り、パッケージを読んでいる。棚には「新発売」とのPOPが踊っている。
「それはやめとけよ。ピリ辛って書いてるけど結構唐辛子効いてて後引く」
 斜め後ろから声を掛けると、気づいていなかったのかびくっと身体を震わせた。振り向いた太宰が中也を認識して、ほっと息を吐く。
「あ、そうなの?」
「どうせ残すから大人しくこっちにしとけ」
 隣にあった同じシリーズの定番品を渡してやると、釈然としない顔で受取った。しばらく中也の顔とパッケージを見比べた後、手に持っていた買い物かごに渡した菓子を突っ込んだ。

 普通に声を掛けてしまったが、良かったんだよな? 途端に不安になる。よそよそしくするのも違う気がするが、親しげに話し掛けて良かったのかはわからない。
 田中は今自宅にいるはずなので見られる可能性は限りなく低い。だが今後のことも考えるとある程度スタンスを決めておくべきだろう。ただ、何が適切かというのはなかなか難しい。こういうのは人の数だけ答えがあると言っていいだろう。
 数秒思考を巡らせたが、すぐに億劫になって言い出しっぺの太宰に丸投げすることにする。

 近くにあった目的の菓子をいくつか手に持ったかごに放り込む。
 太宰はしばらくその様子を眺め、「最近はどんなの呑むの?」と聞いた。
 話を続けるのか、と些か予想外ながらも雑談だろうと判断して返事をする。すると、そこからだらだらと実のない会話が続いた。
 中也が目的の物を取り終えて隣の棚へ移動しようとすると、太宰に「じゃあね」と小さく別れの挨拶をされた。雑談を振ってくるぐらいだから、てっきりもう少しぐらい話をするのかと思ったが、そうではないらしい。
 わけもわからずなんだかむしゃくしゃした気持ちになって、目に付いたスナック菓子を片っ端からかごに入れた。持ってきたエコバッグに入らないような気もするが、気にしないことにする。


 夕方少し早い時間から、いくつかのつまみと共に缶ビールを開けた。田中と週末を家で過ごす時の定番だった。一通り料理を食べ終える頃には1缶を飲み終えており、中也が次のワインに手を出すのに合わせて田中が菓子類に手を伸ばした。
「なんか、多くない?」
「あー、腹減っててつい」
「日持ちするし多少はいいけど、これとか絶対食べないじゃん。もうちょっと考えて買いなよ」
 田中が指したのはハチミツ味と書かれたポップコーンだ。中也は甘いものが得意ではない。スナック菓子のコーナーなら大抵食べれるだろうと思っていたので、あまり見ていなかった。
「僕もハチミツはあんまり好きじゃないんだけど」
「悪い」
 ぼやきつつも、貧乏性のこいつはもったいないと言ってそのうち食べるのだろう。今日は食べる気にならないようで脇に避けるのを横目で見て、多少の申し訳なさを覚える。
 田中がいくつかの袋を取り出して開封していくのを見ながら、中也も自分の好みの菓子を開いた。ばりばりと咀嚼していると田中も隣で同じように食べ始める。
「そういえば、GWもうすぐだけど、どっか行く?」
「あー、栃木とかその辺走らせようかなとは思ってたけど」
 中也の趣味はバイクだ。田中と意気投合したのもそれがきっかけで、何度か2人でツーリングに行ったこともある。
「え、いいじゃん! 僕も行きたい」
 田中は当然のようについてこようとして、予想していたこととはいえ身構える。
「いや、今回は1人で行こうかと……
「えー、2人で行った方が楽しくない?」
 田中は全く悪気などなさそうに笑った。

 田中の趣味がバイクというのは間違いないが、田中はどちらかというと仲間とツーリングするのを楽しむタイプであった。一方中也は1人で風を切るのが好きなタイプだ。その趣味の違いを感じ始めたのはつい最近だ。
 バイクが趣味の人間と付き合ったことは今までなかった。趣味が合うと楽しいだろうなとずっと思っていたのだが、必ずしもそうではないということにこんな形で気づくとは思わなかった。
「後ろに乗せてほしい」と言われたことはあるし、中也から提案して乗せたこともある。でも大抵の相手は乗るのが好きで言っているわけではない。だからしつこく乗せてくれと頼まれたことはなかったし、中也もほとんど断ったことはなかったのだが。

