くさかべ
2026-07-17 21:33:41
29435文字
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さまよえる記憶の融解

記憶喪失冒険者リオセスリの楽しいスメール旅行withぬこ様。
後半は正体不明の麗人とお屋敷の謎…!みたいな感じの耽美なホラー風味にしたかったのですがヌヴィリオのやりとりってかわいいのでいつの間にかかわいい感じになっていました。
あと注意書きを忘れていたのですが眷属化表現をサブリミナルのように埋め込んでいます。


 誰かに手を握られている気がする。
 重い瞼を開く。漆喰で白く塗られ、小さなシャンデリアがぶら下がっている天井が目に入った。今の自分に見覚えはないが懐かしさはある。フォンテーヌの様式だろうか。
 金属と硝子でできたシャンデリアは木製のものと比べて凜としていて、どこか他者を寄せ付けない気配を醸している。長逗留したスメールシティの宿屋の、植物を模した生命力に溢れるデザインの照明が懐かしい。
……目を覚ましたかね」
 低すぎず、高すぎず、耳に心地よく響く男の声だった。リオセスリは声のした方に視線を向けた。枕元に誰かが腰かけている。
 最初に目に飛び込んできたのは煙るような夜明けの淡い紫色の双眸だった。鋭く縦に裂かれた瞳孔が睥睨するようにこちらを見下ろしている。密度のある長い睫毛がまばたきのたびにわずかに震えるのに、重そうだなとのんびりした感想を抱く。
 全体を見れば、整った容貌の男性だ。真珠色の髪を長く伸ばした彼は、古風で貴族的なシャツと細かい刺繍の施されたズボンを身につけていた。手足の数や生物としての輪郭はリオセスリと同じだが、鋭い瞳孔やナヒーダよりは短いものの先の尖った耳、頭頂部から左右に二本の青い房――おそらく髪ではないが、なんとも断定しにくいので暫定的にそう呼ぶことにする――を生やしているところを見るに、純正の人間ではないことは確実だろう。
……ここは?」
 長時間水分を摂っていないせいか、乾いて張り付く喉を無理矢理開いて問いかける。ひび割れた声でごほりとむせるリオセスリに、男は答えより先に水の入ったグラスを差し出した。寝たままでは飲めないだろうとリオセスリの背を起こし、ベッドの間に枕を差し込んで背もたれを作ってくれるほどの気の遣いように苦笑する。気遣いはありがたいが、服装や漂わせている雰囲気からして明らかに高貴な身分の者がすることではない。
 グラスを受け取り、干からびた喉を潤す。くせのない冷たい水が喉から染み出てじんわりと全身に広がっていくような心地よさにほうと息をついた。
……ここはノストイ地区の東にある小島だ。私が島ごと別荘にしている」
 リオセスリは窓を振り返った。しかし、白い靄が立ちこめていて外のようすはまったく伺えない。かろうじて今は昼なのだろうということが分かるくらいだ。
 男の発言の真偽は分からないが、わざわざ助けた相手に嘘をつく理由もないだろう。リオセスリは海岸で倒れている自分を発見して介抱したという男の説明をとりあえず受け入れた。漁師でもないのに人生で二度も漂流し、助けられるとは。旅立ちを見送ってくれた草の神の言祝ぎの加護か、それとも正義を求める水の神の思し召しか。
 リオセスリは礼を述べ、なぜだかずっと表情の硬いままの男の気をほぐすように軽く肩を竦めて軽口を叩いた。
「島ごとあんたの土地ってことは、俺は不法侵入ってことになるかな?」
「私が自ら君をここに運び込んだ。家主の許可を得ているのだから侵入には当たらない。それに君は遭難者だろう」
 リオセスリ側の事情を問う声に、ああ、と頷く。あの船がどうなったか気にかかっていた。
「どのくらい前かは分からないが、フォンテーヌとスメールを結ぶ直行便が嵐に遭っただろう」
「三日前だな。救難信号を受信したペトリコールとバイダ港から救助が出ている。死者はいなかったはずだ。ただし、行方不明者が一名――君のことか」
