リオセスリは冒険者だ。そうなる以前の記憶はほとんどない。生まれはどこで、年齢はいくつで、これまで何をしてきたか。過去を尋ねられるたび曖昧な、あるいは不敵な微笑みを浮かべて呼吸をするように煙に巻くが、その話術をどうやって習得したのかも実のところはよく分からない。
いちばん古い記憶は打ち寄せる波の音だった。浜辺に倒れている男を見つけたのは砂漠を渡り歩く隊商で、呼びかけに目を開けて口を開きかけ、すっと意識を失った彼をテントに運び入れて手当てをした。部外者にも身内にも厳しく、生ける者から命も含めたすべてをはぎ取ることを躊躇しない砂漠の部族で構成されたキャラバンだが、それを率いる男の一族には「北の海から流れ着いたモノは丁重に扱うべし」という言い伝えがあった。
砂漠の北端に広がる海は、テイワットを流れるすべての水の根源であるフォンテーヌにつながっている。水を司る者の眷属かもしれない生きものを苦しめればその怒りを買い、オアシスの水を枯らされると祖父から聞かされ続けた。男はその話にうんざりしていた。かつてこの地に精霊がいたことも、あるいは熱砂の海を越えた緑の地に神がいるということも聞いてはいるが見たことはない。見たことがないものは事実かどうか分からない。滅びた精霊も砂漠にいない神もここに生きる者を救わない。だから、信じられるのは今手に握ることのできるシャムシールだけだ。
しかし、漂着した青年の上着に縫い付けられていたモラを掠め取ったその日の晩、水の気配を濃くまとう『何か』がただ無言でこちらを見つめてくる夢を見た。ただの夢なら一笑に付したことだろう。しかし目を覚ましたとき、男はテントの中にできた大きな水たまりの上に倒れていた。全身びしょ濡れだ。しかし汗をかいたという濡れ方ではない。それに、天幕の入り口から男の枕元までも、濡れた蛇でも入り込んだかのようにずるずると続く、水で描かれた軌跡が残っている。男は老人たちの警告についに耳を傾けることにした。
『何か』に許されたのか単なる幻覚だったのかは今もって定かではないが、結論としてキャラバンの隊長は白いひげをたくわえるまで生き長らえたし、盗みかけたモラは助けられた礼にと青年自身から渡されることになり、これに祈れば必ずオアシスを見つけることができるお守りとして一族に大切に扱われている。
さて、海から流れてきた男はその体格の良さに見合った生命力の持ち主で、一晩で回復して目を覚ました。白い肌に黒い髪、明らかにフォンテーヌ人と思われる顔立ちは彼の故郷を示唆していたが、明晰な光を湛える薄青の瞳は理知的な口調で己の名前や記憶を失っていることを困惑げに告げた。
幸い、記憶はないといっても社会的なルールやマナーといった知識の類は一通り備えているようだ。若い頃に医術を修めたという老人は彼を診てたまにそういうことがある、と立派な白いあごひげをしごいた。頭を強く打った場合や、あるいは神の目授けられた者がそれを失うと記憶に障害が発生する。何かのきっかけで戻ることもあれば戻らないこともある。物資に乏しい砂漠ではなおさら、日にち薬しかないと医者もどきの老爺は告げ、青年もなるほどと納得を示した。
しかしスメールは知恵の国である。砂漠を越えた先にある深き緑の都、知識の殿堂たる教令院に向かえば解決策を得られるかもしれない。ちょうど彼を拾った隊商も砂漠と森林の境にあるキャラバン宿駅に向かうところである。記憶を失った青年はそこまでキャラバンと行く先をともにすることになった。
となれば彼の呼び名が必要である。運の悪いことに、彼は己の身分を示すようなものを持ち合わせていなかった。唯一上着の内ポケット深くにしまわれていたハンカチの刺繍にリオセスリと縫い取られているのが読み取れたので、そこから青年はリオセスリと呼ばれるようになった。
彼は非常に優秀な男だった。足手まといになるなよと吐き捨てた若手よりも早く駄獣の乗り方を覚え、ごくつぶしが増えたと顔をしかめる帳簿係よりも計算は早く正確で、商談の場に出すと誰よりも有利な条件を相手から引き出して、しかもなぜか円満に契約が結ばれる。それでいてでしゃばりすぎない言動で周囲から過度な妬みや恨みを買うこともない。隊商にいるだけの価値を示しながら、いずれ去る者であると静かな一線を引いている。
しかしキャラバンの中でリオセスリが孤独だったかというとそうでもない。
「にゃうん」
「お? 夕飯にはまだ早いぞ」
駄獣の毛をブラシで梳いて絡んだ砂を落とすリオセスリのすねに、青灰色の小さな背が擦りつけられた。青い縦縞の走るぽってりとした尾を立てて、足に懐く猫の頭をかりかりと撫でてやる。猫は駄獣の腹を蹴ってその背に乗り、鞍の上に丸まった。くあ、とのんびりあくびをするようすに微笑んで、リオセスリは駄獣の毛繕いに戻る。
リオセスリは特に好んで駄獣の世話を引き受けていた。動物と接していると不思議と心が安らぐ。彼らの感情表現には裏表がない。あたたかみのある毛皮に無言で寄り添われ、触れ合う皮膚から染み込むような言葉のない好意だけは疑わなくて良い。
生い立ちの記憶こそ失っているが、リオセスリは大抵のことは危なげなくこなしている。特に集団の中で自分がどう立ち振る舞うべきかについての嗅覚は我ながら驚くほどに鋭かった。いったい自分はどのような生活を送ってきたのだろう? 体に刻まれた傷の数と深さからして、穏やかなものでなかったのは確かだ。特に目立つ、首筋に刻まれた三本の深い傷跡を撫でてうっすらと笑う。
