黒竹
2024-03-17 23:59:47
27132文字
Public ひろがるスカイ!プリキュア
 

雲の上はいつも晴れ

【ツバエル】

「──おおかみがきたぞ。ひつじかいはけんめいにさけびました。だけど、だれもきてはくれません。おおかみはひつじかいのごはんをぺろりとたいらげ、つぎにちいさなこひつじにちかづきました」
 柔らかな声で紡がれるお話に、膝の上のエルはぎゅっと両手を握る。あわれ、なんの罪もない子羊は狼の牙に倒れてしまうのか、と固唾を呑んでいると、なだめるようにおなかをぽんと叩かれた。
「ぎんいろのおおきなおおかみがこひつじにとびかかろうとしたそのとき、いえでるすばんをしていたかいいぬがいちもくさんにかけてきました!」
「──わんわん!」
「いぬはこひつじのまえにたちはだかり、おおきくうなりごえをあげておおかみをいかくします。そのはくりょくにこわくなったのか、おおかみはいっぽ、にほとうしろにさがり、とうとうせなかをむけてもりのなかへとはしりさってしまいました。
ひつじかいはなきながらたすけてくれたいぬをだきしめます。ありがとう、きみはぼくのさいこうのともだちだよ。ひつじかいは、ずっとじぶんをしんじてくれていたいぬのためにも、これからはにどとうそをつかないとけついしたのでした。おしまい」
 ましろが絵本を閉じると、ほおぉ、とエルが大きく息をつき、小さな両手を叩き合わせて拍手をする。前方ではソラも感動の涙を浮かべながら同じように拍手をしていた。感受性の強い友人にましろは軽く苦笑いを浮かべる。
 少し離れたソファでカップを傾けながら片耳で聞いていたらしいあげはが、「オオカミ少年ってそんなお話だったっけ」やや面白がっているような口調で話しかけてくる。問われたましろは肩をすくめ、この中で唯一本当の結末を知っている友人に首を振った。
「本当は、嘘をつくと大変な目にあうぞっていう教訓のお話なんだと思うけど。でも、わたしはもっと優しいお話のほうが好きかなって。きっと、羊飼いの少年だって、大人たちを本当に困らせたかったわけじゃないと思うんだよ」
「ましろんらしいね」
 その感想はいろんなものを含んでいた。誰かを疑わず信じる心とか、種族の違いとか、何も犠牲にしない優しさとか。そう、腹ペコの狼さえ、空腹のままにしないほどの。
 すべてひっくるめての「ましろらしい」というあげはの感想だった。
 ソラとツバサはましろから絵本を借りて本当の内容を読み込むと、なるほどとあげはの言葉に納得のうなずきを返す。
「私、ましろさんが話してくれたほうが好きです」
「ボクもですね」
「えへへ、ありがと」
 膝の上に乗っているエルが「エルも!」と両手を振り上げる。当たってしまわないように顎を引きながら、ましろはエルにも丁寧に礼を言った。
 その頃のエルは本来の姿としてはまだまだ赤ちゃんで、読み聞かせてくれる絵本だってすべて覚えているわけではない。
 ただ、十年以上も経った今になって、この時に読んでくれた絵本のことを、そしてましろが付け足した結末の優しさについてよく考える。
 おおかみがきたぞ。
 そう叫んだ羊飼いの少年は、きっと本当は違う言葉を大人たちに聞いてほしかったんだろう。


 青の護衛隊のシャララ隊長や、辺境の村の村長から送られてきた提議書や陳情書にサインをしていく。将来的に女王になる身とはいえ、今はまだプリンセス、書類の内容は事前に執政官がチェックしていて、エルとしては国王代理として署名をするだけでいい。
 つまり単純作業だ。
……ぅ〜……
 部屋でひとり唸る。飽きてきた。スカイランドを救い、もうひとつの世界も救ったプリキュアの一人であり、伝説のプリキュアの力を受け継いだ特別な存在ではあるが、当のエルは両親ともうひとつの家族たちに愛されてすくすく育った若干十二歳の少女であって、当然、年齢相応に遊びたい盛りでもあった。
「まだこんなにある……
 分厚い束になった書類を眺め、げんなりと呟いてみるが、そんなことをしても書類は一枚も減らない。疲れてきた右手を自分で揉みながら気乗りしない表情で仕方なくのたくたとサインしていく。プリキュアの力で一気に書いたりできないだろうか。マジェスティクルニクルンみたいに勝手に中身が書かれたり。
