はるの
2022-08-08 23:05:31
27972文字
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探査艦事故報告書

13+|AOS スポック|2021.8.9|惑星の上陸調査で、スポックとレッドユニフォームくんがSFホラーめいたひどい事故に遭う話。

添付002:スポック中佐の個人ログ



宇宙歴22.42。
私はおそらくのちに事故報告書を書くことになるだろう。少なくとも、動物がいたと言って突然走り出したキャプテンがこの事故に巻き込まれなかったことは幸いである。

私は現在、非常に奇妙な異空間にいる。腰のあたりに打ったような感覚があるため、おそらく何らかのトリガーを踏んだものと思われる。
異空間のはずなのだが、この場所には林と草原が広がっている。
そして、作物の植えられた畑があり、踏み固めて舗装された道によって農村と接続されている。
現地にはヒューマノイドが生息しており、地球人によく似た外見を持っている。独自の言語を使用しているが、形態はロマンス諸語に近い。

異空間内に農村があり、土着のヒューマノイドがいるのだ。
この異常性をうまく説明する言葉が見つからない。とにかく、奇妙である。

私がこの場所に踏み込んでから5.5時間後、アバルキン少尉が同異空間内に出現した。
住人の詳細調査ができていない状況であることを鑑みて、私は潜伏していたのだが、調査班のメンバーが更に出現する可能性を考え、彼らに露出することにした。私たちがいると広く流布されていれば、再び士官の誰かが迷い込んできたときに合流しやすくなるだろう。

住人たちの私たちに対する心証は、完全に敵対的ではないようだ。アバルキン少尉の言動に対して攻撃的な態度を取る様子も見られたが、可能な限り彼らの意に沿う内容で交渉すれば、武力行使には発展しなかった。
彼らは外から来た私たちを珍しがり、歓迎し、住処を提供した。彼らの食事は主に畑から収穫されたと思われる芋で、キャッサバに似ている。彼らの家はログハウスのような木造で、私たちは集落の半ばにある空き家をあてがわれた。

コミュニケーター、トリコーダー、ともにオフラインである。アバルキン少尉も同様。
いずれもデータの取得と保存は行えるため、調査可能なものはできるだけ採取している。
長期使用が可能な端末なので、電力供給の枯渇は危惧していないが、現状、私たちが元いた空間へ戻る方法は不明である。


2日目。
宇宙歴を記録するより、滞在時間を記録したほうが有用そうだ。

アバルキン少尉の話から類推すると、この空間における時間ははるかに長く引き延ばされているようだ。つまり、長期に渡って艦を空けることにはならない。キャプテンが無茶なことをする可能性が低くなったことは、大いに歓迎すべきことだ。
この空間には昼と夜が存在し、体感時間ではあるが、1日のサイクルも地球標準時間に近似である。ただし、昇っては沈んでいくあの恒星が本当に恒星なのかは、目視でもトリコーダーでも判別できなかった。

村は変わらずの歓迎ムードだ。
このコミュニティは、顔役1名と神祇官1名、その他は等しく農民という構成のようだ。まるで古代である。近代的な機械もないため、本来であれば交流が禁じられる民族だろう。ただし異空間は除く、という艦隊規則はないが、時空事故でのやむを得ない事情ということで恩赦されることを望んでいる。
せめてもの対応として、フェイザーやトリコーダーなどの機器類、また艦隊の着衣や履物は、住人には見せないように取り計らった。これはアバルキン少尉も同様である。翻訳機を隠し持つ工夫を強いられているが、基本的には住人から与えられた着衣で交流を行っている。彼らの衣服は、麻のような植物から織られているようだ。

しかし、彼らはあまり外のことには興味がないようである。初日にはフェイザーでの威嚇も発生したが、それに対しての質問を受けたことはない。私たちがどこから来たのか、特に私の外見的特徴が彼らにとっては異質であることを含めて、彼らは気にする素振りもない。彼らは村での私たちの役割を決めることや、住人たちを紹介することに夢中で、私たちの質問に答えはするが、私たちに質問をすることはない。こちらは翻訳機を通した音声で対話しているのに、である。
とてつもなく、奇妙だ。


3日目。
村はゆるやかな丘の上に建設されており、規模は100人程度と思われる。男女比や年齢層はばらばらだ。
たった100人でコミュニティが循環しているということは驚異である。もしかしたら、私の知らない場所にもまだ住人がいるのかもしれない。

私たちは田園地の端にある土地を割り当てられ、農業をするように勧められた。
承諾すると、彼らは私たちに農耕用具を与え、作業内容を教えてくれた。
彼らの畑は川から水を引いており、用水路を建築する技術はあるようである。
川。川だ。ここは異空間のはずである。

明日から私たちは農民になるが、この異空間の調査を進められそうだ。


4日目。
何も分からない。この空間には果てに不可視の壁があり、それを境にすべてがループしているようだ。
どのようにして川が流れているのか、まったく分からない。非常に興味深い現象である。

トリコーダーで調べたところ、微生物らしき動物反応を土の中に発見できたが、リスや鳥といった小動物は今のところ見かけていない。生態系がどのように保たれているのかも謎である。せめて、取得した情報を解析できればいいのだが、オフラインなので致し方ない。

畑仕事も進めなければ怪しまれるため、多くは望まないようにした。
アバルキン少尉には負担をかけてしまっている。帰宅後の家事は私のほうで受け持ち、早めに休んでもらうことにした。いかに屈強な保安部とはいえ、土を耕すのは重労働である。


5日目。
もし、この土地に深い深い落とし穴を掘ったら、落ちたものは空から降ってくることになるのではないか?
やはり、この空間から歩いて脱出することは不可能なようである。他の手を考えなくてはならない。

私たちの置かれている状況や立場が不明なため、今のところ住人とは積極的な交流をしていない。
けれど、この場所に関するヒアリングが必要かもしれない。村から私たちに課せられた仕事内容なら、いくらか自由時間を作っても咎められることはないだろう。

5日。向こうではほんの数分だろうか。
少尉の後ろを歩いていた士官が数珠つなぎにこちらへ出現する、という事態は回避されたようだが、あちらでは私たちの消失に気づいた頃だろう。コミュニケーターがオフラインということは、エンタープライズでもロストを検知したはずである。
大慌てでキャプテンが呼び戻されて――、結局、ジムは動物を見つけたのだろうか。