「たまには1人で走りてぇんだよ」
「付き合い始めて初めての大型連休なのに留守番してろっての?」
「別にずっと行く気はねぇよ。日帰りか1泊2日ぐらいのつもりだから2人で行くのは別のとこにしようぜ」
……じゃあどこ行く?」
 渋々といった具合だがどうにか引き下がってくれて安心する。
 田中には悪いが、付き合ってまだ日の浅い田中と2泊も3泊も一緒に過ごすのはまだ少ししんどい。田中はあまり気にしないのかもしれないが、中也からすれば四六時中一緒にいては気が休まらない。

 手頃な行き先をいくつか上げながら、そういえば太宰をよく後ろに乗せてあちこちに連れて行ったなと思い出す。
 中也が免許を取って愛車を手に入れた頃、付き合っていたのが太宰だった。だから1年経って2人乗りが解禁されたら太宰を後ろに乗せるというのは一種の憧れであり目標だった。そのために免許を取ったと言ったら流石に大袈裟だが、そういう気持ちが全くなかったと言えば嘘になる。
 だが、太宰は全く乗り気ではなかった。初めての時には明からさまに嫌がって、ちょっとした喧嘩になったほどだ。
 慣れてくると歩きたくない太宰は喜んで乗るようになったが、遠方となると別だった。お尻が痛いだの疲れるだの暇だのと良くもまあそこまで思いつくものだと言わんばかりに文句を垂れ流す。それをどうにかこうにかその気にさせて旅行に連れ出すのがあの頃の中也の楽しみの1つだった。
 その頃だって1人で走るのは好きだったが、太宰を後ろに乗せて走るのだって同じくらい好きだった。

 田中相手だと面倒に感じるのは、何故だろうか。単純にまだ慣れていないから気を遣うからとか、1人の時間がほしいからとか、その程度の理由なのだろうか。
 かつて後ろに乗せて走ったことのある何人かを思い出す。太宰以外を遠方まで連れて行ったことはあっただろうか。思い出せる限りではなかった。
 1人で走るのが好きだ。でもそれよりも、太宰が喜ぶ姿を思い描きながらハンドルを握る時間は、もっと好きだった。目的地に着けば、あれだけ文句を言っていたのが嘘のようにころりと機嫌を直して目の前の景色に感嘆の声を上げ、「来て良かった」と顔を綻ばせるのだ。あまりに嬉しそうなので中也はいつも揶揄う気にもなれず、ただ得意顔で「だろ?」と笑い返してやって、また連れ出そうと決意するのだ。

***

 ずっと使っていた一眼レフカメラが壊れた。買った時点で中古だった上、買ってからも10年近くは使っていたので寿命だろう。ほとんど諦めの気持ちで修理の見積もりを取ったところ「直せない」との回答がきて、やっぱりなと思う。とっくに廃盤になってしまった機種なので、必要な部品がないらしい。
 ちょうどボーナスが入ったところだったし、使い道の当てもなかった。新調するにはいい機会だった。

