吾妻
2024-01-23 15:28:53
14522文字
Public GOD EATER
 

Two of a Kind

■弊アナグラのGE無印~GERまでの間にあった出来事のまとめです。
第一部隊配属後、リンドウやサクヤとの研修期間中の幻覚。
いつもの弊第一部隊、弊リーダー♀ですが、ほぼ絡みはありません。
本編で書かれていないことを都合よく補完しているのでご注意ください。


3.

『怖い人だな』
 それが、月城ルイが抱いた雨宮リンドウに対する第一印象だった。
 極東初の新型神機使いとして配属された第一部隊。その部隊長である彼に引き合わされたとき、なぜか漠然と、そう思った。
 今になってみれば、どうしてそんな印象を抱いたのかわからない。
 リンドウは決して一般的にいうところの『怖い』人間ではないからだ。
 高圧的でもなければ、粗暴なところもない。酒と煙草を人よりも多く嗜むようだが、別に酒癖が悪いわけでもない。
 それどころか、決して器用とはいえないものの、新入りの緊張を和らげようと気を回している様子すら垣間見えるほどだ。
 長年極東のトップを張り続けてきた実力は伊達ではなく、損害を最小限に抑えて勝利するその戦闘スタイルは、アラガミの脅威に怯える人々にとっては希望以外の何物でもない。実際に、アナグラの中には彼を英雄の如く崇める者が数多くいる。
 実力も人望も兼ね備えた、優秀で頼りがいのある上官。
 しばらく共に任務をこなした今では、ルイもそう認識している。
 それでも。
 初対面時に抱いた、うまく言語化できない違和感を、今でも拭いきれずにいる。
(人を見る目はあるつもりなんだけどな)
 それは、掃き溜めで生きるために身に着けた技能だった。
 誰も守ってくれないからこそ、自分で自分を守るしかなかった。
 悪人が常に悪人の顔をしているとは限らない。
 いい人のふりをして近づいてくることだって、たくさんある。
 ゆえに、相手を見定めなければならない。疑り深く、慎重に、相手の本質を見極める。その力には自信がある方だ。
 直感。もしくは野生の勘と呼べるもの。ほとんど外したことがない。
 だからこそ、妙だなと思う。
 自分は何をもって、雨宮リンドウを『怖い』と感じたのだろう?
(何を考えているのか読みづらいから?)
 左目を隠すように伸ばされている前髪のせいでもあり、そもそも普段からあまり自身の感情を表情に出さないからでもあり。
(違う。それ以上に――
 ルイは、相棒であるロングブレードを肩に担ぎ上げて先頭を歩くリンドウの背を見つめた。背に輝く狼のエンブレムと目が合った。
(背中ばっかり、見てる)
 彼について考えるとき、真っ先に思い浮かぶのは背中だ。
 いかなる戦場でも先陣を切ってアラガミを斬り伏せ、喰いちぎる、背中。
 とてつもなく頼もしく、それでいて遠くも見える。
(この人はたぶん、私のことを信用していない)
 仲間としての信頼がないわけではない。単純な好悪でもない。それ以前の問題で。
 この人ははじめから、誰も隣に並ばせる気がない。
 危険に踏み込むのは自分だけでいいと思っている。本人に自覚があるのかどうかは知らないが、全部自分で背負ってしまうつもりなのだ。だから同じ部隊の人間にさえ、背中ばかり見せる。
 『ナメられている』と腹を立てるつもりはサラサラない。いくら最新鋭の武器がこの手にあるのだとしても、自分が右も左もわからないヒヨっ子であるのに違いはないからだ。
 実際に守ってもらっている分際で、面と向かって糾弾はできない。
 口だけなら誰でも何とでも言える。でも、口先だけのみっともないヤツにはなりたくない。
 過去も弱音も全部捨ててきたのだ。今、この体に残っているのはどうしようもない怒りと捨てきれないプライドだけ。自分を惨めだと思いたくない。
(強くならなきゃ、ここに来た意味がない)
 まだ真新しい神機を握る手に力を込める。
 目指す背中が遠くにあるなら、追いつく努力をするべきだ。一分一秒も無駄にはできない。
 でも、強くなったその先で。
 わたしは、何を手に入れるんだろう?
 ――行き着く先は、どこだ?


