豆炭々炬燵
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【ペニビル】おつかれ

元気のない道化師といつもより優しい兄ちゃんの話。


見上げればよぼよぼの老いぼれた天井。見下ろせば何処まで続くか分からない地獄の入り口。
地上まであと少しだというのに上に登るための縄が無い。落ちないよう横穴から身を乗り出して仰いだところで上に誰かいるわけでもなくタイミングよく縄が降ろされることもない。
古井戸の壁をよじ登る他なさそうだ。此処まで一応道案内した相手は後方で壁にほぼ寝そべるかたちで窮屈そうに寄りかかっている。露骨過ぎる往生際の悪さ。とかく握った手だけは離さないのかずっと握りしめ地味に引っ張っている。
残念ながら片手で壁上り出来るほど器用じゃない。掴んでいる手を離して、そう言おうとした時だった。
ふわり顔に伸びてくる白い手のひら。白に覆われ僅かな光も消え黒に染まった世界で囁く声はやはり恨みがましい。

「ビル、今の君の体は風船だ。風船になってフワフワ浮いて井戸の上まで浮かんで出るんだ。風船みたいにフワフワ、浮くんだよ」

視界を覆っていた闇が離れ。完全に離れた頃には其処は古井戸の近くではなく何故かニーボルト通りの家の前だった。歩いた感覚も無ければ壁をよじ登った感覚さえない。本当に風船みたいにフワフワ浮いて出てきたのだろうか。
一先ず何処か体がおかしくなったわけでは無さそうだ。自棄に手を掴み握られている感触が他より際立っていた。
夏真っ盛り。一年の中で太陽が居座る時間が長い時期とはいえ、そろそろ太陽の寿命が切れかかっている。
「(家に着く頃には七時近いな)」
町中のそこかしこだけではなく頭の中にも立っているデリー警察署が夜七時以降の外出を禁止する看板の文字が自己主張し始めた。ただその原因たる存在がすぐ隣にいる事実に一瞬目を逸らしたくなる。
しかし、不幸中の幸いかな夜七時以降の外出を禁止する御触れのお陰で大通りには人っ子一人影ひとつもない。たとえ人がいたとしても恐らく隣を歩く白い存在には気付かない気付けない。視界に入ったところで認識されやしない。つくづく便利で恐ろしい力に思いっきり目を逸らしたくなる。
太陽の断末魔の尾が空の果てに消えかかりそうな時間帯は寂しい雰囲気が漂う。はやく家に帰らなきゃ。そんな気持ちが増幅され知らず歩く速度が速くなる。家が恋しいから?親に怒られるから?違う。もっと違う焦燥感に狩られるからだ。まるで後ろに伸びる影の向こうから何かが忍び寄り太陽が死んだ世界へ連れて行こうとする――
「つまりこういう事かな?」
知らぬ間に背後に回り首に白い枷を付け、耳元で囁かれれば誰だって肩の一つや二つ跳ねるに違いない。
甚だ不服ではあるが先程より調子が戻ってきた様子にバレぬよう溜息を吐こうとした矢先、まだまだ本調子ではないのを目の当たりにした。
……私以外のモノに連れて行かれるのは許さない」
無意識に止まっていた歩を進め、首にそのまま白い蔦化しそうだった腕を解き手を取った。
家までもう少し。夜はすぐ傍まで迫ってきている。