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黒竹
2022-05-30 22:37:11
23840文字
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プロセカ
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#1 Dear my teacher
【プロセカ】【みのはる】【花里先生パロ】
1
2
3
4
小型トラックでもまだ余る程度の段ボール箱が玄関に運び込まれる。引越し業者の作業員が「こちらで全てになります」確認書を差し出してくるのにサインした。
「これだけか、ずいぶん少ないな」
父親が手近にあった段ボール箱を持ち上げながら言う。
「大学は寮で狭かったし、赴任してからは忙しくてなかなか買い物もできなかったもん。服なんて二年くらい買ってないよ」
大学進学を機に地元を離れて八年。地方の大学を卒業して、そこで新任教師として教鞭をとったのち、転任で久しぶりに実家に戻ることになった。近くで一人暮らしをするという選択肢もあったのだが、弟が大学卒業と同時に家を出てしまって、残された両親がひどく寂しがっていた。部屋もそのままだと言うし、新任時代は目の回るような忙しさで、正直毎日の食事すらまともにまかなえていなかったので甘えることにしたのだった。
引っ越し荷物をかつての自室に運び込む。年末年始には帰省していたし、そのたびにきちんと掃除されているのも知っていたから、あまり懐かしさとか、独立した後特有の『自分の家ではない感』とかはない。
「そうだみのり、戻ってきたんだからちゃんと桐谷さんにも挨拶してね」
「分かってるってば。ちゃんと手土産だって買っておいたし」
母親から釘を差されて肩をすくめる。花里家のお隣に建つ桐谷さん家とは、子供の頃から家族ぐるみの付き合いが続いている仲だ。とはいえ年末年始はいつも家族旅行をしていて、帰省したみのりと入れ違いで戻ってくるようなスケジュールだったので大学からはすっかりご無沙汰である。だから礼儀はきちんと払っておけ、という母親の忠告だった。社会人、しかも教師として立派に仕事をしている娘に対して少々見くびり過ぎだと思う。
「ほら、ちゃんとね、向こうの名物のわさび漬けを」
引っ越しの荷物とは別に持ってきていた小包を自慢気に掲げる。母親はそれをすっと眺めて、これ見よがしなため息をついた。
「遥ちゃん、わさび苦手よ?」
「えっ、そ、そうだっけ?」
「あなたがいた頃はあの子まだ小学校の低学年でしょ。わさびなんて最初から食べなかったわよ」
「
……
あちゃあ」
知るはずのない情報だったとはいえ、よりによって組み合わせが悪い。就職先の名物と、お隣さんの一人娘の苦手な食べ物。
代わりのお菓子でも買ってこようかな、と肩を落とした。ちょっと高級なやつとか。財布には痛いが仕方ない。
それにしても、と息をつく。脳裏に幼い少女の姿が浮かんだ。
「遥ちゃんかあ。懐かしいな」
「あなた、なつかれてたわねえ」
「そうだっけ?」
それこそ彼女がオムツをつけていた頃から知っている間柄ではあるが、年齢も離れているしそれほど親しくしていた思い出はない。ままごとに付き合ってあげたりとか、本を読んであげたりした記憶はあるものの、言ってしまえばその程度だ。遥が小学校に上がる頃にはこちらは高校生で、友人との交流や部活動で帰りが遅くなり、生活リズムも合わなくなったせいか、挨拶程度に顔を合わせることすらほとんどなくなっていた。
あまり社交的な子ではなかった。遥の母親が「ほんとにこの子は笑わない子で」と困ったようにみのりの母と話していたのを聞いたことがある。たしかに笑っている顔を思い出そうとしても、記憶の像はぼんやりしていて冴えない。
「わたしがうちを出る時も、桐谷さん家のみんなで見送りしてくれたよね。でも遥ちゃん、本を読むのに夢中でこっちを見てもくれなかったけど」
嫌われてはいなかったと思うが、近所のお姉さんなんて、小学生にしてみればそんなものかもしれない。両親に呼ばれて仕方なくついてきたんだろう。バイバイ、と声をかけてもこちらを振り向いてもくれなくて、どうしたらいいか分からずそれっきりだった。