 いくつかのメーカーのカタログを取り寄せ、比較サイトを見てみたが、然して詳しくない中也にはどれを選ぶべきかよくわからなかった。
 スマートホンのカメラの性能が良くなった今、素人に一眼レフが必要かと言われれば必ずしもそうではないだろう。それでも、今まで使っていたカメラですらスマートホンで撮った写真とは雲泥の差だった。だから少なくとも中也にとっては必要だった。
 走りに行った先で見た美しい景色を、せっかくなら写真に撮りたいし、どうせならできるだけ美しく撮りたい。
 そんなわけで、店員にアドバイスを貰おうと決めて家電量販店に足を運んだ。だが、日曜日の午後はそれなりに混雑しているようで、店員は他の客の対応に追われている。声を掛ける隙がない。
 仕方なく売り場を端から順番に見ていると、後ろから「カメラ買い替えるの?」と聞き慣れた声が掛かった。振り返ると太宰が立っていた。
「なんでいるんだよ」
「そろそろ電子レンジぐらいは欲しいかなと」
 太宰は戯けた調子で肩をすくめて見せた。つい呆れた声を出してしまうのも仕方ないだろう。
「なしで今までどうやって生活してたんだよ」
「ないならないでどうにかなるものだよ」
 そう言って笑った太宰は「それで?」と最初の質問に水を向けた。
「あー、前使ってた奴、壊れちまって。修理出したら部品がねぇからできねぇって言われて」
「それもしかして私も知ってる奴?」
「おう。流石に寿命だろうな」
「むしろ今までよく使えてたね」
「それは俺もちょっと思ってる」

 まだ学生だったあの頃、本当は新品が欲しかったのだが、あまりの値段に怯んでうだうだと悩んでいた。それを見かねた太宰に「安い中古買って壊れたら次新品買えばいいじゃない」と提案され、その通りにしたのだった。
 すぐに買い替えるつもりで買ったはずだったのだが、まさかここまで長持ちするとは予想外だった。
「どれ買うの?」
「まだ決めてねぇ。どれがいいかよくわかんねぇし」
 太宰は売り場を端から端までざっと見渡してすぐに興味を失くしていた。太宰はスマートホンのカメラですらあまり使わない。写真に興味がないのだ。さっきの質問だって、本当に知りたくて聞いたわけじゃないことぐらいわかる。
「じゃあ私はこれで。私も選ばなきゃだし」
「おう、またな」
 つい口からするりと溢れでた言葉に一瞬しまったと思ったが、太宰はひらひらと機嫌良さそうに手を振って去っていった。


 その後、中也はどうにか店員を捕まえてあれこれと話を聞き、値段が手頃でそこそこの性能のカメラを購入した。その足で約束していた田中の家に向かったのだが、田中は中也の姿を目に留めるなり渋い顔をした。
「何買ったの?」
「カメラ」
「今まで使ってた奴は?」
「壊れたんだよ」
「GWは使えてたじゃない」
「その後壊れたんだよ」
「修理は?」
「できねぇって言われた」
 何故だか始まった質問攻めに苛立ちが混じる。田中の語気が強くて、純粋に興味があって聞いているという感じではない。
「だからって、カメラなんて安い買い物じゃないんだから、もっとよく考えて買ったら?」
「俺の金で買ってんだから手前に文句言われる筋合いねぇだろうが」
 ついカチンときて言い返すと、田中はむきになったように噛み付いた。
「君が普段から無駄遣いが多いから言ってるんじゃないか」
「それこそ俺の勝手だろうが。手前に金借りてる訳じゃねんだから関係ねぇだろ」
「君のためを思って言ってるんじゃないか。高い買い物の時ぐらいもっと慎重に考えるようにしなきゃ」
 田中に何がわかるのか。中也の話をろくに聞きもせずに自分の正当性を主張する田中に腹の底が熱くなった。話し合おうなどという気持ちにはとてもじゃないがなれなかった。
「帰る」
 中也は玄関まで引き返し、脱いだばかりの靴を履いた。まだ上着を脱いではいないし、手に持っていた買い物袋だって置いていなかった。
 その間、田中は「ちょっと」だの「逃げるの」だのと喚いていたが、無視をした。玄関の扉を閉めるとその声も聞こえなくなったが、一刻も早くその場から立ち去りたくて、エレベーターまでの外廊下を足速に歩いた。
 下まで降り、どうやら追ってはこなかったらしいことを知って深呼吸をする。
 何が君のためを思ってだ。
 田中に何も言わなかったのは、相談する必要などないと判断したからだ。中也はそれなりに真剣に悩んで決めた。なんならいい買い物をしたと思っていた。前のカメラもあれはあれで気に入っていたのでずっと使っていたが、今までだって調子が悪い時は多々あった。田中だってそのことは知っていた。相談ではなかったが、そろそろ買い替え時かもしれない程度の話はしていた。その時には特に反対していなかったはずだ。それなのにあんなにいきなり怒り出すなんてどういうことだ。
 沸々と湧き上がる怒りに任せ、来た時に乗っていたバイクに跨った。
 ひとっ走りすれば少しはましになるだろうか。