6日目。
彼らの振る舞いは、まるで私たちがこの村に永住するかのようである。
望む望まないにかかわらず、すでに決まっていることのように話を進める。

農業のレクチャーをしてくれた住人に、この村の成り立ちを尋ねてみた。
これは2日目に顔役にも尋ねているのだが、いずれも等しく「あるようにあった」という漫然とした哲学的な答えしか返ってこない。そして、何故そのような当たり前のことを訊くのか、という態度である。

次に、この村から立ち去る方法を尋ねた。
彼はひどく憤慨した様子で、なんて冒涜的なことを言うのか、と激しく非難した。まるで、彼らの倫理を根こそぎ否定してしまったようである。それ以上の対話は望めず、私はなんとか彼を取りなし、アバルキン少尉のフォローもあって、その場は収拾することができた。

初日に少尉が敵対されたときも、ここからの脱出方法を尋ねることが起因だったと思う。
彼らは、「この場所からいなくなる」ことに、激しい嫌悪と敵対意識を抱くようだ。

住人の協力が得られない以上、脱出は非常に困難だろう。
けれど、何か手はあるはずだ。私たちはそのようにして、あらゆる困難を克服してきたのだから。


7日目。
アバルキン少尉に、村での自由な交流を勧めた。「脱出したい」という意思さえ見せなければ、基本的には温厚な民族である。
倫理観が謎めいているため、もしかしたら他のトリガーもあるかもしれないが、ふさぎ込むよりはよほどましだろう。

帰れないかもしれない、という不安を訴える彼のそばにいるのが、私ではなくドクターだったらよかったのに。


8日目。
神祇官によるイベントが催された。村の中心にある石碑を囲う祭りのようなものだ。
彼らにとって、石碑は重要なアイテムであるようだ。けれど、イベントは神聖なものではなく、親しげに石に触れ、花を供え、ピクニックのかがり火のように囲んで食事をとるという気楽なものだった。住人はいつもより口数が多く、大いに飲んで騒ぐ、といった形である。
石碑はおよそ直方体に切り出されただけの岩石で、彫り込まれた文字や模様などは存在しない。

神祇官は普段出歩く習慣がないため、私は接触を試みた。判明したことを羅列する。
1、石碑は彼らの家族である。常に優しく接する必要がある。
2、ひとりにさせるのは可哀想なので、常に誰かがそばにいるべきである。
3、そのために村は永続する。決してなくならないし、なくしてはならない。

以上。まるで石碑のために村が作られたようである。
けれど、石碑を信仰している様子はなく、あくまで彼らの文化における基盤という印象だ。彼らはこれを「我々の家族」と呼び、神のように扱うことはない。

私は2番目について尋ねてみた。以降に対話を再現する。
ここを離れる概念について話すだけでも、神祇官はおぞましいものを見るような表情だった。

――私たちの意に反して「そばにいる」ことができなくなる、ということはありえるでしょうか。
神祇官:それは、死を迎える以外の意味で、でしょうか。
――私は突然現れた外の者です。同じく、突然外へはじき出されるかもしれない。
神祇官:古い記録にはそのような悲劇もあったとあります。
――過去にも私たちと同じような来訪者が?
神祇官:けれど、そのようなことはきっと起こらないと信じましょう。私の知るうちでは、あなたがたのような人はいなかった。もしかしたら、我々の家族が寂しがって呼んだのかもしれません。来てくれてありがとう、外の者。

これ以上のヒアリングは心証を損ねると判断し、中断した。
この村の歴史と思われる記録が存在し、外から来た者についても書かれているようである。紙が生み出されている気配はないのだが、どのように残されているのだろう。できれば精読したいが、すぐには難しいと思われる。窃盗を伴う高リスクの暴力的解決策を除外するなら、村になじんで神祇官の仕事を手伝うような立場を獲得する、という方法が固いと思うが、いったい何か月を要する作戦になるのか。

けれど、ここへ来て、ここから出ていった人がいるのだ。
神話じみた話がソースとはいえ、調査しないわけにはいかない。


9日目。
ひととおり、いつもと変わらない。
アバルキン少尉は友人ができたようで、2日前よりずっと明るい。よいことだ。
友人がいるということは、この世で一番のよいことだろう。

私も村に取り入ることができるよう、積極的に会話を試みている。
彼らの話題は、地球人とほぼ変わらない。食べ物、趣味、恋愛、冗談。


10日目。
いつもと変わらない。
消費電力や容量を鑑みて、今後は何かがあった場合にのみ、個人ログを取ることとする。
今後は村になじみながら、できる限りの情報収集と、現地言語の習得を行う予定である。

帰還まで、半年はかかるかもしれない。
それでも向こうではほんの数時間だろう。私にとっては幸いである。
数時間なら、きっとドクター・マッコイが、キャプテンを引き留めておいてくれるはずだ。穴があったらとりあえず飛び込むのは、RPGの主人公か不思議の国のアリスだけにしていただきたい。

精いっぱい務めます、キャプテン。


1か月と3日。
石碑の儀式。比較的高い頻度で行われる祭りのようだ。特に周期的ということもないらしい。
私たちも並べられた机に列席し、食べ物をいただいた。

ここの住人は芋や豆しか摂取しない――そもそも家畜がいない――ので、アバルキン少尉は体格の衰えを危惧している。毎日欠かさずトレーニングを行い、更には畑仕事にもいそしんでいるのだから、彼の勤労に対して肉体が裏切ることはないと思うのだが、地球人に必要な栄養素を十全に摂取できているかというと、非常に怪しいところである。
せめて、トリコーダーが使えればと思う。データを取っても照会先がないというのは、非常にもどかしい。

私個人としては、顔役や神祇官と順調に友好的な交流を重ねている。
畑の運用を改善する方法など、村に貢献するような話題に対して、彼らは大いに心を寄せてくれるようだ。現在の村の文化進行度に則した範囲をわきまえる必要はあるが、彼らが私を学者のような――この村に学者という名辞は存在しないが――純粋に調査や考察だけを嗜好する存在だと認識してくれないか期待している。