今は高校生になっているはずだ。今でもあんなふうに、笑わずにひとりで本を読んでいるのだろうか。
光に包まれて消えるかと思った。
「わあ、わざわざありがとうございます。こっちは私に? そんな、気を遣ってもらわなくてもいいんですよ。でも嬉しいです。あとで家族と一緒にいただきますね」
手土産を差し出した姿勢のまま、みのりは呆然と立ち尽くす。
おとなしくて本ばかり読んでいた隣の家の女の子が超絶美少女になっていた。
すごい、本当に同じ人間だろうか。肌は抜けるように白く、目鼻立ちは美麗、まつげは瞬きのたびに音がしそうなほど豊かで長く、秀でた額は卵のようななめらかさで、顎のラインで揃えられた髪から覗く耳まで芸術品かと思わせるほど整っている。みのりの腰くらいまでしかなかったはずの身長はすくすく伸びて、なんならちょっと見上げるくらいになっていた。それに相応な手足の長さ。すらりと伸びた腕のしなやかさといったら。
そして何より笑顔だった。キラキラしていて、眩しすぎて目が潰れそう。
「えっと
……
みのり、さん?」
ちょっと困ったように首を傾げて呼びかける。少し呼びにくそうな口調だった。昔は「みのりお姉ちゃん」と呼ばれていたけれど、さすがに高校二年生にもなって、しかも十年近く会ってなかった相手を「お姉ちゃん」とは呼べなかったらしい。
「遥ちゃん
……
か、変わったね
……
!」
「そうですか? まあ、小学生の頃よりは成長してると思いますけど。あ、ごめんなさい玄関先で。父は出かけてますけど、母はいるので良かったらどうぞ」
一歩下がって三和土を開けてくれる。お邪魔します、と軽く頭を下げてから誘われるままに客用スリッパを履いて桐谷家の廊下を進んだ。
「びっくりしちゃった! 背、伸びたね。昔はこんなにちっちゃかったのに」
こんなに、と手を精一杯下げて示す。遥は穏やかに笑って「バスケしてたからかな」やや砕けた口調で応えてきた。みのりは運動神経が悪いわけではないけれど、それほど好きでもなかったのでずっと部活動は文化系だった。何かスポーツをしていたらもっと背が伸びただろうか。いや、そんなに小さいというわけではないんだけれど。正直に言えば追い越されていたのがちょっと悔しい。
遥の母親にも挨拶をして、出された紅茶を口に運ぶ。
「みのりちゃん、学校の先生してるんでしょ? こっちの学校に行くの?」
「はい、宮益坂女子学園っていう女子校の高等部で国語を教えることになります」
「え? 宮女なら遥が通ってる学校じゃない」
言われて、みのりはきょとんと目を丸くした。このあたりに高校はいくつかあって、宮女はけっこうな進学校のはずだ。成績いいんだ、と内心で感心する。あれだけ本を読んでいた子だし、勉強が好きなのかもしれない。教師としては喜ばしいことだ。
遥は母親の隣でどこか照れくさそうに笑って、首筋を軽く撫でた。
「じゃ、花里先生って呼ばないとね」
「あはは、なんかちょっと照れちゃうね。でも特別扱いするわけにもいかないし、学校では先生って呼んでもらえたほうがいいかな」
「ふふ。よろしくお願いします、花里先生」
その笑顔が小悪魔的で、みのりはなぜか耳のあたりが熱くなるのを感じる。頭の中で宮女の時間割を図にした。何度も確認したから思い出すまでもない、現代文の授業は週に三日行われる。どうしよう、平日は週の半分以上、この顔を見て過ごす時間が存在してしまうのか。いやいやいけない、教師たるもの、クラス全員を平等に扱う必要がある。いくら顔がとんでもなく好みだからって、こんな不純なことを考えるなんて以ての外である。
「学校以外は先生じゃなくていいよぅ」
乾いた笑いをこぼしつつ平静を装って紅茶を飲む。よしよし、ちょっと慣れてきた。そういえば笑っていないだけで、昔から顔立ちは整った子だったと思い出す。ダイヤの原石が年月によってピカピカに磨かれたということか。
「それに、敬語も気にしなくていいからね。前の学校でもけっこう親しみやすいって評判で、生徒にも友達みたいな先生だねって言われてたし」