たとえばとんでもない極悪人が犯した罪の記憶を失い普通の人間として生きるとき、さて裁定者はいかようにしてその罪と罰を定めるのか。
詮ない思考を回していると、猫がみゃんと小さく鳴いた。かまってほしいときの響きのそれに「もうちょっとな」と答えると、太い尻尾が鞍をべしんと叩く。早くしろという催促に喉の奥を鳴らすような笑いがこぼれた。
青灰色の猫はリオセスリの新しい人生の始まりから隣にいる存在だ。天幕の中で意識を取り戻したときには枕元にうずくまり、淡い紫の瞳でじっとこちらを観察していた。あまりに熱心に見つめてくるので、力の入らない手をなんとか伸ばして眉間を撫でると目を細めてゴロゴロと喉を鳴らしたのを覚えている。それからずっと彼は、親猫が子猫でも見守るかようにリオセスリについて回っている。キャラバンの誰かが飼っているのかと聞いてみたが、誰もいつからこの猫がいるのかを知らない。リオセスリには甘えんぼうだが他の者には毛の先にも触れさせないので、お前が連れてきたんじゃないかと揶揄われたくらいだ。
毛繕いから給餌まで一通りの世話を終えて片付けをしていると、鞍からぴょんと猫が飛び降りてリオセスリの肩に移る。ずっしりとした重みが細い四肢から肩の筋肉にかかるのは少々痛いが、それ以上に小さくてあたたかな生きものに懐かれているというよろこびの方が大きい。ざらざらとした舌で頬を舐められて「くすぐったいって」と笑い声を上げる。
もう数日でキャラバン宿駅に到着する。隊商と別れることに躊躇はないが、唯一この猫と離れるのだけは寂しさを覚えた。
テイワット中にその根を広げている冒険者協会はキャラバン宿駅にも小さいながらに窓口がある。隊商の中にかつて協会で働いていた者がおり、彼の紹介で登録をすませるとリオセスリにもついに冒険者という肩書きができた。いくつか依頼をこなして糊口のしのぎ方を把握する。キャラバン宿駅からスメールシティまでのルートはいくつかあるが、多雨林に詳しくないリオセスリは高低の差が激しいアパーム叢林を経由するオルモス港からの船を使ったルートは避け、ヤスナ幽境を通る陸路を行くことにした。
数週間世話になったキャラバンに別れを告げ、ひとりで森林に足を踏み入れる。むっとした草いきれに全身を包み込まれ、乾ききった砂漠の風に慣れた身が呼吸に戸惑う。
道のりはまだまだ長い。初日から無理はするまいと、リオセスリはさっさと頼りがいのありそうな巨木の下を選んで野宿の準備を始めた。森の中で火を焚く勇気はまだない。水で喉を潤し、干し肉を噛んで食事をすませる。
お互い気を許しきったわけではないがそれなりに打ち解けた隊商から、別れ際に譲られたマントで身をくるんで目をつむった。風に揺れる木擦れの音、ほうほうと鳴く梟の声、がさごそと地を這いずる小動物の気配、時折耳元を掠める虫の羽音と、賑やかな気配が暗闇の中に浮かび上がる。
リオセスリは静かな砂漠の夜を思い出していた。砂漠の昼はあまりに過酷で、長い距離を移動するのは熱砂の鎮まる夜が常だった。
冷えた風と吹き上げられる砂の音だけが響き、果ての見えない砂海を月明かりが静かに照らす。昼夜の寒暖差にぶるりと背を震わせると、荒い麻の服に爪を立てて猫がよじのぼり、リオセスリの首を温めるように身を寄せてきたものだ。
少しばかり砂を浴びたふわふわとした毛並みが首や頬に当たって皮膚をくすぐっていく。そう、今のように……。
リオセスリはぱちりと目を開けた。眼前の暗闇にぼんやりと淡い紫の瞳が浮かび上がる。まぼろしではない。
「……ねこくん?」
戸惑いながら呼びかけると、にゃあんと聞き慣れた声が返される。リオセスリは猫に名前をつけていなかった。名付けをして親しみを持てば別れがよりいっそうつらくなる。そもそも隊商に猫は一匹しかいなかったし、それになにより彼には何かふさわしい名前があって、それ以外で呼んではいけないような気がしていた。
ゆらり、ゆらりと尾を揺らす猫はリオセスリの胸郭にのしりと尻を据えてからだを丸め、み゛ゃあ゛お゛、と不機嫌そうなだみ声を上げた。
「そんなに怒るなよ……どうして着いてきちまったんだ? あんたの家はあの隊商だろ?」
リオセスリは猫の頭にゆっくりと手を伸ばした。ふさふさとした毛に埋もれている顎の下を親指で掻き、ついで頬を擦るように軽く撫でる。猫はぴっ、と耳を尖らせるように伏せたが、指先に噛みつくこともなく目を細めて愛撫を享受していた。彼はごろごろと喉を鳴らすと、鼻先をリオセスリの頬にこすりつける。
みぃ、とか細い鳴き声で甘えられ、なんとかしかめ面を作っていたリオセスリもついに相好を崩した。木にでもしがみついている心持ちなのか、立てられた爪が服を貫通して若干肌に刺さる痛みを無視できるほどには嬉しい。
「しょうがないな。とりあえず今晩は俺と一緒で我慢してくれるかい? 明日キャラバン宿駅まで戻って、ぃたっ」
眉間を撫でるひとさし指に軽く噛みつかれ、リオセスリは眉をひそめて猫を見下ろした。宵闇の中のわずかな光を反射して光る、猫にしては珍しい色合いの瞳と見つめ合う。ガラス玉のように透き通った控えめな淡い紫色をしているのだが、見る角度を変えると時折氷のような薄青にも見える不思議な双眸だ。
