黒竹
2022-05-30 21:58:48
23046文字
Public 少女☆歌劇レヴュースタァライト
 

#6 花盗人

【少女☆歌劇レヴュースタァライト】【ふたかお】【春に咲き匂う】

 立春を過ぎ、暦の上では春となったが、そうはいっても感覚的にはまだまだ冬だ。その証拠に先日は雪がちらついた。積もるほどではなかったが、それだけ気温が低いということだ。
 そんな時期に防寒などさして期待できない制服姿の生徒たちが夜を徹する覚悟で作業をしている。もうすでに日は暮れて、冷え込みはますます厳しく、冷気は柔らかい生地をあっさりと通り抜けてくる。学校側に使用許可を得ているため暖房のついたままになっている教室内であればまだマシだったが、大道具を作る場合などはどうしても換気の面で中庭に出たり窓を開けたりしなければならない。各々コートや厚手のジャケットなどで対策はしているものの、むき出しの手足は凍えて痛々しいほどである。
 そこで大場ななが一念発起した。頑張っているのは主に舞台創造科の生徒たちで、ななは彼女たちともすでに盟友となっていた。友の苦境を見過ごすわけにはいかない。
 ルームメイトであり、俳優育成科の学級委員長でもある星見純那が調理室の使用権を勝ち取ってくれた。さすがにひとクラス分の材料はなかったので買い出しが必要だったが、そこは石動双葉がバイクを駆ってくれている。そろそろ戻るはずである。
 ちなみに花柳香子は学校に残って神楽ひかりとトランプで遊んでいる。ななは詳しく知らないが、なんのかんのでそこそこ仲良くなったらしい。
 手伝ってくれる友人たちと一緒に調理器具や調味料を準備していると、ちょうど双葉が帰ってきた。小柄ながらも力持ち、大量の食材を抱えてななにアイコンタクトしてくる。
「ただいまー。メモにあったものは全部買ってきたと思うけど、一応確かめてくれ」
「ありがとう双葉ちゃん。寒かったでしょ?」
「あーまあ、寒いことは寒いけどな。そんな遠出でもないし大丈夫だよ」
 そう言う双葉の頬はかじかんで強張っている。食材を受け取り、メモと照らし合わせて足りないものがないことを確認。
「あーっ、双葉はん、ネギいらん言うたやろー」
 買い物袋から飛び出している長ネギを見つけた香子が、部屋の隅から抗議の声を上げてきた。
「すき焼きにネギがなくてどうするんだよ。あったまるし風邪予防にもなるんだぞ」
「いらんもんー」
「じゃあ、香子ちゃんのお皿には入れないようにするね」
 ななが割って入ると、むぅんと唇を尖らせたままではあるが、香子が引き下がった。ちょうど勝負が決まったのか、トランプを置いてひかりと一緒にやって来る。
「あの……私も、手伝う。なにか手伝えることはある?」
「はいはいわたしもー! わたしも手伝いまーす!」
 手を挙げたひかりの背後から、飛びつくように両手を突き出した華恋が現れて、そのさらに後ろからまひるも顔を出している。
「ほんと? じゃあひかりちゃんには下割りを作ってもらおうかな。華恋ちゃんとまひるちゃんは材料を切るの手伝って?」
 「分かった」「了解っ」「うん」口々に応えて散る三人。残された香子はきょろりと周囲を見回してから、ななに視軸を定めた。
「うちは?」
「香子ちゃんは……準備室が空いてるから、双葉ちゃんをあっためてあげて」
「まかしときっ」
「いいのか? 戦力外通告されたぞ、お前」
 まあ以前も大して役に立たなかったので仕方がない。
 準備室には前回の聖翔祭で使った道具やら暗幕やらが押し込まれている。今夜の空は澄清、月明かりが差し込む室内はそのままで物のかたちが分かる程度には明るい。薄明かりの中で花柳香子が石動双葉を腕の中に閉じ込めて頬を寄せる。冷えて凝っていた双葉の身体が少しずつほぐれていく。香子の熱と、自らの熱で。
「双葉はん、冷たなっとるなあ」
「バイク乗ってたしな。別に、そのへんひとっ走りしたらあったまるけど」