 実に子供らしい発想をしながらペンを動かしていると、不意に扉がノックされた。プリンセスの執務室の扉をノックできる人物なんてそう何人もいない。そしてエルにとっては、その資格を持ったほとんど全員が大好きな人たちだった。
「はーい、どうぞ!」
 誰か話し相手になりに来てくれたのかもしれない。それとも、お茶にしようと誘ってくれるのかも。前のめりになりながら答えると、「失礼します」慇懃な声と共に扉が開かれた。
「プリンセス、お忙しいところすみません。今度建設する予定の新しい学校の設備について、予算の確認をさせていただきたくて」
……なんだ、ツバサか」
 途端にテンションが下がるエル。ツバサは気にもしていないよう。手にした計画書から顔を上げないまま柔らかい絨毯を踏んでエルに近づき、執務机の手前で止まる。
「こちらの学習教材ですね。調査したところ、あの地域で使うには少し改良が必要なようなんです。そのための研究費をいくらか予算に加えていただけないかと思いまして」
……また難しい話……
「仕方がないですよ。学校建設については僕とプリンセスが共同責任者なんですから、プリンセスの合意を得られないと先に進めないんです」
 プリンセスも分かっているでしょう? それこそ先生みたいな顔で言い含めてくるのが面白くない。
 いつもこうだ。仕事の様子を見に来ては何かと話をしてくれる国王と王妃、視察先のお土産だとおいしいお菓子を持ってきてくれるソラなどとは違い、ツバサはいつだって公務に関わる話題しか出さない。もうプリキュアごっこもしてくれないし、一緒に買い物なんてもってのほかだと渋い顔をする。
 エルはつまらなさを隠そうともしない怠惰な頬杖をついてツバサを見上げる。昔は大きくなればツバサより高かった目線はとうに追い越されていて、いくら背伸びをしても特徴的な頭頂部の巻毛を正面から見ることはできなかった。
「私、子供だから分かんない。ツバサのしたいようにしていいよ」
「そういうわけにはいきません。プリンセスにも分かりやすいように説明してる資料を持ってきましたから、一緒に確認を」
 比喩でもなんでもなく、ぐずる子供をあやす大人の口調だった。まだ昼寝をしたくないと暴れる赤ん坊をなだめるのと同じ口調。
 エルはそれが面白くない。
「外の空気吸ってくる!」
「え? あ、ちょっと、プリンセス!」
 慌てるツバサを無視して扉を抜け、廊下をプリンセスらしからぬ大股で歩いていると、前方から見知った姿がやってきた。こちらは憂いなくエルの表情が華やぐ。
「ソラ!」
「あ、エルちゃ……いえ、プリンセス。休憩ですか?」
 さすがに青の護衛隊の隊長職にある身で王女を気安くエルちゃんなどとは呼べない。ソラシド市ではまだしも、城の中で事情を知らない誰かに聞かれたら不敬だと騒がれてしまう。
 飛び跳ねそうな勢いでソラに駆け寄り、華美な装飾の護衛隊服の裾を掴む。自分の足で立てるようになったばかりの頃、ソラの脚にしがみついていたみたいに。
 ソラは柔らかく微笑んで、提案ですと示すように人差し指を立てた。
「これからソラシド市でましろさんたちとお茶をするんですが、プリンセスもご一緒にどうですか?」
「いいの!? 行きたい行きたい!」
 一も二もなく飛びつくエルにソラは朗らかに笑うと、半身を開けてエルをいざなう。と、後方から慌ただしい足音が聞こえてきた。それから情けない呼び声。エルがむっと唇を引き結ぶ。それを見つけたソラが小さく首をかしげた。
「プ、プリンセス、待ってください。せめて予算案の確認だけでも……
 順調に伸びた長い手足は振り子のよう。両手を持て余すようにだらりと下げて自然に揺れるままにしながら、ツバサは肩を落としつつエルのご機嫌を伺う。もちろん、伺われた先のご機嫌は麗しくなどない。
 エルはツンと鼻先を上げ、隣で棒立ちになっているソラの腕にしがみついた。
「悪いけど、これからソラと一緒にましろたちとお茶するの。ツバサに構ってる暇、ないから」
「ツバサくんも来ますか? あげはさんもいますよ」
「いえ、あいにく僕はまだ仕事があるので。あげはさんとましろさんによろしくお伝えください」
