らい
2015-11-23 20:38:14
14095文字
Public りついず
 

オートフォーカスの終着点

りついず♀→まこ③/瀬名女体化/「男の子になった日」→「わたしに傘をくれたひと」→これ


3.

 瀬名泉は気丈な女である。ダンスの練習で足をひねっても、遊木真のファンである女子グループに嫌味をぶつけられても、SNSに中傷コメントを書かれても、泉のその瞳から水滴が零れ落ちたところを凛月は見たことがない。いつぞやの『お菓子コンテスト』で、おぞましい造形のスイーツを食べさせたときは、さすがに生理的な涙を流していたけれども。怒りとか哀しみとか、そういったものが混ざった涙はなにがなんでも見せないと、こころに決めている。それが、瀬名泉という一人の人間だった。

 第三者から切っ先の鋭いことばを投げられても、泉はけっして泣かない。むしろ、背すじを伸ばして堂々と歩いている。氷の壁を感じさせる泉の立ち振る舞いは、不特定多数の人間を遠ざけた。高飛車でいけ好かない女だと後ろ指を向ける者もいた。それでも凛月は泉の生き方を気に入っていた。まっくろな夜のなか、兄に破られた”やくそく”を膝に抱えながら、ひとりぼっちに怯えていた頃の幼い自分。こころの中に眠っている記憶が、泉への憧憬を生んでいたのかもしれない。

 私は、絶対に、弱くない。

 昼下がりのワンシーン。追いそこねた背中の裏側には、なにが隠されていたんだろうか。彼女に抱いている感情は、日を増すごとに膨れ上がっていく。もはや憧れの名詞一つでは完結できないほどに。





 僕には、好きな女の子がいます。だから、ごめんなさい。泉さんの気持ちには、答えてあげられない。―――真は、そのように伝えたのだという。要するに泉を振ったのだ。真緒づてにその話を聞かされた翌日も、泉はごく普通に登校していた。ガーデンスペースから2年B組までの僅かな道のり。昼休みの終了まで残り五分を切ったところで、女子トイレから出てきた泉とちょうど鉢合わせたのである。
 泉はひとさし指に髪の毛を絡めながら、凛月を見やる。ふたりの視線が交差したところで、凛月はそっと手を上げた。


「セッちゃんだ、やっほい。こんなところですれ違うとは、奇遇だねえ」


 緩やかな角度で手を振る。泉は冷ややかな空気を纏いながら、ツンと澄ました表情で凛月を出迎えた。アイラインは僅かに引かれている程度で、細長いまつ毛だけが二重のラインに浮いている。薄化粧にも関わらず、美の造形物として完成している泉がそこに立っていた。”いつもどおり”の瀬名泉であった。


「セッちゃんって、気安く呼ばないでよね」
「セッちゃんは、セッちゃん。なんとなく、呼びたくなっちゃうんだよねえ」
「マジで意味不明すぎるんですけど。用がないなら、そこ通してくれる?」
「んー。やだ」
「はぁ?ほんと意味わかんない。それとも、なぁに。くまくん、なにか言いたいことでもあるの?」


 腕を組みながら、泉がこてんと首を傾げる。真緒から聞かされた事実が嘘のようだった。まるで昨日の焼き増しであるかのように、泉の反応はなにひとつ変わらない。


っていうか、くまくん、教室に戻る途中でしょ。もうすぐチャイム、鳴っちゃうよ」
「あ」
「『あ』って、あのねえ。次、どこ?まさか移動教室じゃないよねえ?」
「現代文だから、だいじょーぶ。セッちゃんは?」
「数学だけど」
「それなら、教室に戻るだけだね」
「あんたのせいで、その”戻る”が出来ずにいるんですけどねえ?」
「ふふ。通せんぼ、通せんぼ」
「馬鹿じゃないの。小学生みたいなことしないでくれる?」
「うん。ごめんね」
「分かってるんだったら、とっとと」


 行きなよ―――泉の声に覆い被さるように、数人の女子グループが横切った。くすくすと笑いながら、ふたりの横をすれ違っていく。廊下の賑わいのなか、女子たちの頭が楽しげに揺れる。彼女たちのやりとりは、凛月の耳にもすぐに飛び込んできた。