「だと思うよ。もし捜索が続いているなら止めてやってくれ」
 男は小さく顎を引くと席を立った。するりと手が離される。今になってようやく、リオセスリは彼にずっと手を握られていたということに気が付いた。あまりに自然で分からなかった。
 男は部屋の扉を開けると、外で控えていたらしい誰かに言づてをしたようだ。とん、とんとスキップでもしているかのような不思議な調子の軽い足音が離れていく。
 ふたたび枕元まで戻ってきた男は椅子に腰かけ直し、じっとリオセスリを見つめる。そうしているとなんだかあの猫のことを思い出した。彼もこうやって無言でよくリオセスリを観察していた。そう考え出すと見た目の色合いも瞳の色も似ていて、なんだかあの猫がひとの姿を取ったような想像をしてしまう。
「そうだ、救助された中に猫がいたかどうかって分かるかい? 俺とずっと一緒にいた青い猫で……
……のちほど確認させよう」
 ぱちりと瞬いた彼は頷いてまた黙り込んだ。時計が置かれていたら秒針や中の歯車の音まで拾えそうなほどの静寂に部屋が包まれる。このまま何も話しかけずにいたらどこまでこの沈黙が続くのかとふと好奇心がうずいたが、微動だにしないようすを見るに根負けする予感しかないのでやめた。
「えーと……あんたのことはなんて呼べばいい?」
 男は何故だかびっくりしたように目を見開いてリオセスリを振り返った。名前を尋ねられたにしては異様なようすに首を傾げる。
「ああ、もしかしてあんたの種族だと名前を聞くのは失礼にあたる?」
……いや、そんなことはない。ただ、面と向かって名前を尋ねられたのは数百年ぶりだったもので少々驚いただけだ」
 それはどんな生活だ、と思わず突っ込みそうになってしまったがリオセスリは懸命にも口をつぐんだ。男の見た目も言動も明らかに上流階級に属するものだ。名乗るまでもなく顔と名前が知れ渡っている程度には界隈では有名人なのだろう。今さらりと数百年とか言ったし。
……ヌヴィレットと」
「了解、じゃあヌヴィレットさん。悪いがもう一眠りしてもいいかい? どうもまだだるさが抜けなくてな」
「かまわない」
 頷いたヌヴィレットはしかし、椅子に腰かけたまま動こうとしない。リオセスリとしてはしばらくひとりにしてくれと遠回しに伝えたつもりなのだが、もしやこのままこちらの睡眠を見守るつもりなのだろうか。
……ええと、あんたも仕事とかやることとかいろいろあるだろ。俺のことは気にしないでいいから」
……
――わかった、正直に言おう。そうも熱心に見つめられると気になって眠れない」
……何かあればすぐに枕元のベルを鳴らすように」
 ひとりで寝たいと言い募ると、ヌヴィレットはしぶしぶといったていでようやく腰を上げた。そのまま出て行くのかと思いきや、なぜだかそのむすりとした顔をこちらに寄せてくる。
 長い指がリオセスリの前髪をかきあげる。あ、と思ったときにはやわらかな唇が汗でほんのりとしっとりしている額に押しつけられていた。
……砂と香辛料のにおいがするな」
「まあ、しばらくスメールにいたし……
 風呂には毎日入っていたし、そもそもあの嵐でじゃぶじゃぶと全身もみ洗いされている。まとわりついたにおいなどきれいさっぱり落ちた気がするのだが、そもそもなぜそんなに咎められないといけないのだろうか。
 ヌヴィレットは何が気に入らないのか、ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らしてゆっくりと顔を離した。去り際に指がかるく髪を撫でていく。相手を愛おしむようなやわらかなそのしぐさはどう考えても初対面の相手にするものではないが、ふしぎと嫌悪感はなかった。きれいないきものだからだろうか。
「おやすみ。君のもとに夢なき眠りが訪れることを祈ろう」
……おやすみ、ヌヴィレットさん」
 ぱたりと扉が閉じる。彼の祈りのおかげか、血だまりに沈む夢はみなかった。
 