動物と意思疎通するような能力は持ち合わせていないが、これまでの付き合いからリオセスリはなんとなく彼の言いたいことをおおまかだが察することができるようになった。と思う。判断材料はいろいろだ。緊張にうっすらとこわばる全身の筋肉の感触。ゆるく弧を描くように持ち上げられ、先っぽまで力のこもったしっぽ。離されまいとばかりに立てられた爪。ぴんと立ってこちらに向けられる耳。にらむようにじっとリオセスリの顔にそそがれる視線。
それらからは今、てこでもここから動かない、という強い意志を感じる。
「……なんだい、一緒に来てくれるって?」
ちょっとばかり自分の都合の良いように解釈してみた。みゃん、と頷くような短い応えとともにしっぽがぴんと伸びる。ふはっとリオセスリはこらえきれずに笑い声をこぼした。
「頼もしいよ」
両手で猫の両頬をはさみ、うしろに撫でつけるように顔を何度も撫で回す。彼はみゃご……と少々嫌そうな鳴き声を上げたが、逃げずにリオセスリの胸の上に座ったままなのでそこまで拒否されているわけでもないようだ。
酒に酔ったときにも見せない上機嫌な笑みを浮かべ、リオセスリは猫の耳に鼻先を寄せて尖った先に軽く口付けた。
――夢を見る。
ぬるい液体が首を伝う感触。足もとに広がる血だまり。近くに倒れ伏している誰かのそれと、自分の血がゆっくりと流れて混ざり合う。
吐き気がした。
ぱしゃ、ぱしゃ、と小さな水音が耳をくすぐるのに起こされて瞼を持ち上げる。ちちゅん、と小鳥の鳴く声も聞こえた。朝も夜も森は賑やかだ。
確かすぐ近くには川が流れているはずだ。先ほどから聞こえる水音は森の動物が水でも飲みに来たのだろうかと、静かにからだを起こして立ち上がる。肌を刺す日差しは強いが木の葉で遮られているせいか、砂漠の直射日光ほどきつくはない。
声を殺しながらあくびをしつつ、そっと木の陰から水場を伺う。無害な草食動物であれば良いが、魔物や肉食動物のたぐいであれば次の行動を考えねばならない。
幸いそこに大型生物の影はなかった。水面から飛び出した水草の葉ががさがさと揺れている。草葉の陰に隠れる程度の大きさの生きものがいるようだ。たとえば猫くらいの。
そこまで考えて、リオセスリは眠るときに胸を圧迫して呼吸を邪魔していた相棒の姿がないことに思い至った。それと同時にがさりと一際大きく草が揺れ、びちびちと跳ねる黒スズキの尾が草むらから飛び出してくる。
「……」
魚をくわえた、見覚えのある猫がご機嫌にしっぽを立ててとっとっと、と軽快にこちらに向かって歩いてくる。
彼はリオセスリの前までやってくると、獲物を見せつけるように顔を上げた。牙を立てられた黒スズキは捕食者から逃れようと懸命に全身をくねらせ、水滴がリオセスリの頬に飛ぶ。
「……でかした、猫くん。朝ごはんにするか」
この状況にどう反応すべきか戸惑いつつ、まずは自信に満ちた顔をしている猫の狩りの成果を褒めるべきかと屈み込んだ。濃淡の縞模様が浮かぶ背を撫でる。頭に手をやるには魚が邪魔すぎる。黒スズキはまだびちびちと跳ねている。身も引き締まって鱗も綺麗で傷もなく、なんとも活きが良い。
猫は黒スズキを足もとに落とすと爪を立てた前足で踏みつけ、にゃあんと伸びをするように鳴いてリオセスリに向かって身体を伸ばした。もっと褒めろという要求である。魚はついに動かなくなった。
青灰色の縞猫は、魚を捕まえるのが上手らしいというのは新たな発見だった。水辺の貴重なオアシスでは知るよしもなかっただろう。すばらしい漁師だが、特に魚は好物ではないらしい。というか、おそらくリオセスリに餌をやっているという感覚でいるような気がする。なにせ自分からはほとんど口をつけようとせず、リオセスリが焼いた魚を食べるのを毎回じっと見守っている。そうしてからようやく、人間がほぐして分けた魚の身を義理とばかりにのそのそと食べ、どちらかというと水を気持ちよさそうにがぶがぶ飲んでいる。
猫は飼い主を親のように慕って甘えることがあると聞くが、どちらかというとこちらがこどものように思われているのではないだろうか。だからといって特に困ることはないが、図体のでかい男に対して何をどうしたらそう思えるのか不思議だとリオセスリは首を傾げた。
それ以外にも、森で見るものはどれもこれも新鮮で驚きと発見に満ちていた。
特に、初めて見たリシュボラン虎は格好良くてすばらしかった。しなやかな体躯。毛先のふさふさとした鞭のようにしなやかなしっぽ。鋭い金色の瞳。耳の後ろから長く伸びる、鳥の飾り羽根のような謎の部位。
彼らの縄張りに踏み入らないよう少し遠くの草むらから隠れて眺めることができなかったが、もし人なつこい性質だったならぜひ撫でさせてほしいと思うくらいには魅力的な動物を前にほう、と息をつく。
「いてっ」
青くて太いしっぽがびしりと強く地面を打つ。抗議するようにあぐあぐと腕を噛まれ、リオセスリは相方を見下ろした。この私を差し置いてあれが良いと? と言いたげな淡紫色に閃く瞳がぎらぎらと不機嫌に輝いている。かなりご立腹だ。猫は気位が高いというのを失念していたリオセスリの落ち度である。
「あんたがいちばんかっこいいよ」
愛らしい丸みを描く後頭部を指で軽く掻きながら褒めると、再度しっぽがばしんと打たれる。ご納得いただけないらしい。青みを帯びた灰色の毛並みが涼しげで良いとか、たまに触らせてもらえる太いしっぽのふわふわとした感触が好きだとか、猫には珍しい色の鋭い瞳がかっこいいとか、思いつく限りの賞賛を並べ立て膝の上に抱いて一晩を過ごし、早朝の清流で喉を潤すと、ようやく猫は満足したように目を細めてごろごろと喉を鳴らした。しっぽを褒めたせいか、そんなに好きなら触らせてやろうとばかりにほわほわとした尾の先っぽで頬を撫でるようにくすぐられる。