 まったく『あいにく』なんて思っていなさそうな、平気な顔で断ってくるツバサに更にモヤモヤする。前はいつも一緒だったのに。なにをするにも五人揃っていて、その真ん中に自分がいたのに。
 もちろん、今があの頃と何もかも同じようにできないことは分かっている。それぞれスカイランドとソラシド市で離れて暮らしていて、ソラは護衛隊の任務で辺境に出かけることも多くて、エルだって公務でやるべきことが増えた。
 けれどソラは忙しいなりになんとか時間を作ってましろたちに会いに行っているし、エルだって国王からミラーパッドを借りてましろやあげはと何時間も話し込んだりしている。
 なんだかツバサだけ、そうではなくなってしまったよう。
「プリンセス、帰ってきたら必ず見てもらいますからね。国王様にもプリンセスのスケジュールを空けてもらうようお願いしておきますから、逃げようとしても無駄ですよ」
「もう、分かった。ちゃんとお仕事はするから。行こ、ソラ」
「は、はい。それではツバサくん、また」
「行ってらっしゃい。プリンセスはまだ仕事があるんですから、長居しちゃいけませんよ」
「いちいちうるさい〜っ」
 結局ツバサは予算案をエルに見てもらうこともなく、ソラの誘いに乗ることもなく、残った仕事を片付けるためにと戻っていき、エルたちとはその場で別れた。
 トンネルを抜ける途中の空間をソラと二人で進みながらため息をつく。それを聞き逃さなかったソラが気遣うように視線を送ってきた。
「ツバサくんは賢者として忙しいですからね。仕方ありません。またどこかでみんなで予定を合わせて遊びましょう」
……昔は、毎週みんなで遊んでたのに」
「淋しいですが、いつまでもそういうわけにはいきませんよ。エルちゃんも本当は分かってるんでしょう?」
 ソラが手を繋いでくれて、その手が温かったから少し安心した。初めてソラシド市と繋がるトンネルを抜けたのも彼女と一緒だった。だからだろうか。いつでもトンネルを通る時に隣にソラがいてくれるとなんとなく心強い気持ちになるのだった。
 もう記憶も曖昧だ。ただうっすらと、ひどい恐怖に覆われていたことだけは覚えている。怖くて怖くて、けれど何もできなくて、知らない誰かに連れ去られて泣くことしかできなくて、そんなピンチを救ってくれたのがヒーローを目指す少女だった。
 家族、みたいだと思う。役割はない。母とか父とか姉とか兄とか、そういう線で結んだ関係はなくて、大きな円の中にいるような感覚。そんな『一緒』が心地良くて、それを一番くれるのがソラだった。自然にそうしてくれるのが嬉しいし、これからも変わらないんだろうと思えるから安心する。
 きっとそれは彼女の特性で、誰に対してもそうで、あるいはその特性がヒーローの条件なのかもしれない。いつまでもみんなを守るヒーロー。けれどそんな彼女にも特別がいることをエルはとっくの昔に知っていた。
 ヒーローの博愛を一身に受ける存在。矛盾したようなそれが実は一番ふさわしい有り様なのだということも、エルは知っているのだった。
……いいなあ、ましろ」
「え? ましろさんがどうしました?」
「なんでもない。今日のお菓子、なんだろ」
「ましろさんがマーブルクッキーを焼いてくれたそうですよ。新作に詰まってて気分転換に作ったら作りすぎてしまったそうで」
 忍び笑いを洩らしながらソラが教えてくれる。念願かなって絵本作家としてデビューしたばかりのましろは、二作目の構想を練るのに苦心しているらしい。昔から追い詰められるとどんどん落ちてしまうタイプだったけれど、今はそれを大量のお菓子作りで発散することで回避しているようだ。
 おいしいお茶と、甘いお菓子と、大好きな家族たち﹅﹅﹅﹅
 それだけ揃っているのに心が浮ききらない自分が情けない。


 境界の長いトンネルを抜けると、そこはましろの腕の中だった。
「エルちゃ〜ん!」
 ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる甘い腕にくるまれてエルも思わず笑顔になる。「おかえり」「ただいま、ましろ」抱き返していい匂いがする首筋に顔をうずめると、ソラとは違った安心感を得られた。
 エルの肩越し、ましろがふっと目を細めてソラと向き合う。