 翌日も屋敷は真っ白な霧に包まれていた。普段ならおそらくは庭か、海でも見えていたのだろうが窓のすぐ外の光景すらさっぱり分からない。
 寝汗でしっとりとした髪をかきあげ、リオセスリはベッドから立ち上がった。嵐の海でもみくちゃにされた割には四肢はちゃんと胴体にくっついているし大きな打撲や骨折した気配もない。筋肉痛のような痛みが多少残っている程度だ。そんな都合の良いことがあるだろうか。
 思えば砂漠に漂着したときも似たような状態だった。記憶に問題はあるが身体面での大きな不具合はなかった。自認としては人間なのだが、もしや自分も何か人間ではない種族だったりするのだろうか。白髪交じりのぴょんと立った髪を獣の耳と間違えられて獣人かと尋ねられたことはあるが、いやいやまさか。しっぽだってないし、常人離れした視覚や嗅覚なんてものも持ち合わせてはいない……
 そんなしょうもないことを考えながらドアを開ける。すぐそこに椅子に腰かけるヌヴィレットがいた。
…………おはよう、ヌヴィレットさん」
「おはよう」
 驚いて飛び上がりそうになった。心臓がばくばくと鳴る音を無視しながら平然とした顔を心がける。なぜ廊下に椅子を持ち込んで座っているのか。もしやリオセスリが部屋でひとりで寝かせてほしいと言ったからか。
「食欲はあるだろうか。食事なら用意させているが」
「ああ、うん、いただくよ」
 できればあとシャワーを浴びてさっぱりしたい。そうぼやくとヌヴィレットは広い浴室があると微笑んだ。
 食事もそこそこに案内された風呂場はリオセスリが運び込まれていた客間より広かった。まず浴槽の大きさがあきらかに個人宅の規模ではない。大人が五、六人は手足を伸ばして湯船に浮かべそうだ。しかしシャワーはひとつしかついていない。どういう意図の設計なのか。おそらく深く考えるだけ無駄だと直観したリオセスリは蛇口を捻ってお湯を浴びた。ほのかにロマリタイムフラワーの香りのする石鹸で全身を洗う。広すぎる浴槽にも浸かってみたが、体格の良いリオセスリでも手足を伸ばしてあまりある広さは心地良いというより少々不安になった。
 これまた風呂場のすぐ近くで待ち構えていたヌヴィレットはなぜだかそわそわとして湯船の感想を聞きたがったので、広くてすごかったよと無難な回答を返す。リオセスリの感想にほっと微笑むヌヴィレットの青い房がちょっぴり持ち上がってほんのり光った。彼なりの喜びの表現だろうか。
 思っていたより入浴に時間をかけていたらしく、食堂の時計を見るともう昼近くを告げていた。リオセスリは昼食は食材を借りて自分で調理すると申し出た。朝食として用意されたのがおおよそまったく食欲をそそらない不気味な色と見た目をした何かだったので。覚悟を決めて口に含むと味は見た目ほどゲテモノでもなかったが、毎回あれを食べるのはかなり気力を消耗しそうだった。
 ペトリコールで水揚げされたばかりという魚介類が並んでいたので昼飯は魚介とトマトのスープパスタに決める。食材を切って煮込んでパスタをぶち込むだけで完成する工程の単純さが良い。ヌヴィレットはパスタはいらないというのでトマトスープだけを献上した。
「朝飯を作ってくれた誰かさんの分もあるが、一緒に食べるかな?」
「彼女たちは後ほど別に」
 たち、ということは複数いるのだろうか。スープパスタの残りは一人分に少し多いかという程度だ。作り足した方が良いか悩んでいると、うまく分け合うだろうからそこに置いておけば良いとヌヴィレットが言うのでおとなしく食卓につく。実際あとで台所をのぞいてみると鍋はきれいに洗われて空っぽになっていた。なぜか鍋のふたに花を模したステッカーが貼られていたが意図は分からない。
 腹もくちて手持ち無沙汰になったリオセスリは屋敷の中を散策することにした。一階の一角にあるらしい誰かさんたちの部屋以外なら好きに出入りして良いと言われている。
「それはあんたの私室にも入って良いってことかい?」