 そういえば、聞いた?
 なになに。
 あのひと、二年生のユウキマコトくんにフラれたんだって。
 えっ、ほんとう?
 ほんと、ほんと。『僕には、他にすきなひとがいるんです』って。
 えーっ、ユウキくん、すきな子いたの?
 ここ、アイドル科なのに、大丈夫なの?
 バレたら、どうすんの?
 ああでも言わないと、諦めないでしょ。
 断る口実ってやつ?
 そっかあ、しつこかったもんね。
 っていうか、なんで知ってるの?
 わたしの先輩がね。断ってるところ目撃したって。
 世紀の一瞬じゃん!
 何はともあれ、ユウキくん、よかったね。
 ただのストーカーだったもんね。

 あんなの顔がよくなきゃ、ただの犯罪者だよ。



 女の子という存在は、本当によく分からない。天使のように愛らしい顔立ちであるのに、可憐な容姿から飛び出ることばは、悪魔の実のように残酷な味をしている。凛月は怪訝な眼差しを彼女たちの後ろ姿に投げた。なにも聞こえるように言わなくたっていいのに。いや、わざと聞かせているのか。―――会話を弾ませる女子生徒たちの姿が廊下の角に消えたあとで、ようやく泉に向き直る。

 凛月の眉がぴくり、と痙攣した。泉が唇を噛みしめながら俯いていた。


セッちゃん?」


 薄灰の髪がウェーブを描きながら、頬を隠すように垂れ下がっている。凛月はもういちど名前を呼ぶ。セッちゃん。斜め上から身を屈めるように覗き込むと、泉はふふ、と微笑んだ。しかしながら上機嫌に取り繕えているのは、声色のみだった。眉は歪み、瞳は潤み、下まつげの端っこは濡れていた。未完成のまま展示された芸術品のようだった。今までに見てきたどの芝居よりも粗末な演技といえた。


教室、はやく戻りなよ。授業に遅れて、単位を落っことして、かさくんとおんなじ学年になっちゃったら、笑えないでしょ?」


 それじゃあね、くまくん。

 授業開始のチャイムが鳴り響いて、遅刻寸前の生徒たちが小走りで駆けていく。ミディアムに整えられた泉の髪先がくるりと踊り、甘みのある香りとともに凛月の真横を通り抜けた。泉は、人波と逆流するように去っていく。彼女が向かう方角は、3年A組の教室と真逆の階段に向かい始めていた。

 一体、どこに行くというのだろう。

 凛月はつま先を僅かに踏み出して、躊躇いと共に静止した。どうして、追いかける必要があるんだろう。来る者拒まず、去る者追わず。他人のことなんて放っておけばいい。他人がどうなろうと知ったことではない。他人のことなんて。他人の。他人の。他人の。他人他人他人他人他人他他他他他他他他他。


(誰かを追いかけるなんて。そんなの、俺の柄じゃないのに。俺は、そんな面倒くさいことしたくないのに。走るのはいやだ。疲れる。眠くなる。でも、それでも、セッちゃんは)


 泉の華奢な姿が、廊下の角に吸い込まれていく。気が付けば凛月の足は、最初の一歩を踏み出していた。二歩、三歩、四歩、五歩―――徐々に増えていくにつれ、靴音の感覚が狭まっていく。廊下を曲がり、誰もいない階段を足早に駆け降りた。階下にたどり着くまで、あと二段。わずかな段数を残したところで、泉にようやく追いついた。

 凛月は左手をそろりと伸ばして、泉の手首を掴みとる。細っこい身体の持ち主が過細い声とともに、ゆっくりと振り返った。おおきく見開かれた蒼の瞳は濡れていて、ブルーサファイアの宝石のように煌めいていた。


くまくん、……なんで」
「それは、あとにして」
「っていうか、あんた、授業」
「飛ばす。そんなことより、どこ行くつもり」
「は?」
「3Aこっちじゃないでしょ」
「それを教えてどうなるの」
「どうするかは、これから決める」
「それはくまくんの勝手でしょ。手、離して」
「やだ」
「なんで」
「離したくないから」
「意味わかんない。離して」
「やだ」
「一人にさせてよ」
「だったら尚のこと離したくない」
「離してってば」
「泣きそうになってたくせに」
「泣いてない」
「泣いてた」
「泣いてない!」