そんな森深く野生の動物とキノコンだらけのヤスナ幽境をくぐり抜け、生論派の研究者たちが集うパルディスディアイに寄って美しい庭園でしばしの休息を取り――ちょっと目を離すとすぐに猫が噴水に突撃しようとするので慌てて抱え上げた――、ヴィマラ村を右手に眺めながら緑豊かな丘を越える。
そこまで行ったらスメールシティへの道は迷いようがないよとキャラバン宿駅で聞いたことを思い出し、確かに、とリオセスリは頷いた。
この距離からでも分かる、天を衝くような巨大な聖樹が大地にそびえ立っている。樹から建物が生えている――あるいは樹が街を呑み込んだような、草神の国の都にふさわしい迫力の様相に圧倒されてしばし丘の上に立ち尽くす。
そのままずっと街を眺めていたいような気もしたが、太陽も月も待ってはくれない。日が沈む前にスメールシティに辿り着き、今夜の宿を確保しなければ。砂漠や森林での野宿に慣れた身ではあるが、パルディスディアイでちょっとばかり文明に触れた途端屋根とベッドが恋しくなってしまった。
――夢を見る。
ぬるい液体が首を伝う感触。足もとに広がる血だまり。近くに倒れ伏している誰かのそれと、自分の血がゆっくりと流れて混ざり合う。
吐き気がした。
体内から流れ出て、他人のものと混ざり合い濁ったそれが自分に向かって逆流してくるような気味悪さだ。しかし拒絶しようにも深い傷を負ったからだを動かすことはできない。どうしたら止められるだろうか。石でも置いて遮るか、炎で燃やして蒸発させるか、より多く血を流して押し流すか、流れないよう凍らせるか……。
そういえば指先が凍えるように冷たい。吐く息は白くない。考え続けることができない。こらえているのにじわじわと瞼が重くなり、視界が狭まっていく。
そういえば血を流しすぎると人は死ぬ。なるほど死ぬのか、と納得して目を閉じた。
ちゅん、ちゅちゅんというかわいらしい鳥の鳴き声に誘われて目を開ける。ヤスナ幽境でよく聞いた鳥の声とは音の高さが似ているが、少し鳴き方が違う。捕食されがちな小さな生きものは隠れるのが上手で、森でも街でも鳴き声はよく聞くのに姿を見たことはなかった。興味はあるが猫がいるので一緒に飼うのはできないなとぼんやり考える。
暗い色の木の板が敷き詰められた天井に、葉っぱを模した照明が吊されている。背中から伝わる感触は適度にやわらかく、地面のような固さもごつごつと石の当たる感触もしない。からだには麻の掛け布がまとわりついていた。
藁の敷き詰められたベッドから脚を下ろし、からだを起こす。
部屋の中を一瞥する。ベッドと小さな机と椅子だけがある、シンプルで狭い安宿の一室だ。
ずんぐりむっくりとした小さな灰青の背中が窓辺に丸まっている。窓から見える枝に留まっている小鳥を見つめているようだ。カカカカ、と短く物騒な鳴き声を聞き留めてリオセスリは小さく笑った。先ほどの憂慮がさっそく現実になっている。
しかし鳥に飛びかかろうとして窓と激突でもしたら大変だ。膝に手を当てて立ち上がると、猫の気を引こうと頭頂部を軽く撫でる。太いもっちりとしたしっぽが手首に巻き付けられた。
「おはよう、猫くん。良い朝だな」
スメールシティでの初めての朝はなかなかに悪くなかった。まぶしい朝の日差し。風にざわめく爽やかな木擦れの音。近くの市場の客引きの声。一日の始まりにふさわしい健やかさで瑞々しい空気だ。
屋台で買ってきたトマトと肉のたっぷり入ったピタを朝食にしながらさて、と今後の身の振り方について考える。
昨日確認したところ、教令院はこの樹木に取りつくようにして出来た街の上層部にあるらしい。
人体に関することであれば生論派だろう。パルディスディアイに立ち寄った際にも学者たちに話を聞いてみたが、あの地は植物に関する研究を中心にしているとのことで、医学についてはやはり教令院に向かった方が良いというアドバイスだった。
行政府としての機能も備える教令院はけして閉ざされた機関ではなく、市民に無償で医療も提供しているがしかし、よそ者であるリオセスリにどこまで適用されるか今のところ判断がつかない。そもそも町医者が解決できる話でもなさそうである。
そうなると目的の分野の研究者に直接話を持って行くということになるが、そういった存在にアクセスするのは一筋縄ではいかない。つまりコネだ。砂漠から来た、この土地に縁もゆかりも無い人間になかなかに分厚く重い扉だった。
とはいえリオセスリは焦ってはいなかった。幸運にも心身に大きな不調はなく、自身の過去に関する記憶がないからといって日常生活で困ることもほとんどない。懐は少々心許ないが、これだけ大きな街なら何かしら仕事は得られるだろう。
ピタの最後の一口を大口を開けて呑み込んで、ソースのついた唇をぺろりとなめる。窓際でずっと小鳥を観察していたらしい猫は、いつの間にか室内に顔を向けてリオセスリをじっと見つめていた。猫には足をしまい込んだ香箱座りというリラックスしたときに見せる座り方があるのは知っているが、彼がそうしているのは初めて見た。スメールの街はお気に召しただろうか。どうも水場が好きな変わった猫のようなので、干からびた砂漠よりはきっと居心地が良いだろう。