 運動好きらしい発想に香子がため息をついた。双葉は腰に回された腕の力が強くなったのを感じるが、その意図を読めずに眉を寄せる。「ほんまそういうところやで」香子が拗ねた声で言ってくる。
「さっきまで一人で留守番させとったのに、またうちを置いていくつもりなん?」
「あのなあ。ほんの十分くらいだろ。なんだったら一緒に走るか?」
「いやや。寒い」
「だろ」
「ええからここにおって」
 導くように体重をかけられて、もちろん抵抗しようと思えばできたのだけれど、そうするのはあまりに野暮なので積み上げられた暗幕に腰を下ろし、そのまま倒れ込む。夜の色に染められた布は月明かりを通さない。
 だからきっと、何をしていても誰にも見えない。
「うちがあっためたげるさかい」
 唇と耳朶と首筋に柔らかな感触。双葉の両手は何重もの鎖でがんじがらめになっていて彼女の背中に回すくらいしかできることがない。額に、まぶたに、蝶が止まる。捕まえたいが両手を使えないから噛みついた。捕らえた蝶をつぶしてしまわないように、舌先で丹念にそのかたちを確かめる。もう知っているかたち。柔らかさ。味。夜の中でどちらがどちらを捕らえているのか曖昧になる。蝶の羽ばたきはやむことがない。吐息の隙をついて双葉が香子を組み伏せる。呼吸の合った演技にも似たなめらかな動作だった。お互いの双眸には色が浮かんでいる。濡れた、艷やかな色。かじかんでいた指先はすっかり温かさを取り戻ししている。きっと彼女のどこに触れてもなじむ。ほう、と、吐息が洩れる。暗闇の中でどちらのもだったのかは分からない。
 じゃらりと両腕が鳴った。
 怯えたように、双葉が動きを止めた。フラフラと香子の肩口にくずおれる。「あら」どこか虚空に似たつぶやきが香子の口から洩れた。
「せんの?」
……学校だぞ」
 理性の人、石動双葉。
「なんや、せっかくばななはんが人のおらんとこ教えてくれはったのに」
「あいつはそういうつもりじゃ……いや、どうなんだ……
 大場ななが何を知っていて何を考えているのか、いまいち読めない。
 夜の内側から這い出て起き上がる。危なかった。先ほどとは違う原因の熱が首から上に這い上がってくる。ごまかすように、わずかに乱れた香子のリボンを直す。桜の花びらがほろほろと双葉の唇の隙間からこぼれ落ちている。
 片手で顔面を覆って嘆息。自己嫌悪。誘惑を跳ね返せない己の弱さが恨めしい。花びらは少しずつ、けれど留まることなく流れ続けている。
「香子、お前、分かっててからかってるだろ」
「うん? からかってなんかおらんで?」
「うそつけよ」
 これは、手法を変えただけの、以前と同じ試し行動だ。だから石動双葉は抗する必要がある。完璧ではなくても。
 すい、と手招きをしてくるのに従って、彼女の頭を抱えるように腕を回す。顎を上げる仕草で示されて、柔らかに唇を重ねた。
「からかってへんよ。双葉はんが真面目なだけや」
「お前がわがまますぎるんだよ」
 今この状況だって、誰かに見られたら大変なのに。そう思ってはいても彼女を離せないのだから、大概だけれど。
 香子がふふんと笑って双葉を抱きしめた。
「まあええわ。双葉はんのそういうところも好きやさかい」
 自覚してしまえば、恋と執着は明確な意図を持つ。
 世界征服という抽象的な願いで満足していた彼女の執着がかたちを帯びていく。
 それがおそらくは己の罪科なのだろうと、石動双葉は無自覚に感覚していた。


 どれだけ聖翔祭の準備で忙しかろうと普段の授業は通常通り行われる。いくつかのグループに分かれてダンスレッスンを受けている中、順番待ちをしている露崎まひるがふわりとあくびを噛み殺した。
「眠そうだな、まひる」
 隣にいる双葉もつられてあくびが出そうになったが、意志の力で押し殺した。そのさらに隣の香子はあくびどころか立ったままでこくりこくりと船を漕いでいる。器用なものである。