「おかえりなさい」
「ただいまです」
 振り返らないほうが良い状況だということはもちろんエルにも察しがついていた。
「ねえましろ、私おなかすいちゃった。クッキー焼いてくれたんでしょ?」
 早く食べたいとわざとらしくはしゃいだ声を上げると、ましろは嬉しそうに笑ってうんうんとエルの両手を取った。
「いーっぱい作ったから、好きなだけ食べてね。ソラちゃんもエルちゃんも食べ過ぎとは無縁だしっ」
 方や連日訓練や任務で動き回っている護衛隊隊長、方や伸び盛り成長期。ソラも楽しみですとニコニコしている。
 二人の真ん中で両方と手を繋いで家の中に入る。エルレインの力が顕現した際の成長した姿よりはまだ少し幼いが、そろそろ身長はましろに追いつきそう。それでも、誰ももう手を繋ぐなんて恥ずかしいとは言わないのだった。
 リビングではあげはが紅茶のポット片手に待っていた。三人の姿を認めて、お、と口元をほころばせる。
「エルちゃん、ソラちゃんっ。アゲ〜ッ」
「アゲ〜ッ」
 アゲアゲポーズで挨拶する三人。相変わらずな最強の保育士は、変わらない天真爛漫な笑顔で紅茶を淹れてくれていた。
「ちょっと久しぶりだね。二人とも忙しいの?」
「そうですね、私は先日まで辺境視察に出てましたし、エルちゃんも国王代理として任じられた公務が増えたので」
「へえ、すごいじゃん」
「ソラはともかく、私はよく分かんない書類にサインするだけだもん。つまんないよ」
 唇を尖らせるとあげはは軽く笑って、「それも大事な仕事だよ」と諭してきた。
「エルちゃんが将来、立派なクイーンになれるようにって、国王様たちが任せてくれてるんだから。ソラちゃんがみんなを守ってるのと同じくらい、スカイランドのみんなにとって大切なお仕事なんだよ?」
 おそらくツバサに同じことを言われたら噛み付いていたと思うけれど、あげはに言われると素直に聞けるから不思議だ。
……うん」
 ダラダラと気のない署名をしてしまったのを少し反省。あの一枚一枚が、スカイランドをより良くしたいという国民の願いなのだ。ちゃんとそういうことを考えないといけない。
 わずかにしゅんと目線を落とすと、ましろが慰めるようにエルの前にクッキーを敷いた皿を置いた。
「まあまあ、エルちゃんもまだ十二歳なんだし、これから少しずつお仕事のことも知っていけばいいよね」
 他の同年代の子よりも様々な経験をしているし、知っていることも多いのだけれど、それでも、ソラやましろ、あげはたちとは比べ物にならないし、単純な知識という意味ではツバサの足元にも及ばない。
 子供、なんだと思う。何をどうしたら子供でなくなるのか、子供でなくなることと大人になることは同一なのか、それすら分からないほどに、自分はまだ子供だ。
 ましろが焼いたマーブルクッキーは、ココアの部分が舌に絡むほど甘くて、ストレートティーとよく合った。そういうバランスの取り方もある。
 クッキーはふたつの色が絡み合って複雑な模様を作っている。
「ツバサくんは今日も欠席かぁ。せっかく旅から帰ってきたのにずっと忙しそうだね」
 もう少年とは呼ばなくなったあげはが独り言みたいにこぼした。最強のコンビなんて自称していた二人は、なかなか会う機会がなくても特に淋しくはなさそう。
「あげはは、ツバサが来られないの、嫌じゃない?」
「ん? まあ積もる話もあるし会えたら嬉しいけど。スカイランドで学校の先生とか賢者とかしてるんでしょ? そっちを応援したい気持ちのほうが強いかな。ツバサくんの夢を差し置いてまで会いに来いなんて言いたくないし」
 どこかとらえどころのないような、逆に落ち着き払ったような、どちらとも取れる態度であげはは答え、ゆっくりと紅茶を味わった。「大人だ……」「大人だよ……」なぜか大人のはずのソラとましろが感動の面持ちであげはを見つめている。エルは、よく分からなかった。
「あげはちゃん、すごいよ。わたし、ツバサくんくらいソラちゃんが来てくれなくなったら耐えられないかもだよ……
「ま、『あげはさんみたいな大人になりたい』なんて言われちゃった身としてはね。こっちはこっちでツバサくんに見られても恥ずかしくない大人でいられるように頑張って、ツバサくんはツバサくんで夢を追いかけて。そういうのがいいかなって」