《極東支部より第一部隊へ。リンドウさん、聞こえますか?》
 思考を遮るように、女の声が無線越しに届いた。
 オペレーターである竹田ヒバリの声は、温厚な彼女にしては硬質だった。
「おう、どうした?」
 応じるリンドウは鷹揚だ。まるで、通信が入るのをはじめから知っていたかのように。
《作戦区域に接近中の中型種を検知しました。数は三》
「内訳は」
《コンゴウ二体とシユウ一体です》
……そいつはまた大所帯で」
 こちらから見えるのはリンドウの背中ばかりだが、それでも彼の声に苦味が混じるのがわかった。隣に立つサクヤの表情が引き締まる。
《侵入予測ポイントの座標をお送りします》
 間を置かず、各々の端末に座標データが転送されてくる。先日研修を受けたばかりで、まだ見方が覚束ないが、コンゴウ二体が作戦区域の北側で群れを成し、シユウは南側を徘徊していることはわかった。
《コンゴウ二体は、廃寺本堂に接近中。シユウは南側の旧住宅地付近を通過中です。現在はまだ距離がありますが、このままのルートで進行が続くと、どちらも皆さんのいるあたりを通過する想定です》
……挟み撃ちはぞっとしないな。迎えは寄越せそうか?」
《すみません、ヘリの到着まで最低でも二十分はかかります》
「このままここで迎えを待ってても、先に連中に見つかる……か」
「リンドウ――
 何かを察して、サクヤが口を開く。
 しかし、彼女が言葉を続けるよりも早く、
「サクヤ、お前は新入りを連れて、南側の旧住宅地付近で待機。シユウの動きを監視して、逐次報告。こっちからは手出しをするな。万一見つかった場合も、北側に接近しないように誘導しつつ視界を切れ」
「リンドウ!」
 苛立ちを顕にしてサクヤが語気を荒らげても、リンドウは背を向けたまま動かない。
 端末を耳に当て、部隊員こちらではなく無線の方へ語りかける。
「第一部隊より極東支部へ。俺がコンゴウを仕留めに向かう。サポートを頼む」
《了解しました》
 通信を終え、リンドウが普段通りの人好きのする笑みを浮かべてこちらを振り返る頃には、さほど付き合いが長くないルイにも彼が何をしようとしているのか、何故サクヤが咎める声を上げたのか、流石に察しがついていた。
 この男は、一人ですべて片付けるつもりなのだ。
「隊長命令だ、いいな?」
 部隊長の特権を振りかざして念押しすると、雨宮リンドウはエリア北部に位置する朽ちた寺へ向けて駆け出した。
……もう!」
 苛立ちや不安、そして諦念。
 サクヤは遠ざかる男の背を睨みながら、複雑に混じり合った感情を、溜まりかねた様子で吐き出す。その様子は、常にフラットな安定感を保つベテラン狙撃手には見えなかった。
 それでも彼女には、昔馴染みへのある種の許しが感じられる。
 一方ルイはというと――怒髪天を衝くほど腹を立てていた。
 リンドウ本人と、それから自分に、だ。
 確かに極東いちの手練れなのだろうが、あんまりだ。あんまりにも、残される側の惨めさに無頓着すぎる。自分たちは共に戦うためにここにいるのに。
 だが、その憤りを吐き出す資格が自分にないことも、ルイは理解していた。
 戦力に数えられずに腹を立てるには、自分はまだ弱すぎる。力量も、経験も、何もかも足りない。サクヤが抗議を途中で飲み込み、ここに残る判断を下したのも、ルイがいるからに他ならない。まだ右も左も分からない『研修生』が一緒でなければ、サクヤはきっとリンドウに同行することを選んだだろう。
 自分一人の面倒も見られない人間が、頭数に入れて欲しいなんて虫が良すぎる。だから余計に腹が立つのだ。自分の不甲斐なさに。
「貴方の言いたいことはわかるつもりよ。でも、とりあえずここを離れましょう。シユウをコンゴウと合流させるわけにはいかないから」
 サクヤは既に平静さを取り戻していた。凛々しい顔つきでルイを一瞥してから、先に立って歩き出す。
「でも、ちょっと安心したわ。貴方、そんなふうに怒った顔もできるのね」
 斜め後方から見えるサクヤの唇が、笑みの形に緩む。
……
 平時ならば、へらへらとした顔で調子のいいふりも出来ただろうが、今はそんな余裕もなく、沈黙を選んだ。何しろ、腹を立てていたので。
(我慢弱くなってる)
 どれほどの苦境に立たされても、痛みや絶望を味わっても、もう何も感じないと思っていた。
 この世界の非情さも、力を持たぬ者の惨めさも、嫌というほど身に染みている。尊厳という尊厳を踏み躙られて過ごした地獄を思えば、今更どんな扱いを受けたとしても人畜無害な顔で笑っていられると、根拠もなく信じていたのに。
 この腕輪を嵌めてから、感情的になりすぎている。
 力を得て浮かれているのだろうか? まだ扱いきれてもいないくせに。
……あんまり、悪く思わないでね」
 崩れかけた人家の隙間、とても道には見えない小道へ足を踏み入れながら、サクヤが小さく呟いた。
「あの人、なんでも一人で背負っちゃうけど、悪気があるわけじゃないのよ。昔からああなの。自分でやらなきゃ気が済まないのよね」
 サクヤの声からは、諦めに混じって深い親愛の情が感じ取れた。リンドウとは幼馴染だと聞いたが、おそらく二人の間にある感情はそう単純なものではないのだろう。
……このへんに詳しいんですね」
 サクヤの言葉への直接的な言及は避けて、素直に思ったことを口にした。先程から彼女は、隊長に指示されたポイントへの最短ルートをとっている。
「そうね……。昔、この辺りに住んでいたからかしら」
 住んでいた?
 サクヤの言葉を受けて、ルイは建ち並ぶ廃屋を見渡した。
 壁や屋根は無惨に喰い荒されて、最早家屋のていを成しているもののほうが少ない。それでも目を凝らせば、崩れかけの軒下に、砕けた食器や壊れたおもちゃなどが散乱していて、生活の名残を感じることができた。
 そうか、かつてはここに、人が暮らしていたのか。
 当たり前だ。建築物は、人間が生活を営むために建てる。はじめからアラガミの餌にするために放置されているものなどない。
 今ではぼろぼろに蹂躙され、年中風雪に晒されているこの場所も、かつては人の住む文化圏だった。そんな当然のことさえ、自分はすぐには思い至れない。荒ぶる神に奪われたものが、あまりに多すぎる。
 苛立ちがぶり返し、反射的に舌打ちをしそうになって、瀬戸際で堪えた。行儀の悪い振る舞いは、可能な限りしたくはない。掃き溜めで染みついた悪癖を、意識的に削ぎ落としたかった。