 目をこすり、こめかみを揉んで眠気に抗うまひるが、気弱な視線を双葉に向けてきた。
「B組のお手伝いとか、華恋ちゃんとひかりちゃんのサポートとか、けっこうやることが多くて」
「今度のスタァライトはあいつらが主演だもんな。まひるが手伝ってくれて助かってるだろ」
「ていうか……。二人とも、着替えとか、けっこうぐちゃぐちゃにしがちで……。練習時間も長いからお部屋もあんまり掃除とかできないし」
……そっちか」
 それは大変そうだ、とやや同情気味にうなずく双葉。「あ、でも、お世話するのは嫌じゃないの」フォローするような言葉だったが、本心であることはその表情から見て取れた。以前は華恋と一緒に主演したいと願っていたようだが、そこは何か吹っ切れたようだった。ひかりに対してもとげついた態度を取らなくなったし、どちらかといえばむしろ、小さい妹の面倒を見る姉のようなポジションになっている。
「ああ、そういえば、下に兄弟がいるんだったな」
「弟も妹もいるよ。大家族なの。だからかな、今は華恋ちゃんとひかりちゃんのお世話するのがけっこう楽しいの」
「そっか。あたしなんか香子ひとりでも大変だってのに、まひるはすごいよな」
「でもほら……香子ちゃんは……てごわいから」
 慎重に言葉を選んだはずのまひるの口から出てきた「てごわい」という表現に、双葉は力なく笑う。「そうだな、てごわいな」すやぁ、と擬音がつきそうな安らかな寝顔をさらしている幼馴染を横目で見やってから、やれやれと首を振った。
「香子、そろそろ起きろ。次あたしらのグループだぞ」
 いくらなんでも授業中、しかもダンスレッスンで寝かせているわけにもいかない。香子が小さく唸って目を開けた。眠気覚ましに大きく伸びをして、はふ、と息をつく。
「眠いいぃ。はよ終わらんやろか……
 ダンスレッスンは今日の最後の授業だ。これが終われば帰れるので、香子のやる気はほぼゼロに等しかった。その様子に後ろで並ぶ天堂真矢が小さく嘆息する。彼女、本気を出せば大したものなのだけれど。
 寝不足のまひるとやる気のない香子は当然のようにコーチに叱られたが、それでもなんとか課題をこなしていく。複雑さを増していくステップとターン。まひるがわずかにふらつく。誰も手を差し伸べることはできない。
「あ!」
 愛城華恋が叫び、その一瞬前に神楽ひかりが動いていた。「逆!」その声も、ひかりの手も間に合わない。
 何が起こったか分からないまま衝撃が石動双葉を襲い、瞬きひとつの時間を使って双葉が状況を理解すると同時にみどりの黒髪が舞うのを視界に捉えて反射的に腕を伸ばした。床から衝撃音。それと同じタイミングで自身の内側から鈍く響く振動。痛みはまだないが、なんとなくこれはちょっとまずいことになったなと思った。
「ふ、双葉ちゃん!」
 双葉の左手を下敷きにしていることに気づいて、まひるが慌てて起き上がる。寝不足のせいだったのか、ターンの向きを間違えたまひると全力で衝突したのだと把握したのはこの時だった。ゆっくりと上体を起こし、その場に座り込む。動揺を喉の奥で押しつぶしてへらりと口元を緩める。
「あー、悪い。あたしもポジション間違えてた」
「ごっ、ごめんね、どこか怪我してない?」
「んん……
 泣きそうな顔ですがりついてくるまひるに笑いかけてから、軽く自身の身体を探る。概ね異常はない。左手首を除いて。
「ちょっと左手ひねったかな。けど、大したことないよ。あとはぜんぜん平気」
「え、ど、どうしよう、すごい腫れてきてる、もうすぐ聖翔祭なのに」
「大丈夫だって」
 もう八割方泣いているまひるの頭をなだめるようにポンポンと叩く。痛みの増す左手に、西條クロディーヌがアイシングパックを乗せてくれた。ダンスとか殺陣とか、複数人が動き回ればこういうことだって起こる。対処のための道具もノウハウもすでに用意されている。
「痛いのはほんとにここだけなのね?」
「ああ、他はピンピンしてるよ」
