ぎんちき
2024-03-22 23:15:38
21115文字
Public 再録
 

【再録+書き下ろし】遺り物

2021/11/07 第19回全国大会GSにて発行したブン木手死ネタショートショート集を加筆修正したWeb再録です。
今回の再録にあたり、新作「再会」を書き下ろしました。

以下注意事項
・全編死ネタです。丸井、または木手、あるいは双方が亡くなっているお話のみ収録しています。
・年齢操作(未来捏造)ばかりです。
・捏造家族が登場します。
・モブに襲われる(それを匂わせる)話を含みます。


木手の場合
「友人」

 丸井ブン太と木手永四郎は恋仲である。……だなんて、他人事みたいに言ってみる。それは無理もない話なのだ。俺にとっては未だに信じがたい事実なのだから。
 今、こうして目の前で美味しそうにパフェを頬張る彼が、俺の、恋人だなんてことは。

「なぁ、まだ駄目?」
……だから言ったじゃないですか。時期尚早だと。もう少し待ってくれませんか? お互い、もっと準備ができてからのほうがいいと思いますし」
 こう返すと、丸井くんは寂しげに笑う。しかし、俺の意見を尊重してくれる。良心が痛まない訳ではないし、いつか、こういったことが重なって彼が爆発してしまうのではないか、という恐れはある。
 だが、駄目だ。お互いの両親に付き合っていることを話す、なんて。……いや、それだけであれば動揺こそすれ、全員が受け入れてくれるかもしれない。だが、俺たちは、その先――将来を共にしたい、ということで意見が合致しているのだから。そうともなれば話は変わるだろう。
 もしも、仮に。自分の両親が受け入れてくれないのであれば、問題はない。ショックは少なからず受けるだろう。だが、そういうものだと思えるだけの覚悟が俺にはある。問題は、彼の方だ。丸井くんだって口にはせずとも、拒絶されたときのことを考えてはいると思う。しかし、あの優しい彼のご両親が、もしも。もしも、丸井くんの考えを否定したら、彼はどうなる? ――なんて思うと、恐ろしかった。だから、まだ駄目なんです。せめて、お互いに大学を卒業して、就職して、経済的に自立してからでなければ。そう、思っている。

   *

 ああ、なんて雨だ。湿気は多いし、それに……何だか気分が悪い。夕食を早めに済ませて、寝てしまおう……
 そう思った矢先、スマートフォンが震える。画面に表示されているのは、丸井くんの実家の電話番号だった。普段であれば先に「かけていい?」なんて連絡があるものだし、そもそも彼自身の携帯からかけてくるのが常だが……珍しいこともあったものだ。とにかく、出ないという選択肢はない。

「もしもし? 丸井くん? どうしたんですか」
「あ。キテレツ?」
……?」
 耳に届いたその声は、丸井くんのものではなかった。よく似てはいるが、彼では、ない。恐らく上の弟さんの、声。
「えっと、その。俺も、混乱? してるからさ、手短に済ませる、けど。……あの。さっき、兄ちゃんが……――
……え?」

 聞き間違いだろうか。重く、胃の腑に響くようなその音は。だが、『冗談ですよね』と聞くにはあまりにも彼の声が真っ直ぐだった。

「兄ちゃんがキテレツの電話にかけろって……で。『こんなことになっちゃってごめんな』、って……伝えて、って……さいごに……言ってた、から」
……あ。ありがとうございます。君も辛いでしょうに。ご両親に、その。よろしく……
 なんとか振り絞った返答が、これだ。丸井くん。丸井くんが? 何かの冗談ではないか。だって、昨日も、ここに来て笑っていた。丸井くん、が。
「どうして」

 事故に遭って、今日。亡くなった、なんて。

   *

 翌日の自分の生活は散々なものだった。彼の家に行って挨拶すべきだろうに、動くことができなかった。起きる気力すら湧かないのだ。生きるための最低限の動作だけして、暇さえあればスマートフォンを覗く。丸井くんから、連絡が来るのではないか、と、期待して。
 そんなもの、叶うはずない。丸井くんは死んでしまったのだから。頭ではきちんとわかっているつもりなのに。