そうなれば、いろいろなことを堂々と調査できる。
この空間の仕組みを解明できれば、きっと出口につながるはずだ。


1か月と5日。
アバルキン少尉は不安なようだ。「我々の家族」の会食では、ずいぶんと楽しそうに村の若者と飲み食いをしていたのに。
地球人はみなそうして、楽しいふりをしながら孤独を抱えるものなのだろうか。もしそうなら、彼の不安に気づかなかった私は少しも成長していないことになる。

まるでずっと前からこの村に住んでいるように感じる、と彼は言った。そして、これからもこうして穏やかな日々を過ごしていくのだと。
そんな気持ちになってしまっている自分にふと気づいて、ひどく落ち込んだ、とのことだ。自分はエンタープライズのクルーで、保安部で、副長を警護し補佐しなければならないのに、と。

私はこういうとき、途端に正解が分からなくなる。
ここにジム――、キャプテンが、いてくれたら。彼ならどうしただろうか。きっと私が想像もしないようなことを言って、本当にうまくなぐさめてくれただろう。私ひとりにできることなど、たいしてそう多くない。

今日の晩は、村との交流を取りやめて、ふたりで芋料理を作って食べた。
それから、キャプテンのとんでもない現地探査や、ドクター・マッコイが酒の席でした失敗や、ミスター・スールーの驚異的な戦闘能力について、私は彼に話して聞かせた。彼はほとんどの話に驚き、興味本位に目を輝かせ、上の人たちも私とそんなに変わらないんですね、と面白がった。彼からもエンタープライズでの生活や、周りで起きていた愉快なことを聞いて、私は保安部におけるひそかなブームをここで初めて知った。

彼とはずっと、今回の事故のことや、村に関する情報共有の話ばかりしていた。エンタープライズに関する雑談に終始したのは、今夜が初めてだ。
この選択が正しかったかは分からない。けれど、彼は安心した顔で笑っていたので、それはよかったと思っている。


1か月と30日。
補足だが、1か月を30日で数えている。

この世界にも文字は存在する。彼らは基本的に蝋板を使用するが、木の板に花の汁で文字を書き、畑に注意書きの看板を立てることもある。
けれど、この世界について記されているという記録は、そのどれでもない形態を持つらしい。「自然と分かる」そうだが、相変わらず思想の中心部は秘匿されている。
いずれにせよ、その「自然と分かる」は、現地の言葉でなされるものだろう。おおよそ会話には困らなくなってきたが、彼らの思想に寄った特殊な言い回しも合わせて習得したいと思う。

ところで、相変わらず、彼らは翻訳機の存在に無頓着だ。
今まで二重に聞こえていた声が、突如単一のクリアな実声に変わったというのに、である。毎日のように会話をしている神祇官にはさすがに不思議そうな顔をされたが、言葉にするなら「まあいいか」という素振りだった。

この、他者の特徴に対する極端な興味のなさは、おそらく「住人がここにいればいい」という村の根本思想にかかわるものだろう。
健康で、生きていれば、それでいい。そのような大雑把さを持つ民族である。
同時に、怪我や病気、死に関してはひどく悲嘆的である。住人が減ることは、「寂しく」なることだからだ。


2か月と11日。
3日ほど前から、アバルキン少尉は倦怠感を訴えている。肉が食べたい、というジョークが言える程度ではあるが、心配である。

調査の結果、この異空間の広さは、およそ1km四方の正円形と思われる。
金属もその加工技術もないため、地下を掘ったら空へ突き抜けるかの検証は行っていない。けれど、おそらくあまり意味はないだろう。


2か月と23日。
私はのんびりと事を構えている場合ではないのかもしれない。

夕刻、畑仕事のあとに友人たちと食事をしに行ったアバルキン少尉が、ひどく混乱した様子で帰ってきた。
連れてきてくれた彼の友人たちはひどく怪訝そうな様子で、突然こうなってしまった、と訴えた。まるで眉をひそめるような態度だったので、私は彼らを早々に帰した。

自分が何をしているか分からない、と彼は言った。
そして、うろうろと部屋をさまよい、私が傍らに置いていたトリコーダーを手に取って、呆然とした様子になった。
彼は、まるでずっとこの村で暮らしていたようで、と言う。それは、1か月と5日の日付でも言っていたことだ。
これが何なのか、今、分からなかった。アバルキン少尉はそう言って、トリコーダーを掲げて見せた。

私はあなたのシェアメイトで、我々はずっとここで暮らしている。そうじゃなかったのか?

彼が嘘をついているようには見えなかった。酔ってはいるようだったが、意識は明瞭だった。
そうじゃない、と素直に答えてよいものか考えあぐねていると、彼はそうじゃないことを自ら悟り、顔を覆った。
何かおかしいです。副長。

考えられる可能性は、3パターンだ。
1、長期に渡る異常空間への拘束に対する忘却性ストレス反応。
2、食物に認知障害を発現させるような成分が混入していた。
3、住人のいずれか、もしくはすべてにテレパス能力があり、彼らの思想が浸食した。

あるいはこのすべて、というチェックメイトがすでになされている可能性もある。
少なくとも、私に症状は出ていない――自覚なく現れるようなので一概には言えないが――、と考えると、地球人への影響が大きい、もしくはヴァルカン人に対して反応が鈍い、ものだろう。いずれのパターンでもありえることだ。

アバルキン少尉は現在問題なく休んでいる。
明日は1日、彼の様子を観察したい。


2か月と24日。
水を汲みに行っている間に、アバルキン少尉がいなくなってしまった。
今から村を捜索する。何かあるかもしれないため、出発時間を記録しておく。


2か月と25日。
救出。
[男性の叫び声]


2か月と28日。
今後の方針をドクターと検討したいというのに、コミュニケーターはオフラインである。
彼がよく使うスラングを吐き出したくなる。今、とてつもなく。

結論としては、洗脳効果を招く実体がこの異空間内には存在しているようだ。
効果の内容は、「自分は土着の民族である」という認識のすり替えと、「ここから離れたくない」という認識の植え込みと思われる。
いずれも推測の域を出ないが、彼らの祠やアバルキン少尉の様子から、十分に考えられることだ。