敬語で話しかけてくる生徒もほとんどいなかったから、逆に遥が敬語を使ってくるのがくすぐったい。
遥はみのりの言葉に逡巡する様子を見せて、その後で柔らかく目を細めた。
「──うん。ありがと、みのりさん」
あ、どうしよう。輝きに焼き尽くされて命が儚く散りそう。
あまり長居しても悪いので、と頃を見て立ち上がる。もちろん、心臓に悪いのでという意味である。
遥が玄関先まで見送ってくれて、みのりは履き慣れたスニーカーになぜかうまく足が入らず苦労した。なんだか足元がおぼつかない。お酒を飲んだ覚えはないのに酔っ払っているような気分だった。だってさっきから耳が熱くて焦点が定まらない。
「みのりさん」
「ひゃいっ」
噛んだ。
「な、なに?」言い直したけどこっちも噛んだ。
遥は微苦笑を浮かべた口元を軽く握った拳で隠しながらみのりを見下ろしていた。
「私、C組のクラス委員だから。なにかあったらなんでも言ってね」
「う、うん。そっか、助かるよ。ありがとう」
顔がいいだけでなくクラス委員までしているらしい。進学校に通っているうえ、バスケットボールが好きだったりするようだし、なんだろう、完璧超人だろうか。
対してこちらはと言えば、特に浮ついた話もなく、服装とか空気感とか全体的に地味だし、親しみやすいと生徒に言われているのは要は教師の威厳がないということだ。
今の助言も、みのりが頼りなく見えたから助け舟を出してきたのかもしれない。まだ授業すら受けていないのに、そんなに心配されるような風情だったのだろうか。
ドアを閉めるまでひらひらと手を振ってくる遥は、まるで大人気アイドルのファンサービスみたいに煌めきに溢れていた。
宮益坂女子学園に赴任してすぐに思い知った。
ひとりで過ごしているなんてとんでもない。遥の周囲には常に人だかりがあって、その誰もが遥に自分を見てほしくて必死だった。みのりは結構な頻度で生徒の黄色い声を耳にしていて、そちらを見ると大抵遥が他の生徒に囲まれていた。女子高生のテンションに、三十代が見えてきたみのりは正直言ってちょっと引いた。己も昔はああだったろうか。あそこまで騒ぎ立てたくなるような存在なんていなかったと思う。
一昔前なら学校のマドンナなんて呼ばれていたような様子の彼女は、けれど今なら別の呼び方になるのだろう。
そう、まさに憧れの象徴としての。
『アイドル』と、呼ぶにふさわしい。
「すごいなあ
……
」
困っていることがあったら言ってと差し出された手は、あいにく少女たちの壁に阻まれてどこにあるかも分からない。幸い、今のところは遥の手助けが必要な状況にはなっていないし、生徒たちも真面目で授業態度も良好、教師陣との連携もうまく取れていて順風満帆である。
前任校より精神的な余裕はあるものの、授業を進めていくうえの準備や計画作成などで時間は足りない。夜中まで仕事をしているとしみじみ、実家に戻ってよかったと思う。時々、遥が桐谷家で作りすぎたおかずを持ってやって来たりして、それを夜食にもらったりする。今では花里家と桐谷家、どちらの味も自分の家みたいに感じるから不思議なものだ。
そんな両家の味が入り混じったお弁当を食べ終えて、午後の授業に向けて職員室で資料を用意していると、「失礼します」凛とした透き通った声が聞こえた。見ると、胸元にプリントを抱えた遥だった。クラス担任の席に進んで、プリントを差し出している。
「夏期講習の希望者アンケート、全員分回収してきました」
漏れ聞こえてくる会話に心の中で拳を打つ。クラス委員だからそういう雑用もあるのだろう。まだ昼休みなのにお疲れさま、と、みのりは口には出さずに遥をねぎらった。
声は出ていないのだから聞こえるはずがない。それなのに、不意に遥がこちらを見てきた。一瞬、心臓が跳ねる。
美人は三日で飽きる、なんて言い出したのはどこの誰なんだろう。首根っこを捕まえて小一時間問い詰めたい。
三日どころかもう三ヶ月も経つのにまったく飽きない。いつだって感動的に可愛い桐谷遥。心配していた授業中は仕事モードになるせいか大丈夫だったが、こういう不意の遭遇ではまったく駄目だった。耳が熱くなる。慌てて髪を梳く仕草でごまかして、遥から目をそらす。