「じゃあ保健室かしら。まひるは大丈夫?」
「う、うん。双葉ちゃんがかばってくれたから、どこもなんともない……
「なら双葉だけね」
 クロディーヌがコーチに双葉を連れて行くとつたえに行き、その間に双葉が立ち上がって香子の方を見やった。
 香子はちょうど口元に当てた手のひらの内側であくびをしているところで、むにゃ、と幼いつぶやきをこぼしてから双葉の視線に気づいてこちらに顔を向けてくる。
 手首を冷やしながら、双葉は平坦な表情でレッスンルームの出入り口を示した。
「ちょっと行ってくる」
「ん、はようおかえりぃ」
 まるで買い物にでも行くような気負いのなさで交わされたやり取りに、華恋が小さく首をかしげた。双葉ちゃんのこと心配じゃないのかな、と窺うような眼差しを送りかけるが、なんとなく空気感に気圧されて目をそらす。
 理解はしがたいが、そこには余人が入り込んではいけない気がした。
 運命のような決まりきったものではなくて、二人がこれまでに築き上げてきた果ての、スポットライトにも似た二人をつなぐライン。
 それを阻むことは許されない気がした。
 結局、双葉は養護教諭から応急処置を受けた後に病院へ行き、下りた診断は軽い捻挫だった。左手首を固定されて帰ってきた双葉にまひるがとりすがる。
「双葉ちゃん、ほんとにごめんね。わたしが間違えたせいで、こんな……
「いや、そんな大した怪我じゃないって。安静にしてるのも三日だけでいいらしいし、聖翔祭にはじゅうぶん間に合うよ。腫れも明日には引くらしいしな」
 固定具とテーピングのせいで大げさに見えるだけだと双葉が笑う。
「でも、三日だけでも片手が使えないと大変だよ」
「多少は不便かもしれないけど左手だからな。利き手が使えるからけっこう大丈夫じゃないか?」
 あくまで気楽に双葉は笑う。まひるを安心させるためでもあったし、本心でもあった。
 だがしかし、人の身体というのはそうそう無駄な部分などないのである。


 経緯を考えればまひるが双葉の世話を買って出るのも道理で、双葉は断ろうとしたが、オーディションを通じて芯の強さを手に入れた露崎まひるは引かなかった。そして石動双葉は人が良い。それはつまり押しに弱いということでもある。
 そんなわけで、湯気のもうもうと立ち込める大浴場の片隅で、石動双葉は露崎まひるに髪を洗われていた。
「ほら、左手だって使えないと困るでしょ?」
「風呂は確かに。こいつは盲点だったな」
 頭を下げ、濡らさないように左手を掲げた奇妙な姿勢で、まひるのなすがままになっている双葉。弟妹たちで慣れたものなのか、まひるは手際よくシャンプーを泡立てている。
「人に髪洗ってもらうのって妙に気持ちいいよな」
「美容院とか行くと、つい眠っちゃうよね」
「そうそう」
 二人の笑い声が浴場内に響く。他の寮生の姿はない。丁寧に髪を洗われてシャワーで流される。コンディショナーもつけてもらって、終わったらタオルで軽く顔を拭いてもらう。至れり尽くせりだ。
 背中も流してもらって、双葉はさっぱりとした面持ちで湯船に浸かる。
「いやー、お世話されんのっていいなあ」
「双葉ちゃん、いつもお世話する側だもんね。手が治るまで、遠慮なく甘えていいよ」
 ちゃぷんと音を立てながら、まひるがぐっと右腕に力を込める。頼りない細腕に力こぶはできなかったが。
「じゃ、風呂上がりに足揉んでもらって、明日はバイクで学校まで送ってもらおうかな」
「ええ? バイクは無理だよぅ……
「冗談だって」
 いつか、別の誰かに同じようなことを言ったなと思い出す。あの時も半ば冗談か当てつけのようなものだったけれど、こんなふうに平和な気持ちで発したものではなかった。
 あたしが勝ったら。
 あの時は、あんなことしか言えなかった。たぶん今だって同じだろう。
 望む星などありはしない。
 この両腕には絡む鎖があるばかりで、両手はずっとからっぽのままだ。
 なにもない。