「!」
 そんなタイミングであの晩以来に震えたスマートフォンが表示するのは、またも丸井くんのご実家の番号。心臓がドクドクと脈を打ち始めた。手が、震える。この調子ではとても持ってはいられないだろうから、スピーカーにして。

……もしもし……?」
 声が想像以上に出しにくい。頭も痛くなってきた、気がする。呼吸の仕方は、こうでいいのか。
『キテレツくん? こんばんは。ブン太の、母です』
「あ……こん、ばんは」

 電話の向こうからは、間違いなく丸井くんのお母様の声がした。話を要約すると、明日がお通夜なので、その前に行う納棺式までに会いに来て顔を見てやってほしい、ということだった。俺は、丸井くんの生前に仲良くしていた友人のひとりだから、と。
「わかりました、でも、ごめんなさい。明日のその時間は外せない用がありまして……はい。お通夜には必ず。はい。わざわざご連絡いただいたのに、申し訳ありません。……ええ。では、また。よろしくお願いします」

 ――友人……か。

 そうだ。その通りだ。彼と俺は、一介の「友人」に、すぎない。ふたりが「恋人」だった事実なんて、どこにもありはない。唯一、俺の「記憶」の中を除いて……
「は……はは……はははは…………
 どこからともなく笑い声が溢れだす。ひとしきり笑い、そこでようやく自分が空腹を覚えていることに気づく。多少は口に運んでいたのに。
 ああ。今日はなんだか、甘いものが食べたい。とびっきり甘く、見た目にもこだわっていて、作り手のこちらを想う感情が伝わってくる。そんな、甘いものが。
 けれども、生憎そんなものはこの世界からなくなってしまった。ならば代わりに、真逆のものを。慣れない煙草を、くゆらそう。

   *

 結局俺は丸井くんの顔を見ることがなかった。お通夜が終わったあとでも、俺以外の彼の友人らが顔を見せてもらっていたようだが、その輪に入り込もうとは思えなかったからだ。
 そもそも、納棺の時間に用があるなんてこと自体でまかせにすぎなかったのに。変な意地を張って。

 ……それはさておき、ご遺族にきちんと挨拶は済ませたので自分のやるべきことはできた。と、思う。……これでいい。あとは帰って、片付けをしなくては。泊りがけのときなどに俺の部屋に置いていかれた、服などの遺品を。捨てるのは忍びないし、ご実家に持っていくべきか? その辺りは、もう少し状況が落ち着いたらでいいか。今は……まだ、手元に置かせてもらっても、いいですよね。

 丸井くん。俺、泣きませんでしたよ。君のことは確かに愛していたのに。ひとつも涙が出ないんです。薄情な人間でしょう? でもね、これは、ただ……ただ、元に戻っただけなんですよ。きっと。君に出逢う前の、木手永四郎に。
 中学三年のあの時。君と出逢ってから、ずっと心を乱され続けていましたから。君につられて、ほんの少し表情が豊かになってしまっただけなんです。それが、元に戻っただけ。きっとこっちが本当の俺なんです。
 だから、ねぇ。今。こうして涙が零れ落ちているのは、君のためじゃないんですよ。俺が泣くのは、煙草の煙が目に滲みた為に、過ぎないんですから。