 必死に引き剥がそうとする泉の手を、凛月はさらに上から押さえつける。重ねた手の甲から伝わる温度は、冬でもないのに冷えていた。
 女の腕力は、男には決して敵わない。泉は諦めたように両手を下ろす。そうして、一段下から凛月を見上げた。


「くまくんも、聞こえたでしょ。さっきの女たちのコソコソ話。私が、ゆうくんにフラれたって話」
うん」
なるほどね。くまくんは、それで心配してるんだ。でもね、心配無用だから。ゆうくんにフラれて悲劇のヒロインになるほど、メンタル弱くないし」

「憧れの王子様に恋い焦がれて呆気なく失恋して、そして挙句の果てに学校を休んだりしちゃうような、そんじょそこらの女とは違うの。マジで勘違いしないでよねえ」

「あとさあ、これって何回も言ってることだけど、私は絶対に弱くないし、これからも絶対に弱いヤツになんかならない。だから、私のことそんな風に”ほっとけない”って思うのは、一切やめて。誰かの救いの手がないとろくに歩けないような、脳みそふわふわの女に成り下がったみたいでしょ」

「うわ、何その顔。マジでやめてよ、辛気臭いなあ。あんたは元々あんまり笑わないほうだけど、そんなふうにお先まっくらな顔されると、マジでかわいそうな女みたいなんだけど?……ああ、それとも、『俺はせっかく心配してやってるのに、なんだこの女』って腹が立ってる?あはは、そっかあ。ごめんねえ、気が付かなくて」

「くまくんさぁ。マジで心配してくれるのはありがたいけど、私、ほんとうに平気だからさあ。ふふ、ふふふ。ほら、笑える。いつもみたく笑えるわけ。フラれたって笑えるの。べつに死ぬわけじゃないし、なんにも変わらない。……なんにも」

「あ~あ。ゆうくんってば、ひどいなあ。ねえ、くまくんも、ひどいと思わない?ゆうくんは、どうして私のこと、選んでくれなかったんだろう。私の顔には億の価値があるのに。お望みなら髪だって切るし何だったら腰まで伸ばしてもいいし、メイクだって好みのテイストに変えてあげるのに。ご飯だって、毎日のように大好物を作ってあげる。……ちょっと恥ずかしいけど、それ以上を望むなら、他にも、何だって」

「ねえ、なんとか言ってよね。さっきからシカトとか、チョーありえないんですけど。……あーあ、ほんとうに残念だなあ。ゆうくんのこと、こんなにも好きなのに。ゆうくんのこと、こどものころからずっとすきだった。かわいいかわいいキッズモデルの泉ちゃんじゃなくて、たったひとりの瀬名泉として慕ってくれた。だから、ゆうくんが今の私を好きでいてくれなくたって、私はゆうくんのこと好きだった。大好きだった。ゆうくんのこと、いつだって見ていたかった。ゆうくんがいないときだって、スマホの中にいるゆうくんを見てるだけで、しあわせだった。ゆうくんを見てるときの瞬間が、ずっと永遠だった」

「でも、ゆうくんは、違ったんだよねえ」
セッちゃん」
「もしも、ゆうくんが、迷惑だって思ってるんなら。写真を見ることも、気持ち悪いって、思われるんだったら」


 制服のポケットに手を入れて、一秒と経たずにスマートフォンを取り出した。泉がなにを実行しようとしているのか、凛月はすぐに把握した。


「セッちゃん、なにすんの」
「消すの」
「写真を?」
「それ以外に何があるわけ」


 ゆうくん、かわいそうでしょ。
 泉はスマートフォンを指でなぞる。画像フォルダを開いたところで、凛月はふたたび泉の腕を掴んだ。カッと火が付いたかのように泉の眉毛が吊り上がる。