「俺は今日の仕事を探しに行くがあんたも来るかい?」
小さな眉間を伸ばすように指先で撫でると、猫はちょっとばかり嫌そうに目を細めた。動く気配はないので、じゃあ留守番を頼むよと丸い背中を一撫でして部屋を出る。
ひとまず向かうのは冒険者協会だ。協会への依頼はその町ごとの特色がよく出る。スメールシティではやはり教令院所属の学者からの依頼主のものが多い。掲示板を眺めると、オーソドックスな護衛に始まって魔物の多い危険地帯での植物の採取、各種物資の調達、貴重な実験器具の運搬、遺跡の探索と多種多様なミッションが並んでいる。リオセスリはふむ、と顎に手を添えてそれらをざっと目で追っていった。すぐに終わりそうな物資の調達依頼をひとつ選んで手続きを済ませる。それはズバイルシアターという劇団の演出家からのもので、舞台の小道具に使うという砂脂蛹が足りないらしい。
砂漠では珍しくはないそれも、気候の違うスメールシティ近辺では調達できない。どのくらいの値段で売れるか興味本位でいくつか持ってきたそれがちょうど鞄の中に眠っている。
ズバイルシアターは協会の受付窓口から坂を下りた先、聖樹の根っこの中にあるらしい。もう遠い昔のことだというが、スメールシティでは学術こそが至高で芸術は迫害に近い扱いを受けていた時期があると聞く。夢を映し出すために暗闇を選んだのか、それとも虐げられて逃げ込んだ先が日の当たらぬ地下だったのかは分からないが、下層にあるということはきっと庶民に好かれているのだろうと想像しながら街を進む。
依頼の受諾をした際にキャサリンに教えられたとおりの道をたどり、幹なのか根なのか分からない太さの樹木の壁に取り付けられた扉をくぐる。すぐに劇場があるのかと思っていたが、そこに広がるのは活気のある市場だった。帰りに寄ろうと並ぶ屋台に目を走らせつつ奥へと進む。
ズバイルシアターの舞台はバザールを抜けた先にあった。フォンテーヌの代名詞のような歌劇場ほど広くはなかったが、荘厳さよりも親しみやすい雰囲気が漂い、観客と演者双方の熱気を感じ取れる距離感が好ましい。
冒険者協会の依頼を受けて来たと声をかけると、すぐに劇団の演出家が走ってやってきた。砂脂蛹を手渡すとこれがほしかったありがとうありがとうと何度も大げさに頭を下げられて苦笑する。固い殻は工業的な用途には向いていそうだが、何をどうしたら演劇の小道具になるのかさっぱり想像がつかない。しかしこの喜ばれようを見るとなかなかに重要な立ち位置を占めるらしい。来週からこれを使った興行が始まる予定だからぜひ観に来てほしいと言われて快諾する。芝居や踊りに強い関心はないが、どう使われるのかは興味がある。
演出家の小太りな男性は非常に人なつっこくおしゃべり好きのようで、砂漠からやってきたばかりだというリオセスリに美味い屋台や治安の良くない場所等、今まさしく求めている情報を世間話とともにいくつか教えてくれる。まだまだ話し足りなさそうだったが、妻と思われる女性にいつまで油を売っているのかと叱られ連れられていった。
「さて、午前中はこのくらいまでかな」
グランドバザールに戻り、水気の多い果物をいくつか見繕って市場を離れる。水分を好むらしい青猫の好みのものがあると良いのだが。
リオセスリは彼に固形物を摂らせるのに苦慮していた。水やスープは見かけるなり顔を突っ込んでいくのに、一般的に猫が好みそうな干し肉などはそちらが食べると良いとばかりに指先で控えめに押しのけてくる。水だけでも元気そうにしているのでそういう体質なのかもしれないが、やはり少々心配になる。もうしばらくは冒険者協会の依頼をこなしつつここでの生活基盤を整えるのに注力するつもりなので、その間に何か彼の好物を見つけたいものだ。
明日以降の算段を立てながら陽の光の届かないグランドバザールの扉を開ける。暗がりに慣れた目には昼の太陽の光はまぶしすぎた。顔をしかめて細めた目でぱち、ぱちと瞬きを繰り返す。白い雲がのんびりと浮かんでいる青空は美しいが、先ほどまでの暗がりの方がどうにもからだが慣れている気がする。
昼食の前に冒険者協会に寄って依頼を精算していると、眼下を流れる川を上ってスメールシティに入港しようとしている帆船が見えた。
街そのものでもある聖樹は入り組んだ川べりや小島にもその根を伸ばしており、広く水辺に接している。スメールの森林部を南北に分断するように流れる川の真ん中にスメールシティは位置しており、首都だけあって船の往来も激しい。
港も情報の集積場だ。場所だけでも把握しておくかと坂を下って水辺へ向かう。古い木の根が道を覆い隠すように広がって地面に影を落とし、川を渡る水気を含んだ風が頬を撫でる。
光を反射してきらきらと光る水面とその上を滑る船影をなんとはなしに眺めていると、道沿いに設けられた花壇ががさりと音を立てた。
「――きゃっ」
続いて少女の小さな悲鳴のような声が耳を掠める。リオセスリは反射的に振り向きそうになるのを押しとどめて視線だけを動かした。猟犬のように鋭い目が道路脇の花壇の奥に続く、建物と樹に囲まれた小さな路地に消えていく動く影を捉える。白い髪をした小柄な娘と、その姿を隠すように動くフォンテーヌ風の衣服をまとった男が数人。
リオセスリは躊躇なく駆け出してその路地に飛び込んだ。常に腰に提げているナックルを腕にはめる。