まるで知らない外国の言葉で書かれたみたいな資料の上で目をすべらせていると、静かな足音が近づいてきて、真横で止まった。
「花里先生」
「ど、どうしたの、桐谷さん?」
みのりはクラスを持っていないし、現代文の授業でも遥に用事を言いつけたりしていない。
何か質問だろうか、とみぞおち辺りに力を込めて遥に向き直る。
遥はシルク生地みたいな感触の笑顔をしていて、少しだけ屈むとポケットから取り出したハンカチをそっとみのりの口元に当ててきた。
「ハンバーグのソース、ついてましたよ」
「えっ」
思わず唇を指でなぞるけれど、もう拭き取られてしまっているから分からない。
「おいしかった?」
他の教師には聞こえないくらいの声量で尋ねてくる。「う、うん」つられてこっちも小声になった。遥の表情が少しだけ変わる。いつもよりほんのわずかに幼いその笑みに胸元がざわついた。
「良かった」
彼女が言ったのはそれだけだ。遥はなにもなかったように職員室を出ていく。退室の際の礼が綺麗で、横目で盗み見ただけなのに見とれてしまう。
喉が詰まって小さく咳払いをした。
──あれ、そういうことだよね。
花里家と桐谷家がまぜこぜになったお弁当。
図らずも美少女の手作りハンバーグを食べてしまったみのりは、動揺のせいか知らないが予鈴が鳴っているのに気づかずうっかり遅刻しそうになった。教師なのに。
そんなちょっとしたトラブルはあったものの、授業は滞りなく終えて廊下を歩いていると、なにやら人だかりができているところに遭遇した。
「どうしたの?」
手近な生徒を捕まえて尋ねると、「あ、みのりセンセ」気安い応答が返ってきた。まだまだ大人に対して敬意を持ちにくい一年生。注意するべきかもしれないが、今は人だかりの理由が気になるので置いておく。
「あれあれ」
生徒が指差す先では、ふたりの生徒が階段前の踊り場で話し込んでいた。一方は遥だった。それから、もうひとりも見覚えがある。三年生の、あちらもクラス委員だったはず。
「は
……
桐谷さんと朝比奈さんがどうしたの?」
「見れば分かるじゃん。宮女の人気ツートップが一緒にいるんだよ?」
うんすごく分かる。とは言わずに微笑んで首をかしげた。おそらくふたりは単にクラス委員の仕事について話し合っているだけだろう。しかしながら、たしかに絵になるふたりだ。一幅の絵画のよう。あるいは絵画から抜け出して現実世界に舞い降りたような芸術的な美しさ。
片や、一見クールそうだが実際には人当たりが良く、冷静な対応が頼りになると評判の桐谷遥(美形)。
片や、穏やかな人柄で面倒見の良いお姉さんキャラが大人気の朝比奈まふゆ(美形)。
加えて双方ともに成績優秀で運動神経抜群となれば、まあこんなことにもなろうというものだ。
「はあー、幸せ
……
」
「でもみんな、見てるだけで声をかけたりはしないんだね」
「だめだめ、あのふたりは不可侵条約があるから。桐谷先輩も朝比奈先輩もみんなのアイドルだもん。遠くからアピールする子はいても近づこうとする子なんかいないよ」
「そうなんだ」
やはりアイドルだった。誰の特別でもないみんなの人気者。とはいえ、クラスに仲の良い友人はいるようだし、人気者過ぎて孤立しているということもなさそうだった。
こんな熱狂も、十代ならではか。
とりあえずハンバーグのことは誰にも言わずにおこうと思った。
「え、今日?」
残業から帰って早々、母親から告げられた言葉に眉を上げる。
「桐谷さんとこ、ふたりとも出張だったんだけど、ほら、新幹線が止まっちゃったでしょう? あれで足止めされて今日は帰れないらしいのよ」
そういえばそんなニュースを電車のモニターで見た気がする。主要な送電所で火災が起きてまだ復旧できていないとかなんとか。
リビングではラフなTシャツとスウェット姿の遥が申し訳なさそうに座っている。そんな格好でも絵になるのだからすごい。Tシャツの袖から伸びる白い腕が眩しい。
「一晩とはいえ、女の子をひとりにしておくのも心配でしょ? だからうちで預かりましょうかって」
「うん、いいと思うよ。なにかあったら大変だもん」
「それじゃ、みのりの部屋にお布団敷いてあげて」
「え?」
なんて?