 過去を消し去ることはできない。
 それでも、生き方を変えようと努力することならできる。
 嘘でもいい。演技でも構わない。
 生まれ変わるチャンスは、おそらくこれが最後だ。
 なりたい自分になろうともがくのは、滑稽だろうか。
なりたい自分 ・・・・・・、だって?)
 頭の片隅で、もう一人の自分が嘲笑う。
 お前にまだ、そんな欲望が残っていたのか。
 温かな食事と寝床。掃き溜めの片隅で、必死に欲しがっていたものは、もう手に入れたはずなのに、これ以上何を望むと言うんだ?
 明日の命を繋ぐのも精一杯だった獣が。居場所を見つけたら、今度は『人間』になりたがるのか。
 ルイは思わず胸部を押さえた。押し当てた掌の下で、もはや体の一部に成り果てた古傷が疼く。あの奈落からどれほど遠く離れたとしても、決して消えはしない痕が、自分が何者かを知らしめてくる。
 建物と建物の隙間。道とも呼べない狭間を歩いていると、自分が今どこにいるのかわからなくなりそうだった。
 もしかしたら自分はまだ、あの掃き溜めの中を彷徨っているんじゃないのか?
 世界にまだ数機しか存在していない特別な神機に適合したなんて。
 〝選ばれた〟なんて、都合のいい夢じゃないのだろうか。
 右手の先にぶら下げた神機の柄を、強く、強く握りしめる。
 今はこれだけが。荒ぶる神を喰いちぎる牙だけが、自分と世界を繋いでいる。
 〝優秀な新型〟を演じることで、足場を保っている。

 進むべき道すら見つからないのに、それでもまだ生きたいと望むのか?

