朝が来ても、空は分厚い雲に覆われたままだ。
雷の気配は去ったけれど、小雨が続いている。
この部屋に時計はなく、携帯端末もカバンの中だから時刻は分からないけれど
――外の音と、窓から差す日の高さからするに、午前八時頃と見当を付ける。
ひと組しかない布団を分け合って一晩眠ったけれど、そいつが夜中に一回も目を覚まさないどころか、日の昇る時刻になってもまだ寝息を立てているのは、初めてのことだった。
僕の白い髪と茶色の髪は、昨夜の記憶よりも少しだけ深く絡みついて、混ざり合っている。よく見てみれば、そいつの後ろ髪の長さ自体が、腰まで覆うくらいになっていた。
――重傷の証だ。
やっぱり、昨夜の判断は正しかった。こんな状態で帰れなんて言えない。
一体何があったらこんなに消耗するんだろうか。僕自身の経験では、消耗が一番キツかったのはあのバックベアードのときだったけれど、それでもここまで酷くはなかったと
……思う。多分。
今の僕は妖力に余裕があるから、分けてやるのは全く構わないのだけれど、そいつの消耗ぶりを直接感じたら
――そいつがどれだけ過酷な戦いを強いられているのかが分かってしまって、痛ましいような、苦しいような気持ちが浮かび上がってくる。
前には人間と妖怪のイザコザ、後ろには妖怪と人間の期待。板挟みになって、前にも後ろにも行けなくなったら、空いてるのは横しかない
――とは、前にそいつに言ったことだ。この例えで言うなら、僕は途中で『後ろがアテにできる』ようになった身とも言える。僕とそいつの間にある、ダイスの出目の差。父さんが体を取り戻してくれたというたった一事。
街でフラフラ暮らしている今でも、僕のところに妖怪関係のトラブルが持ち込まれることはある。でもそれも、死力を尽くして戦わなくてはいけないような案件は
……マア、ゼロではないにしても、かなり少ない。森の仲間と僕に、紛争の火の粉がかからないようにと、父さんが気を回してくれているからだ。
父さんの守りの手がなかったらどうなるか。
その答えが、今僕の腕の中で眠っているこいつだ。
こいつの生きてる時間軸では、最終的に、力で解決するしかない事態が頻発してるんだろう。力尽くの解決方法しかない状況に対して、応じられるだけの力があるから
――先祖の希望を背負って、それだけの力を持って、生まれてきてしまったから。
「酷だよなァ
……、」
気がつけば、勝手に言葉が漏れていた。
そいつの体験してきた時間と僕の体験してきた時間の量に、どれくらいの差があるかは分からない。でも、そいつが未だに子供の姿のままなのは、自分の体の成長に回せる力が少なすぎるからなんじゃ、と思った。
茶色い髪をそっと押しのけるようにして、掌で背中をさすってやる。
励ますように肩を叩く手はあるだろう。頑張れ、と背中を押す手もあるだろう。
でも、包んで慰撫してくれる手は、僕にもこいつにも一つしかなかった。その掌が、回り回って
――呪いなのか愛なのかよく分からない、絶対に失えない記憶になってしまった。
そのまま、僕も少し眠ったらしかった。次に目を覚ましたのは、髪の先に動く気配を感じたからだ。
腕の中のそいつは、どうやら意識は戻っているらしいが、動かない。ただじっとしたまま、静かな呼吸を繰り返しているだけだ。もう一度背を撫でてやったら、あ、と小さな吐息が聞こえる。
「起こしちゃいましたか。髪、」
「まだ戻せないよナ、いいって」
髪と掌で力を分けているけれど、そいつを癒やすのに必要な力の量を考えると、まだまだ足りない。相手が大人の体だったらもう少し効率のいい方法もあるんだけれど、今のそいつにやっていいことじゃない。状態を考えても
……あと、何というかこう、絵面を考えても。
「
……ごめんなさい。三回も、頼りっぱなしで。でも、」
もぞり、と胸元に動く気配。そいつの額が僕の体にすり寄せられてきた。
ああ、やっぱり同じだ
――僕がお義父さんにやっていたのと。
甘え方もその応じ方も、僕らはあの人との間にあったものしか知らない。
「ここが一番、
……息をするのが楽なんです」
僕は黙って背を撫で続ける。これも記憶にある通りの
――だけど今の僕は、少しだけ、違うことも知っている。
父さんを遠慮なく頼れるようになってようやく、僕が知ったこと。
「謝ンなくていい。誰だって、弱るときはある」
「でも」
「『強い』と『疲れない』は別。
……『平気』と『耐えられる』も、別だ」
そいつは何も言わずに、ただ僕が寝間着にしているTシャツを掴んできた。
ためらいがちな仕草だけど、ちゃんと言葉が届いた気がして嬉しかった。
「ここには僕しかいない、他に誰もいないンだ。だから、」
胸元に埋まっている髪に、そっと口づけてやる。
大昔、お義父さんがしてくれたのと同じ仕草で。
「今だけは全部棚上げして、目を閉じてろ」
茶色い頭が微かに上下に動くのを、感じた。
力を馴染ませるように、ゆっくりと、髪と掌から送ってやる。魂の形も波もほとんど一緒だから、驚くほど抵抗がない。少し前、とある事件でズタボロになった僕に、父さんが同じようなことをしてくれたけど、ここまで無駄なくとはいかなかった。
あとほんの少しだけ押せば、魂に入り込めるだろう。深入りしようと意図すれば、その体を乗っ取れるくらいには。でもそれをやってしまったら、多分、お互いに境界線を失ってしまう。だからそこだけは破っちゃいけない。
かわりに、魂の形を慰撫するように、力を送る。
昔、確かに同じだった
――そしてもしかしたらあり得たかもしれない、僕に。
「あったかい
……」
腕の中から声がする。
大きく息をつく気配と共に、ほとんど無意識に零れたモノらしかった。
きっと、同族にこうやって慰撫されるのは初めてなんだろう。そっちの父さんが目玉だっていうなら、髪と掌で包むやり方はできない筈だから。
「こんなの、
……いいん、ですか。僕、ばっかり
……」
半分、うわごとのような声が続く。僕は微かに笑って答えた。
「大丈夫。僕は放蕩息子やってりゃいいから、力の余裕はあるんだヨ」
これは掛け値なしの真実だ。少なくともこいつほど無茶をする必要はない。だからこうやって包んでやるだけの余力がある。ダイスの出目の二つか三つ、その僅かな落差の結果だ。
その落差で生まれた力をそいつに流してるのは、本当は良くはないのだろう。でも、できるかできないかで言うなら、できるのだから
――だったら、やらない理由はない。餓え死にしそうな奴に、手持ちのパンを分けてやって何がいけないんだ。
しかもそいつは、昔の僕と同じ餓えを持ち越したまま、独りで戦い続けている存在でもある。きっとこれから先も戦い続けるんだろう、魂の底にあの人の記憶がある限り。その過酷さを知る奴なんか、他にいる筈もない。
「
……持ってけ。お前に必要なだけ」
「ん、
……」
心地良さそうなが吐息一つ。言葉の返答はない代わりに、絡む髪がまた少し伸びた。互いの境界を破らないギリギリのところまで来て、止まる。特に意識した訳でもないのに呼吸が揃って、もしかすると、鼓動まで同じ速度になっているかもしれない。ここまで来たら、もう、何も言わなくたっていいだろう。
心と体と魂を寄せ合って、薄明るい部屋の中で目を閉じた。
気がつけば、また雨音が強くなり始めている。
こいつが髪を戻せるまでは、抱きしめていてやろうと思った。
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波箱
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