 石動双葉は何も持っていない。
 何も願っては。
「──のんびりしすぎたな、のぼせそうだ」
「あ、うん。そろそろ出ようか」
 まひるは頼んでもいないのに髪を乾かしてくれて、双葉はなるほどこれは華恋とひかりがああなるはずだと妙に納得した。
 水分補給は大事だからとまひるに持たされたペットボトルを片手に部屋に戻ると、香子がベッドに寝転がって雑誌を読んでいた。双葉が置きっぱなしにしていたバイク雑誌だ。
「面白いか?」
「おもんなーい」
「だよな」
 おおかた、暇つぶしに手の届くところにあった雑誌を取ってみただけだろう。ページをめくるスピードが速い。写真だけ見ているのかもしれない。
 ペットボトルを開けて、中のミネラルウォーターを一口含む。ペットボトルの蓋はまひるが一度開けてくれていたから左手が不自由でも困ることはなかった。細かいところまで気配りの効くまひるを思い、それなりに適当なところもある双葉は、あれじゃあ苦労するだろうなと遠い目をした。華恋の変化によって多少は楽になったのかもしれないが、もうひとり増えた分で相殺だろう。
「双葉はん、足揉んでー」
 幼馴染の怪我などないかのようにいつもどおりのわがままを言う香子。「へいへい」双葉もそれに何を言うでもなく、ペットボトルを机に置いて香子の隣に腰を下ろした。
 いつもと勝手が違うので、マッサージをする手も幾分ぎこちない。自重を支えられないのがなかなか厳しい。飽きたのか、香子がバイク雑誌を傍らに放った。自身の腕を枕に寝そべり、「うーん、もうちょっと強うして」ふにゃふにゃした声で注文をつけてくる。
「こんなもんか?」
「あー、ええねえ」
 ダンスレッスンのせいか、わずかに張っているふくらはぎを揉みほぐしていると、香子の口から小さなあくびが洩れた。昼間から眠そうにしていたので無理もない。もう夕飯も済ませて寝るばかりなので問題はないが、点呼がまだなので寝落ちされたら困る。双葉はふくらはぎをペチペチ叩いて覚醒を促した。
「寝るなら自分のベッド行けよ」
「んん……
 頃もよしとマッサージの手を止めてベッドを下りる。右手しか使えないからずいぶん疲れた。何度か握ったり開いたりして疲れをごまかす。
 香子が身体を反転させて、仰ぎ見るような姿勢で双葉の左手を指さした。
「双葉はん、それ、バイク運転できるん?」
「ん? ああ、クラッチは握れるから大丈夫だよ。今日も乗って帰ってきたしな」
「ほんならええわぁ」
 香子の口からはいたわりの言葉ひとつ出ないが、それを特に不満には思わない双葉だった。昔からそうだし、それが花柳香子だったので。
 そういう彼女を好きになったので。
 いつまでもどこうとしない香子をそのままに、ベッドのふちに腰かけて、固められた左手の指先で香子の額を静かに撫でる。撫でられた方はくすぐったそうに目を細めて、くふんと吐息を洩らした。前髪をかきあげるように撫で上げる。固定具が邪魔で髪を撫でられないので、代わりに指先で艷やかな碧髪を巻き取って遊んだ。
 眩しがるような視線が眼下から届く。
「双葉はん。今、ちゅーするところやで」
「いちいちそういうこと言うなよ」
「言わんとせんやろ?」
 身をひねり、香子の傍らに肘をついて支えながら、せせらぎにも似てささやかに唇を落とす。一度触れてしまえばあとはたやすかった。執着の発露としての触れ合いは終着がない。首に絡む熱情を無防備に受け入れながら、互いの熱を混じらせる。
 浮き立つ桜が狂おしいほどに咲き乱れている。
 美しくて、美しくて、石動双葉はそれを。
「──香子」
 振り切るように、名前を呼んだ。
 その先に続く音はない。

 点呼を終えて部屋に戻ると、なぜか香子が当然のように双葉のベッドへ潜り込んだ。
「おーい。お前のベッドはそっちじゃないぞー」
「分かっとりますえ?」
「じゃあなんでそこで寝てるんだ」