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手遅れ

「だからさ、俺と一緒になってほしいんだ」
 応える必要もあるまい。目の前でヘラヘラとした薄ら笑いを浮かべている男なんかに。
「な……いいだろ? 俺、やっぱお前じゃないと……駄目なんだ」
 そうか。そうだ。丸井ブン太は、死んでしまったのだ。今ここにいる男は、俺の記憶の中の彼をいくらか老けさせたような見た目をしているが、少なくとも「中身」は別人に違いない。……そう思わなければ、やりきれない。
「木手……キテレツ。なぁ」
 事もあろうに、テーブルの上に載せていたこちらの手を握ろうとしてきたので、咄嗟に引いた。
……結局みんな悲劇が好きなんだよ。それも、『ああ、自分はアイツと違うんだ!』って安心して、心配をするフリをしながらも、どっかで笑えるやつが。でも俺はそうなりたくねぇの。悲しまれたくもねぇし。俺と、お前の、問題だろ。誰かの話題になんかなりたくない。わかるかな。わかってくれるかな。わかってくれるよな。だって、俺」
 彼の言っている意味が理解できなかった。理解なんてしたくもない。「俺とお前の問題」? 俺たちはとっくに問題を解消したじゃないですか。

「キテレツ。俺と一緒に、なろう。俺と、死んでくれるよな」
……え?」
 思わず声を出してしまった。いくらなんでも、話が飛躍しすぎている、から。
「お前を殺して、俺もすぐ逝くよ。大丈夫。大丈夫、大丈夫だから……
 テーブルの上にある彼の手がひどく震えている。……本音を言うならば、握ってやりたい気持ちがない訳ではない。どうしたのか、きちんと話を聞きたい。しかし、それはすまい。できない。できるはずが、ない。
 怖いのだ。丸井くんの穏やかな、表情が。……落ち着け。何も問題はない。中途半端に優しさを見せてしまうくらいなら、ハッキリと伝えてやらねばなるまい。

「お、れは……嫌です」
……
 丸井くんが、こちらを見る。瞳の色だけは、あの頃と同じようにキラキラと輝いていて、目を逸らしたくなってしまう。だが、それは駄目だ。
「今更、なんですよ。何もかも。もう、遅いんです」
 そうだ。何せ、今の丸井くんからは何の香りもしないのだから。初対面の頃から、嫌というほどに嗅がされた人工的なグリーンアップルの香りも。微睡みの中で感じた柔らかな香りも。特にこだわりはないと言っていた割に同じものを使い続けていたシャンプーの香りも。そして、彼の笑顔と共に振る舞われたきらびやかな菓子の香りも。何も、なかった。

「俺は。アナタが言ったから決意したんです。丸井くんが、幸せになりたいと言うから……。それを、受け入れた。迷惑をかけまいと……俺も自分の幸せというものを模索して、見つけて、掴んできた。君もそうであると信じていたのに」
「でも、」
 言葉を紡ぐ内に、ポツポツと何かの感情が湧き上がる。これを自分の知っている名称へ当て嵌めるならば、そう……――怒り。彼自身が変わろうが構わない。だが、俺は? 一体、何の為に。いつか再会してしまったときに、きちんと顔向けできるよう。それだけを思ってきた。人並みの幸せだって掴んだ。それを、捨てろと言うのか。どの口が。
「遅いんですよ、今更!」
「キテレ――
「お釣りはいりません」

 半ば逃げ出すようにして去ってしまった。だがあれ以上、彼の前にいることはできそうになかったから。今日と明日が休日でよかった。

   *

 あんなことがあったから、明け方まで眠ることができずにいた。カーテンの隙間から陽の光が差し込み始めたのをぼんやりと眺めるうちに、ようやく眠りにつけた。目を覚ませば、日が暮れかけているような時間になってしまっている。
「何か……食べないと」

 本来は昨日買い物をするつもりだったので、今、冷蔵庫の中はすっからかんだ。着替えを済ませ、軽く水分でも摂ってから近所のスーパーへ行こう。そうと決まれば、早速。
「はぁ……行きましょうね」
 戸締まりをして、階段を降りる。
 ……昨日のことは、夢、だったのだ。そう思ってしまいたい。彼の言葉が……今も信じられない。だが、それは確かに鼓膜の奥で、まるで耳鳴りのように響き続けている。『一緒に死のう』……どうして、そんな提案を、俺に……

