【カミ東】負けてもいいけどたまには勝ちたい

東雲さんをときめかせたいが負け気味なカミキリ様のお話。※この二人付き合っております。

マンションに入居したての頃、あまり有難味を感じなかったお休みの日が今や待ち遠しくて仕方ない。
はやく来い来いと思う気持ちが、お休みの日が近付くにつれ強くなって心の中から溢れ出そうになる。特にお休みの日前のお仕事中は顕著だ。終業時刻を気にし過ぎて視線が時計に気付けば向いてしまう。
「(モウ少し、もうチョッと……)」
あとは終業時刻間際にコールが鳴らない限り定時で上がれる。そわそわ浮足立つ心と体がさりげなく帰り支度を整え始め、やり残したことは無いか何度も確認をくり返す。
だけど、このまま素直に定時上がりしたいところを無慈悲なコール音が鳴り響く。喉元まで出かかった後ろ向きな思いを飲み込み、神社に祀られていた時にも度々遭遇した”一方的に不満や理不尽な感情を押し付けるだけ押し付け自分の鬱憤を晴らすため自分が納得する答えを貰え続けるまで駄々を捏ねる”そんな相手のクレーム対応をし終わったのは定時上がりの時間から大分経ってからだった。
大家さん曰く、サービス残業させないホワイトな職場なので残業代はきっかり出るが、それでも今日は定時に上がりたかった。
「(この類の人間今も昔も変わらナい)」
夜道を照らす街路灯の水溜まりを繋ぎ歩く足取りは心なしか遅く、また手に持った通勤鞄も重い気がした。
真っ暗な空に浮かぶ十六夜の月を眺め、ぼんやり夜ご飯の献立を考えマンション敷地内に入ったら、未だ車が一台も止まったことのない駐車スペースに人影を見付けた。
その人影は此方に気付くなり、右手を軽く上げ僕を出迎える。
「よっ、お疲れ様」
マンションの廊下を照らす照明灯の明かりを背負い笑う大家さんの姿に自然と駆け足になった。
「大家サん、どうして外にイル?」
「ん~気分? たまにはこういうのもいいっしょ」
大家さんの言いたいことが分らなくて小首を傾げたからだろうか。僕から視線を逸らしてバツが悪そうに彼女が頬を指先で掻いた。
「スマホにメッセ飛ばしても返事なかったし、残業でもしてんのかなァって思ってよ」
「返事……
言われ通勤鞄からスマートフォンを取り出して見れば、ぽこっと大家さんからの短いメッセージが画面表示されていた。此処でいつもなら大家さんにお仕事終わったとメッセージを送るのにしていないのをようやく思い出した。
彼女に対する申し訳なさ、自分に対する不甲斐なさで僕は口をきゅっと結んだ。
そんな僕の沈む気持ちを察してか、大家さんがフッと息を吐き僕のことをふんわり抱き寄せた。思わず瞠った目で彼女を見遣れば、目が合うなり何てことのないようにニカリと笑う。
「仕事、頑張ってえらいえらい。元気になるおまじない、なんつって」
特徴的な白い八重歯を覗かせ笑う大家さん。僕より大きくも女性らしい彼女の手が後頭部と背中に回され、僕をいっそう体の内側に招き入れてくれる。
柔らかくてあたたかな胸に抱かれ、自ら隙間を無くしてすりっと顔を埋め目を閉じた。規則正しくゆっくりな鼓動に耳を澄ませ、知らず緊張が解けていく温もりに自分自身想像以上疲れていたのだと思い知らされた。
いつの間にか大家さんの背中に回した腕。それが固く絡みついて離れられなくなる前になんとか解いたけど、名残惜しい通り越して諦めきれない手が彼女の上着を掴んで離さない。
埋めていた顔を上げた先、うんと心が近付き通わせた人にしか見せてくれない見させない──、今は僕だけに向けてくれる大家さんの眼差しに胸の奥がキュッとした。
眩いものを見るように眇められた夜明けを告げる瞳には僕しか映っていない。不意にしてくるのは変わらないけれど、以前と違い雑さが減った頭を優しく撫でる手だって僕にしかしない。
「(顔が熱イ……胸がきゅうってスル……)」
好きな人からしてくれる特別は叫びたいほど嬉しくて、諦めず時間を掛け思いを告げ続け彼女が僕の手を取ってくれたからこその叶った事実に心を震わせる。
「そろそろウチ入っか」
「うん」
大家さんが自分の上着を掴んでいる僕の手を解き流れるように握り直す。
その自然な動きに加えて、週末限定だけど彼女の言う”ウチ”が僕の部屋101号室なんだって改めて手を引かれ歩き思う。
エントランスホールを抜けてもエレベーターに乗らず、僕の部屋の前まで当たり前のように歩く大家さん。たったそれだけなのに、僕の手は彼女の手を強く握りしめてしまう。
「(僕ばっか意識してル……)」
通勤鞄から鍵を取り出すため、泣く泣く大家さんの手を離し鞄底を漁る。
思えば交際にまでこぎ付くのにあたり、はじめこそ真剣に受け取ってもらえずのらりくらり躱されていたけど、大家さん途中から意識してくれたのか照れ恥かしがるのが多くなった。
からかうなってわざと距離を取ったり、本気なのかよって戸惑ったり。紆余曲折後、僕の押しに負けた時の大家さんが一番余裕が無くて、彼女の複雑な感情が入り混じった顔は今でも脳裏に焼き付いて離れない。
「(あった)」
がさごそ鞄の奥から見付けた家の鍵を差し込んで玄関を開ける。
すると、部屋主の僕より先に大家さんが「たっだいま~」と言いながら中に入ってしまった。慣れた手付きで壁際の照明灯スイッチを押して玄関を明るくする。
咎める気なんて毛頭ない、ただちょっとした疑問と違和感を抱いていれば、大家さんがくるりと振り返りニカリと笑う。
「おかえり、カミキリさん」
今の今までずっと言ってくれなかったのを大家さんが何の躊躇なく言う。まるで、前から言っていたみたいに言う姿にまた僕の胸がきゅうっとなる。
ただいまだって、おかえりだって、僕が何度も言ってとお願いしても恥ずかしくて言えないって口籠っていたのに。
「(……ずるイずるイ、ズルい)」
廊下と玄関を隔てる敷居を跨ぎ、ドアが閉まる音を背中で聞いた。
薄くても外との繋がりを断った部屋の中。もう誰の目も気にしなくていい、僕の部屋の中。
「ただいま」
耳まで火照った僕は再び大家さんの胸の中へ静かに顔を埋め、長いこと独り言染みた挨拶が返ってくる喜びを噛み締め舌先に想いを乗せ言った。