吾妻
2022-08-28 00:01:52
10478文字
Public GOD EATER
 

奈落を泳ぐ

弊アナグラの無印本編開始直前くらいの話。無印からRまでの弊アナグラの小話をまとめたいと思い、ちまちままとめつつ書き下ろしています。

1.

――赤。
 目に痛いほど鮮やかな飛沫が、まるで生き物のように襲い掛かってきた。
 鉄錆の臭いがするそれを、頭から被った。まばたきさえできなかった。
 粘度を持った生温かい滴りが、頬を伝い、顎の先から落ちていく。
 体を伝い落ち、足元へと溜まった液体はやがて、波紋を描きながら外側へと広がっていった。
 水溜りから、小さな池へ。池から、川へ。
 静かに、けれども驚くべき速さで、見渡す限りを赤く染めてゆく。

 浸食の只中に取り残されて、為す術もなく立ち尽くし、思った。
 ああ、これは夢だ。
 だから、得体の知れぬ赤黒い水が、生物のように辺りを飲み込みながら広がろうが、その表面に呼吸のように水泡がいくつも浮かぼうが、おかしなことではない。
 どんな不条理も起こりうる。夢とは、そういうものなのだ。
 水面に浮かんだ水泡が膨らみ、限界を迎えて、ぱちん、と弾けた。

――……なた、は

 弾けた泡から、声が聞こえた。
 慈愛に満ちた女の囁きだった。
 咄嗟に耳を塞ごうとしたけれど、指の一本さえ動かせなかった。その声を、聞きたくなどないのに。すくなくとも、今は。
 拒絶の意思とは裏腹に、水面にはいくつも泡が生まれ、ふくらみ、弾ける。
 そのたびに、濃密な血の臭いと、女の声が溢れ出す。

――あなたは、この世界に福音をもたらすの。

 幾度となく繰り返される、それは呪いだ。
 顔も見たことのない女。この身を孕んだが故に肉塊と成り果てた母の、優しくも悍しい、呪詛。

(どれだけ手を伸ばそうが――
 命ひとつ、拾えもしないというのに。
 世界なんて預けられても、どうしたらいいかわからない。

――……殺せ。

 別の水泡が弾け、今度は男の声がした。

――すべてのアラガミを殲滅しろ。

 お前はそのために生まれたのだと、男の声は冷たく突き放す。
(あんたらの言い分なんて知ったことか)
 身に余る宿命を望んだことなど一度もない。救世主など、まっぴらごめんだ。
 それなのに、「守れ」と囁き、「殺せ」と命じる身勝手な理想を手放すこともできない。
 今、この奈落で生きている理由を、自分ひとりでは用意できないからだ。
 なんのために。誰のために。
 身のうちにバケモノの因子を飼い、噛みちぎったバケモノの死骸(パーツ)をいじくり回した得物を振るい、いつ終わるとも分からない戦いを繰り返すのか。
 その先に、何が待つのか。
 世界の趨勢も、未来への展望も、靄がかかってうまく見えない。
 世界を救えと放り出されながら、何も守れない自分の無力さに苛立つばかりで。
 立っているだけで、息苦しい。

 不意に、足元で赤い水面が盛り上がり、水面下から一本の腕が生えてきた。
 指を開き、掌を天に向け、赤黒い雫を滴らせながら。
 連鎖するようにいくつもの“腕”が現れ、そのうちのひとつが、呆然と立ち尽くす足の片方をがしりと掴んだ。

――どうして……

 足元から声が這い登ってくる。

――どうして、助けてくれなかったの。

 二本、三本と、血に塗れた腕が両足に絡まりつき、強い力で下方へ引っ張る。血の海へ、引きずり込もうとする。
 振り払おうにも、体は動かない。声すら上げられない。
 気づけば、血の海一面を覆うが如く生えた無数の腕が、風に煽られる花のようにさざめき、揺れていた。

 バケモノ。
 死神。
 四方から聞こえる呻きにも似た声は、いずれも恐怖や憎悪、悲しみで震えていた。
 助けてくれと泣き叫ぶ声もあった。お前が死ねばよかったのにと罵る声もあった。
 怨嗟の渦の只中で、為す術もなく立ち尽くす。
 母の祈りと、父の怒号までもが混ざり合う。