アバルキン少尉は、友人たちに連れ出されたらしい。少尉の様子を不審に思ったのか、心配したのか、神祇官に診てもらおうと彼らは提案し、少尉も承諾したようだ。とはいえ、彼の様子からすると、まともに考えて出せた結論なのかは疑う余地がある。

私が村の祠――これは神祇官が管理している村の医療機関のようなものである――に到着したとき、建物の外で落ち着きなくうろついている彼の友人を見つけた。少尉を見ていないか確認したところ、中にいるという。きっとすぐに治ると彼らは私を励まし、私はこれが善意で行われていることを知った。
彼らの制止を無視して建物内に入ると、中にいた村人数名にも進行を遮られる。私は武力行使を迷ったが、神祇官に手伝いを要請されていると詐称することで、「対話の部屋」――、処置室へ入ることができた。
あのときの私にとっては、ヴァルカン人のアイデンティティより、部屋から漏れ聞こえてくるうめき声のほうが重要だった。

室内には、確かに、何か大いなる意思とも言うべき、絶対的な支配者の思念があった。
まるで強力な催眠能力を持つ見えない種族がいて、精神汚染を仕掛けられているような――。確かに、地球人にはひとたまりもないだろう。
アバルキン少尉は部屋中央の椅子に座って顔を覆っており、神祇官がやや困惑した表情で彼を見守っていた。
神祇官は私の侵入を厳しく咎めたが、手伝いにきた、という主旨の取りなしを丁寧に行ったところ、なんとかその場に同席することができた。

私は少尉の様子をくまなく確認し、彼を一度休ませるべきだ、と神祇官に提案した。まるで預言者のように、さもそれが村の存続にとって一番いいことだと思われるように話すコツは、すでに心得ている。神祇官は「こんなにも対話に苦しむ人は初めだ」と発言し、私と少尉の帰宅を許可した。

苦しむ人は初めて、というのはおそらく、住人以外があの精神汚染を受けた症例が初めて、ということだろう。
そして、彼らが「治す」ためにあの部屋を使用しているということは、ほとんど洗脳によって『健全な精神』を確立しているということだ。
何を正常とするか、という定義には議論が必要だが、彼らの異様なまでの思想統一性がどこから来るのかを知る重要な一端だろう。

あの部屋にあった何らかのアイテムがエージェントなのか、あの部屋自体がエージェントなのか、それとも本当に目に見えない種族が存在するのか、今は分からない。
けれど、アバルキン少尉の認識が徐々に崩れていったことを考えると、この汚染は村全体に及んでいて、普通に暮らしているだけで微弱な洗脳を受け続ける、という考えは正しいように思う。

ドクター・マッコイに相談したい。
精神統一や心のコントロール方法を、アバルキン少尉に教えたとして、私は彼を救えるのだろうか。
エンタープライズの――、キャプテンの、クルーとして。


2か月と29日。
アバルキン少尉から、自分に何が起きているのか知りたい、という強い要望を受け、私の仮説を伝えた。
彼はひどいショックを受けたようだ。それは、そうだろう。そのうち自分が自分ではない自分になってしまうかもしれない、という恐怖は計り知れない。

今だって、こんなにもエンタープライズに帰りたいのに。彼はそう言った。
ケイティ、ジョシュ、ライラ。主任にはどやされるだろうけど、きっとキャプテンはほめてくれるでしょう、副長を無事に連れて帰ることができたら。あの明るく聡明な人と同じ艦で働けることが、私はとても嬉しいんです。
この気持ちが、そのうち冷たくなってしまって、彼らのことを何もかも、忘れてしまうということですか?

彼はその嘆きを、すべて現地の言語で話した。
私たちだけで話すときは、いつも艦隊標準語だったのに。

少尉を連れ出した村人から訪問を受け、彼の様子を尋ねられた。
私は問題ないことを告げ、継続した治療は不要だと神祇官へ伝えるように依頼した。


2か月と30日。
アバルキン少尉は、静かに療養している状態であれば、精神の落ち着きを取り戻したようだ。
ときおり、言葉の端々に、洗脳の影響が見受けられる。症状化までに約3か月かかったことを考えると、平時であれば、それほど急速に浸食されるわけではなさそうだ。けれど、のんびりはしていられない。

最悪、身体に致命的な損傷なく戻ることさえできれば、医療チームが治療方法を確立してくれるだろう。
そのためにも、やはり情報は必要だ。

念のため、アバルキン少尉に瞑想を勧めてみた。
彼は首を傾げながらも取りかかり、こういうのカンフーの修行とかにありそうですね、と偏見に満ちた意見を述べてから少し笑った。
そして、いつか自分が本当におかしくなってしまったら、ヴァルカン人のテレパス能力で頭を解体してでもエンタープライズに連れて帰ってほしい、という依頼を受けた。

私は承諾した。彼は目に見えて安堵した様子だった。


3か月。
村人からの執拗な訪問を受けている。
彼らは心身疾患に対して非常に心を砕く指向があるため、まったくの善意だろう。
君たちが悪いわけではないが、君たちの飼っている何かが彼をそうさせたのだと、やみくもに糾弾したくなる衝動を感じている。

いずれ、アバルキン少尉も村人との交流を再開しなければならない。
軟禁状態の生活にはまた別の疾患リスクがあるし、彼が姿を見せないことを病気と判断されたら、村人によってまた「対話の部屋」に入れられてしまうかもしれない。
つまり、当面、余計な『治療』が発生しないよう、少尉も「完璧な村人」を演じる必要がある。
これに対し、彼は非常に不安な様子だった。演じているうちにそうなってしまうのではないかと、もっともな懸念を呈した。
もっともだが、ほかに有用な手は浮かばない。せめて、日々の終わりには必ず、互いのメンタルチェックを行うルーティンを導入することにした。