 2時間程バイクを走らせ、家に帰り着く頃にはくさくさした気持ちもだいぶ落ち着いていた。代わりのように空腹を感じて、近くのコンビニで夕食と酒を買い込んだ。1人で酔いたかった。
 部屋に入り、履いていた靴を蹴り飛ばすように玄関で脱ぐ。廊下に上着やズボンを脱ぎ捨てながら奥へと向かう。学生の頃からずっと住み続けているワンルームだった。
 今日は買ったばかりのカメラを開封する気にもなれない。うっかり踏んづけたりしてしまわないよう部屋の隅に置くと、なんだか覚えのない袋があることに気づく。
 はて、なんだったか。
 中身を確認すると、太宰がアメリカ土産だと言って寄越した瓶詰めのチョコレートだった。随分長い間放置してしまっていたが、賞味期限などは大丈夫なのだろうか。表示を確認しようとしたところで、その瓶の封が既に切られていることに気づいた。
 あいつ、なんか変なものでも入れたんじゃないのか?
 不安になりつつも蓋を開けると、中に入っていたのは缶詰だった。不審に思って外装を確認するが、パッケージ写真は間違いなくチョコレートだった。
 取り出してみると、中にはオリーブ、牡蠣、ジャーキーと缶詰や真空パックになった各種つまみが入っていた。本来の中身であるチョコレートとは似ても似つかない。
「だからそれにしたんじゃない」
 得意気に笑った太宰の顔を思い出そうとする。あの時の太宰かはわからないが、中也に悪戯を仕掛けて楽しそうに笑う太宰の顔は鮮明に思い出せる。
 中也を苛立たせることの多かった太宰の悪戯だが、たまにこういったことがある。怒っていた中也がぴたりと文句をやめて太宰の顔を見ると、一等嬉しそうに笑うのだ。そうして「何か言うことないの?」と煽ってくる様が憎たらしいぐらいに可愛くて、お礼を言うより先にキスを仕掛けるのだ。
 太宰は何を思ってこの悪戯を決行したのだ。あの場で今までの流れを実行しても良かったのか。