「むろん。君に見られて困るものはない」
 そういう問題でもないと思うのだが、とリオセスリは呆れて半目になった。聞いてはみたが特に入るつもりはない。
 ギャラリーも兼ねているのだろう、青い絨毯の敷かれた長い廊下は静まりかえっている。壁や天井もどことなく青みがかっており、海の中を歩いているような心地になる。壁には何も飾られていないが、海中を描いた絵画などを掛けるのが合っているだろうかと想像を膨らませた。
 アーチ型をした腰高の窓からは外が見えた。とはいえ朝と変わらず、外は真っ白だ。窓にペンキでも塗られているのかと疑いたくなる白さが、立ちこめる靄の濃淡がゆっくりと移り変わるようすがそうではないと告げている。
 窓を開けて外のようすを見てみようかと金属でできた窓枠に手をかけたが、はめ殺しになっているようで手をかけられるところがない。
「リオセスリ殿?」
 背後からヌヴィレットに声をかけられる。特に咎めるような響きもなかったが、なんとなくきまりのわるい心持ちになり、リオセスリはごまかすように笑いながら彼の方を振り返った。
「やあ、ヌヴィレットさん。何か用かい?」
「そろそろ午後のお茶の時間だ。君の好みそうな茶葉を用意している」
「そりゃ最高だ。ご相伴に預からせてもらおう」
 ではこちらに、と促す彼の後を追って窓から離れる。食堂に戻りがてら途中にある窓を眺めたが、いずれも開くような造りになっていなかった。窓を開けるという想定をしていないのだろうか。

 
 翌日もまた屋敷の周囲には深い霧が立ちこめていた。こうも視界が悪くて船は出せない。つまり霧が止むまでこの島から出る手段はない。ヌヴィレットは天候が回復するまで屋敷で過ごせば良いと鷹揚にかまえている。リオセスリは焦りを覚えないでもなかったが、特に行く先が決まっているわけでもない。三食昼寝付きのただ飯食らいの地位に甘えることにした。
 しかしあまりに何もしないのも心苦しいので、書斎に山と積まれていた古い新聞記事の整理を引き受ける。もしかしたら自分の起こした事件が載っているかもしれないという打算もあった。少なくとも男女ふたりを殺した少年もしくは青年の犯罪だ。ゴシップ好きのフォンテーヌ人の気質を考えれば確実に話題になっているだろう。それらしき記事は今のところ見つからないが、年代別、月別、日付別、と手早くより分けていく。
「リオセスリ殿」
「うわっ!?」
 突然声をかけられてびくりを背を強張らせる。思ったより作業に集中してしまっていた。音もなく現れたヌヴィレットは、その両手で何か長いものを抱えていた。フシャー! みぎゃー! んごるあああ! とがらの悪い鳴き声を上げてびったんばったんと大暴れしている、青灰色のふわふわとした長く伸びた毛玉のような生きものは。
「猫くん?」
 ヌヴィレットの腕に容赦なくがぶりがぶりとかじりつき思い切り爪を立てていた何か――というかこれまでの旅の相棒がリオセスリの声に反応して顔を上げる。猫はみゃごるぉぉん! とこれまた聞いたことのない大声で鳴いてヌヴィレットの腹を蹴飛ばした。その暴れようもすさまじいが、これだけ大暴れされて噛みつかれたりもしているのに顔色ひとつ変えず猫をわし掴み続けているヌヴィレットもおかしい。
「とりあえず落ち着かせないと危険だな……
 しかしこういうときはどうしたら良いのだろうか。明らかに興奮状態の猫を前にリオセスリも困った顔で立ち尽くす。撫でてなだめようにもそれまでに引っかかれて腕がずたずたになりそうだ。
「暗い場所に連れて行ってそっとしておくのが良いんだっけか?」
 脳内の猫に関する知識の箱をひっくり返して唸るリオセスリの言葉に、ヌヴィレットはなるほどと頷いた。新聞記事をまとめて入れていた分厚く丈夫な紙袋を手に取ると、その中に猫を突っ込む。
 にゃごー! ぐるおおお! とすさまじい抗議の声が中から上がり、ぼこぼこと紙袋が変形する。しかし意外と丈夫なそれは猫の爪にも耐えて破れず彼を閉じ込めていた。
