【あしゅやよ】一足お先に

VTネタであしゅやよのお話。当日前の準備話ともいう。

リビングに漂う甘い香りはキッチンに近付けば近づくほど甘さが増し、その出処と言っていいオーブンの中で焼かれ膨らみつつあるスポンジの様子を黒阿修羅は昏く黒い夜の川のような瞳で見つめ続けていた。





二人きりだった朝食の風景に一人増え三人になってまだ日が浅いものの、もう当たり前のように馴染み日常の一部となっていた。
朝食を作る詠子から盛り付けられた皿をテーブルにえっさほいさ夜宵と黒阿修羅が運び並べていく。
三人分綺麗に並べ終えキッチンから詠子が戻ってくる前に夜宵と黒阿修羅が横並びで椅子に座り彼女が来るのを行儀よく待った。
「はーい、お待たせ」
エプロンを脱ぎつつ向かい側の席に向かう詠子をそわそわ黒阿修羅が目で追い、夜宵もまた詠子が脱いだエプロンを誰も座っていない椅子の背凭れに掛けるのを眺めていた。
椅子を引きそんな二人と目配せした詠子が顔を綻ばせる。
「では、いただきます!」
「いただきます」
「いただきます!」
両手を合わせて言い終わるなり、勢いよく食べ始める黒阿修羅を筆頭に夜宵と詠子も温かな朝食を食べ始めた。



半熟の目玉焼きは絶妙な焼き加減でとろり黄身がいい具合。香ばしい焼き目が付いたウィンナーは前歯で噛み切れば、パキリと小気味よい音と共に熱々な肉汁が溢れ。煌びやかなドレッシングを纏ったシャキッシャキなレタスと小さくても鮮やかなプチトマトのサラダに食指が進まなかったが、隣に座っている夜宵に促され頬張れば新鮮な野菜の旨味がぎゅっと固く瞑っていた黒阿修羅の瞼を開けさせた。
トーストの上に乗せられていたバターはいい塩梅に溶け黄色くしみ込み、両手でしっかり持ち口を大きく開けかぶり付く。焼きたてのサクっとした小麦味の食感、じんわりしみ込んだバターの塩味が喧嘩せず仲良く混ざり合う。
一旦トーストを皿に置き口の中に残っている内にコーンポタージュで追い打ちをかければ更に口の中が賑やかになった。
まろやかな味の満ち足りた息を吐き、もう一度トーストを頬張ろうとした黒阿修羅がふと夜宵を見れば、トーストの上に目玉焼きを乗せ黙々と食べている姿が目に入った。
夜宵の小さな口が器用にとろりとした黄身を零さぬようトーストと一緒に食べている彼女の口端には珍しく小さなパンクズと薄っすら黄身が付いている。
……!」
瞬間黒阿修羅の昏く黒い夜の川のような瞳が羨望の色に染まる。
とても美味しそう。真似したい。そう思うなり黒阿修羅が自分の皿を見るが、とっくに目玉焼きを食べてしまいスペースの空いた皿が申し訳なさそうに彼を見上げていた。
夜宵と同じように食べれなくて残念という気持ちが黒阿修羅の中に生まれ、次の瞬間には今度試そうと彼は心の中で誓い二口目のトーストを頬張った。

そんな真向いに座っている黒阿修羅のとても分かり易い姿を眺めていた詠子が自身もトーストをサクリ齧り。
「(今度ホットサンドでベーコンと目玉焼き、チーズ入りのを作ってみようかな)」
と、次の献立を頭の中で組み立てていたのだった。



