柚鈴
2024-02-18 17:19:51
23129文字
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でぃあぷろSeason2 有志合唱SS



②Redo

◇シノ・オーリム

 気が遠くなるほど遥か昔、人間は純粋で高潔だった。文明も規律も必要のない平和な世界で、神々にもっとも近い暮らしをしていた。善でないものが存在しなかったから、善という概念さえ要らなかった。だが、無邪気で純朴だった人々も、変質していく世界の中でその在り方を変えていった。耕作の始まりと共に富が生まれ、初めて優劣が誕生した。茫漠としていたすべてに無数の線が引かれ、罅の入った卵みたいに世界は切り刻まれた。切れ目に沿ってあらゆるものが比較され、人々の間には徐々に争いが蔓延り始めた。武器を取ることへの迷いが消え、敵を殺すことへの躊躇いがなくなった。堕落した人類に失望して、神々は世界を見捨て、地上を去り始めた。彼らに期待することも、改心を促すことも止めてしまった。そんな中で正義の女神だけは、最後まで人間を信じようとした。人々に対して正義を訴え、醜い争いを制止しようとした。きっと諦めなければ、元の美しい人間の姿に戻ってくれる。いじらしいほど純粋に、彼女はそう信じ続けた。だが正義の女神の祈りとは裏腹に、人間たちは彼女の忠告に聞く耳を持とうとさえしなかった。目先の利益ばかりを追い求め、知らない他人の命を平気で踏み潰した。欲望を満たすために文明や経済を発展させ、その繁栄がさらに欲望を増幅させる。そんな負の螺旋構造に囚われた人々はとうとう、欲望のままに大殺戮を行った。新たな命が芽吹くはずだった瑞々しい大地は、べったりと禍々しく真っ赤に血塗られた。見るに堪えないほど悲惨なその状況に、女神はようやく気が付いた。人間はとっくの昔に、取り返しのつかない場所まで堕ちていた。どれだけ救いの糸を垂らしたところで、人々はその先端を掴むために殺しあうのだと。いつの間にか人間は、それほど愚かな生き物へと変貌していたのだと。気高く美しい正義の神も、遂に人間に愛想を尽かして地上を去った。この世の善悪を測る天秤は打ち捨てられ、正義とは何かさえ忘れ去られた。絶対的な基準を失った世界には、ただ混沌だけが残された。何が正しくて、何が間違っているのか。答えを知る術は永遠に失われ、誰もが星の消えた夜に惑うことになった。今だって、きっとそうだ。視界一面を塞いだ暗闇に、意味のない自問自答を浮かべて口端を上げる。愚かな人間はいったい、どこで道を踏み外してしまったのだろうか。得体の知れない怪物に世界が滅ぼされるのが、神様の思し召しとでもいうのか。世界を裏切った人間を、神様が憎んでいるとでもいうのか。吹き飛ばされて切れた口の中に、喉を焼くような血の味が広がった。煤けて汚れた空気から酸素を取り込めば、肺がざらつくような息苦しさに襲われる。自然と浅くなる呼吸に、心臓が早鐘を打つのが分かった。鼓動が耳元で鳴っている。全身の血液が逆流する。祈るように武器を握りしめるけれど、手にはほとんど力が入らなくなっていた。指先が細かく震えるのを目視して、初めて気が付く。シノは、怯えていた。目の前に立ちはだかる無数の夜色が、避けられない死を連れてくることが。閉ざされたままの瞳が、二度と光に触れなくなることが。夜空の底に溜まった泥濘を薄い膜状に剥ぎ取ったかのような暗闇が、慈悲も情けもなくシノたちを囲んでいる。眼前に立ち込める無数のサクリファイスから庇うようにして、シノは武器を構えた。その背後には、真っ赤な液体に汚れた二人の少女が重なり合うようにして倒れている。ノアの大洪水にも似た、世界のすべてを押し流すようなサクリファイスの氾濫の日から、共に戦い続けてきた二人──ユウハとリオンだ。攻撃を受け流し損ねて倒れたユウハの白い長髪は、肩口から滴る血と泥に汚れ、間近に迫った死の気配を伝えている。アリシアを庇って灰になったリオンの左腕の跡は、血溜まりに溶けてぐずぐずと崩れ始めていた。もはや人体の一部であったことが信じがたいほどに原型を失ったそれが元々あった場所──左腕の付け根は、目を背けたくなるほどの生々しい赤色に塗れていた。錆びた刃物で乱暴に切り落とされた跡であるかのように、夥しい量の血液が流れ続けている。肩のあたりを切り裂かれただけのユウハよりもずっと重症だ。このまま放っておけば、失血死で命を落とすだろうことは明白だった。