 そして。
 足を掴む腕の一本に力が籠もり、それを支えにするようにして、“何か”がずるりと血の池から這い出した。
 赤黒く、粘性の強い液体を滴らせ、“それ”は頭を出した。
 人の姿をした“それ”は、腕輪を嵌めた右手だけで、必死に足にしがみついてきた。左腕は、肩のあたりから失われている。荒ぶる神に食い千切られたままだ。

――……く、ない。

 眼窩の落ち窪んだ虚ろな瞳で、しかししっかりとこちらを見上げて、“それ”は。

――死にたくない!

 断末魔のように、叫んだ。


            *


 目を覚ましたとき、自分がどこにいるのかすぐには判断がつかなかった。
 かすかな揺れと、プロペラの音。もはや慣れ親しんだ決して座り心地が良いとは言えない座席の感触。
 ヘリの中だった。
 同乗者がちらりとこちらを窺う気配がした。悲鳴こそ上げなかったはずだが、やたらと勘の鋭い連中には魘されていたことなど筒抜けだろう。変に労ったり、案じたりして声をかけてこないだけマシではあるが。
 眠りで分断されてしまった記憶を手繰り寄せる。
 生臭い血の匂い。食い千切られた片腕。絶望の断末魔。
 ――討伐任務の帰りだった。

 旧市街地に出現したアラガミの群れと、哨戒中の部隊が遭遇。救援要請を受けて第一部隊が加勢に赴き、無事アラガミの討伐に成功。しかし、偵察部隊に死亡者が出た。
 報告書にまとめるとしたら、数行で収まる程度の出来事。
 荒ぶる神に喰い荒らされた世界においては、もはやあまりにもありふれた日常だ。
 だというのに。
(あの顔……
 恨めしげにこの足を掴み、死にたくないと叫んだ亡者の顔は、先刻無惨にアラガミに喰い殺された神機使いのものだった。
 何をいまさら、と舌打ちのひとつもしたくなる。
 初陣の新米兵ではない。死など、掃いて捨てるほど見てきた。
 名も知らぬ民間人の、見知った神機使いの、光を失った瞳と幾度向き合ってきたと思っているのか。それなのに、まだあんな夢を見る。
 さっさと諦めてしまえば楽になれるはずだ。
 自分の生まれも、世界の惨状も、仕方のないことだと割り切ればいい。
 この手が、アラガミを滅ぼすどころか、目の前の命ひとつさえ救えなくても、それが当然なのだと。
 手を伸ばしても掴めるものなど何もないのだと、いい加減理解するべきだ。
 期待するから、絶望が返ってくる。