「ぬ、ヌヴィレットさん……
「問題ない。静かになったら出す」
「問題ない……かなあ……
 とはいえリオセスリもあの状態の猫の相手をできる自信はない。何かの生きもののようにぼこぼこと変形を続ける紙袋を見守ることしかできなかった。
 あの猫は一体どうしたのかと尋ねると、屋敷の近くをうろついていたのを捕獲したと端的な答えが返ってくる。
「よくまあ生きてたなあ……
「あれは正確には猫ではなく水元素生物だ。嵐の海に放り込んだ程度では死なない」
「そうなのかい!?」
 どう見ても猫にしか見えない。しかし猫にしては水ばかり飲み、水に濡れるのも厭わないというかむしろ好んでいるとだいぶ変わった嗜好をしている。言われてみると確かに腑に落ちる点があり、リオセスリは乾燥した砂漠ではさぞ生きにくかったことだろうとようやく動きの鈍り始めた紙袋を撫でた。
 その日の晩はおとなしくなった猫――本当は猫ではないらしいが、リオセスリにとっては唯一無二のかわいい猫なので猫だと思うことにする――との再会を喜び一緒に眠りについた。胸の上に乗られると少々息が苦しいが、安心したと言わんばかりに足をしまいこんで丸くなり、ごろごろと喉を鳴らして目をつむっている姿はかわいらしくて癒やされる。
 三日目も外は霧に包まれていた。長袖一枚では肌寒いくらいに空気も冷えている。リオセスリはヌヴィレットの許可を得て居間の暖炉に薪を放り込んだ。ゆらめく炎は考えごとをしながらぼんやりと眺めるのには最適なもののひとつだ。ぱち、ぱち、と焼けた木肌が弾ける音が時折響くのも心地が良い。
 膝の上に猫を抱えてクッションの効いた肘掛け椅子に深く腰かけ、ただ暖炉の炎を眺める。実に贅沢な時間の使い方だ。すぐ隣に椅子を持ってきたヌヴィレットは本を開いていた。ちらりと横目で文章をのぞきみるとどうやら法律の解説書のようだった。
「あんたもこう何日も仕事に戻れなくて大変じゃないのかい、最高審判官様」
……君に職業を教えた覚えはないが」
 不審げな視線をリオセスリは肩を竦めてかわす。
「名探偵をお呼び立てするまでもない話だろ? 俺は自分が誰だったかの記憶はないが運の良いことに一般常識までは落っことさなかったからな」
 数百年以上を生きている、高貴な身分で、フォンテーヌでは名乗る必要がないくらい有名な存在。そんなもの、水神か最高審判官の二択だろう。前者は女性で俳優としても名を馳せており、リオセスリも絵姿を見たことがある。必然的に回答はひとつにしぼられた。
 ヌヴィレットは本を閉じてリオセスリに向き直った。若干の警戒を滲ませるしぐさに、そう緊張する必要はないとゆったりとした微笑みを返す。
「審判官の職務じゃないのは知ってるが、罪の告白をひとつしても?」
……聞こう」
 リオセスリはヌヴィレットにこれまでの経緯を簡単に語った。記憶喪失の流れ者。思い出せたのは人を殺す罪を犯した瞬間だけ。
「なんともまあひどいことに、俺は誰を殺したのかすら思い出せちゃいないんだ」
「なぜ今その話を私に?」
「清廉潔白な最高審判官様が殺人犯を屋敷にかくまっていましたとか格好のゴシップのネタだろう。命の恩人の不利益より自分の身の安全を取るほど卑怯じゃないというところを示したいだけさ」
 ふむ、とヌヴィレットは顎に手を当てて考え込むしぐさを見せた。指はすぐに膝の上で組まれ、透徹とした淡紫の瞳がリオセスリを見返す。
「心配には及ばない」
「どうして?」
「その罪はすでに償われている。かつて私が裁いた。君はとうに刑期をまっとうしている」
 裁決のような淡々とした諭告を受けて、氷が一息に溶けて器からこぼれるようにどっとからだから力が抜ける。
 リオセスリは背もたれに深く背中を預けた。喉の奥からくつくつと笑いがこぼれる。魔法のようなひとことだった。