……ん?」
 日曜日だから何も入っていないだろうに、つい癖で覗いたポスト。そこに、何か紙が入っているのが見えた。
 心当たりは、ない……はずだが。じわりじわりと「嫌な予感」が広がる。手にして、開けば、昔に見たことのある筆跡が並んでいた。

……

   *

 横たわった彼を見る。損傷したのであろうその顔の右半分は包帯で隠されていた。それが奇しくも、あのダブルスの試合――俺が、彼のことを好きだと自覚してしまった、あの日を、想起させる。
 あの試合のあとに俺たちは保健室でキスをした。付き合うどころか、お互いまだ、好きだと気づく前だったのに。不思議なことに、どちらからでもなく、まるで、ただ惹かれ合ってそうなった。今思えば、子どもの戯れにすぎない。だが……少なくとも俺にとっては特別だった。何せ、初めてだったから。慌てて唇を離したときに鳴ったリップ音ですら、何年も経った今だって思い出せてしまう。
 あれから、本当に色々あった。俺が君への感情を中々認めなくて、それで揉めることも、逆に、君が突然遠のいたことも。どちらが悪いとか、良いとか、そんなんじゃあない。ただ、これが俺たちの「結末」になっただけだ。

 偶然俺に会いに来た彼が、偶然その帰りで事故に巻き込まれ、偶然俺の連絡先のメモを持っていたから、偶然こうして呼ばれただけ。そう、それだけ……
 でもね、丸井くん。こんなの、アナタの言っていた「悲劇」ですらないですよ。「喜劇」です。アナタも、俺も、道化にすぎない。本当に、迷惑だ。迷惑なんですよ……
 その「片割れ」に呪いをかけられてしまった俺は、ひとりで踊り続けなくてはならなくなってしまったんですから。

……――

キテレツへ
 突然ごめんな。嘘だって思うかもしんないけど、心の底から反省してる。

 俺が生涯愛したのはお前だけだ。受け入れてほしいとかそんなんじゃなく、これは、本心なんだ。
 だからって昨日は気が動転して変なことを言っちゃって、ごめん。色々あったから……なんてのは言い訳にしかならないからやめとく。とにかく、いつの間にか切羽詰まってたみたいだ。今はだいぶ落ち着いたよ。
 多分、俺のことなんか二度と見たくないだろうけど……。いつか、また、会えたらいいな、って思ってもいいかな。俺も、今度こそちゃんと幸せになったら、そうしてもらえたら嬉しいなって。
 その時まで、お前は、今よりもっともっと幸せであってほしい。それまで俺のことは忘れていて構わないから。うん。それがいい。俺のことは忘れていてくれ。どうか。
 またな。


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望みを叶えてくれた貴方に

 近々オープンキャンパスに参加するため、関東へ赴く。別にその用を済ませるだけで十分なのだが、せっかくだから知り合いにでも会っておこうか。そう思い、向こうに住む人の内で最も連絡を取ることの多い人物へ、メッセージを送った。
 ところがどうしたことか、待てど暮らせど返事が来ないではないか。以前にやり取りをした際は遅くともその日中に何かしらのアクションがあったというのに。
 三日ほど経過して、さすがにおかしいと思ったので、彼のことを良く知っていそうな情報通にコンタクトを図った。

「聞いていないのか?」
 俺が用件を話したあと、初めに放たれたひとことがそれだった。何を、と尋ねれば言いにくそうに、言葉を紡ぐ。要するに、俺の連絡した彼は亡くなった、ということだった。驚いた。何せ、数ヶ月前には同じ合宿場で共に過ごしていた相手だ。そんな彼が、だなんて。信じ難かった。だが、今日は四月一日でもなければ、電話の相手も「そういう冗談」を言う人物とは思いにくかったので、信じることにした。