 小道の出口が見えたところで、前方を歩くサクヤが不意に屈み込み、片腕で背後のルイを制した。先輩に倣い、ルイも無言で身を屈める。丁字に接した比較的幅のある道を、地響きにも似た足音を立てて近づいてくる〝もの〟がある。
《シユウ、まもなく前方を通過します》
 無線を通じて、ヒバリの硬質な声が届く。
 その言葉通り、くすんだ銀色の巨体が眼前を悠然と横切っていった。
 座学で習った通り、聴覚は鈍感で、視野も狭い。これほど近くにいても、見向きすらされなかった。
 機動力に優れる厄介なアラガミではあるが、立ち回りさえ間違えなければ勝機はある。
 そう。冷静に立ち回ることさえできれば。
 ルイは、今の今まで〝自分ならうまくやれる〟と思っていた。
 勉学は苦手な方だが、物覚えになら自信がある。座学で学んだ通りに、的確に獲物の弱点をついて、仕留められると信じていた。
 だが、実際にシユウを――あの翼手でこの首を掴み、死の一歩手前まで追いやったアラガミを目の当たりにした瞬間、腹の底から急激に熱いものが込み上げて、瞬く間に全身に広がった。
 あの夜、自分を襲った個体ではない。そんなことはわかっている。
 それでも、神機を握る手が震え出すのを止められない。
(私はどうしてこんなに腹を立てているんだろう?)
 出処のわからない苛烈な怒りが全身を燃やしている。風雪に晒される寒さも、今はもう感じなかった。
 諦念以外の感情など、もう自分には残っていないと思っていたのに。
 リンドウの振る舞いにも、己の無力さにも、かつての人類の領域を我が物顔で闊歩するアラガミにも、歯が根を鳴らすほど腹が立つ。
 こんな怒り、一体どこから降って湧いたのだ?

「ヒバリちゃん、シユウの進路はどう?」
 シユウの足音がある程度遠ざかってから、サクヤが路地から頭を出して様子を窺う。
《今のところ、速度はゆっくりですが、想定通りの進路を取って、本堂跡のある方向に向かっています。本堂跡では現在、リンドウさんがコンゴウ2体と交戦中ですので……
「そっちに向かわせないように、注意を引く必要があるわね。聴覚が鈍いから、視界に入って誘い出さなきゃいけないけど……
 シユウの感覚の鈍さは、逃げ隠れする際には有難いものだが、逆に注意を引きつけたい場合は厄介な特性となる。
 音で誘い出すことも、遠くからこちらを認識させることも難しい。危険を承知の上で、すぐそばまで近づかなくてはならない。
「問題はどこで仕掛けるか……
《えっ、どうして――
「ヒバリちゃん?」
 耳元で、ヒバリが息を呑む気配があった。
 嫌な予感がする。
 そして、こういう予感は、
《シユウが移動速度を上げました! 本堂跡へ急速に接近中!》
「なんですって!?」
 往々にして、よく当たる。

 体が勝手に動いた。
 立ち上がり、地を蹴って、ルイは未だ屈んだままのサクヤを飛び越え、広い通りへ出た。
「ちょっと、貴方……!」
「急がないと間に合わなくなります!」
 いい子のふりをかなぐり捨てて、声を張り上げる。そのまま、ルイはシユウが向かった方向へ駆け出した。
 いくらリンドウとはいえ、機動力に優れるアラガミ三体に囲まれるのは分が悪いに決まっている。
 彼の実力ならば生き伸びるかもしれない。
 それでも、僅かでも成功率を上げるために動くのは、決して愚かではないはずだ。
(注意を引いて、本堂から遠ざけて、時間を稼ぐ)
 隊長命令に背いているわけではない。むしろ忠実に守っていると言っていい。
《危なくなったらちゃんと退くって約束して! いいわね?》
 後方に置き去りにしてきたサクヤから、無線が飛んでくる。
「了、解!」
 短く返し、崩れかけた石塀に足をかけ、飛び越える。前方に目指すアラガミの巨躯が見えた。
 その背は、まるで何かから逃げているかのように、みるみるうちに遠ざかっていく。
 降り積もった雪を踏み散らす勢いで、ルイはその背を追った。
 寒さも恐ろしさも、もう感じなかった。胸の内側で、何か熱いものが燃えていた。
 取り込んだオラクル細胞が、原野を駆ける獣のように、少女の体を走らせる。人間だった ・・・・・頃は、こんなに速く走ることなど、想像さえしなかったのに。
「本堂付近の坂の手前で捕捉します!」
 追いかけてきているであろうサクヤに無線を飛ばすと、すぐに応答があった。
《接敵後、こちらに引き返して! できるだけ、リンドウのいる場所から引き離すわ!》
 シユウの背が迫る。
 地を踏んだ足に力を込め、体を一度沈めてから、ルイは前方に向かって跳んだ。
「止ま、れ……っ!」
 まさにシユウの頭上に到達したその瞬間、ルイは振りかぶったショートブレードを力の限りに振り下ろした。
 金属質の物体同士ぶつかり、耳鳴りじみた音があたりに響き渡る。
 渾身の一撃は、しかし、アラガミの頭部を覆う硬質の外殻によって呆気なく弾かれた。
 腕に走る反動の痺れ。手応えはほとんど感じられない。反射的に、最近は控えている荒々しい舌打ちが唇から転がり落ちた。
 足を止めたシユウの頭上を飛び越えて、空中で猫のようにくるりと一回転しながら、雪を蹴散らして着地する。
……外殻を砕かないとダメだ)
 頭部も翼手も脚も、硬い外殻によって守られている。
 効率的にダメージを与えるためには、どこでもいいから結合崩壊させろ ぶっこわせと、今まさに本堂で戦っている男が言っていた。
(でも、足は止まった)
 シユウは神機で打ち据えられた頭部を片手で押さえ、その場に佇んでいる。眩暈に襲われたようなその所作に、苛立ちが更に勢いを増した。
 ただの細胞の群体が。
 まるでヒトのような真似をしやがって。