加えて、今回は正常時と洗脳時の揺り戻しに端を発する事件だったため、揺り戻しが発生した場合に自分を落ち着かせるためのトリガーを用意することにした。
私たちは、艦隊服からインシグニアを剥がして、それを常に持ち歩くようにした。自分が分からなくなった時に、特定の象徴に暴露することで、自動的な精神セットを促すやり方だ。
私には不要かもしれないが、アバルキン少尉に使用する場面があるかもしれない。後ほど、穴に紐を通してペンダントを作成しようと思っている。


3か月と2日。
アバルキン少尉の外出は上手くいった。出かける前までの不安な様子は相当なものだったが、いざ村のコミュニティに入れば、彼は非常に上手く振る舞った。エンタープライズのクルーたちは、余すところなくみな優秀である。誇らしいことだ。

昼間に発現した彼の洗脳症状について、私は逐一言及しないことにした。彼の動揺を誘うものであるため、村人に露呈する危険性がある。また、あまりこまめにストレスをかけすぎると、精神に不調をきたす可能性があるからだ。
その代わり、夜間のメンタルチェック時に検知したものは、すべて正すことにしている。
例えば、使用言語が標準語でなかったことを指摘すると、彼は動揺を見せるが、インシグニアを握ることで心を落ち着かせる習慣を手に入れつつある。
スターフリート保安部所属、エンタープライズ乗組員、ニキータ・アバルキン少尉。
彼は小さくそう唱えて、平常心を取り戻す。ときおり、ひどく泣き出しそうな様子も見せるが、強い士官だと思う。

無事に帰ることができたら、彼の評価をキャプテンに伝えたい。
きっと、同じだけ誇らしく思ってくれるだろう。


3か月と14日。
この地に時刻は存在しない。永遠を謳う村の民は、時間を刻むという発想を持たない。
トリコーダーで宇宙歴を参照できるが、時間自体が何らかの影響を受けている可能性もある。
私の体感時間は比較的正確だが、認知バイアスがかかっていないという保証はない。

何が言いたいかというと、客観的な時間経過の指標として髪を切らないでいるのだが、非常に視界が悪い。
アバルキン少尉は、いたずらを思いついたジムのような顔つきで、前髪を束ねるよう、服の装飾からちぎったカラフルな珠つきの紐を貸し与えてくれた。
これだからエンタープライズのクルーは。


3か月と19日。
やっと「対話の部屋」に入ることができた。
相変わらず強い思念を持つ部屋である。長居をすれば私でも影響を受けると思われる。

おそらく、ではあるが、洗脳エージェントは祭られている石だろう。
扉のある棚に隠されていたそれは、手のひらサイズの黒曜石のような実体で、この村の技術で切り出されたとは思えない滑らかな立方体の形状をしている。そもそも、火山のないこの地に黒曜石は存在しないはずだ。
そのようなアノマリーがいったいどうして思念を発しているのかは不明だが、神祇官が「非常に重要な石でみだりに触れてはならない」と激怒したため、手に取ることすら叶わなかった。そのように周囲を洗脳することで保身している有機的な石、とも考えられる。

祭られている石、といえば、「我々の家族」もそうだ。
石碑自体はただの岩石のように思われるが、もしかしたら同様の仕掛けがあるかもしれない。アノマリーと同じ成分を微弱に含んでいる、といったことも考えられる。あちらのほうが接近しやすいため、あちらから調査したほうがよいだろうか。
もし、あの石碑にも精神汚染の能力があるのなら、頻繁に行われている彼女を囲んでの会食も、洗脳の一端であるように思う。

それと、アバルキン少尉にこの調査結果を報告したところ、ひとりで勝手に危険なところへ行くのはやめてください、と叱られた。
あの部屋の調査は地球人には荷が重すぎるので、私がひとりで行くことは論理的でしかないのだが、なんというか。

エンタープライズが懐かしい。


3か月と25日。
畑仕事中、珍しく顔役が私たちの元にやってきた。
そして、いつまでもふたりで住んでいないで、村人の中から妻を選んで新居へ越してはどうか、と提案された。

どこの世界にもああいうお節介な人はいるんですね、とアバルキン少尉は軽口を言っていたが。
「コミュニティが永続する」ことを最も重要と考える思想が、どの程度の真剣さをもって「繁栄」を促してくるのか、私には分かる気がする。

困ったな。


4か月。
なんの盛りがついたのかは分からないが、やたらと婚活を促される。
アバルキン少尉は、誘いをかけてくる女性たちを無下に断ることにストレスを感じているようで、本日のメンタルチェックにおいて何故か私にプロポーズをした。
曰く、もういっそ副長と結婚しているということにすればこんなことにはならないのでは、とのことだ。

彼らが必要としているのは繁殖であり、おそらくその手法では理解不能を呈されるか、もっと悪くすると倫理に反するとされて問題になるかもしれない、という理由を添えて丁重にお断りしたところ、彼は頭を抱えてしまった。

モテるやつにはいろいろあるんだよ、と言っていたジムを思い出す。
一夜限りの恋愛をするには、さすがに環境が特殊すぎるだろう。


4か月と12日。
この異空間内に自分が出現した地点に関して、私は定期的に巡回をしているのだが、今日、初めてそれが報われた。
元の世界とこちらをつなぐ特異点がどのような形で存在しているのかは分からないが、エンタープライズの面々はやっとそれを見つけたらしい。
最悪、キャプテンが飛び込んできてしまうことを考えていたが、彼らは論理的に、まずは無機検体から投入実験を始めたようだ。素晴らしいことである。誰が彼を説得したのだろう。やはりレナードだろうか。

草むらに、見覚えのあるいくつかの検体が固まって落ちていた。
少し離れた場所にも落ちており、それは一直線上に並んでいる。あちらから転送されてきたものは、この直線上に出現する、ということだろうか。記憶では、私もそうだったように思う。

エンタープライズ側でもこちらへのアクセスを試している、という話は、アバルキン少尉を大いになごませたようだった。
明日からは不自然でない頻度で、可能な限り秘密裏に、出現場所を観察しようと思う。


4か月と27日。
「我々の家族」の調査は、ほとんど暗礁に乗り上げている。
村の中心部にあるため人目に触れやすく、サンプルを割って中を見てみたり、付近の土を掘り返してみたりといったことは叶わない。それに、やはり調査に必要な道具が乏しいことはネックである。