 コンビニで温めてもらった弁当がほとんど冷たくなってしまうまで、中也は床で頭を抱えていた。

***

「僕が大事にしてるの知ってたよね!?」
「だからさっきから謝ってんだろ」
「謝ればなんでも許されるとでも思ってるの!?」
 あの日から、急に喧嘩が増えた。それまではちょっとした言い争い程度で概ね穏やかに解決していたのだが、絶えず口論が巻き起こるようになった。
 今日の喧嘩の発端は、中也が田中の大事にしていた限定盤のCDに珈琲を溢してしまったことだった。そんな状況だ。大きな喧嘩に発展するのも必然といえた。
「もう出てってよ!」
「は? 台風来てんだぞ!? 正気じゃねぇだろ!」
「いいから出てけよ!」
 普段は穏やかな田中が中也の首根っこを掴んで玄関の外へ向かう。中也より上背のある田中にずるずると引き摺られ、中也はあっさりと外廊下に放り出された。すぐに振り返って玄関扉に対峙するが、既に扉は閉められた後だった。ドアノブを握るが当然のように鍵は閉まっている。ガンガンと扉を叩いてインターホンを鳴らすが全くの無反応だった。
 まさかの状況に中也は唖然とするしかなかった。外は台風真っ只中である。土砂降りの雨が吹き付け、囂々と風が鳴り響いている。そんな状況を踏まえて電車もバスも計画運休。タクシーも動いているか怪しい。
 もっといえば靴すら履かせてもらえなかった。ポケットにスマートホンと財布、家の鍵を入れたままだったのがせめてもの救いか。最悪靴さえあれば近くのホテルで一夜を明かすことができなくはなさそうだった。お金を借りるより靴を借りる方が遥かに難易度が高そうではあるのだが。
 一番近い店はここから徒歩1分のところにあるコンビニで、もう少し歩けば24時間営業のスーパーがある。どちらも靴が売っているとは思えない。普段はそれなりに便がいい場所だと思っていたが、今日ばかりは何の役にも立ちそうになかった。
 とりあえずこの近所に住む誰かに連絡を取るしかないか。
 そう思った時に浮かぶ顔はただ1人だ。だが連絡を取っていいものかは疑問が残る。隣の扉のインターホンを眺め「試しに押してみるぐらいはいいか? 緊急事態だし……」と悩んでいると、いつの間にか近くに足音が忍び寄ってきていた。
「うちに何か用?」
 心待ちにしていたともいえるし、来てほしくはなかったともいえる人物の声だった。
……太宰」
 中也は震える声で名前を呼んだ。だが太宰はそれよりも中也の足元に注目している。
「何で君靴履いてないの?」
「喧嘩して、追い出されちまって……
「台風なのに?」
 何をどこまで話すべきかわからずに端的に告げると、太宰からは当然の疑問が返ってくる。それにどう返答すべきか逡巡していると、太宰は中也の横を通り過ぎ、自分の部屋の扉に鍵を差し込んで解錠した。
「行くとこないなら、うち、来る?」
 太宰はそう言って扉を全開にし、手で部屋の中を指し示した。
 少しだけ迷って太宰の顔を見ると「他に当てがあるならいいけど」と中に入って扉に手を掛ける。慌てて「泊めてくれ」と頼んだ。
「最初から素直にそう言えばいいのに」
 悪戯っぽく笑った太宰は中也を困らせて楽しんでいたあの頃と同じ顔をしていた。

 中に入ると、太宰は濡れた服を脱ぎ捨てながら、「濡れちゃったから先お風呂入っていい?」と言った。
 とてもじゃないが初めて家に招き入れた人物に対する対応ではない。太宰が渡米前に住んでいた家には何度も行ったし泊まったが、この部屋に中也が足を踏み入れたのは今日が初めてだ。
 だが大雨の中帰ってきた太宰がぐっしょりと濡れているのは確かだ。対して雨が降り始めるより前から部屋の中にいた中也はほとんど濡れていない。精々が外廊下の水溜まりを踏んだ足先ぐらいだ。先に風呂に入るべきはどう考えても太宰だった。
 中也が了承すると、使いたかったら使えとタオルを押し付け、後は好きに過ごしていいと雑な指示だけ残して自分は浴室へと消えていった。

 それを見送ると特にすることもなく、広くもないワンルームを見渡す。
 ベッドと本棚、卓袱台とその前に座布団が1枚。それから隅に積み上げられた本棚に入りきらなかった本。干しっぱなしの洗濯物。箪笥がないのは隅にあるクローゼットだけで事が足りるからか。
 中也が知っている太宰の部屋は、中也が気を抜くとすぐに空き缶やお菓子のカスでいっぱいになっていたのに、この部屋にはそれがなかった。
 振り返ると簡易としか思えない、ほとんど使われたことのなさそうな流しがあった。コンロを置く台はあるが、コンロはなかった。代わりにコードを長く伸ばした瞬間湯沸かし器が置いてある。それから流しの隣に冷蔵庫と、おそらくこないだ買ったのであろう電子レンジ。
 好きにしていいと言われたので興味本位で開けた冷蔵庫には、予想通りビールと酒しか入っていなかった。不安になって冷凍室を開けると、冷凍食品の炒飯やパスタが入っていて胸を撫で下ろした。
 電子レンジが来るまでは一体どうやって生活していたのか、という疑問は、目を瞑ることにする。