闖入者にうわっ!? と叫んだ男の懐に飛び込むようにしてみぞおちを肘で撃つ。少女との間に割り込んでひき剥がし、続いてこめかみをナックルで殴り倒して意識を奪う。その捻りを利用してすぐ近くの別の男の頭を蹴り飛ばすと、くずおれるその背を踏み台にして三人目の男に頭上から飛びかかった。彼女のやわらかそうな細い腕を捻り上げている四人目の男がひい、と情けない声を上げてその場にしりもちをつく。その顎を金属片で補強した重いブーツで蹴り飛ばすと、男はギッと虫のようなうめきとともに昏倒して後ろにひっくり返った。
数十秒もかけず路地を制圧したリオセスリは、ふうと息をつくと立ち尽くす少女を振り返った。
「怪我はないかい、お嬢さん――」
彼女は静かにその場に佇んでいた。深窓に隠され、荒事などなにひとつ知らなさそうな白い肌を一目で上等な生地と分かる白いワンピースで包み、サイドでひとつに結った細く白い髪の毛先は透けるような若葉の色をしている。顔の造形もたいへんに整った娘だったが、髪の隙間からのぞく耳が尖っているのが目を惹いた。
しかし何より特筆すべきはその瞳だ。四つ葉の浮かぶ賢き森の緑の双眸。
その目と視線が合った瞬間に理解する。彼女こそはスメールの豊かなる森林の護り手、知恵を統べる草の神であると。
――夢を見る。
ぬるい液体が首を伝う感触。足もとに広がる血だまり……がふとかき消える。
リオセスリはぱちぱちと瞬いた。大きな蓮の葉で作られたテーブルの上に、シナモンの香りの漂うティーカップが置かれている。白く濁ったお茶の色は砂漠の砂の色に似ていた。その横に添えられた、カップとそろいのデザインの小皿には切り分けられたバクラヴァとナツメヤシキャンディが山と積まれている。
血まみれで地面に倒れ伏していたはずのこどもの自分は傷もなく清潔な服を着て、テーブルと同じような葉で作られた椅子に腰かけていた。
周囲を照らすのはきのこのかたちをしたランタンだ。あたりをぐるりと見回してみると、まるく膨らんだ淡い色の壁に囲まれており、花のつぼみの中にいるような錯覚を覚える。
「……」
見たことのない光景が、ここがまだ夢の中であることを伝えてくる。ただ、リオセスリにはこんなかわいらしい空間を想像する感性の持ち合わせはない。
「突然ごめんなさいね」
鈴を鳴らすような美しい声に振り向く。蓮の葉のテーブルの向かいに、昼間出会った白い髪と四つ葉の瞳の少女が腰かけていた。
「……ここはどこだい?」
問いかけながら、自分の発する声の聞き慣れない高さに小さく眉をひそめる。どうやら今のからだは声変わりもまだの年齢のようだ。細い指と小さな手のひらを何度も握ったり開いたりして感触を確かめるリオセスリに、向かいの少女がふふっと笑みをこぼす。
「ここはあなたと私の夢の狭間よ。招待状もなくお茶会に招くのはマナー違反だったかしら。許してくれると嬉しいわ」
「別に、怒るようなことじゃないさ。ええと……クラクサナビデリ、様?」
草神には確かそのような敬称があったはずだ。砂漠やスメールシティで何度か人々の口の端に上っていたうろ覚えの名前をこどもの舌でたどたどしく呼ぶと、彼女は笑みを深めた。
「よければナヒーダと呼んでちょうだい。昼間は聞きそびれてしまったけれど、あなたのことはなんと呼ぶのが良いかしら?」
「リオセスリ」
「綴りと読みが乖離している名前ね、おもしろいわ。どうしてそういうことになったのかあなたは知ってる?」
「いや……」
リオセスリはあまりもらったことのない感想に戸惑いがちに首を傾げた。名前の由来に興味はない。自身が何者であるかを知るヒントのひとつにはなるのかもしれないが、そもそもこれが本当に自分の名前であるのかすら今のリオセスリには確証がないのだ。あまり芳しくない反応に何かを察したのか、ナヒーダはちょっと気まずそうに微笑んだ。
「ごめんなさい、話を脱線させたわ。ここに招待にしたのはまず、お昼のお礼を言いたかったの」
「気にしなくていい。むしろ俺はあんたの邪魔をしたんじゃないか?」
昼過ぎの路地裏で男たちを昏倒させたあと、リオセスリはナヒーダとろくに会話をせず、というかできずにその場を離れた。騒ぎを聞きつけたらしいマハマトラたちに囲まれ、事情聴取のために連れて行かれたのだ。すぐに駆けつけてきたことや二、三の形式的な質問と滞在先の確認だけで解放されたことを考えるに、彼らはおそらく草神である彼女の近くにもとから控えていたのだろう。
「特に支障はないわ。もともと犯行現場を押さえたら犯人はすぐに拘束してもらうつもりだったの。むしろあなたのような闖入者が現れてくれたおかげでおとり捜査であることを隠しやすくなったくらいよ」
意図的に犯行が行われる状況を作り出したのではないかという推測をナヒーダは肯定し、いたずらっぽく笑った。リオセスリは呆れたように顔をしかめてティーカップを手に取る。たっぷりとミルクの注がれたチャイは砂糖もどっさりと入っているようだ。リオセスリ自身も紅茶には砂糖を入れるし甘い菓子も好きではあるが、この甘さで茶請けもバクラヴァやナツメヤシキャンディというのは少々甘味が多すぎないだろうかと考えながらチャイを口に含む。
「あんたをおとりにするとか周りはよく認めたな」
「こどもを狙った犯行なんだもの。小柄な私がおとりをするのが効率的というものでしょう?」
「それはまあ一理あるが……」