……シノ、さん」
 伏し目がちに逸らされていたアリシアの目線が、不意にシノを捉える。射抜くような鋭さと懇願するような必死さを綯い交ぜにした色の瞳で、アリシアは告げた。
「取引を、しましょう」
 指先一つで簡単に瓦解しそうな虚勢を纏って、絞り出すような言葉が紡がれる。足元に広がっていく血溜まりから視線を逸らした彼女の手は、怯えたように震えていた。それを誤魔化すようにぎゅっと拳を握りしめて、アリシアは声を揺らして言葉の続きを告げる。
「私が、魔法で姿を隠します。だから……リオンを、助けてください。お願いします」
 言い終えると同時に、彼女は深々とシノに向かって頭を下げた。地獄に垂れた救いの糸に縋りつくような、本気の哀願だった。誰よりもプライドの高い彼女が、その悲壮さを隠そうともせずに、シノに頭を下げていた。その願いに応えてあげたい。叶えてあげたい。彼女の切なる願いが心を揺らして、心臓が鷲掴まれたように痛んだ。彼女の祈りを叶えられるのは、この場においてシノだけだ。シノの固有魔法である夜明け空の約束クレペリー・メモリアは、一瞬のうちに傷を治療することの出来る魔法だ。四葉のクローバーを模したオーブのような宝石を砕くと同時に、治したい傷が時間を巻き戻したかのように消失する。ほとんど致命傷のような傷でも、シノの魔法があれば瞬時に治癒させることが出来るのだ。止血されきっていないユウハの傷も、片腕を失ったリオンの負った傷も、魔法を使えば初めから存在していなかったかのように消失させることが出来る。助けてあげたい。助けてあげられる力を、シノだけが持っている。そう理解していてもなお、シノは即座に彼女の申し出を首肯することが出来なかった。そう感じてしまう理由は、考えるまでもなく明白だ。強力な魔法の使用には、それ相応の代償が必要になるからだ。どんな傷でも即座に治すことが出来る──ほとんど確定した死でさえも強制的にキャンセルすることの出来るシノの魔法が、何の対価もなしに使えるはずがない。致命傷に近い傷を完璧に治癒させるためには、それだけの代償を魔法の使用者であるシノが支払わなければならない。絶対的な規範に思える物理法則さえ無視するアイドルの魔法でも、リスクとリターンは釣り合っていなければならないのだ。強力な魔法を使う際に払う犠牲は、個々人によって様々だが──シノの場合は、「現実を正しく認識する能力」が奪われるようだった。魔法を使って治療をすればするほど、目の前の世界にノイズが紛れ込む。確かに見えていたはずのものが見えなくなって、見えるはずのないものが目に飛び込んでくる。自分に向けられる声は知らない間に遮断されて、静かに凪いでいるはずの空気が揺らいで音を伝えてくる。脳が掻き乱されたように、幻覚や幻聴に世界が侵食されていく。正しい現実が乗っ取られて、塗り替えられて、幻影に支配されていくのだ。しばらく時間を置くことで徐々に症状は治まるのだが、歪んだ見え方の世界にひとりぼっちで取り残されるのは、端的に言えば地獄そのものだ。狂人の世界が強制的にインストールされて、自分の意思では出られなくなる。このまま一生、この壊れた世界に囚われたままなのではないか。そんな強迫観念が頭を支配して、狂ったように叫び出したくなる。こうして何度も魔法を使っているうちに、いつか正常な世界に戻れなくなるのではないか、なんてことが頭を過る。だからシノは自分の魔法が好きではなかったし、余程のことがない限りは呪文を封印し続けてきた。そしてそのことは、アリシアだって重々承知のはずだ。これまでに何度も、共にサクリファイスと対峙してきたのだから。それでもアリシアは、シノに向かって頭を下げた。治癒魔法に対して払わされる代償を理解した上で、惨いことだと分かっていながらも、懇願せずにはいられなかった。自分が助かりたいからじゃない。リオンのことを助けたいからだ。愛する人に、このまま死んでほしくないからだ。泣き出しそうに潤んだ桜色の瞳に、胸がぎゅっと締めつけられた。シノとアリシアがもし、逆の立場だったなら。ユウハの命を繋ぐために、きっとシノは彼女と同じ決断をするだろう。大切な人を助けるためなら、土下座でも何でもして見せるだろう。ユウハがいない世界を生きていくなんて、想像するだけで怖くてたまらないから。アリシアとシノはきっと、似たもの同士なのだろう。世界の存在意義のすべてを、愛する相手に委ねてしまっている。そんなことを考えてしまったから、彼女の申し出を断るという選択肢を取れなくなった。シノ自身が犠牲を払ってでも、アリシアの懇願を叶えたい。そんな使命感に駆られた。