 知りたいようで、知りたくなかった。
 中也と付き合う前の太宰はしょっちゅう女の子と遊び歩いていて、デートかバイトの賄いでほとんどの食事を済ませていた。いや、友人と学食で食べていたこともあったか。要するに家で1人で食事をすることはほとんどなかったと聞いている。
 中也と付き合うようになってからは、なんだかんだと言って家で食べることが増えた。それに伴って、最初は鍋すらなかった台所に徐々に調理器具が増え、太宰が台所に立つことだって珍しくなかった。

 できないわけではないのだ。面倒だと言ってやらないだけで。太宰はそういう男だった。何をやらせてもできないことなんてほとんどなくて、卒なく熟してみせる。なのに中也がいないとできないんだと甘えてみせる。
 別れると決める少し前、中也は不安になって聞いたのだ。「俺がいなくてもちゃんと飯は食うのか」と。そうすると太宰は何を言っているんだと笑って、「私だってお腹が減ったらご飯ぐらい食べるよ」と言った。それもそうかとその時は納得したのだが、本当にあの時手放して良かったのだろうか。後悔が胸に渦巻く。
 増えた調理器具のほとんどは、アメリカに行く前に処分された。中也も手伝ったから、よく覚えている。

 中也が思考の波に囚われ、ようやっとリビングの座布団に座ったところで、太宰が風呂から出てきた。中也はガチャリと扉の開く音に反応して太宰の方を見たが、目が合っても特に何を言うでもなく髪の毛をわしゃわしゃと拭いている。中也は何をするでもなく手元に視線を戻すしかできなかった。
 どうやら水を飲んでいるらしいことを視界の隅に捉えながら、どうするべきか考える。と、一息ついたらしい太宰がようやく言葉を発した。
「君、夕飯はもう食べたの?」
「いや、まだだが」
「じゃあ食べる? って言ってもレトルトとか冷凍食品しかないけど」
「いいけど」
 中也の返事を聞くと手招きされた。見せられたのは冷凍室と作り付けの戸棚だ。中にはレトルトと冷凍食品に加え、カップ麺や缶詰などの日持ちする食料が詰まっていて、予想外にもその品揃えが良くて驚く。
「手前こんなのばっかり食ってんのか?」
「だって今日は電車止まるから早かったけど、終電近くに帰ってきて作る元気なんてないでしょ」
 これとか、ちょっとお高いけどレトルトとは思えないぐらい美味しいんだよ。と笑っていくつかのおすすめを示され、その中の1つをいただくことにする。太宰も同じシリーズの別の味を選んだ。

 電子レンジで順番に温めている間に太宰はドライヤーで髪を乾かした。2人分の夕食が出来上がると卓袱台へと移動する。1つしかなかった座布団は当然太宰が使うのかと思っていたのだが、意外にも中也に譲ってくれた。太宰は代わりに自分の枕を尻に敷く。
 その間、ほとんど最低限の会話しかなく、部屋には外を囂々と吹き荒れる雨風の音だけが大きく響き渡っていた。
 3口程食べ進めたあたりで、口火を切ったのは太宰だった。
「それで、なんでこんな台風の日に靴もなしで追い出されたの?」
「その、怒らせちまって……
「なに? 浮気でもバレたの? それとも借金?」
「ちげぇよ」
 太宰に呆れたように言われ、否定する。
 だが単純に今日の喧嘩の原因だけを説明すると、田中がとんでもなく非常識な男のようになってしまう。元はそういう男ではなかったはずなのだ。そこまで付き合いが長いわけではないのでたぶん、としか言えないのだが。
「なんつーか、色々積み重なって……
 結局それしか言えなくて、太宰は案の定納得していないようであった。きっと何かしら苦言を呈したいのだろうけれど、言っていいのか悩んでいる。
 だから話題を変えたくて、どうでもいい言葉の応酬で有耶無耶にしたくて、中也は努めて明るい声を出した。
「手前は? 今付き合ってる奴とかいねぇの?」
「いないよ。……もう3年ぐらい」
 3年? あの太宰が?
 中也と付き合うようになる前、どころか付き合い始めてからも1年ぐらいは女の子とふらふら遊び歩いていた奴の発言とは思えなかった。こいつは顔が良いから放っておいたっていくらでも女が寄ってくる上に、自分からも美人と見れば安易に寄っていく。昔、1ヶ月と間を空けたことがないと自慢していた。
 3年ということは、中也と別れてからすぐはいたのだろうか。
 あまりに意外な返答に中也が二の句が告げずにいると、太宰は言い訳をするように付け加えた。
「実験が忙しかっただけだよ。家と研究室の往復で出会いなんてないし、向こうじゃ東洋人はモテないし」
「そうか」
 言葉の真偽なんて知る由もない中也には、それしか言うことはできなかった。