ちょっと!いい加減にしてくんない!?」
「セッちゃんは、そういうことする子じゃないでしょ。数年間も好きだった相手のこと、指先ひとつで安易に消すような子じゃないでしょ」
「くまくんには関係ない。文句を言われる筋合いなんてない」
「文句は大アリだね。セッちゃんがそれでスッキリするんだったら、俺だって口出ししないけど。でも、スッキリするとは思えない。だから、わざわざ言ってんの。わかんない?」
「わかるわけないでしょ!というか、知ったようなくち聞かないで。あんた、私のなんなの?私の何を知ってるの!?」
「なんにも知らないよ。きっと、セッちゃんのこと3分の1も知らない。だって俺たちKnightsの同期で、それ以上でもそれ以下でもないんだから」
「だったら」
「それでも」


 入学式で初めて出会って。Knightsで一緒になって。暗黒時代の夢ノ咲学院を過ごして。王様がいなくなった後もふたりで背中を合わせて。嵐と司のふたりを出迎えて。朝も、昼も、夜も、少しずつではあるけれど。ずっとずっと、その姿を見続けてきたのだ。


俺だって。……かわいいかわいいキッズモデルの泉ちゃんでも、憧れのカリスマモデル瀬名泉でもなくて。今、目の前にいる、セッちゃんとしての瀬名泉を、ずっと見てきたって言ってんの」
「なに、言って」
「だから、放っておけない」
「くまく」
「本当はかなしいんでしょ」
「やめて」
「本当は写真なんか消したくないんでしょ」
「やだ」
「泣きたいなら、泣けばいい。どうせ、俺しか見てないし。……俺だけに、見せてよ。完璧な瀬名泉じゃなくて、未完成なセッちゃんの姿」
……
「ねえ。……それを見せるのは、俺じゃあ、……だめ?」
……あ」
「セッちゃん。俺は、セッちゃんのことが」


 泉の腰を引き寄せて、至近距離に顔を近づける。唖然と立ち尽くしている泉の掌から、スマートフォンがこぼれ落ちた。あ。泉の小さな声が上がる。落下する携帯に気を取られた泉のからだが、スローモーションのように揺らいだ。凛月はとっさに泉を抱え込んだ。パリ、と液晶画面が割れる音がしたあとで、ふたりの足がもつれる。天井がひっくり返って、目の前の世界がぐるりと回転した。凛月の背中に鈍痛が走ったのは、その直後のことだった。ふたりの身体は折り重なって、二段下の床に転げ落ちていた。


セッちゃん、平気?」


 腕の中に閉じ込めた泉に語りかける。泉はぐちゃぐちゃの前髪を額に垂らしながら、唇をきゅっと引き結んだ。美しく整えられた眉はいびつに震えて、瞳いっぱいに涙の膜を張っていた。すこしでも揺さぶれば零れ落ちてきそうなほどに。


くまくん。くまくんは、サイテーだよ。……どうして、そんなこと、言うわけ。……べつに、ひとりで歩いていけるのに。……ひとりで、歩いていきたいのに。今までだって、そんなふうに、生きてきたのに。……くまくんに、そんなふうに、言われたら。そんなふうに、言うから」


 ただの、弱い女に、なっちゃう。
 ヤワな、女に、なっちゃう。
 ひとりで、歩けなく、なっちゃう。

 周波数の合わないラジオのように紡がれる声は、徐々に小さくなっていく。
 ばか、うざい、うざすぎてしんじゃいそう。
 泉は凛月の胸にこぶしを突きつけた。とん、とん、と力なく叩かれるたびに、凛月はにこりと笑いかけた。そうして、泉の背中をポン、ポン、とあやしてやった。ああ、痛いなあ。背中、マジで痛い。たかだか二段でも、やっぱり落ちると痛いんだねえ。脳の片隅で痛みを認知しながら、ぽろぽろと涙をこぼし始める泉を見上げる。こころに埋没していた膿が、ゆっくりと流れ落ちていく気がした。

 なんだって、こんなにも苛々していたんだろう。きっと、時間の無駄だった。ひどく単純な話である。はやく認めておけばよかっただけの話だった。

 朔間凛月は、瀬名泉に恋していた。