つなみ正登/ぱるこ
2024-04-28 08:50:55
11574文字
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きみ呼ばう星 後編1 (水上×王子)



 音楽プレイヤーに繋がれたイヤホンから、聞きなれた嗄れているのに通りのいい声が、みかど寄席が開催される文化会館へと向かうバスに揺られている水上の耳をくすぐる。
『石の上にも三年、黒いもんも白で通す、三尺下がって師の影踏まず、三年間家で修行しまんねん』
 久々の生の落語の前に耳馴らしとばかりにランダム再生で流れて来た「藪入り」は古典の定番だけあってすっかり覚えている噺で、その先を水上は声にはせずに唇だけで形作る。
(そおいうふうにして昔はですな、他人の家に入って、他人の飯を食ってね、修行しまして)
 自分もそういう時間を持っていた。中学に入ってすぐ、奨励会の初段に上がる少し前からのことだ。内弟子なんて時代でもなかったが、月に二回の例会が日曜の時は前日の土曜から師匠の家に上がり込んで兄弟弟子たちの研究会に混ざり、そのまま泊りこんでそこから将棋会館へと向かっていた。
 水上は、朝から何度も見た連盟公式サイトを、また意味もなく携帯端末で開いて確認する。今日の対局一覧の、玉将戦予選と書かれた項の中に、かつて自分をそういう形で迎えてくれた人の名前があった。
 師匠である御勅使《みだい》八段はC2からフリークラスに転落して十年目、ついに鳳凰戦4組からも降格し、年度内に残された公式戦の対局はこの玉将戦のみ。一次からの予選を抜け、リーグ戦に入らない限り現役からは引退となる。
 タイトル戦本戦や人気棋士の対局でもない限り、配信や中継がされることは滅多にない。公式アプリの中継ブログでもすべての対局が扱われるわけではなく、スポンサーである新聞の記事ですら掲載されるのはごく一部だ。もう外部の人間である水上が知ることができるのは、終局後に公式サイトに掲載される結果くらいだけだ。
 玉将戦予選の持ち時間は三時間。夕方前には終局することも多い。
 対局相手はC2を一期で抜けた新進気鋭の五段で、水上がまだ棋界の隅に在籍していた頃に関東の奨励会で見た名前でもあった。まさに詰めろのかかった師匠の相手としては皮肉にも見えるが、棋士の人生にはまま起きることでもあった。
『どうせなら引導はおまえらが渡してくれるとええなあ』
 水上が弟子になった時には既にフリークラスに在籍していた彼は、それでも憂くことなく順位戦への復帰を諦めないながらも、そんな冗談なのか本気なのか分からないようなことを言って笑っていたことを思い出す。確かに彼の持ち時間が切れる前に、弟子たちがプロ棋士になり、そして自らの前に立ちはだかってくれたとしたら師匠としては本望ではあったのかもしれない。
 流れていく三門の風景を映す水上の瞼の裏に、関西将棋会館の、歴代の永世名人のしたためた掛け軸に見守られた御上段の間で、師と盤をはさむ己の姿が過る。それは幼い頃に何度となく夢見た光景だった。
 だが、結局水上はそれをなすことはないまま、今は別の盤上で生きることを選んだ。
 その、もう手の届かない幻を払うように、水上は視線を車窓の外へと投げる。建物の合間から、もうすっかり見慣れた、ボーダー本部基地の威容がちらちらと見える。
(天気は快晴、絶好の近界民退治日和ってとこやな)
 朝起きたら、端末に王子からのメッセージが入っていた。楽しんできたまえよ、という一言に、会場近隣にあるお薦めのカフェやレストランのリストが添えられていた。至れり尽くせりもいい加減にせえ、と返信しておいた。それを見るのは任務が終わった後だろうが。
 今頃警戒区域で任務をこなしている仲間たちと、そしてそこに混じる王子の様子を思い描くが、どうしてか上手くは想像することは出来なかった。王子隊と共同で任務についたことだってあるというのに。
 せや、と水上は呟く。
(もしかしたら王子のことや、今日は俺の代わりやさかい、生駒隊の隊服でトリオン体の設定をセットしかねんわ)
 いやそれどころかいっそ、マリオに頼んで水上《じぶん》のアバターを使いかねない。それはどうしてかしっくり思い浮かべることが出来て、水上は苦笑するしかなかった。
 鼓膜に響く噺は、藪入りで戻ってきた息子の財布に分不相応な大金が入っているのを見つけた父親が、さては主人の金に手をつけたと誤解して殴る場面だった。
 結局誤解は解け、大金の由来となったネズミにひっかけたオチに至るのだが、そんな形で疑われたというのに息子はそれでも親を許すのだ。