「え、な、なんでわたしの部屋に? 他にも部屋は空いてるよね?」
主のいない弟の部屋の方向を指差すと、母親は「なに言ってるの」と呆れたような声で答えて肩を怒らせた。
「男子大学生が使ってた部屋なんて女の子を入れられるわけないでしょ。あなた、よく知らない男が寝てた部屋に泊まりたい?」
「う
……
」
そう言われればそうだ。弟は昔から遥とはほとんど交流していなかった。たぶん照れてたんだと思う。私物もそのまま置かれているし、勝手に泊めたと知ったら向こうだって困るだろう。
両親の部屋では気詰まりだろうし、リビングじゃ落ち着かない。消去法でみのりの部屋しかないのだと母親は貫禄ある風情で語った。そこまで言われてはみのりに反論の余地はない。
まあ別に、お隣さんの子どもをひとり、一晩預かるだけの話だ。たたの近所付き合い、人助けである。でも学校では口を滑らせないようにしよう。
遥は見るからにしゅんとしている。突然世話をかけることになってしまって彼女自身も戸惑っているようだ。
「あの、みのりさん、ごめんね急に。私はリビングとかでも全然」
いけない、子どもに気を遣わせてしまった。みのりは大きく首を振って安心させるように微笑む。
「遥ちゃんが気にすることじゃないよ。じゃあ、準備するからちょっと待ってて」
シャワーと着替えを済ませて、客用布団を押し入れから引っ張り出す。しばらく使っていないせいかやや埃っぽくて、これに寝かせるのはちょっと申し訳ない。
ドアのところで所在なさげに佇んでいる遥へ目を向けて、普段自分が使っているベッドをぽふりと叩いた。
「遥ちゃん、良かったらこっち使う?」
「えっ」
どうしてか遥が息を呑んだ。ん、とみのりが小さく首をかしげる。
「お客さん用のお布団、ずっとしまってたからちょっと埃っぽいんだ。嫌だったらわたしがこっちで寝るからベッド使っていいよ」
「あ
……
そういうこと
……
」
遥が「お布団で大丈夫」と手を振る。みのりも無理強いはせずにうなずいて、せめて少しでも快適にしようと掛け布団をぽふぽふ叩いて膨らませた。
お互いにベッドと布団に潜り込んで、けれど明かりは消さずにとりとめもなく会話をした。
「遥ちゃん、おうちで料理とかしてるの?」
「時々。いつか家を出た時に役立つし、ちゃんとバランスの取れた食事をしたほうがいいと思うから」
「うう
……
耳が痛い
……
」
まだ高校生の遥がこんなにしっかり考えているというのに、自分はといえば一人暮らしの頃はコンビニや外食ばかりで、栄養バランスなんて考えたこともなかった。
食事も、味を楽しむ余裕なんてほぼなくて、倒れないために食べているだけ、みたいで。
「うん、おばさんから聞いてる」
「お恥ずかしい
……
」
今は親の助けでずいぶん改善されたけれど、いつまでもこうしているわけにもいかないし、遥を見習って料理を覚えるべきか。
「私もまだ簡単なものしか作れないから、偉そうなこと言えないよ」
「でもこの前のハンバーグ、ほんとにおいしかったよ」
「ふふ、ありがと」
学校で見る姿より、遥が少し幼い。こっちが本当の彼女なんだろうか。本当ってなんだろう。
ひとつの笑顔も見せてくれなかったあの頃の彼女は、本当だったろうか。輝く笑顔を向けてくれる今の彼女は嘘なんだろうか。
そんなふうには思えなかった。
ごろりと身体を返して、遥に向き合う。彼女は先にこちらを向いていた。正対するかたちになって見つめ合うけれど、不思議と耳は赤くならなかった。
「そういえば、遥ちゃんは進路決まってるの?」