 聞けば、彼は沼に落ちて死んだそうだ。家族とキャンプに行き、その山中にある沼で。足を滑らせた弟を助けるために。
 その話を聞いたあと、どのように通話を終わらせたのか、定かではない。気づけば、ひとり。机に向かって、ぼうっとしていた。手元を見れば、いつの間にか中学時代の美術の教科書を開いていた。視界に映るのは……

 羨ましい。
 ……そうだ。そう思ってしまったのは事実だ。彼の死に方は、俺の「理想」に近かったから。

   *

「理想の死に方、ですか?」
「そ。暇だしさ、こういう話もたまには面白いかなって」
「はぁ……まぁ、そうですね。強いて言うなら、水辺で死にたい……ですかね」
「え。水死体ってエグいって聞くけど……お前、変わってんな」
「ち、違います! あくまで『理想』でしょう? だったら、のように死ねたら美しいのではないか、と思ったまでです。不幸に気づかず……。まあその辺の細かいところは抜きとして、アナタも見たことくらいはあるんじゃないですか?」
「どれどれ?」
「ほら、これですよ」

   *

 ゆっくりと水分を吸った衣服が、彼の自由を奪ったのか。状況が状況だ。きっと、醜くなってしまう前に救出されただろう。それもまた、羨ましい。
 増してや彼は単に水辺で生を終えただけではない。弟を救った、だなんて。なんとまぁ英雄的な。そこは「理想」と異なるが、彼らしいと思えた。それに、彼らしいと言えば、沈んでしまう前に彼は弟を怖がらせないためにと、歌を歌ったのではないだろうか。「彼女」が自分の不幸を知らずに歌ったのとは対象的に。
 なんて。そんな妄想をしてしまうということは、きっと。この話が俺にとって衝撃的なものだったということの証左だろう。
 ああ、丸井くん。丸井くん……果たして俺は、君の「理想」になれるだろうか。

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曇天を穿つ(曇りのち晴れ)

 彼を刺して、刺して、刺して刺して、刺して刺して刺して刺して、刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺せば刺すほど私の心は軽やかに、晴れやかになっていきました。
 私の身体が、彼の色に染まっていくのは気持ちがいいですね。

   *

 何をしているのだろう。丸井くんが、その髪色と同じ、赤い色を至るところから噴き出して、地面をも濡らしている。

   *

 東京に転勤してきて、早いことで三ヶ月が経過した。気候や慣習など中々慣れないものもあるが、それをも楽しむ心の余裕が生まれてきた。
 今日は休みだしふらっと街へ出て美術館なりでも巡ろうか。都会ではこういった選択肢が多くてありがたい。

 そんなことを考えていたら、突然スマートフォンが震えた。視線をそちらに向けると、見知った名前だ。
「またですか」
 今まで連絡なんてあまりしてこなかったのに。甲斐クンは俺がこっちに来てから数日に一回程度のペースで海の写真を送ってくる。うちなーを忘れるなということだろうか。そんなことが起こるはずないというのに。
 彼の送ってくる写真は、晴れているときの所謂「沖縄の海」というものだけではなく、曇りや雨、そして日中以外のものもあって、それは正直に言えばありがたかった。俺がずっと慣れ親しんでいたうちなーの海は決して碧くて綺麗なものだけではないから。
 普段通り、特に何か返信するでもなく、ただ、画像だけを保存しておく。

……あれ」
 通知に気が付かなかったのか、もう一件別のメッセージが届いていることを知る。送信元の名前を見ると、心臓が高鳴った。生理的なもの。嫌だ、という訳ではなくむしろ心地の良い苦しさ……そう。俺は片想いなぞをしてしまっているのだ。メッセージの、送り主……丸井ブン太、その人に。
 丸井くんからのメッセージは「明日」一緒にどこかでご飯でも食べないか、というもので、昨日の二十三時に届いていた。つまり、示しているのは今日、ということだ。俺としては一向に構わないどころか、嬉しい誘いであった。だが、今からでも大丈夫なのだろうか。とりあえず返事は送ろう。普段の俺の言動を考えて感情は抑えて。こんな、いい歳の男が思春期でもあるまいし、恋に浮かされているなんて思われたくない。何より、彼の前では、彼の思っているであろう「木手永四郎」でありたいから。