 堂々巡りの思考を引き裂くように、携帯端末が鳴り出した。
 自分のものではない。隣に腰掛けていた男が、ダークブラウンのコートから自身の端末を面倒くさそうに引っ張り出した。
 通話ではなく、メールのようだった。胡乱げに細められた目が、ディスプレイに表示されているであろう文字列を追う。部隊長である雨宮リンドウは、メールを読み終えたのち、特に内容に言及することもなく、携帯端末を再びコートのポケットにしまい込んだ。
……最近、ちゃんと休めているの?」
 リンドウと向かい合わせに座った橘サクヤが、幼馴染に問い掛ける。
 他愛のない雑談に見えて、言外に探る気配があった。おそらくは、最近リンドウが第一部隊の任務とは別に、コソコソと何処かに出向いていることについてだろう。
 リンドウ本人はおどけて“デート”だなんだと躱しているが、神機を携えて、アラガミの跋扈する外界へ出向く“デート”などあるものか。
 十中八九、父が――ヨハネス・フォン・シックザールが噛んでいるのだろう。目的こそ不明だが、極東支部の支部長として、極秘裏にリンドウを動かしているに違いない。サクヤも大体同じ答えに行き着いているはずだ。
 リンドウはわざとらしく目を瞠ってみせ、そのあとで片頬を歪めるようにして笑った。
「心配すんなって、無理なんかしてねぇよ」
 サクヤが本当は何を案じているのかさえ、おそらく理解した上で、当たり障りのない言葉で煙に巻く。
……それなら、いいんだけど」
 不真面目なポーズに覆い隠された幼馴染の頑固さを誰よりも知っているがゆえに、サクヤはそれ以上食い下がらなかった。
 雨宮リンドウは、適当が服を着て歩いているように見えて、実際には恐ろしく頑固な男だ。こうと決めたら、頑として譲らない。不言実行を貫き、いつの間にか物事を片付けてしまう。
 彼が内側に押し込めている義憤の熱を、垣間見る機会は幾度もあった。だが、リンドウはその激情を他者に分け与えることはない。すべて一人で背負おうとし、実際に背負ってしまえる。
 面倒事は全部、自分が処理すればいいと、当然のように思いこんでいる。それはある意味、他人を信じていないのと同義だ。有能で、不器用で、独善的だ。癇に障る。
「噂の新型でも配属されれば、俺たちも楽できるようになるかもしれねぇけどな」
 リンドウの指先がコートの内側に潜り込む。無意識に煙草のパッケージを探って、ヘリの中だと思い至った様子で残念そうに空っぽの掌を引っ張り出した。その仕草すら、場の空気を変えるためのものなのではないかと、穿って考えたくもなる。
「新型って言っても、まだ世界で数えるくらいしか完成していないんでしょう? アナグラに配備された新型神機も、適合者が見つかっていないって聞いたけれど」
 新型神機。
 従来独立していた近接戦闘機構と遠距離戦闘機構を併せ持ち、戦況に応じて変形を行うことで、これまで以上に臨機応変な立ち回りが可能になる、文字通りの“新型”だ。
 急激に進化を遂げるアラガミに対抗すべく急ピッチで開発が進められていたが、先頃ようやく実戦運用の目処が立ったのだという。
 しかし、実用に漕ぎ着けた新型神機は、未だ世界でも片手で数えられるほどだ。そのうちの一機が極東支部に配備されるというだけでも、十分すぎるニュースだった。今後開発・配備が進んでゆくとしても、現行機――今後は『旧型』と呼ばれることになるだろう第一世代型神機――の配備数を追い越して普及するまでには、それなりの時間がかかると見られている。
 『臨機応変な立ち回りが可能』とはいうが、扱う側の負担は増えるはずだ。近接・遠距離両方の戦闘技能も必要になるうえ、どのタイミングで変形すべきか、より的確な状況判断能力を要求される。荒ぶる神との戦いは今後、もっと苛烈になるだろう。
 これからどれほどの人間が死地へ赴き、何人死ねば終わるのか。
 そもそも、終わりなどあるのだろうか。

 爆発音が上がったのは、その時だった。
 同時に、細く指すような頭痛と、耳鳴り。物心付いた頃から、嫌というほど味わってきた予感だ。
 思わず舌打ちを落とすと、同乗者も即座にソーマの変調に気づいたようだった。
「“どこ”だ!?」
 何だ、とは問わずに、リンドウは無線に声を張り上げた。
《二時の方向、第八ハイブD19地区方面です!》
 即座に操縦席のパイロットから声が返った。
「D19……か」
 独り言ちるリンドウの声に、苦味が混ざった。
 曰く付きの場所だ。極東支部を中心にアラガミ装甲壁にぐるりと囲まれた第八ハイブ。その最外周の一地区だった。
 外部居住区に分類されてはいるものの、昔から他の地区に比べてフェンリルの庇護が行き届いているとは言い難い場所だった。そのうち、フェンリルに反感を抱く者や、脛に傷を持つ者たちが隠れ住むようになり、治安が悪化の一途を辿るのに比例して、フェンリルも必要最低限の干渉しか行わなくなった。
 スラム。掃き溜め。様々な呼称で呼ばれてきたが、一時期から揶揄を込めてこう呼ばれるようになった。
 奈落。この世の地獄だ――と。

《どうしますか?》
 どうする、だと?
 パイロットの言葉の意味を図りかねて、一瞬場に沈黙が満ちる。
 『救助に向かうかどうか』を問われているのだと気づいた瞬間、言語化できない不快感がこみ上げたが、ソーマが声を上げるよりも早く、
「馬鹿野郎、早く向かえ!」
 リンドウが有無を言わさぬ勢いで怒鳴りつけた。