 理不尽やなあ、と呟いた水上のイヤホン越しに、次のバス停の案内アナウンスが文化会館前を告げた。


 待ち合わせは午後一時からの開演の三十分前、会館の中にあるエントランスでとは決めたものの、水上がアパートを出たのは移動時間をたっぷり見積もっても一時間前には着く時間だった。
 だが会館内に入った水上は、まださすがにぱらぱらとしかない人の姿の中に待ち合わせの相手である石川の姿を見つけた。
 だが、水上が声をかけるより前に、彼女もこちらを認めて、ぱっと明るい顔を向けてきた。
「水上くん」
「あー、石川さん、おはようさん。早いやん?」
「うん、ちょうど今日弟が隣町のサッカー教室に参加するんで、サッカー場まで車で送ってってもらうから便乗したんだ」
 まだ時間があるから茶しばく? と水上がエントランスの一角にあるカフェを指さすと彼女は、うん、と頷いた。
 注文した品物を受け取って、ふたりは差し向かいで小さなテーブルに腰をかける。トイレ近くなったら困るし、と選んだデミタスの小さなカップを手に、彼女はにっと笑った。
「ホントに茶しばくって言うんだね」
「言うんやでー。珍しい?」
 水上の言葉に、テレビでしか聞いたことなかった、と頷く彼女の肩口くらいまでの髪は、今日はハーフアップにされて可愛らしい髪留めで留められていた。
「ん?」
 水上がその髪留めに視線を向けたと察した彼女はへへと照れくさそうに、そこに指先を触れさせた。
「雑貨屋さんに行ったらプチサイズの扇子のパーツと目が合ったんだ。落語家さんが持ってるのとは違うけど、どうせならこれで髪飾り作ったらどうかなって」
「ほーん、器用やん」
「ヘアクリップにくっつけただけだよ。たいしたことしてない。ほら、こういう古典芸能を観るなら和服とか着たほうがいいのかもとか思ったんだけど、水上くん引くでしょ、きっと」
「あ~、着たいなら着てもええけど、落語なんて庶民の文化やさかい、そんなに片肘はらんでええし」
「そっか。映画とか行くのと似たような感じ?」
「せやな。だいたい江戸時代の木戸銭が、立ち食いソバに三杯分くらいやからそないなもんやろなあ」
「おソバって十六文だよね。二八ソバの2×8で十六」
「よう知っとるな」
 ちょっと感心して水上は目を見開く。
「時そばくらいならなんとなくはね。ちゃんと通して聞いたのは水上くんが落語好きだって聞いてからだけど」
 ピコピコ動画にあったから、と彼女は動画配信サイトの名前を付け加えた。
「漫才やコントは父さんがお笑い好きだからテレビとかで見たことはあるけど、落語をきちんと聞くのははじめてだったんだよね。でも喋り方とか仕草とかで演じ分けた色んな人をがちゃんとそこにいるように感じられるのってすごい、面白いなって思ったから、知るきっかけをもらえて良かった。でなきゃたぶんちゃんと観ようなんて思わなかった。ありがとう」
「いやいやいや、礼を言わんとあかんのは俺のほうやん」
「だったらおあいこだ」
 そうだ、と彼女は何かを思い出したように切り出した。
「将棋を扱った落語ってあるの?」
「なくもないで。まんま『将棋の殿様』、『浮世床』でも将棋を指しとる場面が出てくるし、志ん生が『笠碁』言うヘボ碁打ちの噺をアレンジして『雨の将棋』にしたんやけど、将棋の駒に合わせてサゲも違うて、王将の駒が金……
 言いかけて、金駒は王将を囲って守ることも多いから金は金でも別の金――男性の股間にあるほうの――に隠れてました、なんていう下ネタということに気づいて慌てて口をつぐんだ。
(男連中に言うとるんちゃうんやから)
――ああ。
 きっと王子なら、隠れるかどうか試してみようなどと金駒を手に水上のぱんつを引き下げようとしそうだと考えてしまう。
「どうしたの?」
 石川の声に我に返った水上は、いや、と首を横にし、
「他にも二人癖、鼻の上の桂馬、と庶民の遊びやからそこそこあるわな」
 そっか今日そのうちのどれかが聞けたらいいな、と彼女は楽しそうに、人が集まり始めたエントランスへと視線を投げかけた。
(王子、もう聞いたんやろか)
 きのうランク戦が終わった後、王子隊の作戦室へと向かう海に言づけたCDのことをふと思い出す。実家から送ってきてもらった私物のうちのひとつ。
 愛する男に捨てられたのかと嘆きながら儚くなったことよりも、そうしてやっと人のくびきを離れても、線香一本分という制約からは逃れられなかった小糸を水上は哀れだとは思った。
 王子はあの噺をどう受け止めるのだろうか。