 それからは、お互い黙々と夕食を片付け、台風情報をチェックしたり中也が風呂に入ったりして時間を過ごした。台風は夜のうちには通り過ぎるようだった。
 お互い明日も仕事だ。中也は一旦家に帰るために早めに家を出ることを告げ、太宰のサンダルを借りる了承も得た。

 さあ後は明日に備えて寝るだけという段階で、中也はずっと目を逸らしていた現実と向き合うこととなった。
 この家にはどう見てもソファなんてものは存在しないし、座布団ですら1枚しかなかった。カーペットも敷かれていない。できれば床で寝るのは勘弁願いたい状況だ。だがそうなると、太宰が普段使っているであろうどう見てもシングルサイズのベッドしかない。
 太宰と一緒に寝るのが嫌だとは思わない。昔は狭いだのなんだのと文句を言い合いながら、ぎゅうぎゅうに詰まって寝るのが常であった。はっきり口にはしなかったが中也は結構気に入っていたし、太宰だってきっとそうだった。
 今も、太宰に嫌悪感はない。ただ、太宰がどう思っているかはわからないし、それを中也から提案していいものかはわからなかった。
 中也が何と言おうか迷っていると、太宰はベッドに上りながら言った。
「君は床ね」
「なんで!?」
 反射で文句を言うと、ベッドに座った太宰は当たり前のように言った。
「だってこの家これしか布団ないもの。まだ寒くないし大丈夫でしょ」
「やだよ。身体バキバキになんじゃねぇか」
「君しょっちゅう酔い潰れて床で寝てたじゃない」
「昔と一緒にすんじゃねぇよ。流石にもう何年もしてねぇわ」
「つまりなに? ここで一緒に寝たいってこと?」
 ここ、と太宰が示したのは、太宰が座っているこの部屋に1台しかないベッドだ。
 脊髄反射のような会話の応酬で、つい先程迷っていた内容にあっさり辿り着いてしまった。とはいえ床で寝るのは勘弁願いたいので、いずれはその話をするしかなかったのだが。

 嫌ではない。ことを、まずは太宰に伝えるべきだろうか。
 中也が迷っていると、またもや太宰の方が先に口を開いた。
「君が嫌じゃないなら、私はそれでもいいけど」
「いいのか」
 恐る恐る尋ねると、三角に折った膝に顔を埋めた太宰から「うん」と小さく、だがはっきりとした返事が聞こえた。
 ゆっくりとベッドに近づくと、太宰は端に寄って中也のために場所を空けてくれた。中也がベッドの端に乗り上げると、太宰の肌の温度が感じられる程近くにくる。ついその肌に手を伸ばしそうになって、そこまでは許されていないと気づいて自分の手を握り締めた。
 太宰は中也のその葛藤を知ってか知らずか、壁側でさっさと横になったので、中也もそれに倣う。その過程で意図せずとも身体がぶつかってしまう。ドキドキと煩く鳴る心音は中也だけのものだろうか。
「電気、消すよ」
 太宰が静かな声で言った。中也の返事も待たずにヘッドボードにあったリモコンで部屋の灯りが落とされた。まともな電子機器の1つもないこの部屋は、電灯を消すと本当に真っ暗になった。