夏期講習アンケートのことを思い出して、そこから連想する。夏期講習は進路希望調査とアンケートの結果で日程が決まるはずで、確か先日、調査票の提出期限が来ていた。
遥がほのかに逡巡する。その反応が不思議だった。彼女の成績なら推薦での大学進学を希望するものだとばかり思っていたのに、何か迷っているのだろうか。
「
……
一応、進学」
「そっかあ。そうだよね。勉強したいこととかで相談があったら言ってね。進路指導の担当じゃないけど、これでも大学出てるからアドバイスできると思う。行きたい大学とかはあるの?」
「ありがとう。今はちょっと、まだ色々考えてるところ」
なんでもできる彼女の可能性は無限大だ。できることが多すぎるとやりたいことが見えにくくなる。贅沢な悩みに映るかもしれないが本人にしてみれば切実だろう。そういう子を導くのだって教師の役割である。
やりたいこととか、なりたい自分とか。
不意に思い出が蘇って小さく笑った。「なに?」耳聡く聞きつけた遥が不思議そうに尋ねてくる。
「昔、遥ちゃんに似たようなこと聞いたなあって」
「昔?」
「うん、『大人になったらなにになりたいの?』って、遥ちゃんが五歳くらいの時に」
ふたりで留守番をしている時だった。持ってきた絵本をみんな読んでしまって退屈そうな遥に、なにか話しかけなければと知恵を振り絞った結果の質問だった。こちらだって当時は中学生で、弟とも違う小さな子どもの扱いなんて分からなかった。
質問された遥はにこりともせずにいた。絵本を開いたり閉じたりしながら、みのりに背を向けて仕方なさそうに答えられたので思い出深い。深いのは傷かもしれないが。
「遥ちゃん、お嫁さんになりたいって教えてくれて。不思議なんだけど、あのくらいの歳の子って、みんなお嫁さんとかお花屋さんとかって言うよね。遥ちゃんも他の子みたいにそういう夢があるんだって思ったの」
「言ってないよ」
「え?」
「そんなこと言ってないよ。みのりさん、覚え違いしてる」
「そ、そうだったかな
……
?」
十年以上前の話だし、特別な事件があったわけでもない、なんら重みのないよしなしごとだ。記憶違いを起こしていないかと言われたら甚だ自信がない。
けれど、こんな他愛もない会話の中で思い出すくらいには記憶に残っているんだから、そんなに大きな間違いはないと思う。
彼女はなんて答えたんだっけ。
お嫁さんだと思ったんだけどなあ。
「みのりさんはなんで先生になったの?」
「わたし? うーん、人に伝えるのが好きだったから、かなあ」
笑わないでね、と前置きして、
「ほんとはね、アイドルになりたかったの」
「アイドル? 歌って踊るあの?」
「うん。キラキラしてて、見てる人たちに明日も頑張ろうって思えるような希望を届けるアイドル。オーディションにも何回か応募したんだけど、全部書類審査で落ちちゃって。じゃあアイドルが無理なら、どうしたら誰かに明日の希望を届けられるかなって考えて」
「それで、先生?」
「先生って、勉強を教えるだけじゃなくて、悩んでる子を助けたり、知らないことを教えてあげることで将来が見えるようにしてあげたりできるでしょ? そういうのも、希望になるんじゃないかなって」
「──そっか」
かすかな笑声が聞こえる。揶揄の気配のない、澄んだ声だった。
その清らな声になんだか気恥ずかしさを誘発されて思わず布団に潜る。
「も、もう寝よっか。お話してるうちに遅くなっちゃった」
「うん」