「す、素晴らしいです……!」
 よく分からないなりに、あげはとツバサには、そうすることの必然性があるんだと思えた。最強のコンビは最強のコンビのまま、それでも別のあり方を見つけて、お互いにそれで良くて、たぶん、他人がどうこう言うことではないんだろう。
 ソラとましろだってそうだ。運命で定められていたのは五人。その中で二人は二人だけで特別に惹かれ合って、今もこうしてそばにいる。きっと、ソラはましろじゃないと駄目な理由があって、ましろにもソラじゃないと駄目な理由があったのだ。理由は言葉にならないものかもしれないし、明確な言葉になっても、エルが知っていいものではないのかもしれない。なんとなく、そんな気がしていて、エルは二人に尋ねたことはなかった。
 そばにいなくても繋がっていて、そう信じられる理由とか、誰かのそばにいられて、この先もそうだと信じられる理由とか。きっとみんなそういうのをそれぞれ持っていて、そうじゃない自分のほうが不自然なのかもしれない。
「ソラちゃん、時間大丈夫?」
「あ、そうですね、そろそろ出ないと」
 ましろが時計を気にしながら尋ねて、ソラも顔を上げてカップをソーサーに戻した。
「ソラ、もう帰るの?」
 てっきり夕方くらいまではいるのかと思っていたから、ほんの一時間ほどで帰り支度を始めたソラに面食らう。ソラはやや申し訳無さそうな表情になってエルの頭を軽く撫でた。
「これから隊長たちの会議がありまして。前の仕事が早めに終わったので少しだけお邪魔する予定だったんです」
「そうだったんだ」
「エルちゃんはゆっくりしていてください。国王様には私から伝えておきます」
 うん、とうなずいてから気づいた。
「もしかして、私お邪魔だった?」
 あげはもいるけれど、彼女は最初から事情を知っていた様子だし、もしかしたらソラはもっとましろと過ごしたかったのかも。
 自分だけが気づかず空気を読めない行動を取ったのかと気を揉むエルに、ソラはくしゃりと笑って首を振ってきた。
「大丈夫ですよ。私もエルちゃんと一緒にお茶をしたかったですし、ましろさんとはまた夜に二人で」
「たたっ、タイム! ソラちゃん!」
 なぜか慌ててソラの口をふさごうとするましろ。ソラは目を白黒させて、しかしおとなしく口を閉じた。
「ましろん、今のは別に大丈夫だったと思うよ」
 妙に平坦な口調でましろを諌めるあげは。エルもどうして急にましろが慌てたのか分からず首をかしげる。「あ……」ましろはソラの口を塞いでいた手を外してテーブルに突っ伏した。「だよね……
 気まずそうな表情のまま突っ伏していた顔を上げたましろが、誤魔化し笑いを浮かべながらエルに向き合う。
「えっと、エルちゃんはまだ平気?」
「うん。ソラ、夜も来るの? 邪魔じゃなかったらそれまでいてもいい?」
「もちろんだよ。じゃあ晩ご飯、エルちゃんの分も用意するね」
 ソラの仕事が終わってこちらに来られるのは、ちょうどエルがいつも眠る時間くらいになるらしく、それまで虹ヶ丘邸にお邪魔していることにする。あげはは今は離れた地区で一人暮らしをしていて、明日の準備のために帰らないといけないということで、エルだけが残ることになった。
 趣味の乗馬から帰ってきたヨヨと、ましろと三人で夕飯を食べて、ヨヨのこちらでの暮らしぶりを聞いたりしているうちに夜も更けてきた。
「そうだ、久しぶりに一緒にお風呂入ろっか。こないだバスバブルいっぱい買ってきたんだ」
「前にやってくれた、お風呂がモコモコの泡になるの!? やりたい!」
 お城の浴室はエルが両手足を伸ばしてもまだまだ余るくらい広くて、それはそれでゆったりできていいんだけれど、ましろとくっついて入るお風呂も大好きだ。バブルバスも楽しいし、エルはすぐさま賛成する。
 「もう入る?」「うんっ」それじゃあと準備のために一緒にリビングを出て、泡風呂ができていく様子を並んで眺める。蛇口から勢いよく流れ出るお湯にどんどん泡立っていくのを面白がりながら、エルはふと疑問に思って隣のましろに目を移した。
「なんでこんなにたくさんあるの?」
……か、可愛いのがたくさんあったから選べなくて」