残さず綺麗に食べ終わった皿たちは嬉しさの証。とても満足げな表情を浮かべている夜宵と黒阿修羅の二人を見て微笑んだ詠子が「それじゃあ」と一声掛ければ続けて三人の声が重なる。
決められた場所に食器を片付けるのも大分慣れ、流れ作業で水気を拭き終わった食器を次々に食器棚に黒阿修羅が片付けていった。最後のカラトリーを引き出しの中へ綺麗に並べ引き出しを閉める。
これにて朝食後の後片付け全てが終了。やり切った顔で黒阿修羅が振り返ると、何故か未だにエプロンを外さない詠子といつの間にかエプロンをしている夜宵の姿が目に入った。
やおら先程の朝食を食べていた時より真剣な雰囲気漂うキッチンにて黒阿修羅は思わず固唾を呑み見守る。
「夜宵ちゃん……
顰められた詠子の声色。
その声を正面から受け止める夜宵は重瞳を逸らさず彼女に向け続けている。
「エプロンっ」
「装着済み」
「手洗いっ」
「ばっちり」
「これからバレンタインデーに向けて使用する各材料っ」
「準備万端」
唐突に始まった指差し確認。テンポよく進むのにつれ、調理台の上に物が増えていった。大小様々なボウルにデジタル式の計量器やハンドミキサー、小麦粉をはじめとした材料が理路整然と並べられている。
「もうお昼ご飯?」
黒阿修羅自身としてはまだまだ食べられるので構わないが如何やら違うらしい。
デジタル式計量器の上にボウルを乗せタブレット状に加工された製菓用チョコレートのグラム数をザラザラ計量していた夜宵と詠子の手が止まる。
「お昼ご飯じゃなくてチョコレート菓子作りかな」
「おかし?」
そうそう。詠子が柔らかく微笑み頷く傍ら夜宵が説明を続けた。
「バレンタインデーは菓子業界が仕掛けたイベント日。当初の想い人にチョコを渡すイメージは根強いものの、今は義理チョコや友チョコ、自分用のチョコなど色々な意味合いが込められたお祭りの日。その日に向けて私と詠子はチョコ菓子に取り組んでいる真っ最中」
「たしかにお祭りと言えばお祭り、かなあ?」
少しばかり眉尻を下げた困り顔で呟く詠子に夜宵の重瞳がキラリと光る。
「ちなみに詠子。螢多朗にはいつから欠かさずバレンタインデー贈ってたりする?」
いきなり来たキラーパスに詠子が咳込む。そう夜宵は思っていたらしいが、その手の質問が来るのは織り込み済みだったらしく天使が横切るのを見遣った詠子は昨日の様に思い出し微笑んだ。
「螢くんの事を好きって思った時からだから長いよー? 小さい頃は一人で火を扱うのが駄目でお母さんと一緒に作ったのが最初。ちょっと不格好なトリュフチョコレートを美味しそうに食べてくれた螢くん可愛かったなー……。そこから毎年たっぷりな愛情に負けないくらい腕を上げて今ではザッハトルテを贈ってるよ」
「お店が出せるほどの本格派──!! でも、去年も思ったけど螢多朗一人で食べるにはサイズが幾分大きい」
「あー、それね。ザッハトルテにし始めた頃、夕月ちゃんと星ちゃんが冷蔵庫に入れてた私のザッハトルテ勝手に食べちゃったみたいで。螢くんすっごく怒ったんだけど、その怒りが霞むくらい二人とも美味しいって褒めちぎって羨ましがった話を聞いてから8号サイズで作ってます!!」
ふふんっ。得意顔でグッと力こぶを見せる仕草をする詠子に夜宵が拍手を送り、そんな夜宵の姿を真似した黒阿修羅もよく分からないまま拍手をした。
そんな和やかな雰囲気の中、夜宵と詠子の聖戦に向けての菓子作りが始まった。



先にザッハトルテ用スポンジを焼くため大事に使い込まれた銀色の型に敷紙を用意している詠子がオーブンの予熱をセットしている夜宵に声を掛けた。
「そういえば夜宵ちゃんは今年はどうするの?」
「去年と同じトリュフチョコレート。あれが一番お手軽簡単」
「表面にココア塗したやつだよね? 今年はワンランク上のやつ作ってみない?」
詠子のワンランク上の言葉に夜宵の重瞳がチョコ作りを始めた二人の邪魔してはいけないとキッチンの入り口から顔をひょっこり覗かせている黒阿修羅を視界に捉える。夜宵と目が合った瞬間、ぱあっと期待に満ちた眼差しを咲かせ目尻を淡く染める黒阿修羅を手招き呼んだ。
キッチンへの入室許可を得た黒阿修羅がリビングとキッチンの境目を上機嫌に超える。駆け寄る足取りに宿る無邪気な喜び。呼ばれて夜宵の前まで来た黒阿修羅と対面するなり、月明りに煌めく夜の川のような瞳を覗き込む赤みを帯びる重瞳。
夜宵の視線を一身に受け止め独り占め出来る嬉しさにはにかみ照れる黒阿修羅に夜宵もまた満更でもなく仄かに口角が上がる。
「おいしいチョコ食べたい?」
「! 食べたいっ」
屈託なく答える黒阿修羅の純粋さ。興奮気味に軽く握った手を上下に動かす姿に二人の様子を眺めていた詠子が眩しいものを見るように目を眇め笑う。
ふんすふんす興奮する黒阿修羅を落ち着かせた夜宵が振り返り彼女にしては珍しく甘さが見え隠れする想いを舌先に乗せた。
「詠子、ワンランク上の作り方教えて」
「任せて」
愛おしい想いを抱く相手のために頑張りたい感情のなんと尊いことか。
詠子の心は二人の微笑ましい光景にあたたかくなる。重ねる小さい頃の自分と螢多朗の面影。懐かしさを覚える空間は何処までも優しく幸福に満たされていた。