手元のリモコンで明かりを落とし、潜っていた布団から這い出た。真っ暗なのに不思議と彼女の気配を色濃く感じる。いつもは自分ひとりだけの部屋に他の誰かがいる気配。こそばゆい気持ちが湧いて出る。遥のほうはまったく気にしていないようで、身じろぎひとつする様子もない。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
残業続きで疲れていたのだろうか。部屋が暗くなった途端に睡魔が襲ってくる。
意識が水に溶いた絵の具みたいに曖昧に流れていって、す、と落ちる。
「みのりさんのそういうところ、ほんと──」
なにか聞こえた気がしたけれど、音として届く前に消えてしまった。
しばらく待っていたら、やや高い位置から規則正しい寝息が聞こえてきた。額に腕を置いて深く呼吸する。おかしなことを口走ったりしていなかっただろうか。さっきまでの会話を反芻して、桐谷遥はそっと目を閉じる。
まさかいきなりこんなことになるなんて思わなかった。留守番くらいできるのに、どうも大人たちは心配性だ。
音を立てないようにそっと身体を起こして横を見やる。暗順応した目に布団の盛り上がりが見えて、それは真っ黒い塊にしか見えないのに遥の心臓から平常を奪っていく。
十歳上のこのお隣のお姉さんに、あこがれを抱いたことはない。憧れるにはややなんというか、ドジっ子属性が強いというか、落ち着きがないというか、よく百面相をしているし、すぐに動揺するし、八年ぶりに再会したというのに大人の余裕はどこにもなくて、おかげで生徒たちにもあっさりタメ口をきかれる始末だ。いつかクラス担任とかになったら苦労するんじゃないかと思う。
布団の上で体育座りをして膝に頬を乗せる。呼びかけて本当に寝てるか確かめてみたいけれど、それでもし起きてしまったら困るから何も言わずにいた。
うっすらと判別できるようになってきたみのりの寝顔。そのパーツをひとつずつ目で追っていく。
──髪、なら、いいかな。
しずしずと腕を伸ばして枕に落ちた彼女の髪に指先だけで触れた。
少し猫っ毛気味で柔らかい。その手触りに思わず口元が緩んだ。くるりと指先に巻きつけてみる。手をつないだりできない代わりみたいな気持ち。
小さい頃はたまに手をつないで近所の公園に連れて行ってもらったりしていた。ブランコが好きで、何度も背中を押してもらって、最後にはみのりが疲れて音を上げていたなと思い出す。それでも笑っていなかったのだから、我ながら筋金入りだ。むっつりとしたまま、みのりに「楽しかった?」と聞かれて小さくうなずいて。みのりさん、困っただろうな。今さらながら申し訳ない。
楽しかった。本当に。
楽しかったし、嬉しかった。
ただどうやって伝えたらいいか分からなかったのだ。同年代の子どもたちみたいに無邪気に笑うことができなくて、無理に笑うと嘘っぽく見えてしまってますます笑えなくなった。
──それはまあ、相手もしたくなくなるよね
……
。
年も離れているし、高校生なんて友達と遊んだりしたい盛りだ。いつの間にか全然会えなくなって、けれどそれをさびしいとは言えなかった。不器用すぎる幼い自分に胃が痛む思いだ。
せめてものお詫びにと、母親に頼んで弁当作りを手伝ったり、学校でも何か手助けができないか探したりしてみるけれど、そんなのじゃ全然足りない。
今はもう、背だってみのりより高いし、あの頃よりうまく立ち回れるし、できることも増えたし、もっともっと、みのりの役に立てるはずなのだ。
みのりの力になりたい。
本当に?
本当に。
本当、だけれど。
眠っている彼女の髪に触るのが精一杯の子どもの自分を、自分自身がどこか冷静に見ている。
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