ナヒーダはリオセスリの空のカップを認めるとおかわりはどう? と手にしたティーポットを揺らした。胸焼けの気配を感じたのでチャイではなくストレートの紅茶を所望する。透明感のある赤茶色と控えめに立ち上るかぐわしい香りに少しばかりほっとした。続いて同じティーポットからナヒーダ自身のカップに注がれるのは白く濁ったチャイで、夢の中というのも便利なものだなと感心する。
他に話題も思いつかず、リオセスリは行きがかった縁とばかりに彼女たちが捜査しているという事件について尋ねた。
「スメールのこどもたちが誘拐されているの」
それはどうやら一年近く前から継続的に行われている犯行で、最初は北方の砂漠の部族のこどもからさらわれ始めたらしい。あまり目の行き届かない地域のため事件の発覚が遅れ、最近スメールシティ近辺の幼子たちも被害に遭うようになってようやく本格的な捜査に乗り出せたのだとナヒーダはどこか悔いを滲ませるように瞳を伏せた。
「犯人はフォンテーヌ人?」
殴り倒した男たちの服装を思い出して問いかけると、彼女はこくりと頷いた。
「ええ、その見通しよ。ただ当然、スメール側にも協力者がいるわ。誘拐されたこどもたちはまずナド・クライに連れていかれているようなのだけれど……」
スメールのこどもを拐かし、足跡をごまかすためナド・クライの闇市を経由してフォンテーヌ人の好事家に売りさばくという流れらしい。ただ今日捕らえた者たちは末端の構成員らしく、親玉と目している存在を捕縛できるほどの証拠にはならなかったようだ。リオセスリは憂鬱げにため息をついた。
「おそらく我が故郷ながらろくでもない輩が多いな……」
「おそらく? リオセスリはフォンテーヌの人ではないの?」
髪の色は少々珍しいが、リオセスリの外見は正統派なフォンテーヌ人の流れを汲んでいる。首を捻るナヒーダに、彼は記憶喪失となっている現状をかいつまんで説明した。
「なるほど、それで教令院を頼りに訪ねてきたのね」
「まだ昨日来たばっかりだけどな」
ナヒーダはうっすらと発光するような若葉の瞳でリオセスリを見つめた。すべてを見透かすようなそれに居心地の悪さを覚えつつじっと耐える。
「……なにか分かるかい、知恵の神様」
そろそろいいだろうかと声をかけると、ナヒーダはぱちりと瞳を瞬かせた。そうね……と小さな指先を顎に添えて考え込む姿勢を見せる。
「……あなたのそれは、医学的なアプローチで解決するのは難しいと思うわ」
「ふうん?」
人によっては絶望的な宣告かもしれないが、特に驚きはしなかった。リオセスリ自身もなんとなくそんな気はしている。
「お医者様でも匙を投げるような状況で記憶を取り戻す方法なんてあるのかい?」
皮肉げに唇を歪めて肩をすくめる幼い姿をしたリオセスリに、同じように幼い姿をした女神は微笑ましいものでも見るように目を細めた。
「あなたの記憶はあなた自身が封じているの。手がかりはそこにあるはずよ」
みゃあお、と甘えるような猫の鳴き声がする。
ぼんやりと青い海原を見つめていたリオセスリは手元に視線を落とした。抱き上げた青灰色の猫がリオセスリの顔を見上げている。先ほどのかわいらしい声とは裏腹に、鋭い爪がふさふさの丸っこい手の隙間から飛び出してじわじわと腕に刺さっている。
「なんだ、おやつの時間にはまだ早いぞ?」
うりうり、と顎の下に指を伸ばして掻いてやると、猫は気持ちよさそうに目を細めてごろごろと喉を鳴らした。しかし爪をしまってくれる気はないらしい。出血するほどではないがまだ刺さってじんわりと痛い。
私をかまいなさいという風情の猫の下僕となり、求められるまま毛皮を撫で回す男の前髪を強く吹いた海風が巻き上げる。
ナヒーダの夢の啓示からおおよそ一月。リオセスリは船上の人となっていた。
記憶を取り戻すまで、フォンテーヌには帰らないと決めていた。
毎晩見る血まみれの夢は、リオセスリが罪を犯した者であると告げている。倒れ伏すあの男女は自分が殺したという強い確信があった。記憶はなくても手が覚えている。非力なこどもの手で直接その首を締め上げることはできないが、幼い手は人を殺せる武器を握りしめていた。事故ではない。そこには明確な殺意があった。
であれば罪を告白し、罰を受けるべきだろう。それが社会の守られるべき秩序というものだ。
しかし記憶のないリオセスリは己の罪を告白することができない。俺が殺したのはいったい誰で、いつ、なぜ、どのようにして彼らを殺したのか? ――審判官に問われても答えられない。そんな状態で壇上にのぼるわけにはいかなかった。
キャラバンの男たちに拾われたことを考えると、指名手配されて逃亡中に海に落ちて砂漠まで流れ着いた……という状況の可能性だってある。フォンテーヌに入った途端に執律庭に囲まれて連行されるのは少々困る。被疑者が記憶喪失で聴取ができないなど彼らだって迷惑だろう。
それでもフォンテーヌに戻ろうと決めたのは、スメールでは記憶を取り戻すことはできないと判断したからだ。教令院の学者でもお手上げだというのなら、あとはフォンテーヌで地道に自分の正体を探るしかない。故郷に帰った瞬間に奇跡が起きてすべてを思い出してくれると良いのだが、そんな都合の良い物語は早々転がっていないものだ。
自分で自身の記憶を封じている。そんなことができるのかと問うたリオセスリに、知恵の神は記憶を凍らせたのだろうと告げた。氷元素は何かを『保存』することに長けている。