「分かりました。リオンさんのことは、私が必ず助けます。治療が終わるまで、サクリファイスはアリシアさんに任せました」
 一つ一つの言葉を誓いにして捧げるように、アリシアに向けてそう言葉をかえす。張り詰めていた糸が切れたみたいに、アリシアの表情が泣き笑いに歪んだ。本当は、二人とも、分かっていたのだ。四人を取り囲むサクリファイスの数は、一向に減る気配を見せない。むしろ時間が経過するにつれて、遠くの個体までもが引き寄せられるように集ってくるだろう。地平線までも埋め尽くすようなサクリファイスの群れを、たった一人で相手取るなんて不可能だ。アリシアの固有魔法──花曇る愛染プロプテル・アモーレムを使って気配を消したとしても、八方塞がりに包囲されている以上、ユウハとリオンを連れて逃げることはほとんど不可能だ。姿を隠すにしたって、ただの気休めにしかならない。アリシアの魔法だって、効果が永続的に続くわけではない。つまりどれだけ時間を稼いだところで、援軍のこない籠城戦と同じだ。先端に火の灯った紙撚りのように、じりじりと燃え尽きて灰になっていくだけなのだ。その上、リオンに対して魔法を使うことで幻覚を見たシノが、どんな行動を取るかだって分からない。サクリファイスに塗れたこの危険地帯で、冷静な判断能力を奪われることはほとんど死とイコールだ。正気とまともな判断能力を失い、幻覚を見て強迫観念に駆られて、サクリファイスの群れの中に突き進んでいくかもしれない。最悪の場合、味方であるはずのアリシアを攻撃するかもしれないのだ。致命傷に近い傷を魔法で治癒したあとのシノは、錯乱した理性なき獣と同じだから。つまりどれだけ足掻いたところで、シノとアリシアの命はここで尽きる運命だった。それでもシノは──きっとアリシアも、後悔はなかった。大切な人を守ることが出来るのなら、それだけで満足だった。自らの命を犠牲に退路を開けば、おそらく二人だけなら命は助かるだろう。それを成し遂げられるのなら、思い残すことなんて一つもなかった。随分前に、「命は等しく平等だ」なんてことを耳にしたのをふと思い出す。聞いたときも綺麗ごとみたいだと思ったけれど、今なら嘘だとはっきり言い切れる。命の価値なんて、どうしたって主観でしか測りようがないのだ。仮に世界を外から俯瞰して眺める絶対者がいたとして、そんな神様が明白な価値観を設定したとして。それをシノたちが知る手立てはない。交信不能な相手とは、思想を共有出来ない。だからシノたちは結局、個人の物差しに頼るしかない。命の価値も、人生の意味も、愛の定義も、何もかも。自らの構築した価値観と色眼鏡に委ねるしかない。ゆえに、命は決して平等ではない。少なくともシノにとって、ユウハの命は自分のそれよりもずっと重い。いくら分銅を積んだって、天秤の皿は釣り合わない。絶対的な正義を示すみたいに、ユウハの方に傾き続ける。そしてそれは、アリシアにとっても同じことだ。だからシノとアリシアは、ここで命を捨てようとしている。愛する二人のために。
 遥か昔、正義を司る女神は、人間の醜さに失望して地上を去ったという。いなくなってくれてよかった。見捨ててくれてよかった。神様の規範なんて揺るがない基準が消えたおかげで、シノは胸を張って言える。こうして命を投げ打つことは、紛れもない正義だって。これでよかったって、正しい道だったって、最期まで信じていられる。静かに瞼を下ろして、シノは視界から光を消した。暗雲の向こうに灯籠を放すように、指先を震わせて宙へと手を翳す。無数に蠢く暗闇の気配を感じながら、遺言を告げるみたいに、シノは徐に口を開いた。どうか、ユウハの歩む未来が、幸せなものでありますように。
「[rb:夜明け空の約束>クレペリー・メモリア]]」