 双葉が左手を掲げて見せる。「今日くらいひとりで寝かせてくれ」ただでさえ動きにくいのに、これ以上窮屈な思いをしたくない。
「別に痛くないんやろ?」
「痛くはないけど、それは固定してるからであって怪我してないわけじゃないからな」
 そういえばさっき自分のベッドで寝ろと忠告した時、はっきりうなずかなかったなと今さら気づいた。この腕では力づくで抱えあげるのも難しい。香子は「おいで」とばかりに自分の隣をポンポン叩いている。いやいや、と双葉は呆れ混じりに首を振った。
……お前、ほんっとわがままだな」
「ええ? 今さらそないなこと言わはるん?」
 ごもっともだった。双葉だって今になって知ったわけではない。とうの昔に知っていた事実だ。今のはただの愚痴である。愚痴というのは自分ではどうにもならない事柄に対して出てくるものだ。つまりそういうことだった。
 香子を壁際に押しやって空いたスペースに身体をねじ込む。ベッドはシングルサイズだけれど小柄な二人なので収まらないということもない。左手をかばうように枕に乗せて、顎まで毛布をかぶった。香子が眼前で満足気に笑っている。
 香子の手が伸びてきて、頬に触れ、こめかみをすり抜けて、うなじのくぼみへ指が沿う。「髪、サラサラや」いつもと同じシャンプーとコンディショナーを使ったのだからそれほど変わるはずもないのに、当てつけるように言ってくるから、双葉はそれで彼女が少し不機嫌なことに思い至った。
「なんだ、まひるに妬いてたのか」
「そんなんやない」
「そんなんだろー」
 苦笑交じりの吐息と共に言い返すと、薄闇の中で彼女が頬を膨らませたのが分かった。まあ直接けんかを売らなくなっただけマシか。口の中だけでつぶやいて華奢な腰を抱き寄せる。
 かぷりと鼻先に噛みつかれた。可愛らしい抗議行動に双葉は鼻にしわを寄せて笑う。小さな怪獣がガウガウと襲いかかってくる。組みつかれて、耳に歯を立てられる。以前は意味も分からず戸惑うしかなかったその感覚を愛情として受容する。左手は肘の上で押さえ込まれていて自由がきかない。無秩序に噛みついてくる牙の先は丸い。
 無邪気ですらある恋の戯れだった。捕らえられても逃げようとしない石動双葉と、わざと唇にキスをしない花柳香子の、お遊戯みたいなじゃれ合い。
 誰にも邪魔されない、楽園みたいな恋だった。
 それはきっと、いつまでも続くものではないのだけれど。
「ちょ、お前、眠いんじゃなかったのかよ」
「双葉はんがかいらしさかい、目ぇ冴えてもうた」
 それは心地良い執着。いつだって双葉はそれに溺れそうで、しずんでしまわないように抗っている。
「今日はさすがに無理だぞ」
 頭上に退避させている左手は、手首から手のひらまでを硬くテーピングされている。身体も支えられないし抱えられもしない。
 香子が軽く顔を上げて、それから蠱惑的に微笑んだ。
「ええよ。うちがするさかい。双葉はんは黙って寝とって?」
……それも無理だろ」
 なんの拷問だよ。げんなりした顔で小さくつぶやく。好きな相手に触れられて、黙っていられるわけがない。
 「いいからもう寝ろって」のしかかってくる彼女の背中を優しく叩く。「来週には治るんだから」
 不満そうな表情を隠そうともせず、香子が額を肩口に押しつけてきた。
「せやって、まひるはんに触らせたやろ」
「髪洗ってもらっただけだろ」
「それでもいやや」
 過去には見せなかった姿だった。自覚がなかったせいだ。石動双葉が見えないように隠していた執着と、同じ殻に閉じ込めていた独占欲。かつて西條クロディーヌが引き出そうとして失敗したもの。明るみに出てしまえばもう誰も止めることはできない。
 双葉が乱暴に香子の髪をかき混ぜる。首を持ち上げて唇をかすめ取ると、「今日はここまで」幼子へ言い含めるように告げた。
「むうぅ」
「ほら。おやすみ」
……おやすみ」
 ようやく、香子が双葉の胸元に潜り込む。やれやれと息をついたのは聞こえなかったようだ。柔らかに背を撫でて寝かしつけながら、双葉はゆるりと目を閉じる。