 そうすると、意識はどうしても視覚以外のところに集中するものである。
 太宰の肌の温度、匂い、呼吸の音。
 降り続けている雨や吹き荒ぶ風なんかより、ずっとずっと、そちらの方が中也の意識を占領する。自分がずっと焦がれていたものはこれだと思い知らされた気がして頭がくらくらする。

 こんなに近くにいるのに、抱き締める権利がないなんて、どんな拷問だろうか。
 恋人はいないと言っていた。なら、今からでもやり直すのは遅くないだろうか。

「なあ、」
「なに?」
 近くで声を発すると、その振動までもが伝わってくる気がする。
「あのさ、」
「うん」
 仰向けで寝ていた太宰が少しだけ顔をこちらに向けたのが気配でわかった。暗闇で表情はわからなかった。
 やり直せるか?と言おうとして、自分がまだ田中と切れていないことを思い出した。だが「別れたら」なんて付け足すのは、フェアじゃない気がする。それでは中也だけが保険を掛けているようである。

 俺のことまだ好きなのかとか、俺にも可能性はあるのかとか、色んな言葉を考えてはみる。結局どんな言葉だって、中也が別れてからでなくてはずるい言葉になってしまう。
「なんでもない」
 けじめをつけてからにしよう、と心に決めた。どっちにしろ田中とこれ以上は上手くいかない。失って惜しいものなど何もない。強いていえばここで手を握れないことぐらいだ。

 朝方、スマートホンで設定したアラームで目を覚ますと、太宰の頭が中也の胸元に埋まっていた。すぐ近くにある太宰の体温が心地よくて、頭に顔を埋めて匂いを嗅いだ。そうすると太宰がくすぐったそうに小さく笑ったのがわかった。顔を上向かせるとうっすらと開いた太宰のまだ眠そうな瞳とかち合う。吸い込まれるようにその唇に吸い付いた。すぐに離れたが、もう1度合った目は先程とは対照的に凍りついていた。自分が何をしたかを瞬時に理解した。
 強張った顔の太宰に怯んで、身体を後ろに退くと、狭いベッドではすぐに端に辿り着いてベッドから落ちた。
……っ!」
 腰を強か打ち付けて痛みに呻く。太宰は笑っても心配してもくれなかった。痛みが徐々に落ち着いてきても、太宰の顔を見ることはできなかった。
「出てって」
 太宰の冷たい声が静かな部屋に響いた。
「太宰」
「出てってよ」
「太宰、俺は、」
「私たち、終わったんでしょ」
 太宰は会話を拒否するようにタオルケットをがばりと頭から被った。それからは何度呼びかけても返事はなかった。諦めて太宰の言う通り部屋を出ていくしかなかった。

 約束通り太宰のサンダルを拝借して外に出ると、昨晩が嘘のように雨も風も治まっていた。だがまだ完全に過ぎ去ったとはいえないのか、空はどんよりと曇っている。中也の気持ちを反映しているようだった。
 お互い寝ぼけていたとはいえ、キスしてしまったのは失態だった。それでも、あんなにも明確に拒絶されるとは思っていなかったので、かなり傷ついている。同じベッドで眠ることを拒否されなかった時点で太宰も満更ではないと思っていたのだが、勘違いだったのだろうか。

 太宰が何を考えているのかわからない。あんなに長い時間を共に過ごしていたというのに、たった4年離れたところでこんなものか。
 つい自嘲が漏れるが、かつても太宰の考えなんてわかっていなかったような気がしてくる。

 だって、捨てられるなんて思っていなかった。アメリカに行くと言われた時、確かに驚いたし、ショックだった。けれど、待っていることもついて行くことも許されなかったことの方が余程ショックだった。
「待ってて」と太宰が言えば、何年だって待っていた。その中也の気持ちを踏み躙ったのは太宰だ。もしかして、アメリカ行きはただのきっかけで、太宰はあの頃にはとっくに別れたいと思っていたのだろうか。じゃあどうして、3年も恋人を作っていないのだ。
 中也はぐるぐると答えの出ない迷宮へと落ちていった。

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