どうせなら、試薬セットのひとつでも放り込んでほしいのだが。
エンタープライズでは、いまだに無機検体の投入実験を行っているようだ。今日は50mほどの長さを持つ強化ワイヤーとアンカーがつながった検体を発見した。
有線を使って向こう側から引っ張り上げる、という方法は、どうやら失敗らしい。


4か月と28日。
私は試薬セットを望んだのであって、貴重な鉱石を投げ込んでくれとは頼んでいないのです。
科学部の申請を通したのは誰ですか。持ち帰る算段を立てなければならないじゃないですか。
[男性の笑い声]
アバルキン少尉:ついでにチキンを丸ごと焼いたやつも送ってほしいです。

私はハーブティーが恋しいです。


5か月。
アバルキン少尉にとって、エンタープライズはどこかにいる私の友人だ。
副長というのは私のあだ名で、艦隊のインシグニアは彼の健康のお守りである。
それを握ってまじないを唱えることが、彼の家系で古くから伝わる伝統で、それは英語でこのように発声する。
スターフリート保安部所属、エンタープライズ乗組員、ニキータ・アバルキン少尉。

彼はこの世界にはない名辞を理解し、チキンが食べたい、などと発言するが、何故自分がそれを望むかはあまり気にしていない。
メンタルチェックにおいて、私はそれを指摘する。すると彼は、ああ、と溜息をついて、祈るように顔を伏せる。
毎晩、毎晩。

そろそろ限界かもしれない、と思う。
彼を正気に――、いや、彼にとってはもはや、こちら側こそ狂気なのかもしれない。
この狂気に彼をさらしつづけることは、彼の精神そのものを傷つけてしまう、ように思う。
今後は指摘を取りやめて、帰る算段がついたときに、ネックピンチでもして抱えて連れ帰るほうが、彼にとってはよいのではないか。
そのように考えている。

エンタープライズは実験を停止したようで、ここ2日、新しい接触はない。
一度計測をしているのだろうが、向こうではほんの5分のことでも、こちらではたちまち数日経ってしまう。
少し、気の遠くなるような思いだ。5か月。5か月か。


何が正解なのだろう。
5か月と……、10日。ここに来たときは確か、脱出に半年はかかるだろうと見込んでいた。私は無能で無力である。

本日のメンタルチェックにて、私が発言した「村からの脱出」に対し、アバルキン少尉はひどく憤慨した。
君がそんな人だとは思わなかった、と彼らしからぬ言葉でなじり、落ち着かせようとする私の頬を張った。
満足に爪も切れない環境のため、私はそれで頬を切ったのだろう、鏡がないので分からないが、少なくとも微量の血は出ていたようだ。

我に返ったアバルキン少尉は、委縮し、悲嘆し、涙を流した。震えながら謝る彼に、私はそばにいてやることしかできなかった。

しばらくして、泣き止んだ彼は、こう提案した。
この家を出て、完全に村になじんでしまったほうが、あなたを損なわないでしょうか。副長の負担になるようなら、いっそそうしてしまったほうが。
彼がこのように傷つき、損なわれるのであれば、そうしたほうがいい、とも思った。きっと何もかも忘れてしまえば、苦しいことは何もなくなるはずなのだ。

けれど、それは。
それは、それこそ、彼を損なうのではないか。本当のホームを思う彼の気持ちが、冷たくなってしまって、彼らのことを何もかも、忘れてしまうことこそが?

何が一番いいことなのか、私には分からない。
それが分かるのが私であると、キャプテンは評価をしてくれていたのに。

――何が最善か分からないから、私にできることを考えてみます。


5か月と15日。
本日、アバルキン少尉は私たちの仮の住まいから、別の空き家へ引っ越していった。

私たちはこの5日間をかけて、彼にマインドメルドを行い、彼の持つ艦隊の記憶を共有した。
その情報を私が持つことで、彼を引き戻しやすくするためである。
できればちゃんと避妊をするように強い暗示もかけてください、と彼は冗談を言った。テレパスというものは、本質的には伝達であり、操作を行うものではない。けれど、できればそうであるように、強い望みを伝えておいた。それをどこにしまい込み、どこまで守ることができるかは、彼の心にゆだねるしかない。

彼は、ごく普通の地球人だ。
多くの挑戦をし、失敗や成功を繰り返し、善いことや、少しだけ悪いこともして、誇りを持ち、後ろめたいこともある。悲しみに暮れた夜もあれば、夜通し騒いでもなお喜びにあふれた朝もあって、遺恨を引きずる後悔も、これからやりたい夢もある。大切な友人がいて、大切な家族がいる。恋い慕う人がいて、早くエンタープライズに帰りたいと望んでいる。
まだ年若い、ただの青年だ。

世の中はほとんどの場合、理不尽にできている。
けれど、私たちには、そのすべてにあらがう権利があるはずだ。
帰る算段がついたら、と私は伝えた。ほとんど荷物を持たない――、艦隊の所持品をすべてここへ置いて、身ひとつで出ていく彼に。
誰の妨害を受けても、足がもげても、必ずあなたを確保し、私たちのホームへ連れ帰ります。
そして、あなたから譲り受けたあなたの大切なものを、必ずあなたにお返しします。

そう誓った。私は真剣だった。
けれど、私の友人のニキータ・アバルキンは、背を見せてから茶化すように笑ってこう言った。
僕にケイティがいなかったら、君にもう一度プロポーズしてたと思う。ありがとう、スポック。

地球人が持つこういったけなげさは、いつも新鮮で、目の覚める思いがする。


6か月と20日。
私に妻を迎えさせることを、やっと顔役は諦めはじめたようだ。長かった。
アバルキン少尉も、今はまだひとり暮らしを継続している。けれど顔役がこの様子なら、彼にも繁殖の発想は芽生えているだろう。もし彼がここで結婚してしまったら、戻った暁には私からもキャスリーン・ゴールド少尉に許しを請う談判を行いたいと思っている。パワーハラスメントになるだろうか。

この村の歴史を記した記録、というものも、思念を持つ石の形状をしているということが判明した。なるほど、紙もペンも象形文字も必要ないアーカイブ方法である。
それは祠に秘匿されており、場所は歴代の神祇官のみが知るとのことだ。