 そう、このひとであれば正しく審判を下して罰を定めてくれたことだろう。かつて与えられた福音の記憶が蘇る。歌劇場の舞台の上でただひとり、リオセスリをまっすぐに見下ろしていたその姿。
「いっ……つ、」
 頭が割れるような痛みに襲われ、思わず背を丸めてこめかみを押さえる。あふれ出した記憶が意識を洪水のように押し流した。滲み出して垂れた冷や汗があごをつたってぽたりと落ちる。
 水が高きから低きへ流れるように、氷解した記憶は意識をもみくちゃにしながらあるべき場所に還っていく。かつて里親のもとで一緒に暮らした兄弟の顔。メリュジーヌから差し出されたスープ。要塞の壊れたパイプの中に作った粗末な寝床。ウィンガレット号の甲板から見下ろした水に沈みゆくフォンテーヌ。パレ・メルモニアの執務室の青いソファ。差し出された紅茶から立ちのぼる湯気。
 ぜは、といつの間にか止めていた息を吐く。椅子から腰を浮かせたヌヴィレットが心配げな顔付きでリオセスリの背に手を添えていた。汗まみれの顔で大丈夫だ、と笑みを作り損ねた顔を向ける。
 ヌヴィレットはまったく納得していないと言いたげに眉間にしわを寄せたが、席を立つと廊下に顔を出した。ドアの隙間からぴょこりとメリュジーヌのひとりが顔をのぞかせるのに、リオセスリは小さく手のひらを振り返した。ヌヴィレットは汗を拭くものを持ってくるようにと彼女に言いつけたようで、すぐに布が差し出された。
 渡されたそれで汗を拭いながら、リオセスリは視線を膝の上に落とした。そこにもう猫はいない。
 その代わりに氷の神の目がひとつ、ころりと転がっている。
「猫くんはあんたが遣わしてくれたのかい?」
 リオセスリは猫の丸みを帯びた背中の代わりに、完璧な球面を描く薄氷を撫でる。ヌヴィレットは渋い顔で頷いた。
「君の転落現場に残されていた神の目を届けようとしたのだが……
 まとわせた水元素が猫の姿をとり、しかもああまで凶暴でふてぶてしくなるとは……とぼやく水元素の親玉は指を口に添えて非常に不服そうにしている。リオセスリは小さくふきだした。
 スメールの砂漠に流れ着く直前、リオセスリはとある事件の黒幕を追っていた。奇しくもそれはナヒーダが気にかけていた人身売買の一件で、実のところ事件に気が付いて捜査に乗り出したのはフォンテーヌ側が先だった。
 ひとまず実行犯を追い詰めたものの、彼らは誘拐したスメール人のこどもという何よりの『証拠』を海の下に投げ落として隠滅を図ろうとした。その場でこどもたちを庇い、リオセスリは大瀑布から落下した。鎖が千切れて神の目を崖の上に残してきたことが神の目を失ったと判定されたのか、滝の下まで落ちた衝撃が原因かは分からないが、おそらくそこで記憶を失ったのだろう。
「記憶が戻らなかったのは猫くんが俺の神の目を持っていると気が付かなかったからかな? ああいや、でも草神様は俺が自分で封じているとか言っていたな……
 草神という単語にヌヴィレットがぴくりと眉を動かす。リオセスリは気付かないまま思考にふけった。
 砂漠に流れ着いた最初の晩に夢を見た。里親を殺した日のことだ。それはおそらく戻り始めた記憶のかけらだったが、それを見た何も知らないリオセスリは潔癖に、それを許されざることと直感した。自罰の感情の暴走は浮かびかけていた残りの記憶を凍らせて、巨大な氷塊となった記憶が意識の水底に沈んでいたということだろう。
 リオセスリは深く息をついてソファに倒れ込んだ。自分のふがいなさがすべて判明した今になって突き刺さる。なめらかな猫の背中を撫でて落ち着きたい。毛皮を求めて無意識に宙をかく指先がヌヴィレットに取られる。
「私も早く迎えに行けたら良かったのだが、ちょうど君の追っていた事件のスメール側との調整も発生して手間取ってしまった。すまない」
 リオセスリはそう言って肩を落とす彼の指を握り返した。
「ヌヴィレットさんが気に病むことじゃないさ」
