すずめの声で目が覚めた。
相変わらずこの部屋に時計はないから、正確な時間は分からないけど、朝なのは間違いないだろう。そのひとはまだ眠っている。白い髪は眠る前と同じ形で、腕の力は抜けているようだったけど、僕の体に回されたままだ。
僕の髪は、そのひとの足を包むひと束以外、また少しだけ縮んでいた。確実に癒えてきてはいるらしい。それでも何となく体がだるいのは続いていて、完全回復にはほど遠いのが分かった。
規則的な寝息が聞こえる。胸から直接感じる鼓動はゆったりしていて、少なくとも、悪夢の気配は伺えない。
……そうだといい、という半ば願望混じりの観察ではあったけど。前はここで髪を動かして起こしてしまったから、今度こそ静かにしていようと決めて、目を閉じた。
記憶の中に甦るのは、昨晩のやりとりだ。本当は会わないで済む方がよかったけど、世界の全部に絶望するよりいくらかマシ。
……正しいな、と思う。
ダイスの出目の二つか三つがずれただけの“鬼太郎”は、僕とは少し違う道でも、同じ重さの運命を背負っていた。お義父さんの手に抱き上げられたあのときから、もう、それだけは変えられないんだ。辛くても、痛くても、苦しくても、自分に注がれた愛を裏切ることは絶対にできない。
人に優しくあってくれ、と僕に望んだのはお義父さんだ。力を振り回してひとを傷つけてはいけないとか、どれだけ強い奴であっても誰かを踏み潰す権利はないとか、奴隷になるのも奴隷を持つのもダメだとか
――それは多分に人間の理想なんだろう。僕の心には、確かにお義父さんの言葉が息づいている。
だけどもう、お義父さんの記憶はあまりにも遠くて、背を撫でてくれる手のひらの温もりは、世界のどこを探してもなかった。こちらの世界では体を取り戻した父さんがいるらしいけれど、そのひとが森に行かずに人間の街で暮らしていることを考えると、
……だ。
だから引き合ってしまったんだろう。
僕は最初から狙ってこの時空に来たわけじゃない。
分かってくれる誰かがいる場所へ、と祈って身を投げただけだ。
そうしたら、ちゃんと、分かってくれるそのひとがいた。でも分かりすぎて、少しばかり深入りしすぎてしまった、ような気がする。本当に、出会わずに済むならその方が良かったんだろう、とは思うけど
――でも、今の僕には、この場所があまりにも居心地がいい。僕の欲しいものをくれて、何も求めてこなくて、お互いを抱きしめながら、黙って目を閉じていても許される場所、
……なんて。
いつかは、帰らなきゃいけない。本来この世界の“鬼太郎”として存在すべきはそのひとだけだし、僕が元いた世界からは今、そこにいるべき“鬼太郎”が抜け落ちているからだ。
すぐに何か悪いことが起こるわけじゃない。それでも今のこの状態は、あまり良くないのだ。あまり長すぎる時間を一緒に過ごせば、いずれ、世界そのものがあるべき形から歪んでいく。その歪みはやがてより大きな歪みを呼んで、更に巨大な何かを狂わせてしまうかもしれない。
そうなる確率や、具体的に何が起こるかなんてことまでは、やった僕にも分からない。跳んでくる直前に考えていたことはといえば、今回も含めた三回とも、ただただ苦しかった、耐えられなかった
……それだけだ。
危ういことだとは、そのひとだって分かっているだろう。それでも僕をまるごと包んで受け止めてくれたのは、深さと重さを量ったらぴったり同じになるに違いない傷を抱えていた所為だ。それくらい、僕とそのひとは近すぎた。まるでお互いが鏡像だと思えるくらいに
――そのひとにとっては過去のやりのこしを、僕にとっては未来の可能性を映した、鏡像。
また、外からすずめの声がする。そのことに少しだけ安堵する自分がいて、一瞬だけ息が止まった。雨のときにすずめは鳴かない。体が治っていないから、雷雨が来なければ渡れないから、まだ帰らなくていい。
……言い訳してでもここに留まりたい、そう思ってしまったことに罪悪感が湧いてくる。
向こうの世界にいる皆の顔が、ちらりと思い浮かぶ。心配しているだろう、と想像はつく。でもその心配してくれる気持ちも、今はまだ、重く感じてしまう。自分の理想も人間との関わりも、古馴染みの仲間のこともご先祖様の想いも、全部が重すぎて潰れそうで、だから僕は逃げてきてしまったんだ
――このひとの、腕と髪の中に。
本当は、良くないのは分かってる。
でも今だけ、もう少しだけ、ここにいさせて欲しい。
僕の中に戦えるだけの力が戻るまで。
目を閉じたまま、そのひとの呼吸と鼓動を感じる。白い髪からかすかに流れてくる霊力の波も、ひたすら心地いい。そのひとが僕を通して自分自身を癒やしているのなら、この脱線も決して無意味じゃないはずだ。
まだ癒えきらない体が睡魔を連れてくる。
ぼやけ始めた意識の中で、そのひとのことを思った。そのひとは父さんをアテにできるようになったと言っていたけれど、じゃあその分だけ僕より楽なのかといえば
……もし問いかければ、そうだナ、と頷くに違いない。それは確信がある。何しろ、そのひとはいつかの未来の僕なので。
でも実際のところどうなのかと言えば
――戦う負担と重荷、それぞれ半分ずつくらいまで分け合ってくれる父さんがいたとしたら、今度は、父さんに負担をかけたくないという思いがのし掛かってくるに違いないのだ。父さんが助けてくれるのも、気を回してくれるのも、分かるからこそ。
今の僕とそのひとにとっては、そういうのこそ、一番重い。
極限まで静かな動きで腕を伸ばす。
そのひとの背を手のひらで撫でて、僕はまた眠りに沈んでいった。
――もう少しだけおやすみ、鬼太郎。
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