神祇官になる方法を尋ねると、神祇官は落ち込んだようになってしまい、死によって継承される、と教えてくれた。
そこで、私でもなれるかと訊いてみた。彼らは彼らの倫理に背くこと以外にはほとんど悪意を持たないため、この質問を攻撃的と取ることはない。
回答は、あなたでは老いすぎている、である。私が彼らの倍は生きるということを知ったら、さすがに驚いてくれるだろうか。


7か月と1日。
出現ポイントで、コミュニケーターを発見した。
先ほど、録音を再生した。私たちのロストが確認されてから、向こうでは5時間ほど経過しているらしい。想定どおりだ。

……キャプテン。
私は健康です。アバルキン少尉は、深刻な問題を抱えているとはいえ、今日も幸せそうでした。健康です。
いろいろな方法で検体を放り込んでいる、とのことですが、できればその「いろいろ」を詳細に教えてください。
検体ナンバーと実験内容がリンクできなければ、私にも検証は難しいです。やはり、そちらからこの異空間を検知するのは不可能なのですね。

私はここにいますから、どうか悪い考えは捨ててください。
私はいなくなっていませんし、科学主任の席もきちんと空けておいてください。

アバルキン少尉にも、このメッセージを聞かせたいと思う。
きっと、とても喜んだだろう。しかし、今は差し控えるべきだ。

ジムの声がとても懐かしい。


7か月と11日。
ひとり暮らしというのは静かなものである。
サンフランシスコでは個人の家を持っていたが、ヴァルカンから移住したときは寮暮らしだった。エンタープライズでの暮らしも、ほとんど似たようなものである。常に周りに誰かがいて、よくコミュニケーターで呼ばれたものだった。
ここへ来てからも、私にはミスター・アバルキンというシェアメイトがいた。
こんなふうに静かな夜がやってくると、私は今まで恵まれた環境にいたのだなと思う。

人との接触は苦手だが、人が嫌いなわけではない。
懐かしい声を再生するコミュニケーターに耳を傾けていると、ずいぶんと情緒的になったものだと自らを振り返る。
ひとりきりになってしまうのは、とても寂しいことだ。それを私は理解できる。


10か月と6日。
上下水道の再配置工事が完了した。やはりインフラの整備は、コミュニティの発展において重要である。

仕事がはかどる、ということが大変喜ばしく、想像以上にのめり込んでしまった。
何の進展もない現在の状況は、私にとってもいくばくかのストレスになっていたのだろう。その発散方法が「仕事をする」というのは、誰かにひどく揶揄されそうである。


[翻訳開始]
一体どういうことだ?

私は久しぶりに、友人のニキータを家に招いた。それだけだ。
彼は好奇心旺盛なたちなので、興味本位に私の家の戸棚を片っ端から開けるといういたずらをしてみせた。長年の友人に見られて困るものはないので、好きにさせていたのだが。

彼は突然嘔吐し、ほとんど倒れてしまった。
意識が混濁した彼はずっとうなされていたのだが、先ほど目を覚まし、多少の会話ができるようになった。神祇官に診てもらうことを提案しても、彼は行きたくないとだだをこねる。あんなにも青白い顔をしているのに。大丈夫だろうか。

10か月と30日。始めた日から数えながら、こうしてときおりつけている日記を、彼は最初から再生していいかと尋ねてきた。
過去のものは再生しないこと、と注意書きがあるため、私は迷った。けれど、彼の願いは切実で、できれば叶えてやりたかった。
彼の願いを叶えることは、私の重要な任務であるような気がするのだ。

おそらく、私自身が聞かなければ問題ないだろう。
彼にはベッドルームで、ひとりで聞いてもらうことにする。
[翻訳終了]


個人ログ。ニキータ・アバルキン。

スポック中佐も、あのくそったれな石の影響を受けてしまっている。
私はいちかばちか、あの石を破壊してみようと思う。
私たちの副長でさえこうなってしまうのだ。まともにあらがう方法は、私にはこれしか思い浮かばない。そのあと私がどうなるかは分からないが、こんなのはもうたくさんだ。

キャプテンのログ、聞きました。
こんなことになってすみません。せめて、副長だけでも帰したい。

副長。
私のことをこんなにも気遣ってくれて、本当に感謝しています。ありがとう。
あなたは私の友人だと、私は今でも思っています。

ケイティ。
君のことが本当に大好きだよ。


1年と12か月、20日。
[翻訳開始]
林の終わりで、私は奇妙なものが落ちているのを発見した。それも、いくつもだ。
けれどそれは、私の家にもあるものだったので、私は不思議に思った。何故なら、これは私の家に代々伝わるもので、秘匿すべき家宝であり、ほかには存在しないはずのものだからだ。
[翻訳終了]

私の当時の心境は、このような様子だった、と思う。
分かりやすく言うと、私は友人のエンタープライズから送られてきていたコミュニケーターを拾った。
再生して、彼の声を聞き、私はアバルキン少尉に起こったような揺り戻しを体験した。

今は、正気だ――、と思う。
しかし、まだひどく混乱している。

個人ログを再生するな、という注意書きは、私の筆跡だ。いつ書いたのか覚えがない。
私は今、艦隊標準語で話せているだろうか。分からない。

大切なものを決定的に失うこの感覚を、私は知っていると思う。
とても大切なことなのに、はっきりと思い出せない。知っていることだけを知っていて、何があったのかが分からない。
恐ろしい。とても。
怖い。


ジムだ。
ジム。ジェームズ……、タイベリアス、カーク。カーク大佐。
――キャプテン。

私は彼を忘れていたのか?