 やがて、体勢を立て直したシユウが、その視界にルイの姿を捉える。
 どこが目なのかも判然としないのに、確かにこちらを見ている。自身の体を貫く〝視線〟を、ルイは確かに感じていた。
 明確な死が、すぐ足元まで忍び寄っている。一瞬でも気を緩めれば、文字通り取って食われる。
 いくら〝中型〟と呼ばれるアラガミであろうと、真正面から向き合えば本能的な恐怖を抑えきれない。
 それでも今、ルイの心と体を満たしている感情は、恐怖ではなかった。
 ふつふつと滾る怒りが、全身を支配している。

(おかしいな)
 シユウと睨み合いながら、ルイはふと自身を俯瞰する。
 ここのところずっと、自分はおかしい。
 どうしてこんなに腹を立ててばかりいるんだろう。
 怒りで腹は膨れない。怒鳴り散らしても事態が好転するわけではない。体力を浪費するだけだ。
 憎しみや悲しみだって同じだ。感情を揺らすだけで疲れるし、期待を裏切られれば余計に虚しくなる。
 だから、何も考えないほうが賢い。あの掃き溜めでルイが得た、数少ない教訓だ。
 だって、怒ったって何も変わらないのに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ――本当に?
 知らず、神機を握る手に力が籠もった。
 本当に何も変わらないのだろうか。変えられはしないのだろうか。
 理不尽な現実にも、無慈悲なアラガミにも。
 今なら、抗うすべがあるのに。

(ああ、そうか。もう、わたしは――

 唐突に、気がついた。
 もうわたしは、怒ってもいいんだ ・・・・・・・・
 痛みに慣れた。もう何も感じなくなった。そんなのは嘘だ。
 自分はずっと怒っていた。
 踏み躙られる痛みを感じていた。
 泣き喚いて、怒鳴り散らしたかった。
 何も変えられない自分に絶望したくなくて、諦めたフリをしていただけ。

 粉雪を散らして、シユウが回し蹴りを繰り出した。
「っ……!」
 シールドの展開が間に合わず、立てた刀身で攻撃を受ける。が、衝撃を殺し切れずに、ルイの体は呆気なく宙を舞った。反射的に体を丸めたが、背中から崩れかけの石塀に叩きつけられて、口の中に血の味が広がる。
 今度はルイが眩暈を味わう番だった。ガラガラと音を立て、崩れ落ちてくる石塀の残骸を払い除けながら、口内に溜まった血を吐き捨てた。
 ズシン、ズシン、と地面が揺れる。立ち上がらなくてはと思うのに、体の自由が利かなかった。
 死の足音が近づいて来ているにも関わらず、胸の内ではまだ怒りが荒れ狂っていた。打ち据えた背中が痛くて、目眩で前が見えなくて、血の味で咽せそうになっても尚、神機の柄を強く握る力が残されていた。
 バケモノの因子を取り込んでまで得た力だ。今更手放してなどやるものか。
 崩れて来た石塀の残骸で額が切れて、目の上を生温かい滴りが伝い落ちていく。唇の上を流れたそれに舌を這わせると、鉄の匂いが強くなった。
 ふらつく足を叱咤して残骸の山から立ち上がる。
 煌々と輝く月の光を背負って、鈍色の巨躯がすぐ目の前に立っていた。