 彼もリオセスリのことは気にかけていてくれたらしい。猫を通じてリオセスリの、すくなくとも身体が無事であることを確認したヌヴィレットは彼ならすぐに戻ってくるだろうと判断して事件の解決の方に注力した。しかしリオセスリがこちらに戻らないどころかフォンテーヌから離れてどんどん南下するので肝を冷やしたと、どろりとした恨みがましい目でにらまれる。ようやくリオセスリが北上してフォンテーヌに戻りそうな動きを察し、待ちきれなくなったヌヴィレットはわざわざノストイ地区まで下ってきたらしい。
 しかし彼がこのあたりに別荘を持っていたという話は聞いたことがない。尋ねてみると、「作った」という端的で不穏な答えが返ってきた。作ったのは屋敷のことかそれとももしやこの島のことか。さしものリオセスリも今そこまで深掘りする勇気はなかった。
「しかしようやく戻って来たかと思ったら今度は荒れた海に落ちるとは……幸い近くにいて回収できたから良かったものの、龍の心臓を止める偉業でも成すつもりかね?」
 ひたすら分の悪い状況の続くリオセスリは責め立てる声から逃げようとそろりと視線をそらした。が、頬に手を添えられてがっとヌヴィレットの方を向かされる。
「いやあ……はは、それにしても人間のままだったら初手で死んでたな。頑丈な肉体ってのはありがたいもんだ」
「私はそのようなことのために君を眷属として招き入れたわけではないのだが」
 はあ、とあからさまに苛立った調子のため息をついたヌヴィレットはリオセスリの顔から手を離して椅子に腰かけ直す。話題の方向転換を誤ったと判断したリオセスリは両手のひらを彼に向けて素直に降参のポーズを取った。
「だから全部わざとじゃないって」
 むっすりと不機嫌な顔つきのまま、フンと顔を背ける水龍にどうしたもんかとあごをさすったリオセスリは、身体を起こすと彼の肩口に身を寄せた。それこそ猫のようにするりとすり寄ってほんのり尖った耳の先に軽く口付ける。
 意外とヌヴィレットは身体的な接触も好むらしく、ついでに身内――眷属には結構甘い。怒りの頂点を過ぎてさえいればこうやって甘えてみせると矛を収めてくれる可能性はそこそこ高かった。今回も何か言いたげな顔はしているものの、つり上がっていた眉はゆるゆると平常の角度に戻っていく。
「まったく、君は……周囲にどれだけ心配をかけたと思っているのか……
「それについては甘んじてお叱りを受けるよ」
 怪我については覚悟していたが、さすがにまるっと記憶を失った状態で過ごすことになるのは想定外だった。おかげでヌヴィレットが神の目を届けてくれたのにもさっぱりと気が付かなかった。氷の神の目が使えれば砂漠でのあれとか森林でのそれとか随分と楽ができたのだが。しかし猫との暮らしはたいへんに充実していたのでまあいいか、とリオセスリは気にしないことにした。
「そうだ、ヌヴィレットさんならあの猫くんをもう一度呼び出せたりしないかい?」
「できる。が、しない」
「ええ、なんでだよ」
 リオセスリは口を尖らせたが、ヌヴィレットは目を閉じてつんとすましたまま微動にしない。てこでも譲らないかまえだ。この状態のヌヴィレットはいくら押しても頷いてはくれないので、少し時間を空けてからまたねだってみるかといったん引くことにした。
――お、霧も止んだみたいだな」
 何か彼の気をそらせる話題になるものはないかと部屋を見回し、窓に目を留める。外に立ちこめていた白い靄がいつの間にかきれいさっぱりと消えていた。
 朗らかな色の芝生にバブルオレンジの植えられた庭。その向こうには白い砂浜と紺碧の海が見える。バカンス先として人気を博するノストイ地区らしい、コントラストの鮮やかな美しい光景だ。
 それらに誘われるように立ち上がったリオセスリの服の袖がついと引かれる。振り返ってヌヴィレットの顔を見下ろしたリオセスリは微笑むと、彼の唇に自分のそれをゆっくりと重ねた。



作中の仕込みの回収しそびれ(反省):嵐は水龍のせいではないかもしれませんがはめ殺しの窓と止まない霧はそういうことです。