「あなたは氷元素の神の目を授かっていないかしら? 知らない? あったとしてもなくした? そんなはずはないと思うのだけれど……」
夢での会話はそこまでだ。現実世界でよそものの一介の冒険者が草神に謁見する手段はなく、彼女から夢への再訪もなかったが、リオセスリも追加の助言を特に求めてはいなかった。これ以上の答えを神に直接求めるのは少々頼りすぎというものだろう。それに、スメールシティを発つ日の朝に幸運を祈るわ、という応援の声を聞いた気がする。十分すぎる餞別だ。
船賃を貯めて川を下り、バイダ港からフォンテーヌへの直行便に乗り換えて三つの国に囲まれた内海に出る。
ナヒーダと出会った翌日からどうにも機嫌が悪く、特に就寝時はリオセスリにべったりとくっついて離れなくなってしまった猫だったが、船旅というずっと水辺が続く環境でようやく気持ちが落ち着いたらしい。ごろごろと喉を鳴らす音を久々に聞いた。
そろそろバイダ港の入り江を抜けて沖に出て、波が大きくなる頃合いだ。船内に戻ろうと声をかけ、足もとに置いていた猫用のケージを開ける。賢い猫は少しばかり嫌そうにしていたがぬるりとした動きでその中に入り込み、こちらに背を向けるようにして丸くなった。
フォンテーヌまでは何もなければ明日には到着するだろう。それまで悪いがそこで我慢していてくれ、と声をかけると、彼は面倒くさそうにぱたりと一度しっぽの先を振った。
さて、何か悪いことが起きるかもしれないとかまえていればなにごともなく、何もないだろうと油断しているとトラブルが起きるというのが世の常というものだ。リオセスリの乗った船は日暮れ頃からひどい嵐に見舞われていた。
どぱしゃんと船腹に波のぶつかる鈍い音が耳を打ち、ひどく揺らしたゆりかごのようにかなりの傾斜であちらこちらに船が傾く。
安い等級の船室では一部屋に十数人の乗客が同居する。甲板を打つ激しい雨や波の音、ふああん、と泣き叫ぶこどもとお願いだから静かにして、とひそひそ声で叱る母親の声、激しい揺れに吐き気を催したらしい男のお゛ぇぇ、という聞き苦しい呻き声が入り乱れて雑然としていた。
そんな人々の中でリオセスリは静かに瞼を閉じ、あちらこちらに傾く揺れに身を委ねていた。航海士やベテランの船員たちに言わせると、この時期にこの海域でこれほど海が荒れることは滅多にないらしい。なんともいらない当たりくじにため息をつく。
ずるずるとからだが壁の方に落ちそうになるくらい船が大きく左に傾いた。次の瞬間、がうん、とこれまでになく大きく重い音と不気味な揺れが船体に響く。きゃあ、と女性客の悲鳴が上がる。リオセスリは立ち上がって船室の外、音の発生源に向かって駆け出した。
「どうした!?」
「ちくしょう、船底に穴があいちまった!」
怒鳴りながらばたばたとこちらに向かって駆けてくる船員と行き交う。どうやら波に煽られた拍子に海中の岩とぶつかり、船体に損傷が発生したらしい。浸水に備えた排水ポンプも設備としてはあるが、大波のせいで開いた穴を広げながら水が入り込んできており、排水が追いつかなくなる可能性が高いという。
「あんた乗客か? 悪いが手が足りねえ、避難を手伝ってくれ」
もちろん頷いて踵を返す。今回乗船しているのはフォンテーヌ製の輸送船だ。法律で最大乗員数分の救命胴衣と避難用のボートの設置が義務づけられている。リオセスリは船室に戻ると乗客たちに先ほどの揺れで船体に傷がついたらしいと声をかけた。船員たちが応急措置を行っているが、救命胴衣の着用と避難の準備をするよう呼びかける。パニックになって泣き出す女性をなだめ、あれもこれもと持って行こうとする商人の男を説得し、他の船員とも協力ながら乗客を甲板に促す。
あちらこちらに傾く甲板の上はロープを握りしめて移動する。リオセスリは何名かいるこどもたちの補助を引き受けた。風雨や波にさらわれかねない小さなからだを抱えてボートまで移動し、船員に引き渡す。
「あっ!」
先に運ばれていく兄弟が気にかかったのか甲板に上半身を出した少年が、急な揺れと突風に煽られて宙に放り出される。リオセスリは濡れる甲板を走って蹴り飛ばして彼の腕を掴んだ。小さな体躯を振りかぶるようにボートに向かって投げ返す。こどもは無事に船員たちに受け止められたが、リオセスリのからだは反動で船から大きく離れ、そのまま海に落ちていった。
しまったと思う間もなく海面に叩きつけられ、渦を巻くような激しい流れに飲みこまれる。
ナヒーダいわくリオセスリは神の目を持っているらしい。ここがフォンテーヌの海であったなら海の中でも呼吸ができたろうが、祝福を受けた高海にはまだ辿り着いていない。
ごぼごぼと気泡を吐いてその代わりに水を飲み、海面を目指してもがく手が波に呑み込まれる。
罪を犯した者の末路は海の藻屑ということか。記憶にない一度目は運良く生きたままスメールの砂漠の浜辺に流れ着いたが、さすがに二度目はないだろう。リオセスリは薄れる意識の中で己を嘲った。
過去の記憶がないのだから心残りも特にない――いや、ここまでの旅路に飽きずに連れ添ってくれた猫が無事に逃げられたかだけは気になった。ケージの扉は開けてきたが、動物の避難はどうしても人間のそれより優先度が下がる。誰かがボートに乗せてくれていると良いのだが。そこまで考えたところで意識はぷつりと途切れた。
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