 シユウが翼手を振り上げる。
 あの夜、奈落の底でこの体を捕らえて釣り上げたのと同じように。
 あれが振り下ろされれば、きっと無事ではすまないだろう。
 それでも、なぜか恐怖を感じなかった。生死の際に立っている実感は薄かった。
 神機と繋がっている右手が熱く疼く。
 〝空腹だ〟と、思った。

 ルイの意思に呼応するように、右腕の先の神機が捕喰口を開いた。
 ヒトの手によって兵器に作り替えられた荒ぶるカミが、獰猛な食欲を剥き出しにする。

 不意に、シユウが翼手を振り上げたまま動きを止めた。
 顔を上げて周囲を見回し、何かの気配を探っている。
 リンドウの戦闘音を感知した? いや、シユウは視覚も聴覚も鈍い部類だ。ここから本堂まではかなりの距離がある。わかるはずがない。
 ならば何だ? 一体何を感じ取っている?
 異変の原因を探ろうと、ルイもまた周囲に目を走らせる。
 血に濡れた前髪がへばりつき、狭まった視界の端。坂道の先に連なる石塀の上に。

――人?)

 小柄な人影を。
 見た、ような気がした。

 しかし、ルイの意識はすぐに、目の前のアラガミに引き戻された。
 横合いから放たれたスナイパーの一射が的確にシユウの頭を射抜き、硬質な外殻の半分を砕き飛ばしたからだ。
 頭半分を吹き飛ばされて、シユウの足がよろめく。
 ルイは、 あぎとを開いたままの神機を構え直した。
 どれほど経験が浅くとも、今この瞬間が好機だとわかる。
 地を蹴って飛び上がり、神機を――カミを喰らうための牙を、シユウの頭部めがけて突き立てた。

 ばくん、としか形容できない手応えと共に、頭部を捕食した神機から全身にオラクル細胞が行き渡るのを感じる。酩酊にも似た高揚で、体が火照り出すのがわかった。
 頭部を失ったシユウの胴体が仰向けに地面に沈み、振動で細かな雪が舞い上がる。
 その傍らに着地して、ルイは人影を見たあたりを振り仰いだが、そこにはもう何も見えなかった。
(気のせい……?)
 冷静に考えてみれば当然の話だ。あんな場所に人が立っているはずがない。
 痛みと高揚で幻覚でも見たのだろう。
 緊張から弛緩へ。意識の外へ押しやっていた疲労と寒さが一気に全身にのしかかり、深い安堵の吐息となって体外にこぼれ出した。
 が、次の瞬間。
「ルイ!」
 鋭いサクヤの叫びとほぼ同時に、ぞわりと背筋が総毛立った。
 本能的な恐怖に勝手に体が動いた。立ち上がり、その場から逃れようとした。
 しかり、背後から伸びてきた〝手〟が、ルイの右足をがしりと掴んだ。
 頭部を失ったはずのバケモノが、尚もその魔の手を伸ばしてくる。奴らには脳も心臓もない。ただの細胞の群体だ。頭を喰らった程度では致命傷にはならない。
 散々座学で叩き込まれた知識が、現実となって襲いかかってくる。
 必死に引き抜こうともがいても、足を掴むシユウの力は緩みもしない。不似合いな舌打ちを落として、サクヤが死に体のアラガミにスナイパーの標準を合わせた、その時。
「よう、新入り。お前さん、随分と跳ねっ返りみたいだが……
 頭上から、声が降ってきた。
 よっと、と場違いに軽い掛け声と共に、石塀の上から人影が降ってきた。
 チェーンソーにも似た獰猛なロングブレードが、過たずルイの足を掴んでいたシユウの翼手を切断する。
「コアの摘出までが討伐 おしごとだ。ちゃーんと覚えとけよ」
 涼しげな顔で地面に降り立ったリンドウは、口の端を歪めるようにして笑って、まだ痙攣を続けるシユウの体に自身の神機を喰らいつかせた。