 楽園の恋は居心地が良すぎて少し恐い。


 三日後、固定具が外されてテーピングだけの簡易な処置になった。いくつか受けられなくなっていた授業にも復帰できるようになって、双葉はホッと胸をなでおろす。ただでさえ努力でここまで来た人間なので、これ以上休んでしまうと勘が鈍るようで不安だったのだ。
 休み時間の教室は騒がしい。次の座学の予習をしている星見純那の周囲に何人か集まっていた。今日が期限の課題が終わらなかったらしい。双葉はそれを眺めながら、そういえば香子も課題をやってる様子がなかったな、と気づいた。ちらりと隣へ視線を移すと、幼馴染は良い感じに寝ている。「……まあいいか」世話をするのにはやぶさかではないが、自業自得で怒られるのを助けようとは思わない。
「双葉」
 呼びかけられて振り向くと、パックジュースが飛んできた。「ととっ」危うく取り落としそうになりながら右手で受け止める。
「快気祝いよ」
「ははっ、サンキュー」
 ジュースを投げてよこしたクロディーヌが双葉の傍らに佇む。
「放課後、自主練するなら手伝うけど?」
「おっ、マジ? 助かるよ。さっすがクロはあたしのこと分かってるな」
 まあね、と肩をそびやかすクロディーヌに笑いかけて、軽く手をたたき合わせた。双葉が使ったのは左手である。調子が戻っていることの証明としてあえてそうした。クロディーヌが納得げに口の端を上げる。
「良かったじゃない、すぐに治って。まあ、まひるにもずいぶんお世話になって楽しそうだったみたいだけど」
「ああ、けど、何から何までやってくれようとするから、ちょっとまいったよ。夕飯の時もずっと隣で食べさせてこようとするし」
 その光景はクロディーヌも目にしていた。ななが気を遣って片手でも食べやすいメニューを作ってくれていたのに、まひるが頑なに食事の世話をしようとして、根負けした双葉が「あーん」とかさせられていた。当然ながら香子の機嫌はとんでもなく悪かったが、それでまひるへの態度が硬化するわけでもなかったので、双葉がうまいことフォローしていたのだろう。
「ま、それも昨日まで。今日からは普通に左手も使えるからな。あー早く殺陣の練習してえ」
 天井を仰ぎ、熱望するようにぼやく双葉。この三日間ろくに身体を動かせていないのでフラストレーションが溜まっているらしい。上を向いてあらわになった額を軽く叩いて、クロディーヌが澄んだ紫瞳を覗き込んだ。
「けど、ちょうどよかったんじゃない? あなた、もうちょっと人に甘えたほうがいいわよ」
「ん?」
「もっと素直になりなさいってこと」
 言われて、双葉はきょとんと目を丸くした。わりあい素直なタイプだと自分では思っているのだが。
 クロディーヌの視線はどこか呆れたような微妙な色合いになっていて、こんな目で見てくるのは久しぶりだなと双葉は思う。
 するりと首に両腕が回されてクロディーヌがしなだれかかってくる。
「最近の双葉、ちょっとつらそうよ」
…………
「何を悩んでるか知らないけど、どうせまた隠し事でしょ?」
……そういうの、なんで気づくんだろうな、クロ子は」
 細長く息をついた後にこぼした言葉は頼りなくて、クロディーヌは思わず慰めるように頬を寄せた。
「あなたが好きだからよ」
「言ってろ」
 双葉がはっきりと苦笑して、抗議するようにクロディーヌの胸に頭を押しつけた。
「うおっ」
「ん?」
 何かに驚いて身体を起こした双葉に、クロディーヌが訝しげな顔をする。「どうしたの?」静電気でも走ったか、と思ったがそういうわけでもなさそうだ。
 双葉が振り返り、クラスメイトの胸元をまじまじと覗き込んで、
「やっぱりあれか、フランスの血か……?」
 真剣な口調でぼそりと言った。
……あのねえ」
「そういえばまひるもかなりのもんだったな。なんでなんだ。同い年なのに」
「個人差でしょ……。香子は?」
…………
「ごめん」