[12秒の沈黙]
[嗚咽とうめき声]


1年と12か月、23日。
コミュニケーターの数は11個。どの順で録音されたのかは分からないが、アバルキン少尉が向こうの世界へ戻ったことを告げているのが最初の音声だろう。突然、彼の位置情報が戻って、その場に急行したところ、非常に混乱した状態の彼を再発見できたとのことだ。
出現したポイントは、特異点から少しだけ離れた場所で、いくつかの検体も同じ場所へ戻っているという。つまり、この現象自体は、性質的にはワームホールということだろうか。

1000倍の時間をかけて、ほんのすぐそこまで物体を送る。
なんて非効率なワームホールだ。きっと歩けば1分もかからないだろうに。

アバルキン少尉は、未確認言語を叫び、取り乱してこちらへ戻ろうと暴れたらしい。
私には、その動機が分かる。きっと今の私も、外に出てしまったら、すぐさま戻りたくなるだろう。ここにいなければならない。
わけの分からない言葉でも、スポックの名前だけは聞き取れた、とジムは話した。

アバルキン少尉は鎮静剤によって安静にさせられたが、時間が経つにつれて暴力的な言動が減っている、とのことだ。
洗脳エージェントと時空間で切り離されたからだろうか。あの装置がアクティブ型ではなくパッシブ型の性能を持っていることを考えても、精神汚染は永続する効果ではないのかもしれない。だとしたら、本当に喜ばしいことだ。

彼が帰ってきたということは、君も帰ってくるよな。
ジムは何度もそう言った。楽観的な録音も、悲観的な録音もあった。彼は私を励ますような言葉を何度も繰り返し、そうすることによって自らをなだめているようでもあった。君を迎えに行きたいと言って、声が揺れることもあった。

ドクター・マッコイは、むやみに事を起こさずに自然と帰るのを健康で待て、と説教した。ハイポのセットを送るから、必要に応じて使えとも。あとで回収しなければならない。
ウフーラ大尉の音声もあった。ずいぶんと心配をかけている。チェコフ少尉は、ほとんど泣いていた。スールー大尉の話はいつもどおりの雑談で、スコット少佐のログは愚痴と早口に満ちている。あんたが早く戻ってこないから、この船に秩序というものが復帰しない!

――すみません、続きは明日。
ジム、あなたが来てしまえば、きっとニキータと同じことになる。
こんな思いを、あなたにはしてほしくない。どうか彼が、思いきってしまいませんように。
それまでに、私を戻してください。どうか。


1年と12か月、24日。
ずいぶんと意識が明瞭になってきた。
自らの精神に沈み込み、分析と整理を繰り返す人生を送ってきたことを、これほど感謝したことはない。

アバルキン少尉がこちらの世界から消失した日のことを記録する。
彼は、彼と私のフェイザーを持ち出して、祠を襲撃した。その際、村人を何名かスタンさせている。
私は混乱したまま彼を追い、彼が非常識にも――正気に戻った今でも、彼は非常識だったと思っている――、「対話の部屋」に侵入するのを見た。
神祇官は早々にスタンを受けていたので、私は彼を追って入室した。
アバルキン少尉はフェイザーを殺傷モードに替えて、棚ごと例のアノマリーに連射した。そうしている間にも彼はうめき、泣き叫び、錯乱した。当たり前だ。彼はあのとき、「破壊してはならない」という強烈な指向を受けていたはずである。けれど彼は、破壊行為をやめようとはしなかった。数分の出来事とはいえ、あのすさまじい思念を、自分の意思だけで跳ね返していたわけだ。地球人にはそういうところがある。

私は彼を呼び止め、落ち着かせようとした。
彼は私が追いかけてきたことにやっと気づいたのだろう、あなたはここにいちゃいけない、と私を押し戻そうとした。思えば、彼はそうして私を洗脳から守ろうとしていたのだ。本当に、非常識だが――、ありがとう、ニキータ。

その瞬間、彼の体は消え失せた。
前触れもなく、忽然と。

私の手の中には、掴んでいた彼の着衣だけが残った。それと、床に落ちた私のフェイザーも。彼のフェイザーはなくなっていた。
おそらく、彼がこの異空間に現れたときに伴っていたものだけが、彼と共に元の時空へ戻ったのだと思われる。あとで調査したところ、私の家から彼の艦隊服とコミュニケーターもなくなっていた。
そして、おそらく、この世界で生み出されたものは、この世界から持ち出すことができないのだ。

私は混乱していた。友人が忽然と消え――、身を切るような寂しさに襲われた。
その隙間を満たすように、精神が更に汚染された、ように思う。墨汁に浸された薄い紙きれのように、あっという間に……
きっと、動揺によって精神プロテクトが弱まり、そのまま洗脳エージェントの影響を受けてしまったのだろう。

村では、ひどい事件だった、と噂された。
私はすっかり村人になっていて、気絶した人々を介抱し、ニキータの裏切りを嘆いた。
私を含めた彼の友人たちは、その嘆きを癒すようにと「対話の部屋」に案内され、私はそのことに苦痛すら感じなくなっていた。

[20秒の沈黙]

少尉が帰ったということは、私も帰るということだ。
何も確証はないが、そう信じるほうが建設的だ。
彼のほうが遅く来たのに、彼のほうが早く帰ったのには、きっと何か理由があるはずだ。

目下、精神汚染を完全には防げない以上、私の意識外で定期的に私が揺り戻しを体験するよう、対策を講じなければならない。


2年。
私だけセブン・イヤー・ミッションになっていますよ、キャプテン。

君の声を聴くと、無性に涙が出てきます。


[雑音]
[翻訳開始]
スポック中佐:あまり気分がすぐれません。寝不足かもしれませんので、まずは休息を取ったほうがよいのではないかと。
男性:その休息において、あなたは混乱し、不安定になっている。私はあなたのことが心配です。
スポック中佐:精神は安定しています。どうか……、今日は帰宅させてください。
男性:安心してください、スポック。我々はエイリニに寄り添うことができる。
スポック中佐:やめてください。どうか、どうか――

[物音]
[沈黙]

[すすり泣くような声]

男性:何故、苦痛を? まるでニキータの症例だ。
スポック中佐:ジム。
男性:ニキータのようにはならないでほしい。あなたは献身的で、とても貢献している。村になくてはならない。
スポック中佐:ジム。――消さないでくれ。どうか。彼を取り上げないでください。お願いします。お願い。
男性:あなたは我々です。我々こそ、あなたを取り上げられている。
スポック中佐:やめてください、お願いします……、ジム……
男性:[溜息]

[物音]

男性:これをお持ちなさい。我々のすべてです。

[絶叫]
[翻訳終了]