 ましろの目が泳ぐ。見えすぎるとソラの我慢が利かなくなってのぼせる羽目になるからだなんて内情の説明はもちろんしない。

 完成した泡風呂に二人並んで肩まで浸かる。やや独特な手触りになるお湯を手遊びにすくい上げ、泡の中に落としてみると、泡にトンネルみたいな穴が空いた。
 出会った頃は中学生だったましろもすっかり大人になり、身体のラインとかかもし出される雰囲気とか、やっぱり比べてみると自分とは違う。それでも変わらないものもあって、たとえばこちらに向けられる視線とか、「熱くない?」と気遣ってくる声音とか、髪を結ってくれる手つきの優しさとか。
 こんなふうになれたらいいなと思う。そして、あんなふうに誰かを想えたらいいな、と、思う。
「ね、ましろ」
「ん?」
「ましろは、ソラとずっと仲いいよね」
 一瞬ましろがきょとんとして、それから照れくさそうに笑った。
「そうだねえ」
……そういう、そういうの、ね? どうしたら信じられた?」
 なにも具体的な言葉にできなかったのに、ましろはエルが何を聞きたいのかちゃんと理解してくれたらしくて、ふふっと照れ笑いを洩らしてから両手で泡をすくってはエルの前に積み始めた。こうやって重ねていったんだよ、と言うみたいに。
「でもわたしも、信じられるまで何年もかかったよ」
「え? そうなの?」
「もちろんずっと友達でいたいとはソラちゃんと約束してたけど。そうじゃなくなっちゃった自分を信じられるまでは、時間がかかったかな」
 ソラとましろがいつ『そう』なったのか、エルは知らない。自分が幼すぎたということもあるんだろうけれど、ただなんとなく家族のつもりで接していて、なんとなくいつからかそうじゃないものが見えてきて、なんとなく、二人は二人だけの特別を見つけたんだと気づいた。
 それでも、エルにとって二人は家族のままで、二人もそういうふうに接してくれた。だからソラもましろも、エルの家族であることに変わりはなくて、エルはそうされたのが嬉しかった。
……『ソラちゃんを好きなわたし』がいたら、今まであったものが全部ひっくり返っちゃうんじゃないかって、怖かった」
…………
「でもソラちゃんがそういうわたしの不安とか全部受け入れてくれて……。この人とならきっと大丈夫って思えたんだよ」
 まっすぐすぎて眩しい彼女の言葉にエルは軽く目を細めて、覗き見るようにましろの表情を観察する。彼女は微笑んでこちらを見ていた。なにか、見透かされているような気になる視線だった。ような、というより、本当に見透かされているんだろう。
 エルが言えないままでいると、ましろがそっと口を開いた。
「違ってたらごめんね。エルちゃん、好きな人できた?」
「っ、分かんな……
 反射的に否定しようとして思い直す。浴槽のへりに乗せた腕で口元を隠して、隣のましろの視線から逃げた。
……内緒だよ? 誰にも言わないでね?」
「ツバサくん?」
……たぶん、だけど」
 自分でも確証があるわけではなかった。ただ、昔みたいに接してくれないツバサのことが嫌で嫌で、それなのに本当の願いを口にできずに癇癪を起こすしかなくて。
 ずっと同じがいいおおかみがきたぞ
 叫ばないと淋しさに耐えられなかった羊飼いの少年。その気持ちはよく分かる。
「言わないの?」
「だって私プリンセスだもん。それに……きっとツバサは私のこと、そんなふうに思わないよ」
 あなたの騎士として生涯守り抜きます、と宣言されたのは十年も前の話だ。あの誓いすら今となっては風前の灯、顔を合わせればやれ学校の建設予定地がどうだ、子供たちの教育基盤がどうだ、この文献を調べるために王宮の資料がどうだと、そんな話ばかりだ。まったく騎士らしくない。
 騎士としてエルのそばにいるよりも、スカイランド中を飛び回って調査したり学校を作ることのほうが楽しいんだろう。あげははそれでいいみたいだけれど、エルはそれを我慢できない。
「ツバサくんは、今でもエルちゃんを大事に想ってると思うけどな」
「知らないよ、そんなの」
 拗ねた仕草で唇を尖らせるエルに、ましろは小さく苦笑して、背中をそっと撫でてきた。
 大丈夫だよ、と伝えてくる手のひらは優しくて心地良いけれど、慰めを信じる気にはなれなかった。