 「気がつくのが遅くなって申し訳ない。今日は休みだから、このあとならいつでも問題ない」という旨のメッセージを返したところ、すぐに彼からの返答が来た。どうやら行ってみたかったお店があるらしい。今晩、そこへ行くこととなった。

   *

「あの、ですね。丸井くん」
……何?」
「俺……君に、言いたいことがありまして」
「奇遇だな。俺も。お前に言わなきゃなんねぇことがある」

   *

 丸井くんと手を繋いでいる。夢のようだった。昼に彼の名を見たときとは比べ物にならないほど、心臓が早鐘を打っている。蒸し暑さと緊張感のために汗が出る。手のひらなんて、ビシャビシャになっていないだろうか。

「夜の公園って」
 突然丸井くんが口を開いたので、驚いてそちらを見る。電灯に照らされたその横顔は、ほんのりと朱い。先ほど飲んだお酒のせいなのか、それとも。
「結構いいもんだな。人がいなくて、静かで。ま、することもないから、ぐるぐる回ってるだけだけど。あはは」
……そうですね」
「あ、と。遊具! 遊具で遊んじゃおうぜ。ブランコ!」
 俺と繋いだ手をするりと解いて、丸井くんが駆けだす。俺もそれに続く。これからのことに期待を寄せても、いいだろうか。
 ああ……今夜はとても、月が綺麗だ。

   *

 こうしてベンチに座り、何分経過しただろうか。それでも丸井くんの話したいことは尽きないようで。いつからだ、とか、どこが、だとか。聞かされるだけでくすぐったいので、俺も負けじと返してやる。これは、彼の思う「木手永四郎」とは違うかもしれないが、今日くらいは、いいですよね。

「おっと。そろそろ行くか…………キテレツ」
……え」

 心がじわりと溶け出してしまいそうな。だって、こんなの……そんなの。
「丸井くん……!」
「へへっ」
 足早に去ろうとする彼の背中を追う。

 追った。追っていた。彼の背中を。でも、見えなくなった。

 ドサ。そういう音がした。しかし、静かだった。声はしなかった。何回も繰り返されるグチャ、という音が耳についた。今もそうだ。グチャグチャグチャグチャ鳴って、うるさい。止めなさいと、言わなくては。そもそも何をしているんだ? これは。俺の知らないこと。が、目の前で繰り広げられていた。
 足は動かなかった。声も出せなかった。身動きひとつ、取れなかった。この眼球だけはなんとか動かせた。よく見た。紅い、朱い、赤いものが、丸井くんの髪のような、いや、髪よりも暗いそれが、電灯に照らされた。ぬらぬら光りながら、周囲を濡らした。グチャグチャ。丸井くんをそうした「もの」が長い髪に顔を半分隠しながらこっちを振り向いた。ドロドロに泣いていた。恐らく。呻くように「たすけて」と言った。多分。俺だってそうしてほしいと言いたかった。が、喉がカラカラに渇いて張り付くようなので、できない。それでもなんとか声帯を振るわせようとしたけれども、息が漏れるだけだった。誰か、助けてあげてください。丸井くん。丸井くんならできますよ。だから、ねぇ、その人は除けて「いやー、いってぇわ」と言って笑って起き上がって俺と一緒にまた手を繋いでキスをして一緒に家へ一緒に帰りましょう俺と一緒にこれからそうしようって話したじゃないですか一緒に君と俺とふたりで暮らそうって俺は気が早いんですだから明日にでもその計画を実現するために動くつもりなんですからそんなところで寝ている場合じゃないんですよほら早く起きて早くお願いですからねえ早く目を開けて早く早くどうか目を覚ましてください……………………